スリーピング・ビューティ
よろよろしながら家主が招き入れてくれた部屋は、大人が一人寝られる程度の寝台で半分が埋まってしまうくらいの小さな寝室だった。素朴な木組みの天井に、つるりとした白い漆喰が柔らかく冬の月明かりを反射している。部屋の広さにそぐわぬ大きな開口窓から、ギルドを囲う壁の松明が遠くに揺れていた。
──すぐ駆けつけられる距離にはいるから。
優しい兄妹だ。迷子の子猫でも拾ってしまったみたいな顔をしていた。思い出すと、少し頰がゆるむ。
「お母様の部屋?」
寝台の傍に、小さな木机が置かれていた。肩掛け鞄を置くと、清潔なリネンの横の、見慣れない金属に縁取られた小さな鏡が目につく。
「うん。客間とかないからさ。悪いんだけ」
「そんなことは気にしませんっ!」
「そう?」
両手を握りしめて力説すると、少年はくつくつと笑った。ハリエットは、面白いよね。ランプを顔の横に掲げ、部屋の中を見回しながら呟く。面白い女だ──と、あの変態にも言われたけれど、五億倍くらい輝いて見えた。
「……よし、特に変なものはなさそうだな。じゃあ、少しゆっくりしてて。戻し湯だけ運んでくる。寝てていいから」
「あ、待って」
階下に戻ろうとしたコーネリアスを、慌てて呼び止める。不思議そうな顔で振り向いた友人の手元を、ハリエットは興味津々といった顔で覗き込んだ。
「ねえ、今日はそのランプを使ったら駄目かしら」
「これ? ミネとマットにはめちゃくちゃ酷評されてたけど……無理しなくていいよ?」
「してないわ! 照明にもなるって、いいと思う! もし何かあって、逃げるときにも便利だし」
ふっと、赤と榛の目が和らいだ。製作者の意図を正確に酌むことができたと理解する。きっと、最悪の最悪を考えて作られたものなのだ。この人がつくる道具はどれも──見栄えはしないのかもしれないけれど──そうした思い遣りに満ちている。
「……あんまり、怖がらせるようなこと言いたくないんだけど」
「うん」
「魔法が使えなくなる時もあるから」
「そういう時用の魔石が入ってるってことね」
黙って頷いた少年は、その場にしゃがみ込むと、ランプに籠めた魔石をもう一段下に落とした。
再びスパイスの香りが広がる。
はあ──。
がっくりと項垂れて、コーネリアスはぐしゃぐしゃと後ろ頭を掻いた。びっくりするほど心許ない声が洩れる。
「もうさあ、心配だ……、ほんと何するか分かんねえ、あいつ……」
あまりの無体に驚愕させられただけなのだと分かっているけれど、そんな離れがたいとでも言いたげな声を聞かせないでほしい。胸が苦しくなる。
空いている方の手を取ると、弱く握り返された。私たちは友だちだ。ハリエットの側はまだ、どうするか決めかねているけれど、どんな未来を選んでも一生友人でいると決めたことに変わりはない。
でも、今ここにあるのは──それだけのつながりだろうか。
つないだ手を引いて、簡素な寝台の傍まで歩く。腰を下ろして、なぜか悔いるような目をした人を見上げた。
「座って、コーネリアス。私が眠るまでここにいてくれる?」
「いや、それは」
さすがに気が咎めるという顔で、少年はたぶん意味もなく周りを見回す。天井近く、太い梁に渡された紐が目についたのはその時だった。ああそういえば、こんなものがあった。……
「……いや、ちょっと待って」
鏡の傍に畳まれたリネンを掴み、おもむろにバサリと広げて見せる。天辺に通し穴がついた囲い布だ。紐の端を外して、元通り梁に留めた。厚手の朝布が緩く寝台を覆う。荷物台にした木机ごと布の中だから、身支度に困ることもない。
「これなら……」
納得したようにひとり言ちて、丸椅子を引いてきたコーネリアスは、寝台の傍に腰を下ろした。
「うん、これで見えない」
「便利ね」
夜の静けさに、声を潜めて笑う。手を離すと、軽い足音が寝台を離れていくのが聞こえた。小さな声で促される。
「ランプの方使うなら、戻し湯はいらないんだけど、水差しに注いで持ってくる。寝る支度、するでしょ」
「そうね」
「おれも着替えよ……」
小さな欠伸が階段を降りていった。静かになると、急に心細さに襲われる。
ここで、これから、ひとりになるのか。昨日までまるで平気だったことが、ひとつ、ひとつ、足元から崩れるように。
──大丈夫、大丈夫。
手早く旅装を解いて、少し迷ってからウィレミナに借りた古風なチュニックを頭からかぶった。下着姿になってしまうと、いざという時行動が遅くなる。念には念を入れてショールを羽織り、質素な夜具に潜り込んだ。
トン、トン、と、微かな足音が登ってくる。細かな軋みまで伝わってくるほど、夜の路地裏は静かだ。
すぐ近くで、椅子に座る気配がした。囲い布の外に片手を出すと、温かい指先がそっとそれを受ける。
月桂樹の深い香り。
「……コーネリアス?」
「うん?」
「良かった。違ったらどうしようかと思った」
口にしてから、ひどく後悔した。詮無いことを言ってしまった。布で隠してまで、こうして傍にいてくれるだけで、充分心を砕いてもらっているのに。
「ね。何か話していてもいい?」
「それでハリエットが眠れるなら」
「もう、けっこう眠いわ。……コーネリアスは、ランヘデーヌに何か縁があるの?」
「どうして?」
「コーディ、って、お母様が呼んでたのかなって。クラウスの兄妹はヴァンダレインっ子だものね……」
最初は小さな子供のような訛りだと思っていたけれど、海の向こうの島国にある、小さくて獰猛な帝国の語感だと後から思い出した。「百年戦争」を戦った旧敵でもある。国土が狭い分、戦争末期にはたびたび聖国の上陸を許している。戦災で流れてきた難民や捕虜の縁者も少なくはない。
「なんでもよく知ってるな、ハリエットは」
感心したように言うから、笑ってしまった。あなたに言われたくないと思うけれど、彼はけっこう知識に凹凸が大きいのも確かだ。領主教育をみっちり受けたハリエットの方が、一般教養には通じている方かもしれない。
「母さんがランヘデーヌの出なんだ。祖国の話はほとんどされたことがないけど。ああ、でも、この囲い布は、むこうの風習だって聞いた」
「そう……、そうね、こういうのは珍しい、わね……」
言い終わる前に、突き落とされるように眠りに落ちるのがわかった。
さびしい。
眠ったらきっと、この手は離れてしまう。……
握っていた手の存在が、すう、と希薄になっていくのを、二つの色の瞳でコーネリアスは見ていた。魔法が効いているからだと、これで安心だと頭では分かっているのに。
──こんなに。
──不安になるのか。
やっぱり一刻も早く改良しなければならないと思う。使用者はともかく、傍にいる人間にこんな心理的負担をかけるのでは、良い魔道具とは言いがたい。
起こさないよう細心の注意を払って、そっと手を離す。正直なところもう朦朧としている。先に寝落ちしなくて良かった。なんとか友人の心は守れたはずだ。
すぐ隣にある自室ではなく、うつらうつらしながら足が向いたのは、あの魅惑的な長椅子だった。暖炉の傍にあのまま、まだ置いてある。草臥れた毛布を引きずって、少年はのろのろと階段を降りる。どさ、と身を投げると、その弾力を感じる間もなく、血の気が引くような眠気に襲われた。
──死ぬかも。
想像通り、ここは天国だった。身体の部位という部位が溶け崩れるようだ。いっそ恐ろしい。こんな眠りを知ってしまったら、もう自室の寝台には戻れないかもしれない。
これ、幾値くらいすんのかな。
家具には──家具にも造詣は深くないからさっぱり分からないけれど、こういうものを買うために貯蓄をするのもいいような気がした。
先のことを考えるなんて初めてだ。
その先が言葉になる前に、コーネリアスの意識はぷっつりと途絶えた。