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風のうわさ





『タリスカルよりも、リベルタの方が問題よお』


 雑然とした執務室を背に、美しい白羽のペンを投げ出したニヴァリは、重厚な革の椅子に音を立てて身を預けた。菫のような薄紫の瞳。娘と同じ夏の梢のように瑞々しい緑髪を、低い位置で手堅くシニヨンにまとめている。

 王都の旧弊的な連中に「棒きれのようだ」などと品評される長身のリュドミラと違って、小柄でどこか丸っこい印象の、一見おっとりした貴婦人である。


「母様。問題ってたとえば?」


 ぼんやり聖光を放つ香炉に向け、リュドミラは首を傾げて見せた。

 客房の二人部屋に運び込まれた塔型の振り香炉は、母の執務室にある卓上の神木と互いに媒介となって、この「天韻影」と呼ばれる双方向通信を成立させている聖具だ。ブレオステハ大修道院から50マイル以上離れた、王立取引所と金融の街パルウェンテにある、トレンレーツ商会の支部に接続している。

 市街地の中心に建つ、天を衝くような導塔の制御に支えられて、教会領内の天韻影は──術者がその場を離れても──一定時間維持される。例えばこの香炉なら、香が燃え尽きるまでの20分間程度の通信を可能とするように。


『そうねえ。ちょっと難しい話になるけど、ミラちゃんもそろそろ知っておいた方がいいわねえ──』






 私の美(Contraire)学に(à mon)反します(esthétique)──リベルタという国での異議申し立てには、あらゆる局面で頻繁にこの定型句が使われる。

 法王を頂点とした、信仰が支配する聖国のあり方に、早くから反旗を翻していたのがこの自由(リベルタ)を名に冠する王国である。いち早く教育制度を王権が支え、やがて王立大学として掌中に収めた。俗人による教育を確立し、教会と一定の距離を置いた啓蒙君主国のありようは、信仰さえも人が善くあるための美徳として解剖してみせたのだった。


 美しいことが──なにより正しい国となったのである。

 もちろん、その美しさは形式的な美に留まらない。道徳的、理性的であることは内面の美しさとして重視された。知識や教養を身につけ、神の造りたもうた泥人形から、より人間らしさを獲得する手段としての文化的成熟が急速に進んだ。

 舞台芸術はその進歩が加熱した最たる側面だ。王権、都市、宗教のすべてが興行に関わる。王立劇場は政治の場と化し、時には王侯貴族や外交官がみずから出演した。市民詩人組合が共同出資で風刺や社会批評の演目をかけ、時に宗教儀式すら劇場で行われる。


『プレイヤーが多いから、新しいこと始めてもすぐ真似されちゃうのよね。なかなかあの国には入り込めないわ』


 母はそんな風にぼやくと、ほんの一瞬剣呑な目をした。それから、執務机の上に広げた紙の山の中から、ぱりっとした上質紙を数枚取り出す。魔法で大量に印刷された、恐らくは興行の販促物だ。


「──〝背中合わせの女王〟?」

『ミラちゃん、リベルタ語が読めるようになったのね。ちゃんと勉強してて偉いわ』


 壁に映った母の光像が、通信魔法越しに娘の頭を撫でる真似をした。似たようなデザイン、似たような惹句が並ぶチラシ。いずれも女性君主や姫騎士を称えるきらびやかな演目である。

 時季はバラバラ──早いものでは昨年の春の日付もある。


『タリスカルに、確かに王女擁立の動きはあるし、新聞も出回ってるわ。でも、最初にこの流行が始まったのはリベルタだと思うの』

「舞台が火つけ役ってこと?」

『そうね。前に教えたと思うけど、興行は人気の投資先のひとつになってるの』


 話しながら、ニヴァリはフットマンが運んできたカラフルな陶磁器のマグを静かに手に取った。目の覚めるようなクロムイエローとコバルトブルーの幾何学模様が、西向きのアーチ窓から差し込む光を鈍く反射する。


『最初は富裕層の道楽だったけど、今はちゃんと儲けを出してるパトロンも多いわ。リベルタの興行が加熱したのはそのせいもある。例えばこの王立劇団なんて、去年だけで5本も舞台をかけてるの。全部同じテーマ、同じ監督』

「1人で5本は絶対無理だよね。ひとつの名義で何人かの作家が書いてるってことか……」

『私もそう思うわ』


 か細い湯気を立てるカップをゆっくりと傾けて、辣腕の会頭は天気の話でもするように、のんびりと語る。


『出資者は様々よ。ただ一様に、姫騎士や女王の演目を選んでる。投資家は市況を読む生き物だし、普通は流行が先、投資は後追いだけど。複数の国にまたがって起きた動きとなると、どうかしらねえ』






風のうわさ/湯川潮音

「背中合わせの女王」は大好きな作品のオマージュタイトルです

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