優しさしかない
長くなりそうなので一回切ります
学院に入ってから、生活が一変した。
一番の理由はやはり、聖国の西側、旧ヴァンダレイン伯領全体に勢力を広げる大商会の娘と知己を得たことだろう。
夏の光のような屈託のない友人だった。
驚くほど壁がない。不思議な人だと思う。ちょっととっつきにくい、と周りから敬遠される侯爵家のご令嬢とも、街のパン屋の息子ともまるで同じ態度で話す。
興行という、あらゆる立場の者が顧客になりうる少し特殊な商会だからなのかもしれない。どこの国のどんな種族であろうとも、お客様はお客様ですと何でもない顔で迎える。派閥など小さなことなのかもしれないとつくづく思った。人間という種族の営み自体が、そもそもちっぽけなことなのだ。
教材として配られた地図を眺めていると、こんなに広い地上の、こんなに大きな大陸で、王都という狭い狭い世界に汲々としていた自分のことが少しおかしくなった。近年発表されたばかりだという、世界を緯線と経線で矩形に区切った大航海図は、王都の自室と寮の両方にしっかりと貼ってある。
当代一と名高い“聖女様”が同じ学年にいたという事実も、きっと大きい。神学科でも魔導科でもなく領地経営科に入ってきたのには──しかも唯二の特待生!──学院生全体がざわついたものだったけれど、彼女に恥ずかしくないように生きようという空気が、王族から平民の奨学生にまで満遍なく浸透していた。
喩えるなら──春の宵だろうか。非の打ち所なく美しい人なのに、強い光で民草を打擲するような苛烈さはない。
人が無様で浅ましい姿を晒しても、鷹揚に受け止めてくれるようなまろやかさが彼女にはあった。貴婦人の馨香でなく、いつも落ち着いたハーブの香りをほのかに纏っていることも、理由のひとつかもしれない。
憧れているのだと思う。
もうひとりの特待生という存在には──特待生なのに──だいぶ長いこと、気づいていなかった気がする。紙の上で見れば、どれもこれも目が眩むような成績なのに、保持者はいつもひっそりとして、背景のような顔でそこにいた。思い返すと友人も普通にいて、ことさら無口だったわけでもないのに、あれはどういう仕組みなのだろう。
夏期休課に入る前の、実技の講義でのことだ。
意を決して寮生活を始めたばかりのカタリナは、初めての遠征に備えて綿密に計画を練っていた。気になったことは調べずにいられない性分で、旅程に記された街の名前を地図と照らし合わせていると──「すみません、遅れました」と、ひとりの生徒が息急き切って演習室に駆け込んできた。
「おう、聞いてるぞ。乗合船が水草で遅れたんだって? 災難だな」
──水草?
耳に飛び込んできた言葉に、思わず遅刻者の顔をまじまじ見てしまった。こんな人いたかなと、首を傾げてしまうほど印象に残らない顔だ。目の色こそ左右違うけれど、そんなのはどこにでも転がっている貴族の不徳である。
特徴のない少年は、肩で息をしながら疲れきった顔で言った。
「すみません……、師に、1日早く帰してくれるよう、言ったんですが……」
「ははは。まあ大老のやることじゃあしょうがない。まだ始まったばかりだから、慌てず席に着きなさい」
日頃厳しい教師の、見たこともないほど寛容な態度に不意に思い出した。そうだこの人、特待生だ。別に取らなくてもいい実技の単位を律儀に取っているのだったか。
級友だったらしい人は、たまたま空いていたカタリナの隣に静かに腰を下ろした。よく見ると教材も何も持っていない。本当に、王都に着いたその足できたのだろう。
「どうぞ」
「あ、どうも……」
広げた教本を半身ほど押し出して見せると、名前が思い出せない方の特待生はおずおずと頭を下げて──書き込みだらけの地図を目に留めると、最初の中継地点の名をぽつりと口にした。
「デレンモンド港……」
「……この場所がどうかした?」
「あー、ええと、今日までちょっと南に行ってて。船が足止め喰ったのが、ここだったから」
「ひょっとして、先生が言ってた“水草”?」
「うん。よく知ってるな。……旅には、よく?」
自分で言うのもなんだけれど、どこからどう見ても完璧な箱入り娘の佇まいであることを──よく知っていたカタリナは、そんな風に問われたこと自体にまず面食らい、それから堪えきれずに笑い出した。そんなわけない、と思うけれど、誰が書いているかより何が書かれているかをちゃんと優先する人なのだろう。
「そこ、そろそろ授業聞けよ──」
〝塔の老人〟の寵児が、とるものもとりあえず自分の講義に駆けつけたことですっかり気を良くしたままの教師が、いつになく穏やかに釘を刺してくる。
その日の実技の終わり、師の言いつけにより連邦のあちこちを回っているという級友に、旅の心得みたいなものを根掘り葉掘り聞いた。魔力量のぱっとしない者同士、身を守るための知識や経験値に驚くほど助けられたことを憶えている。
収穫月ともなれば、内陸の運河には藻の類がはびこり、たびたび水運がダメージを受けることもその時に知った。
話しながらきっと──明日にはもう、この人はここで話したことも忘れているのだろうと思う。いつでも半分この世界に焦点を結んでいないような、何にも拘泥しない眼差し。
カタリナの名前すら、知らないような気がする。それでいい、と思った。破れた買い物袋から転がるオレンジを、道行く人が咄嗟に拾い集めるように、無色透明の優しさしかない。
友だちになれるかもしれない。そう思った。同年代の少年と、もしかすると初めて、垣根なく話をした。
冬の朝のような人だ。
優しさしかない/高木正勝
収穫月/Erntemona=8月(中欧農事暦俗称)




