回復する傷
「なるべく悪い想像はしてみてたんだけどな。桁が違う……」
がっくりと項垂れたコーネリアスは、片手で額を押さえながら、暗澹たる声でそんなことを言った。
桁が違うわよね。私もそう思う。凹んだまま黙り込んでしまった後ろ頭を、ハリエットはポンポンと撫でる。かわいそうかわいい。
思った通り長い話になった。途中で陽が落ちてきて、話しながら火をつけた蝋燭が机の上でゆらゆら揺れている。
軽く開いた手のひらをかざして火魔法を放ちながら、コーネリアスの火魔法見たかったなあ──と、ハリエットは飽きもせず思ったものだった。また今度、元気な時にねだってみると決めて、背もたれに身を預ける。
ぱちぱちと、薪の爆ぜる不揃いな音。微かな燐光をまとった薄い遮音のシールドは、寒い季節、部屋の気密性を高める生活魔法にどことなく似ているのだと気づいた。何から何まで、人目を忍ぶためだけに考え抜かれた魔道具だ。
服の上からそっと、胸元のペンダントボックスの在処を確かめる。
急ごしらえの仮宿以外の何物でもないでもなかったこの部屋も、だいぶ物が増えたと思う。圧倒的に本が多いのはご愛嬌である。大人の背丈より高い書棚には、もうほとんど空きがない。
机の上にも、壁に造りつけられた棚板にも、試薬や液状の素材が入った保存瓶が雑然と並べられていた。生活感があるかないかで言えば全然ないのだけれど、とてもこの人の部屋らしいと思う。
「……駄目だな」
いつの間にか両手で顔を覆って考え込んでいた少年は、ふと我に返ったように、ゆらりと顔を上げた。虚空の一点をじっと見据えて、これはだめだ、と念を押すように呟く。
「今考えても何にもならない気がする。全然頭が回ってない」
「それはそうよね」
「うん。こういう時は、諦めて寝るに限る」
いっそ潔く宣言して、コーネリアスはポスンと寝台に仰向けになる。呆気に取られるハリエットを目だけで見上げて、良かった、と言った。
「良かった?」
「うん。知らないままでいたくなかったし」
はらりと、音もなく落ちた一筋の長い髪を、まだ少し荒れた指先が掬った。くるくると緩く巻きつけては解く仕草がくすぐったい。
薬室長の指導により、冷水や薬品の影響はだいぶ抑えられたと言っていたっけ。それでも毎日のように何かを作り出そうとしている人の手だ。都会の貴族のように、陶器人形みたいな質感になることはないだろう。
「いいところだな。ヘーゼは」
脈絡なくそんなことを言って、コーネリアスは少しの間、黙って天井を見上げた。思慮深い猫みたいな、まだ少し幼さの残る横顔は、表情だけがひどく大人びていて、ハリエットはいつも、それが気になる。
「ここにいる間は、絶対安全な気がする。ここにはハリエットの味方しかいないんじゃないかなって思う時もあるくらい。本当はそうじゃなかったとしても」
それってすごいことだ。囁きに近い声だった。もう眠くなってきたからかもしれない。密やかな体温があって、聞いているとどきどきする。
なんでもないことを話しているのに、なぜだろう、誰にも聞かれたくない。
「いろんな人を巻き込んでいこうな。助けてくれる人は、多い方がいいし。……ヒルデ様には話した?」
「ヒルデさま」
「うん、そう呼んで欲しいって言われて……正直、貴族のその辺の慣習はよく分かんないんだけど……変なのかな?」
「変じゃないわ。可愛いって思っただけ」
「そう……」
視察に出向いた先や領都の街角で、領民たちが母を呼ぶ時のニュアンスだ。母がその呼び名に愛着を持ち誇らしく思っているのだということを、ふとした機会に知れたことも、なんだか嬉しい。
「明日話すことにしてるの。ミラとカタリナにも同席してもらう予定よ」
「それで、報告書か」
「ええ。執務室で話すことになると思うわ。コーネリアスも聞く?」
重たいまぶたを二、三度瞬かせて、コーネリアスはふるふると首を横に振った。自分がいない方がいい場というのもあると思う、と言う。
魔法使いギルドの本部へ、登録の手続きに行った時のことを思い出した。クラウスの兄妹、元気にしているだろうか。
──ハリエットは。
──自分で話せるだろ。
なんでもない言葉を、心の中で、お守りのように大事に暖めていることに気づいた。次期領主として、聖女として、矢面に立たされることなどいくらでもあったけれど──尊敬する人から信じて任された時の誇らしさは、何にも代えがたいものだ。
「……公子殿下は、施政者としては立派な人物だ。自分から戦争を起こすことはもちろん、他国の侵攻を誘発するとも思えない。だから……タリスカルで起きていること自体は──自然発生的な、どうしようもないことなんだろう」
軽く目を閉じて、半分自問自答するように、横たわったままコーネリアスは呟いた。きっとこのまま眠ってしまうだろう。「そうね」と頷いたハリエットは、髪を弄んでいた彼の手をそっと握って、膝の上に置いた。今すぐ寝入ってしまってもいいように。
「リュベージュでも、民の期待を結局は裏切れなかった。私が逃げ出せたのも、そのお陰だと思ってる」
降誕市場で市井の者に囲まれ身動きが取れなくなった時も、「レウィハン卿」に仕立て上げられ民衆の歌を跳ね除けられなかったのも──アレクサンデルが根底では、今も変わらず名君であることを示している。
泥沼の戦争を終わらせるため、魔法使いの登用という大きな社会変革を決断した過去の当主を、今でも誇りとして頂く公爵家の次期長である。同盟国の王女との婚約を穏便に解消するためだけに、そこまで愚かな真似をするとはどうしても思えない。
それは──夢の中まで尾け回され、芝居の体を取れば二、三発殴っても許されるのでは? と真剣に考えたことがあるハリエットにとってすら、覆しがたい認識だった。
「あれのことはホントに、どうしようもない奴だと思ってるんだ」
深く息をついて、コーネリアスはどこか懺悔のように続ける。
「でも、記録からわかることを無視して悪く言うだけじゃ、対応を見誤ると思う。おれの立場でこんなこと言うのは、間違ってるかもしれないけど……」
「そんなことないわ。私もそう思うもの」
「そうかあ……」
どこかほっとしたように、かすかに笑うと──少年はそのまま、すうすうと寝息をたて始める。まだ少し熱い額に手のひらを置いて、熱を測りながら、ハリエットは少しの間考え込んだ。
コーネリアスの立場──で、正しくないってどういうことだろう。
ハリエットの婚約者として? 妻(予定)につきまとうストーカーなんか正当な評価をせず、ボロッカスに言うのが正しいとか、その手の話だろうか。
──そんなことしても、何にもならないわよね。
恋愛小説ならそれでいいのかもしれないけれど、現実でそれはかえって障害になる。百害あって一利なしである。
コーネリアス自身も言っていた。対応を見誤りたくないと。確実に災厄を避けて通るため、彼が真剣に考えてくれている、むしろ証拠だろう。
首を傾げながら椅子を立ち、卓上の燭台を振り返ると、本の隙間に立てかけてある釣鐘形の消火蓋でそっと火を消した。遮音障壁もあわせて解除する。
ふっと、小さな部屋が青い闇に沈んだ。窓から淡い雪灯りが差し込む。
「おやすみなさい」
小さな声で告げて、よく眠っている人の傍を静かに離れた。
丁寧に扉を閉める。
可愛げがないと人は言うかもしれないけれど──、彼が必要以上に感情的にならないでいてくれてよかったと思っていること、伝えられたらいい。自分の持ち物に手を出されたとばかり、大袈裟に怒って見せる人物造形は歌劇でも人気だけれど──あいにくと強く賢く誇り高く育てられた総領娘にとって、まるで魅力的ではない。ハリエットは、物ではないので。
君は何もしなくていい──と、優しさのつもりで手足を捥いでくるような公爵令息の一挙手一投足が思い浮かんだ。
どこまでも合わないのだと思う。
手紙を書いてみてもいいのかもしれない。こんなふうに思っていることを正直に。あれから二度ほど届いたものの、今のところ一度も目を通さずに火にくべている、香り高い高級便箋のことを思い出しながら、ハリエットは自室の厚い扉に手をかけた。
──これも明日、お母様たちに相談してみよう。
そう思った。
回復する傷/Lily Chou-Chou
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いろいろ考えた結果、5章はここで切ることにしました。
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