AM2:22
一回下書きで保存したんですが、地味に公開になっていて、書き直して再保存ができない…という不思議なことになった記事。公開できていますか?(自信がない)
…2025.10.11 14:30
「入って」
どこか諦めたように歩いていた人に囁きかけながら、咄嗟に掴んだ制服の袖を強く引いた。
──お前のその魔法は、知られるといいことにはならない。
──絶対に使ってはいけないよ。
尊敬する父の言いつけを、咄嗟に破ってしまったのは──なぜだったのだろう。
夜になると、司教領内の移動に慣れきった友人は「客房棟に泊めてください」なんてあっけらかんと言い出して、子爵閣下を大いに笑わせていた。巡業を繰り返すうち、修道院の宿泊施設にすっかり味をしめたらしい。下手な宿より安心で清潔、ハズレが少ないと俗欲まるだしの台詞を吐いている。
「いいけど、エマエルファートみたいに豪華絢爛とはいかないわよ?」
「ヘーゼがあんなギラッギラになったらうちの母が泣いちゃいます。カタリナは? どーする? 領主館に泊めてもらっても全然いいと思うけど」
「私も客房に泊まってみたいです!」
珍しく勢い込んで手を挙げる友人を見て、ハリエットはちょっと情けない顔で眉を下げた。寂しそうだ。
美少女ってすごい。とんでもなく悪いことをしている気になる。
「そうなんだ……。領主館の貴賓室、みんなで使わない? って言おうとしてたのに」
「やだよアンタどうせ朝方までしゃべるじゃん。私は普通に夜寝たいです」
「明日の公演に備えて、私も徹夜はちょっと……」
「健全でよろしい」
鷹揚に頷いたブリュンヒルデが迎院司を呼び、カタリナたちを客房棟に案内させた。伽藍から少し歩いたところにある、外郭に含まれる建物である。
二人が招き入れられたのは、2階建ての2階、貴賓室と廊下を挟んで対面にある窓の大きな角部屋だった。小型だけれど機能的な暖炉に小ぢんまりとしたテーブル、両脇には椅子が2脚置かれている。
客房棟は修道院の施設だけあり、一棟を間仕切りで男女別に分けているそうだ。1階の食堂ホールだけが完全な共用スペースで、小厨房を守る灰色の猫が我が物顔で出入りしていた。
通用口も男女それぞれに用意され、中庭に通じる小径の入り口には、黒髪の凛々しい女性衛士が、隙なく周囲に目を配っているのが見える。
「うわあ……」
「思ったより快適でしょ?」
「すごいわ。これは確かに、下手な宿より安心ね」
「大事な娘を危ない目に合わせて、レイホーヴェ政務官に恨まれたくないからさ。まあヘーゼ領はそこら辺の宿の治安もいいけど」
壁に打たれた荷物用の鍵に鞄をかけながら、無茶するよねあんたも、とリュドミラは大袈裟に肩をすくめて見せる。
「いつもひとりでリュミエール楽団追っかけてんの?」
「いつも、ってわけじゃないけど、単独行動が多いかもしれないわ」
「ハティもだけど、あの学院、身軽な令嬢が多いよなー。あ、私はいいんだよ? 自分の身は自分で守るから。商人貴族がゾロゾロ人連れて歩くの、キャラバン組んでる時ぐらいだし」
「ミラは体術も剣も騎士顔負けだものね」
質素な木の寝台に腰かけて、カタリナはすらりと背の高い友人の横顔を見上げた。夏の盛りの森のような艶やかな緑髪を、少年のようにばっさり切り落としたしなやかな少女は、鷹みたいに誇り高い金目をうっすらと細めて見せる。
「でも最近、鍛え直さないとなって思ったとこ。身体強化に頼りすぎなんだよね。筋力落ちた気がするわー」
話しながら荷解きを済ませ、階下の食堂で心身に優しい食事をとる。根菜と豆がたっぷり入ったポタージュに、ずっしり重たいライ麦パンを浸しながら、なんて贅沢な時間だろうとしみじみした。宿場町はどうしたって雑駁で、それ自体旅の楽しみではあるけれど──なるべく体力を温存したい推し活の遠征においては、これくらい素朴で均質な環境の方がずっと助かる。
「ミラが寄進を積んでも泊まりたがるわけがわかったわ」
「これで銀貨10枚なら安い買い物でしょ。あんまり流行っても困るから、内緒ね」
スプーンを口に運んで、カタリナは感嘆のため息をつく。悪い顔で囁いたリュドミラは木製のジョッキの中身を勢いよく呷り、「あっつ」と本当に熱そうな顔をした。
さすがに疲れていたのだろう。
食事のあと、部屋に戻るなりカタリナはコテンと眠ってしまった。まだ余力のあるリュドミラが、「情報収集してくる」と言い残して談話室に消えていくのを、生返事で見送った記憶だけがある。
夜祷の鐘で目が覚めた。
さほど信心深い家庭で育ったわけでもない、王都の官僚貴族の子に、正確な聖務日課の時間まではわからない。ただ、ずいぶん遅い時間に起きてしまったことだけは分かった。ぐっすり眠っている友人を起こさないように、軽く身支度をして静かに部屋を出る。
どうにも喉が渇いてしまった。旅先では水筒を持ち歩いているのだけれど、今日は補充する前に寝落ちしてしまったのだった。簡素な部屋のどこかに、もしかして水差しや甕のたぐいがあったかも知れないけれど、灯りを点けてゴソゴソしていたら、リュドミラを起こしてしまうかもしれない。
推しの楽団を追いかける遠征の日々から、こうした宿泊施設には夜通し火を絶やさぬ共用の空間があるのだと、カタリナはよく知っていた。客室係に尋ねたわけではないけれど、おそらくこの客房棟では、1階の食堂ホールがそれにあたるだろう。小厨房を兼ねていたあの左右対称の美しい空間なら、飲み水のひとつくらい調達できるはずだ。
揺らめく燭台の火を頬に感じながら、薄暗い廊下を歩く。耳に痛むほど静かな石畳の床は、少し気をつけて進まないと、思ったより靴音が響く。
なアう。
間延びした声とともに、足元に暖かい毛並みがぶつかってきた。あげかけた声をすんでのところで飲み込む。
──ねこ?
まっぷたつにへし折れた鉤しっぽに見憶えがあった。人間の出入りが厳しく制限された建物の中を、唯一自由に歩き回る灰色の厨房猫だ。何か、実も蓋もない名前をつけられていた気がする。なんだったかしら。……
人を空気か何かのように思っており、警戒心のかけらもない。だらしなく寝そべってくつろいでいる姿に、ねずみを獲るより人に懐くほうが得意だとかなんだとか、好き勝手言われていた。今もぐるぐると建てつけの悪い通気孔のような音を立てて喉を鳴らしながら、カタリナの足に小さな額を盛んにぶつけてくる。
「待って。歩けないわ」
頭突きをなんとか避けながら、食堂に向かう階段を降りた。1階に降り立つと、長い廊下の先、薄く開いた扉から暖かい光が細長く伸びている。
アーオ。
「なあに? 案内してくれるの?」
目的地はもはや目と鼻の先なのだけれど、ピンとしっぽをくの字まで伸ばした猫が「ついてこい」とでも言いたげに鳴くので、声を殺して笑いながらその後ろを歩く。きい、とかすかな軋みを上げて、ドアを開けようとしたその時。
「こっち、こっちです」
「静かに。夜中の2時だから今」
小走りに走ってくる人の気配。間仕切り壁の向こうに、抑えた声が遠く響く。
──シュピーゲル君?
AM2:22/mol-74




