東の空
ここから6章。夢オチです
(2025-11-04 02:30)
聖燭祭という儀式がある。
慈子祭の端緒となったソティル王の勅命を逃れ、隣国に身を潜めていた神子の帰還を祝う祈りの日で、浄化月の2日に執り行われている。
祝別された火燭を手に、信徒が短い聖火行列を行い、ミサで静かに祈りを捧げるだけのごく慎ましやかな典礼だが──司教領が持ち回りでその年の「主灯火」の地を務める、聖国全土を挙げた厳粛な儀式でもある。
主灯火に選ばれた司教領では、三日前の晩に「三日火」と呼ばれる聖火を点す。近隣の教区からは、燈籠を携えた分火使が訪れ、そこから直に火を分け与えられるのが慣わしだ。
「星火籠」と名付けられたその燈籠は、教会が開発した祝火守りの器で、雨風や衝撃から聖火を守る聖遺物由来の祭具にあたる。
聖燭祭当日の正式な点火時刻は正午。
遠隔の教区は、自領の日時計に合わせて同時刻に点火する。主灯火の地では、聖女が最後の1本に火を掲げ、その姿は聖国各地の天韻導塔を通じて投影される──。
その瞬間こそが、連邦に光が満ちるとされる祈りの儀の始まりである。
浄化月の1日、夜半少し前──。
自領での采配を全て終えたアレクサンデルは、アトラシアの領都ザインスハイムから北東に55マイル、転移上限ぎりぎりの距離にあるドゥールブリュッケンの転移門に降り立った。
動きやすさ重視の簡素な騎士服に大剣を携えた、旅の剣士のようないでたちに、案内係も一瞬流しの冒険者か何かだと思ったのだろう。億劫そうに目を擦りながら「次の方」と記帳台に手招き──外套の肩に入ったパッヘルベルクの紋章に、ぎょっと目を見開く。
「殿下……」
「不寝番で皆疲れているだろう。構わなくていい。リヴィエルがいるから、このまま空を通らせてくれないか」
「は」
「ありがとう」
美しい筆で手早くサインを終えると、青年は深く低頭する係員らに背を向け、まるで階段でもあるかのように、暗い夜空を駆け上がる。
バサッ、バサッ……
羽音とともに、荒々しい嘶きが響いた。
彫刻のごとく完成された体躯の、翼ある馬。美しく誇り高い公爵家の友人。
神獣リヴィエル。
『自らの夢に呼ばれて行くか、主。愚かだが美しい選択だ』
「手厳しいね」
褒める時ですら皮肉を差し挟まずにいられない相棒に、馬上の青年はふっと笑う。名匠が絵筆で引いたような柳眉に、どこか悩ましい影が落ちた。夜目にも白い肌は陶磁器のよう。流線型の涼やかな目の縁は、何かで粧ったようにうっすらと赤い。
黒檀のごとく艶めいた見事な黒髪。紺碧の瞳にはこの冬の空そっくりのインクルージョンが散りばめられている。
サンデルク伯として、聖国の明星が治める北アトラシアからエルトゥヒト司教領の中心まで、直線距離でも250マイル以上の距離がある。一度の転移魔法で飛べるのは最大で60マイル。いかなパッヘルベルクの至宝といえど、それほどの大技を休みなく連打できるものではない。
「君がいてくれて良かったよ、リヴィエル」
『あの娘の力は、パッヘルベルクに必要だ。お前のつまらん感傷はもののついでだ。忘れるなよ』
取りつく島もない言い種だけれど──この傲慢と偏見の塊のような気難しい神獣が、思いの外その感傷とやらを尊重してくれていること、アレクサンデルはよく知っている。
『飛ばすぞ。ついてこい』
──わたくしは聖女です。
──誰かひとりのために祈ることなど許されません。
ほんのひと月と少し前。領内の商都で開かれた、大規な降誕市場でのことだ。領内の植林地から選ばれた、天を衝くような樅の巨木を広場の真ん中に据え、聖光燭と果実や菓子のオーナメントで飾りつける。連邦内でも初の試みを支えるため、奇跡と称えられる植物魔法の使い手として招かれたエルトゥヒトの聖女は──すぐ傍に立つアレクサンデルだけに聴こえる声で、そんなことを言った。
紙で折られた薔薇の花にそっと触れながら、振り向かずに続ける。
──東の空より、いつもこの地の安寧を願っております。
──わたくしにできるのは、それだけ。
──充分だ。
あまりにも寂しそうな背中を、暖めるように抱きしめた。冷え切った長い髪が柔らかく頰を撫でる。むせ返るような夜会の馨香とは似ても似つかない、どこか懐かしいハーブの香り。
──私の無事も、祈ってくれているのだろう?
ぽろ、と、大きな瞳から雪解けのような涙が落ちた。王族に伝わるシグネットリングのような、繊細にカットされた大粒のヴェルデライト。すぐに両手で覆われてしまったその目を、もっと見たい。
次は聖燭祭かな、などと、戯れに言わなければ良かった。分け隔てなく、すべての人のために祈ることを宿命づけられた彼女を、追い詰めたかったわけでは決してない。
だから会いに行くのだ。祝い火守りの器という、異を唱える隙のない理由を携えて。
──ォオ……ン……
遥か遠くで、夜祷の鐘が響いた。夜を徹して進むこともある分火使のために、三日火の間だけ特別に鳴らされる道標の鐘でもある。
「……もうエリージュか」
連邦の北西に位置する、司教公国の会派を踏まえれば、時刻は午前3時半といったところだ。転移魔法2回分ほどの距離を、3時間ほどで踏破した計算になる。
リヴィエルの展開する緩衝領域がなければ、人体には耐えられないスピードである。神獣といえども、これほどの力を無尽蔵にふるえるわけではなく、この強行軍を終え自領に帰り着いたら、三日は眠りにつくことになるはずだ。
「すまないな。無理をさせて」
リエージュの天韻導塔上、無人の転移門に降り立ったアレクサンデルは、美しい鬣を労るように撫でる。天馬は答えず、腰に佩いた剣の柄に音もなく吸い込まれていった。最後の60マイルを越えるため、青年は宙空に大きくルーン文字を書く。
ᚱᚳᛖᚣᛤ
篝火が燃えている。
ブレオステハ大修道院の中庭、回廊に囲まれた地平に、祝火守りの器を提げた近在からの特使がずらりと並んでいた。主祭壇の主灯火を中心に、聖堂内にあふれる光が薔薇窓の外を柔らかく照らす。
雪白の祭服をまとったハリエットは、向かって下手、多肢燭台の聖火を背に立ち、二列縦隊で並んだ分火使を丁重に迎えた。銀糸の織り込まれたヴェールやマントの混織が、ちりちりと星屑のように灯火の明滅を跳ね返している。
燭台を挟んで、上手には初老の修道師長が佇み、静かに祈りを捧げていた。ふたりの胸元には、燃えるようなルビーを込めた主灯章が燦然と輝いている。
正面の扉が開き、二、三名ずつ使者が聖堂に入ってくる。中央回廊の両脇に立つ修道師の間を、一人ずつ順繰りに進み出た使者は、聖女の目前にたどり着くと、胸の前で教会印を切ってから、恭しくその場に膝をついた。
燈籠を捧げ持ち、祈るように首を垂れる。
「光は神子のもとより来たれり」
祝別の手燭に聖火を移し、差し出されたランタンの灯芯に火を入れる。透かし彫りが施された真鍮の六面体は、石英の蓋を閉めると時魔法が起動する仕組みだ。1秒が1分程度に伸びる時間保持の魔法で、聖燭祭当日の正午、聖女が主灯の最後の一本を灯した瞬間に解除される設定になっている。
粛々と、火送りの隊列は続く。
やがて──。
聖堂の扉を押し開け、最後の3人が入ってきた。夜の青い光とともに冷たい夜気が吹き込み、豊かなストロベリーブロンドを包んだヴェールがキラキラと風に揺れる。
正面開きの扉の隙間を──すり抜けてくるその身のこなしだけでわかった。いるはずがない人が、そこにいることに。
特使はみな質素な旅支度に身を包み、燈籠の吊り輪を手に提げて、淡々と役目を果たす。ほとんどの領地が教区の巡察士や従軍司祭を派遣する中で──最後に入ってきた人の身のこなしだけが、明らかに騎士のそれだったのだ。
息が──止まりそうになる。
暗めの外套を羽織り、略式の武具をまとった騎士は、一礼して扉をくぐると、粉雪の散るフードを下ろした。肩に入れられた銀糸の紋章は、パッヘルベルクの歴史を象徴する双頭の鷲だ。
艶やかな黒髪が露わになる。
聖堂内の空気が、音もなくざわめいた。
訓練された修道師だからこそ、声を上げるには至らなかったものの──250マイル以上離れた、軍事的緊張も高まる国境付近の領主自らが特使として現れるとは、誰も予想だにしていなかったのだ。
足音もなく、青年は側道に歩み出る。
慣例に則り武具台に預けたのか、いつもは腰に佩いている大剣はない。身につけた鎧も簡素なもので、一見して手練れの冒険者に見えなくもない。南西の国境付近、リベルタ王国の文化を色濃く受けた八面体のランタンを手に、アトラシアの若き領主はあくまで聖火行列の一員として、聖火分与の順番を待っている。
紺碧の夜空に似た深い眼差しが、ハリエットをまっすぐに射た。
流れるような動作で、正面に跪く。
「──殿下……」
どうして、と、尋ねる声が震えた。深海にきらめく魚影のような強い目をふっと和らげて、アレクサンデルは「どうして?」と首を傾げる。
「次は聖燭祭と、言ったのは私だ」
優しい微笑みだった。耳を撫でる甘やかな声に、視界が滲む。泣かないで、と、幼子でもあやすように囁いて、アレクサンデルは手にした燈籠をハリエットの目の高さに捧げた。
「ハリエット嬢。私に火を」
そう乞われた聖女は──あの、雪解けみたいな透き通った涙を目に浮かべて、花冠のように笑った。
「はい、殿下」
ゴォ……ォオ──ン……
午前2時。領都ザインスハイムの夜祷を知らせる鐘で、アレクサンデルは目を覚ました。普段ならこんな小さな物音で目が開くようなこともないのだけれど。さすがに疲れて、気が張っているのかもしれない。
パッヘルベルクの所領であるアトラシアのみならず、自由都市や小領主の土地がモザイク状に入り組んだ辺境の冬は──農閑期の執務や裁判、立法などの決裁事項に加えて、あの手この手で侵襲しようとしてくるリベルタ王国の影響をかわすのにも忙しい。
頭がズキズキとした。眉間を軽く揉みしだきながら、ゆっくりと仰向けになる。
──夢か。
実際には雪月の29日、いや30日になったばかりのはずだった。来月2日の聖燭祭は、確かにエルトゥヒト領が主灯火の地に選ばれているけれど──あまりに精巧な夢すぎて、どこまでが現実なのか自信がなくなってくる。
巨大な樅の木を広場に据えた自領の降誕市場も、彼女が成人して初めて迎えた司教領での公現祭も──実際にあったことだ。違うのは、夢の中のように、彼女が心を許してくれないだけ──。
雪灯りの中、彫像のような青年は緩慢な動作で身を起こす。
寝台傍にある木製の小卓へ、形のいい手を伸ばした。二、三枚ほど散らしてある銀貨を手に取り、音を立てて卓上に落とす。
リィン……リリィン……
高く澄んだ音が、暗い部屋に響いた。この音を聴くと、不思議と落ち着くのだ。刺すような頭の痛みが潮のように、たちどころに退いていく。
──求めよ。
──さらば与えられん。
鼓膜の底に轟くような、重々しい声を今でも憶えている。アレクサンデルと星拾いの乙女──ハリエットが結ばれることは、あの日神から約束された確かな未来であるはずだ。繰り返し見る彼女との逢瀬の夢も、ありうべき運命のひとつであり、何者かに邪魔され訪れていないだけの事実なのかもしれない。
彼女も同じ景色を──見ているのだろうか。
辣腕の子爵辺りに気づかれたものか、ハリエットが帰郷して以降、ふっつりと夢につながらなくなった。離れている間、愛する人のことをもっと知りたいというだけの純粋な気持ちからくる行動ではあったが──確かに上品とは言いがたい手段ではある。
冬季休課の間だけは、仕方がないと思うことにしたものの──。
キリィン……
ひときわ高い音を立てて、3枚の銀貨が卓上をくるくると回る。
「……会いたい」
掠れた声が落ちた。次は聖燭祭と、言ったのは私だ。違う、これは夢の、起きなかった過去の話で。今はまだ雪月の、30日になったところで──。
「三日火か」
今日から。……声に出して呟くと、それが答のような気がした。
会いに行くのだ。祝い火守りの器という、異を唱える隙のない理由を携えて。
ブクマが少しずつ増えていてめっちゃ嬉しいです!
いつもありがとうございます。ここから新章です。




