これからの話をしよう
「朝まで、寝たの……? その椅子で……?」
ふかふかの長椅子の上で目を覚ますと、しらじらとした朝の光の中、仁王立ちのハリエットが大きな目をこぼれそうに見開いてこちらを凝視していた。
聞いたこともないほど低い声で問われる。どういう感情かまったく見当もつかないが、なんか怒られているような気がする。
「あ、ハイ……?」
思わず後ずさりそうになって、背もたれに阻まれた。若干怯えながら、コーネリアスは挙動不審な上目遣いを友人に向ける。え、勝手に使ったらダメだった? いやでも、ハリエットはそんなことで怒らないだろ……
「もう! コーネリアスは疲れすぎ!」
「疲……、え?」
「長椅子は聖魔法の魔道具よ。回復魔法が入れてあるって言ったでしょ? 普通の人なら一時間も寝れば回復して目が覚めるようになってるんだから! 朝まで起きなかったって、どれだけボロボロだったの!?」
「それは……おれの体力がないだけなんじゃ」
「聖魔法の講義が必要? この紋は恩寵と祝福の系統。生物の自然治癒能力を高めるもので、必要以上の回復はしません。対象の身体に負担がかかるから、ある程度のところで止まるの。なんだか、まだ眠そうじゃない?」
家庭教師のような口調で、ハリエットは威厳たっぷりに腕組みをした。
「正直、寝ようと思えばまだ全然、寝れる……」
「いいわ、この椅子はあなたが持っていらっしゃい。寮にも持ち帰る? 毛布でも縫った方がいいかしら?」
ピシャリと言い放った聖女様は、ブツブツ呟きながら口元に手を当てて考え込んでいる。完全に医療者の顔だった。診断に逆らえる気がしない。もともと回復方面は素人に毛が生えたようなものだったコーネリアスは、黙って毛布をかぶり直した。知識として知ってはいても、経験が圧倒的に足りない。
「めちゃくちゃ高そうなんだけど、これ」
「貴重な症例研究対象になった自覚を持ってほしいわ。こんなに普通に生活してるのに、一晩で回復が終わらないなんて……しばらく使用してみて、経過を観察させてもらいます。いいわね?」
「はい……」
しおしおと頷いて、少年は手渡された蜂蜜湯を受け取った。素焼きのカップに、蜂蜜を絡めた木の棒が差してある。先端に幾筋も溝の入った球体がついていた。エルトゥヒトのカトラリーだろうか。
ちょっとした贅沢だ。祝祭月なのだと、改めて思う。
食卓の隅に転がっていた時計が、鈍い摩擦音を立ててⅧを示した。ずいぶんゆっくりしてしまったものだ。
束の間静まり返った部屋に、くぐもった鳩の声が響いた。荷運び人の話し声、凍った石畳を車輪が跳ねる音。街はもう動き出している。
「私、昨日はあんまり食べられなかったでしょう? ちょっと分けて持たせてもらったの。美味しそうだったから、嬉しい」
少女がマジックバッグを開けると、相変わらず理不尽な縮尺の軽食がズルッと一式出てきた。見かけ上の体積と明らかに釣り合っていない。
これだけは何度見ても慣れる気がしなかった。視界がどうにも情報を拒否する。高い魔道具ってすごいな。
「朝は? 食べられそう?」
「なんかすっごい腹減ってる」
「回復するってそういうことよ。食欲があるのはいいことです!」
眩しいくらいに笑う。明るい陽の下で見ると、やっぱり目に優しくない生き物だった。目を細めて、そこだけ切って貼ったような非日常をコーネリアスは見ていた。
ふっと気が遠くなりかけて、水に濡れた犬のように首を振る。やっとの思いで立ち上がると、食卓の空いた席についた。この魔道具──本当に恐ろしい。永遠に眠ってしまいそうだ。
肉厚の陶器に口をつける。
染み入るような甘さだ。
「……うまい」
「そう? 良かった。あんまり気絶するみたいに寝てるから、母に聞いてみたの。そうしたら、そういう子にはとにかく蜂蜜を与えなさい! ですって」
「なるほど」
甘味はとにかく値が張ることもあり、興味を持ったこともなかったけれど、口にしてみると確かに、身体に不足していた成分を入れたという強烈な実感があった。先進的な医療者でもある修道院長閣下の言うことだ。原理は分からないが、確かな根拠があるのだろう。
「これは?」
さっきから気になっていた、玉のついた短い棒を取り出して見せると、ハリエットは意気揚々と解説を始めた。
「領地で使われてる小物なの。もとは治療器具だったみたいなんだけど、蜂蜜みたいなものにも便利ってことがわかって。この溝が便利なのよね」
「たしかに。実験にも使えそう。スライム触媒液とか」
食卓に全く相応しくない話題だけれど、残念ながらハリエットもとても興味がある。
「精油のブレンドにもいいかもしれないわね」
「うん。……それ、昨日の残り? そんなできたてのまま入ってたの?」
「そう! 鮮度が売りの新型なの!」
「非常識な魔道具だなあ……」
──あの家。
──絶対にやってるわ。
何食わぬ顔で笑顔を浮かべながら、ハリエットは心の中で拳を固めた。現実でも固めてしまって、危うくもう少しで樫のスプーンをへし折るところだった。慌てて逆の手に持ち替える。
何をどうやってるのかまでは調べてみないと分からないけれど、シュピーゲル家には間違いなく何か後ろ暗いところがあるはずだ。聖魔法が顕現したこと自体はハリエットの功績でもなんでもないが、それなりに努力を重ねて、治癒や回復には絶対の自信を築き上げてきた。
あの魔法で回復しきらないなんて、恒常的に身体に高い負荷をかけるような扱いを受けているとしか思えない。症例研究などと言ったけれど、教会を通じていつでも告発できるように事例にまとめてやるつもりだ。
「この──混ぜるやつも閣下が? よくこんなの思いつくな」
感心したように、コーネリアスは何でもない食卓小物を矯めつ眇めつ見ている。心からそう思っているのだろう。きっかけさえ与えれば、どこまでも広がる発想力を持つ人だけれど、最初の一歩にあたるものをまるで持っていない。
「『コーディは、便利に暮らそうっていう発想がないからな!』って、マテウスさんが言ってたわね」
「いつも言われる」
ちょっと似てるなあ、と、居心地悪そうに少年は笑った。自分のためにはろくすっぽ物を動かそうとしない人に、ハリエットがこれからすることは、余計なことだろうか。
でも──。
私は魔法使いだと思う。そうハリエット告げてから、終始凪いだ海のように遠かった人が少し変わったように思う。
──あいつ、すごく怒ってたでしょう。
──ハリエットのために。
食事を持たせてくれながら、確信を持って告げた銀の魔法使いを思い出す。彼女のように確固たる自信はまだ、ハリエットにはないけれど。
これからだって、きっと色んなことが変わる。
「……来た」
なんだか眩しそうに窓の外を眺めて、コーネリアスが小さく呟いた。ひらひらと、分厚い磨りガラスの窓をすり抜けて、白い蝶が部屋に入ってくる。
真冬の朝に。
ハリエットが手を差し出すと、蝶はその指差にすうと停まり、やがて宛名のない封書になった。
「教会の“蝶”ね。──礼拝堂に行くわ。コーネリアス、ついて来て」




