息継ぎ
「ヘーゼ家が長子ハリエットと申します。シュピーゲル様」
──なんか、凄いの来ちゃったな。
最初に思ったのは、そんなことだった。今思い出しても失礼極まりない。しかし、思ってしまったのだからどうしようもない。
物凄い美少女だった。朝焼けの雲みたいなストロベリーブロンドが、肩の下あたりまでゆるくカールしている。油彩を落としたような、鮮やかな若葉の瞳。王宮所蔵のペリドットだってこんな彩度は出ないだろう。あまりにも大きくて、下を向いたら落っこちるんじゃないかと不安になる。
およそ──講堂の北の隅にある、カビ臭い待機室にいていい類の生き物じゃない。確実に壇上でスポットライトを浴びるべき存在だ。まあ、今日は学院の入学式で、特待生の呼び出しを待っているところなので、何もかも仕方ないのだろうが。
そうか、この人特待生なのか。凄いな、神の恵み。
心なしか、あたりの空気がキラキラしている。ご婦人方のお洒落とか正直古代文字よりよくわからないけれども、学院のシンプルな制服を身につけ、おそらくは化粧っ気もないのに、直視するのが辛くなってきた。
美しい人、引きこもりの目には優しくない。
──いや、待てよ。
いきなり我に返った。眩しがっている場合ではない。子爵家のご令嬢、しかも世子である。そもそも凝視していい相手じゃないのだ。少年は慌てて──当社比──背筋を伸ばした。形式通り膝を折ろうとする。
「大袈裟なことはなさらないで。学院は非公式の場と聞きました」
「ああ、はい。すみません」
今思うと、めちゃくちゃ猫を被っていたのだと思う。あの時のハリエットは、どこからどう見ても非の打ちどころない良家のご令嬢だった。
「ご挨拶が遅れました、ヘーゼ嬢」
「私のことはどうぞハリエットと」
「は、……」
ラリーが速い。押しが強い。陽キャって怖い──と、常時眠そうな目を瞬きながら、コーネリアスはなんとか頷いた。名乗るヒマがない。
「お名前をお伺いしても?」
助かる。訊いてもらえた。
「コーネリアスと申します。コーネリアス・フォン・シュピーゲル。父はホルフェーンで騎士をしています」
「騎士様ですのね。ホルフェーンといえばお隣の州ですのに、不勉強で申し訳ないわ。学院で励まないと」
これが王都のご令嬢方なら、お前など知らんわ弱小貴族め──と解釈しなければならないところだが、目の前のキラキラの意図はどうも違いそうだ。なんというか、弟と同じ匂いがする。健全な大人に囲まれ、愛されてきたことを疑わない、怖いくらいの誠実。
悪い人ではないのだろう。
「小さい領ですから」
「いいえ、いいえ。こちらの最新の貴族名鑑には、王太后様の叙爵とありますわ。充分に名家です」
「えっ貴族名鑑?」
貴族ならどこの家にだいたい備えつけてある資料だが、現在のオマール聖国はとにかく領土が広大だ。最新の版となると数冊に及び、家令が3人がかりくらいで運んでくるやつである。こんなところで広げられる代物ではない。まさか高位貴族向けに魔道具か何かで小型化を──?
思わず目を向けると、吹けば飛びそうな風情の華奢な少女が、人のひとりふたり撲殺できそうな分厚い革張りの本を軽々と片手で繰っていた。なんのことはない、タネも仕掛けもない物理である。いやゴーレムか?
──身体強化か。
こんなに湯水のように魔法を使う人、初めて見た。えっ魔法で? 貴族名鑑読むの? さすが聖乙女の祝福、でいいのか。ちょっとというか、だいぶ様子がおかしい。
「今年の特待生は、どうやらわたくし達だけのようです。仲良くしてくださいませ、シュピーゲル様」
「あ、いや、すみません。私のことも、どうかコーネリアスと」
焦って礼を返すと、花冠みたいな生き物はころころと笑った。
どこからどう見ても──非の打ちどころない良家のご令嬢だった。黙ってさえいれば。
でもハリエットは、好きなように好きなことを喋って笑ってればいいと、今のコーネリアスは思う。
──寒い。
気づくのがいつも遅いのだと、こんな時に思う。
寝返りを打つと、被っていた麻袋がずり落ちた。そこらに転がっていた何かの積荷の抜け殻で、夜具でもなんでもないのだから無理もない。
石造りの領邸はただでさえ寒い。気休めの月も差さない、火の気のない納戸の隅で眠ろうとしていれば尚更だ。
弟が熱を出した。
夫人は取るものも取り敢えず医者を呼び、邸中をひっくり返して、弟の看病のために支度を調えた。その過程でどうしたことだか、うっかり庶子の寝所が消滅してしまったのだ。日頃から使用人部屋に毛が生えた程度の小部屋しか与えられていないのに、本当にどうしたことだろうと思う。
父に言うことも考えたが、あれは根っからの騎士だ。説得とか腹芸とか、逆立ちしたってできないタイプの人種である。どころか、火に油を注ぐ結果になる予感しかしない。
ひたすらに面倒くさい。
有り体に言えば、継子虐め──というやつだ。桃の和毛ほども戦の才がない庶子など、わざわざ貶めなくとも一生日の目など浴びないだろうに──と思いはするが、そういう問題でもないのだろう。感情的にどうにもならない、というのは、十五の子どもにも分かる。かといって。
「おれのせいでもないけどなあ」
ぼそりと、無感動な声が洩れた。これでも学院にいる間は取り繕っているのだ。もっとも、無気力なのも言葉選びが拙いのも変わるわけではないので、口調が庶民らしくなる程度だが。
私──とか、わたくし──とか。
本当に、随分厚い猫を被っていたものだと思う。待てよ、猫って「厚い」でいいのか。
なアう。
いきなり換気口から声がして、息が止まりそうに驚いた。飛び上がった拍子に何かの出っ張りに見事に後頭部をぶつけ、声もなく蹲る。
──痛ってえ。
床に転がっていると、声の主が信じられないほど細い隙間からにょろりと忍び込んできた。痩せっぽちの、貧相な少年の身体では抱えるのも苦労するほど巨大な猫だ。真っ白い、ふさふさの毛並みが、青い暗がりにぼんやりと浮かび上がっている。
「……お前、」
また来たのか。分厚い猫──などと、益体もないことを考えていたから、喚び寄せてしまったのかもしれない。
そんなこたあねえか。
ごろごろと唸りを上げて床を転がる毛玉をなんとか手中に収めると、不思議とおとなしくなった。
スプー、スプー…と間の抜けた呼吸の音が聞こえる。
三ヶ月ほど前だろうか。まだ暑い盛り、油断しきっていたところに氷室へ閉じ込められた。死なない程度に凍えたところで引っ張り出してもらえるだろうとは思うが、手指が凍り落ちたりしようものならさすがに困る。
なんとか脱出しようと氷に生活魔法を彫っていたら、雁が攻めてきた。
文字通り攻めてきたのだ。寒さで寝落ちして夢でも見ているのかと思ったがそんなこともなく、けたたましい掘削音とともに板戸に穴が空いた。
物音に驚いた護衛が駆けつけ、なし崩しに助け出されたものの──動物を操るなど恐ろしい、と、いくら夫人に責め立てられても知りませんと首を横に振るよりなかった。
知らないものは知らないとしか言いようがない。テイマーのスキルなど、コーネリアスにはなかったはずである。
──この辺に湖なんかもねえはずですがねえ。
駆けつけた護衛も、狐につままれたような顔で首を捻っていた。それから、ガタガタ震えるコーネリアスを厨房に連れて行き、湯で絞った布巾を首にかけてくれる。
──坊ちゃん。
──ああいうことになったら、すぐ大声あげてくだせえ。
坊ちゃんはやめろと思う。夫人の耳に入ったら大事である。この家に来たときからずっと良くしてくれているこの初老の衛士が、その歳で職を失うのは見たくない。
次は自力でなんとかしないと、と、足りない情熱でつらつら考えていたら、ちょっとした窮地に何かしらの動物が駆けつけてくれるようになった。
屋根裏に鼠。
猟場には鹿や狐。
ごろごろ、ごろごろと、まだ鳴り止まない腕の中の振動もそのひとつだ。おそろしく月のきれいな夜、郊外で急に馬車を降ろされ、鬱蒼とした森の中をひとり歩く羽目になった日。どこからともなく現れて、街の入り口まで導いてくれた。
何が何だか──分からない。
分からないといえば、コーネリアスにはもうずっと前から、この世界そのものがよく分からないのだ。おそらくはいくつか、感情が欠損していると思う。言ってはいけないことを口にしがちなことも、なんとなく分かっている。でも、思ったことがときどき、頭の中で言葉になるより先に、口をついて出てしまう。
おれの立場では断れない、なんて。
まず間違いなく言うべきではなかった。でも、あんなに震えながら、茹だりそうなほど顔を赤くして、結婚してください──なんて、恐ろしいほど真剣に請う姿を見ていたら、考えうる限り正確に答えなければならない、と、思ったのだ。
──結婚かあ。
いつか、早々にするかもしれなかったことだ。今はしないことになった。そんなものだ。
コーネリアスの人生に選択の余地は少ない。きっともっと暴れて、奪い取るぐらいのことをすればまだ違ったのだろう。
ただ、とてもじゃないがそんな気にはならないのだ。
自分が何を思っているのか、何を考えているのかも、正直なところよく分からない。
ただ──ひたすらに、面倒くさい。
きい、と、蝶番の軋む音がした。
「……何よ、これ。猫?」
細い戸の隙間から、燭台の光が瞼に差している。
眠ったふりをして、じっと時が過ぎるのを待つ。
倦み切った女の声が、本当に気味悪い子、と、呟いた。
そうだな。
おれもそう思う。
疲れ切っているという意味では、少年と女はよく似ているのかもしれない。
光に薄い血管が透けて、ミルク色に僅か朱を溶いたような、輪郭のない光が視界を満たした。
キラキラ、キラキラ、朝焼けの雲みたいな色が目に優しくない、美しい人のことを思い出した。
好きなように好きなことを喋って笑っていればいいと思う。
ただ、コーネリアスの人生に、あれは何も関係ないのだ。