誠実の人
“蝶”に連れられ先にたどり着いたのは、聖堂に並び立つ豪奢な邸の奥、細い廊下の突き当たりにある小さな私的な礼拝堂だった。リュベージュ一帯の酒造に卸す香草の独占販売を許された、豪商の持ち物である。
貴族の私邸から聖堂につながる通路を通し、張り出し窓から祭壇を直接見下ろせる構造となっている。これにより、家人は聖堂まで出向くことなく礼拝を済ますことができる。どれだけ寄進を積んだものか見当つかない。
面格子の傍に立った男は、ルデリックと名乗った。ルデリック・ファン・ズワネンブルフ。質素な修道衣の袖口をところどころインクで染めた、いかにも神学徒然とした佇まいだ。中肉中背の無駄のない体つき。積み藁の色をした髪を短く刈っており、青みがかった灰色の目が隠しきれない興味を物語っている。
「君が?」
挨拶もそこそこに、司祭はつかつかと歩みを進め、魔法使いの少年のすぐ前に立ちその顔を見下ろした。地味な墨色の上衣に、気持ち程度色の着いた焦げ茶色の脚衣を纏い、動きやすい革靴を履いている。一見すると文官貴族の徒弟や従僕のようないでたちだった。吊るし売りのローブと簡素な杖がかろうじて職能を主張しているものの、実戦とは縁遠い研究職であることは傍目にも明らかだ。
「実際に、お見せするのが早いかと」
すでに名乗りは済ませている。コーネリアスもただ頷くと、特に余談もなく術式に入った。
タペストリーのように、整然と宙空を埋める楔の群れを目にして、司祭が息を飲むのが分かった。古代数字は──魔法使いにとっては一種の考古学だが──神学の徒には強い意味を持つ。
「──魔法使い殿も、古代文字を学ぶのか?」
「人によります。とはいえ、珍しい方ではあります。僕は、塔の老人の弟子なので」
「台長閣下の?」
「はい、あー、あの……師がいつもご迷惑を……」
「老人が頑固なのは自然の摂理のようなものだ。頑固同士がぶつかる度に下の者が詫びていては、私などそろそろ腰が曲がってしまう」
篤実な言葉に、年少者たちは声をあげて笑った。まったく、どこの組織も頑固老人には苦労させられているらしい。
「たとえば復活祭は、春の月の21日と定められているけれど──現在の21日は、天文現象を基準にすれば8日ほど前にずれてきているのよね」
「正確には、7日と19時間12分」
「そこまで細かく分かるのか。……いや、それが分からなければ、そもそも算出できないか」
「司祭様は高等数学もお修めになるの?」
「人によります。まあ、珍しい部類ではありますね」
わざとらしく片眉を跳ね上げて、ルデリックはおどける。コーネリアスの口真似だろう。見かけによらず剽軽な人だ。
「そうか、最小単位を見せた方が分かりやすい……1年につき、11分……」
虚空を眺めながら、榛の魔法使いは呟く。矩形に敷き詰められていた楔文字がくしゃくしゃと紙を丸めるように崩れ、代わりに浮かんだのは銅線で引いたようなか細い真円だった。一拍おいて、オレンジゴールドの陸地がその中心に現れる。
ꀑꂒꀊꏜ。
聖国の名が刻まれ、真円を中心から12等分する線分が走る。12の桝の中に星座が整然と並び、右側に年月日と思しき数字群が浮かんだ。
「日付に付随して星座が回る……、教会暦と実時間を並べて比較すれ」
「待て待て待て! 待ってくれ! これは君が今作ったのか?」
慌てて立ち上がった司祭が驚きの声を上げた。現世に引き戻された少年が「えっ」と腑抜けた声を洩らす。そうでしょう驚いたでしょうこの人はすごいのよ──と、したり顔で腕組みをしたハリエットは特に助け舟を出さない。
「固有魔法は、ほとんどその用途にしか使えないと聞いたが」
「あー……計算魔法は式と解をこうやって光で示すところまでが一連みたいで。これなんかは教会暦の進みと、実際の天体の動きを比較して算出したので。星座くらいは出せるかなと思ったら、出ました」
「出ましたじゃあないんだよ……」
がっくりと項垂れて、ルデリックは額に浮かんだ冷や汗を拭った。緊張感のない顔で、きょとんとしていたコーネリアスの目がすうと鋭くなる。高みの見物を決め込んでいたハリエットも、異様なほど動揺している司祭の様子に微かに眉を顰めた。
「──ああ、いや、すまない。取り乱した」
短く詫びた司祭は、何か思い詰めたような顔で口元を覆った。恐らく彼は今、猛烈に考えている。
痛いほどの沈黙が続いて──。
インクの染み込んだ指先が宙に文字を描くと、薄い皮膜のような静けさが辺りを包んだ。
消音の魔法だ。
「……教会の奥には、天球儀があるんだ」
観念したように深い息をついて、ルデリックは話し始めた。癒着と言われても言い逃れが難しいほど昵懇にしている貴族家の、私的な礼拝堂を借り受けるほど人目を忍んでいるのに、この上人払いを徹底するほどの告解がこれから待ち受けているらしい。
「暦の制定時からずっと──1000年ずっと、あれは聖魔法で動き続けている。教会暦と完全に連動していて、つまり、実際の天体と暦が大きくずれている証だ」
「天球儀……」
そんなものがあるとは、聖女であるハリエットもついぞ聞いたことがない。大聖堂か、司教領か──何にせよ、もしそんなものがあるなら、日付単位のずれどころではなく、世界は夜なのに暦は昼間を指してしまう瞬間まで可視化されることになる。
「似ているんですね、この魔法は。司祭様がご覧になったその天球儀に」
コーネリアスが問う。ルデリックは石でも飲んだようにのろのろと頷いた。
「……似ているなんてもんじゃない。この、星座が時間に付随して回る仕組みなんか、ほとんどそのままだ」
「誰の目にも分かりやすい形って、限られてますから。そうそう奇抜なものにはならないです」
「──これを見せたら、司祭様が疑われる?」
ハリエットが囁く。がちがちに緊張していたルデリックは──なぜか少しだけ、ふっと頬をゆるめた。
「いや、私があれの存在を知っているのは、それこそ奇跡のような偶然だ。誰にも話していない。あんなことがなければ、私のような田舎貴族の次男には一生触れることがなかっただろう聖遺物だ」
「あんなこと、ですか」
じっと見つめてくる赤と鶸色の目は、静かなのに有無を言わせぬ力があった。
からからに乾いた喉を水筒の水で潤して、司祭はまるで罪の告白か何かのように語り始めた。
「信じてもらえるかは分からないがね──」