理性を働かせるに至った子ども
「それで──」
「気がついたら、葡萄畑の石垣に元通り座っていた。四時の鐘が鳴っていてね。少しも時間が経っていなかった」
いくらもしないうち、鬼の形相の修道師に、あっという間に連れ戻されたのだそうだ。シスター・ゲルトルート──多くの聖職者を鍛え上げた傑物として今もなお有名だ──の顔を見た途端、ルデリックは混乱と安堵のあまり泣き出してしまったらしい。毒気を抜かれた彼女に拳骨を食らうこともなく寄宿先に戻され、そのあとは魂が抜けたように、おとなしく奉仕をこなした。
「あまりの豹変ぶりに、何があったのか再三問われたがね。怖い夢を見た、としか答えられなかった。事実、最初は夢か幻覚だと思っていたんだ。悪い子は妖精が連れ去ってしまう、みたいな話を浴びるほど聞かされて育ったからね。とうとう自分にその番が回ってきたんだと思って、『いい子にするからどうか連れいかないで』って祈ったものだ」
それはそうだろう。七歳の少年に理解できる光景ではない。それどころか、長ずるにつれ幻を見せられたのだという思いを新たにするのではないだろうか。
高位聖職者の語る、神が見せたとした思えない宗教的な原体験には枚挙にいとまがないが、その半数は七歳以下の幼年期に起きたことだ。その年頃の子供は、まだ身体に魂が定着しておらず、どちらかといえば天上に近い生き物だと認識されている。そうした超自然的な現象のひとつだったのだと、考えるようになっても不思議はない。
ふっと、魔法の放つ青い光が消えた。少年が術を止めたのだ。
「すみません、疲れました」
あっけらかんと言って、コーネリアスは何かを読み出すような目を司祭に向けた。どこか眠そうな目をしていた、最初の印象とは別人のようだ。
およそ──意志ある生物に向ける目ではなかった。見ているようで見ていない。
──これは。
──少しぞっとしないな。
「……最初は幻覚だと思っていた。でも今は違う。教会の大時計が、日時計と合わなくなってきたから?」
「それもある。我々は聖務日課を行うのに、こまめに日時計を用いるからね。ただ、それだけでもない。私が君たちぐらいの歳の頃には、数学や天文学を修める学生の間にすらもう、聖節が天体と一致していないというのは知れた話だった」
「疑問を抱いた」
「もちろんだ。私が神学の道に進んだのは、そのせいと言ってもいい」
七歳という幼い頃に、何か超越的な存在に触れたとしか思えない経験をしたルデリックは、別人のように──とまでは言わないまでも、比較的おとなしく、敬虔な信徒になった。貴族の子女なら多くの者が通う学院に進学した頃には、純粋に聖職者になる未来を描き、希望に燃えていたほどだ。
星環と教会の大時計が合わなくなってきていると、数学徒から最初に指摘を受けた時にも、何だそれは──としか思わなかった。天候も人の出生数も毎年同じわけではない。星環にも多少の乱れはあり、人とは比べものにならないほど長い時間を生きている星たちにとって、たかたが数日くらいの揺らぎなどあってないようなものだろう。実際に、保守派の多くは今もそう考えている。
数学徒からの指摘だったのも、ルデリックが取り合わなかった要因のひとつだ。学生である彼らは、現象として天体を観測する設備や機会を日常的に得られるわけではない。計算と合わないからといって、教会の定める暦に誤差が生じているなどと考えるのは、机上の学問らしい論理の飛躍に見えた。
いずれにしろ、教会暦そのものを見たことがある人間はほとんどいないのだ。学生たちが天体事象との乖離を主張する根拠も、教会が発表する24節と計算上の星環が一致しないというような、雲を掴むような話でしかない。
都市部で平民による「暦」が作られ、商人を中心に出回り始めたと聞いたのは、学院生となって2年目だったろうか。
不遜だ、と、最初は考えたが、一介の航海士の星読みが記された手帖を元にしていると知って、ひどく動揺した。
航海士にとって、星読みは命綱だ。星朴術は洋の東西を問わず、航海士の間に脈々と受け継がれる儀式性も高い技術である。星図を使って悪ふざけに及ぶ者があるとは考えにくい。
第一、教会の宣言が役に立っているのなら、民からそんな工夫は生まれないだろう。
役に立って──いないのだろうか。
「一度疑ってしまえばもう駄目だった。私はもともと田舎の小貴族の生まれだ。民に混ざって葡萄を踏んでいたこともあるくらいだ。彼らがいかに生きていくことに懸命か、意味もなくそんなことをする暇も余力も残っていないか、中央のお歴々よりはいくらか知っている」
「それで──調べ始めた」
ぽつり、と、呟く声がいちいち気になる。気迫が籠っているでも、特徴的な声というわけでもないのに。
少年はもう、ここにいる人間の顔を見てすらいなかった。昇段の節目でも数えているような角度で、気持ち俯いて口元を覆っている。
「天文学者に話を聞けばもっとシンプルだった。彼らは専門の設備で観測しているからね。私はそれまで、星の周期が不安定に振幅しているのだろうと思っていた。しかし天文台の記録を読めば、星の周期と教会の宣言は年々──本当に少しずつではあるが──逸れつつあるのがわかった。航海士だけじゃなく、川に行けば航河士に氷解祈が合わないと突き上げを喰らう。農村も同じだ。種まきの日は三日ずれたらもういかんのだ、と農夫の爺さんにどやされたよ。この状態を捨て置ける中央のことが理解できなくて、何が起きているのか知るため、私は大学に進んだんだ」
「ラヌーヴ大学なら、リュベージュからも近いですものね」
「……ハリエット嬢は、いつも名鑑を持ち歩いているのですか?」
「なかなか憶えきれないものですから。お恥ずかしいことです」
メモ帳でも手繰るように、レンガみたいに分厚い革張りの大著を片手であしらう花のようなご令嬢の絵面は何度見ても強烈である。憶えきれないことよりも気にするべきことが先にあるような気はする。
「あの大学には確か、セフダ教授がいらっしゃるわ。天文学と神学の大家ね」
「ええ、幸運でした」
学問に通じながら、篤い信仰も持つ人に師事できたことは、ルデリックにとって僥倖だったと言えるだろう。神の御業を論理で解明するための学問に身を投じ、青年の心はしばし安定した。
「でも──何かあったんですよね。良い師を得て、学問と信仰を両立させることができて──このままでは、天球儀の出てくる隙がない」
足元に目を落としたまま、少年はまるで無表情のまま呟いた。
なんて容赦のない問いだろうと思う。天気の話でもするような調子で、的確に出口を塞いでくる。
大きく息を吸って、吐いて、ルデリックは軽く両手を上げた。
「まあ、その通りだ。師の下について、神の手を理解するためにはどれだけのことを学ばねばなならないのかを知ったよ。正直、あの瞬間は暦など小さなことだと思った。やはり、天の意志は遠大すぎて、人には理解できていないだけで、誰も間違ってなどいないのかもしれない。道のりは遠くても、ここで邁進を続けるうち、理解できることもあるのだろうと」
そう──思っていたのに。
きっかけは、ほんの些細なことだった。「典礼秩序報告録」などという、教会に属する者でもよほど細かな調べ物でもなければ読まないような分厚い報告書の類を、付録の「異常事案記録」が面白いというだけの理由で、欠かさず読んでいるような同輩がいたのだ。
──おい、君。
──これを読んでみたまえ。面白い。
──妖精の仕業かもしれんぞ。
真面目なのか不真面目なのか分からぬ男に突きつけられたページには、いかにも神経質そうな文字で、こう綴られていた。
年次:オマール正暦513年、厳冬月の24日
位置:大司教座教会、主祭壇周辺
概要:祭具の清掃中、床面に菓子状の異物を発見。
形状:小型の平焼き菓子、焦げ痕少々、噛み跡なし。
状況:侵入の痕跡なし。魔力探知に反応せず。
掃除係および司祭補は驚愕し、監督司祭が調査に入るも原因不明。
結論:「不浄物侵入の可能性を排除できず」、焼却処理。
備考:異物の出現位置は聖域内でも特に高位祭器の近傍。警戒強化の指示あり。
ぞおっとした。
おかしかろう、「気がついたら大司教座の主祭壇にビスケットが落ちてた」なんてことを、大真面目に書いてるんだ。囃し立てる同輩の声が、妙に遠くに聞こえたことを憶えている。
葡萄畑に戻ってきたとき、確かに握っていたはずのビスケットは跡形もなくなっていた。悪さがすぎて妖精に引っ張られたのだ、ビスケットは代償として持って行かれたのだろう──と、半ば無理やり自分を納得させていたのだ。
大司教座教会。主祭壇。
目を丸くする同輩を置き去りにして、資料棚の奥に走った。
テムズン大聖堂見取り図。ページをめくる手が震えた。
「巻末に、精巧な挿絵があったよ。私が飛ばされた場所そのままの光景だった」
話しながら司祭は、張り出し窓のすぐ傍まで早足に歩み寄ると、疲れきったように赤い布張りの腰掛け段に座り込んだ。
両腿に肘を立てて手を組み、そこにがっくりと額をつける。
「気が狂うかと思った。あれが幻でなく、現実にあるどこかだったのなら、あの時見たあれは何だったんだ? なぜ日没間際の時間に、真昼間の空間を作り出すようなわけの分からない星図を──大司教座教会はあんなところに隠し持っていたんだ?」
それからは、一人で調べた。恩師や同輩たちから、暦のずれがどんな傾向を持って推移しているかは聞いていたから、探り始めた時点でほとんど答え合わせのようなものだった。
「時間の古代魔法でしょうね。教会が時に関する魔法を独占していた時代があったはずだわ。その時に作られた」
思い浮かべるままに口にしかけて、ハリエットは口を噤んだ。
あまり──聞きたい話ではないのかもしれない。
「お気遣いなく」
少女の様子を目に留め、司祭は幾分落ち着いた様子で微笑んだ。
「最初に申し上げたはずです。私にもあれが何なのかは、見当がついております。1000年の昔から暦とともに動き続ける、暦の星図を正確に再現する聖遺物なのでしょう」
「分からないな」
また、妙に耳に響く声がした。声の主に目をやれば、額に手を当てたまま、心底分からないといった顔で変わらず床を見つめている。
「何が分からないの? コーネリアス」
「ハリエットは分かるの? ──ああ、分かるのか。教会っていうのは、そうやって動いているから?」
そう言うと、コーネリアスは額から手を離して、自分を見つめている二人の人間の顔を順繰りに見回した。
「1000年前の魔法か魔道具が誤作動したんだ。それだけでしょ。むしろ1000年間で数日なんて奇跡的なくらいだ。──何がそんなに問題なの?」