空の眼はかく語りき
「しかし、それほど想いのこもった品であるならば、殿下ご自身でお渡しになりたいのでは?」
あくまで気遣いを装い、ベルトランは象牙の小箱から視線を外さぬまま問いかけた。
なんと言っても王位継承順第一位と目される公爵令息である。祝祭期間ともなれば、公務の類は目白押しのはずだ。今日ここに来ていること自体、かなりの無理を押してきただろうことは想像に難くない。一方、そんなことを知る由もない商業ギルドの関係者としては、「そう急ぐものでもないでしょう」と鷹揚に構えていても特に不思議はないのである。
私の誠意を認めてほしい──などと口にしたからには、「想いの強さ」のような条項には敏感なはずだ。基本的にこの若者は、他者との人間関係を生きていないのである。あくまで自分の感情を表現しているにすぎない。
「それはそうだ」
案の定、アレクサンデルは吹っ切れたような顔で指輪を元通りどこかにしまった。忽然と手の中に現れ、今また忽然と姿を消した象牙の小箱は、何らかの空間系魔法で管理されているのだろう。あの聖女様もそうだったが、ほとんど無尽蔵といってもいい魔力量を誇る御仁は使い途も頻度も贅沢だ。
「無理を言ったな、ベルトラン。確かに、焦ることは何もないのだ。祝祭期はまだ半月以上続くのだから、またすぐに機会も訪れるだろう」
「左様でございますな。せっかくですので、リュベージュの聖誕市場でも散策なさっては。祭りの準備で盛り上がっておりますゆえ、殿下がお運びとなれば民も喜びましょう」
「いい案だ。こう近いと、なかなか来る機会もないからな。立ち寄らせてもらうよ」
おそろしく爽やかな笑みだ。まるで嫌味がない。心なしかキラキラと輝く空気を撒き散らした公子は、邪魔したね──と、邸のあちこちで立ち見していたギャラリーにも気配りを見せた。
その時。
真っ白になった。
ズゥ……ン……
低い地鳴りのような衝撃が足元からせり上がってくる。
遠くに見える尖塔の先端から、まるで蜘蛛の糸のような淡い光が、網目状に街を這い回り、大地に吸い込まれるようにして消えた。
赤茶けた切妻屋根の家々に、薄い、青白い光の壁が一瞬立ち上がるように煙る。
──聖女の守護結界か。
とんでもない規模だった。いくら狭い教区とはいえ、聖女教会からギルドの目抜通りは大人の足でも5分はかかる。リュベージュ市街全体の対角線上に位置すると言ってもいい。それを軽く覆い尽くすような、巨大な二重円の陣が薄曇りの街に浮かんでいる。
外円に沿って刻まれた聖語。中心に大きな目。瞳は宝石の形をしている。
中心から放射状に広がるモチーフ。麦・パーム枝・炎・光冠が循環しながら八芒星を描く。
聖ルスナラの光紋だ。
「君は……」
びりびりと震える余韻の中、恍惚とした表情で、人ならぬ美しさの青年はドーム状の光に覆われた冬の空を見上げた。内側から見ると、それは結界というより膜のようだ。
「そこにいるんだね……やっぱり、私に教えてくれた」
幸福そうに微笑んで、公子はすぐそばに立ち尽くしていた衛士に声をかけた。惚けたように立ち尽くしていた男は、ハッと我に返って門への案内に立つ。
──あの、ご令嬢は……。
心の中で深いため息をつきながら、ベルトランは涼しい顔で見送りの礼をとった。せっかく穏便にお帰りいただくところだったのに、あれでは自分から居場所を喧伝したようなものである。やむを得ない事情があったのだろうが、ついていないといえばとことんついていない。
とはいえ──このままつつがなくストーキングを成功させてしまうのもあまりに芸がない。やれることはやっておきましょうか。貴人の姿が見えなくなったあたりで、顔を上げた家令は小さく呪文を唱え始めた。
宙空に弱い明かりが点る。蛍光色の光を放つ甲虫。
王族の“鳩”、聖職者の“蝶”に並ぶ、魔法使いの“螢”である。
「だぁ──もう!!!!」
窓の外に広がる光の紋を前に、顔立ちだけは似ていない兄妹は鏡写しのような動作で頭を抱えた。
やっちまったあの子。いや明らかに変な雷とか落ちてたし、なんかどうしようもないことがあったんだろうけど。それにしても公爵令息が来たタイミングであれは、間が悪いなんてもんじゃない。ストーカーホイホイすぎる。
「なんで聖女守護結界ってあんなデカデカと紋が出るわけ!? もう少し暗号化とかないの!?」
「せっかく爺やが撃退したと思ったのにィ──」
『うーん、まあ、聖女の結界は基本的に弱い人間を守るために遣わされた力よ。神様が守ってくれた! って、一目で分かる方がいいでしょ?』
遠隔視の役割を解かれたヴィスカが、テンテンと床を跳ねながら部屋に入ってきた。そんなことは現役冒険者として百も承知の上級魔法使いたちは、わかってるけどさァ──と脱力しながら呻く。
「あのストーカー、絶ッッ対都合よく解釈してるよなァ」
「ハリエットが『私はここよ、迎えに来て!』って呼んだとでも思ってるでしょーね」
「ギャッやめなさいよお前、リアルすぎて俺が凹んできた」
「でも絶対そうでしょ。何あの指輪、契約環? 未婚の令嬢に何押しつけるつもりなんだよ……」
北海の孤島であるネヴ島に入り口を構え、最下層の「蝕の間」を抜けると、リュベージュ郊外の城門趾へ出る北銀の冥窟は、伝説の希少石「聖灯晶」を唯一採取できる試練型のダンジョンである。宝石としてのみならず、魔石としての燃料効率も破格で、商会の一つ二つ買い取ってもお釣りがくるぐらいの市場価値がある。
その上、あの公子が加工してきたのは、明らかに契約環と呼ばれる高位魔法の触媒だった。契約者の指にはめると光となって吸収され、対象の魔力回路と結びついて永続的な加護を与える。
いや、本人の意志を聞けよ。
説明するまでもないことだが、王族と教会の婚姻に等しいものだ。仮にも婚約者のいる王族が、未婚の令嬢にホイホイ渡すような代物ではない。用意したことが知れただけで、パッヘルベルクでなければ外交問題だろう。
『……なるほどね。鍵守のぼうや、なかなかいいじゃない。見てごらんなさいマスター、これはちょっと見ものよ』
定位置に戻ったヴィスカが、おかしそうに笑いながら水盤を覗き込む。街中に配置した空の眼──今回は3羽の雀──を通して、都市機能が結集するベルク広場に舞う粗紙が目に飛び込んでくる。
号外、号外──。
流星公、教会高位者と接見へ、目的は“個人的感謝”?