女の子の部屋
いったん数時間前に戻ります
──あいつ、すごく怒ってたでしょう。
──ハリエットのために。
魔法使いに師事して、自分は魔法使いでもあると昔から思っていたこと。成人したらギルドに登録しようと思っていたこと。領地のギルドは教会が強すぎるし、王都のギルドは旧習に囚われた貴族家の目が多すぎる。リュベージュの環境は理想的だと思ったこと。
教会が変わらなければならない理由も話した。1000年以上前に定めた教会暦には誤差が大きく、24の聖節すべてが日の長さと合わなくなっている。内部からの突き上げや農村の動揺はなんとか抑えてきたけれど、交易の盛んな都市部に異文化の時刻が流入して、事態はとうとう教会の度量を超えた。
日の長さで、現状のずれはだいたい分かる。しかし本当の問題は、暦を制定した計算式に誤差があることだ。何もしないでいれば、また少しずつずれ始める。これを正すには、教会暦を定めた1000年前から現在までを正しく算出できる新たな式を組み直す必要がある。検算だけでも数年は視野に入る一大事業を覚悟しなければならないだろう。その間の民の不満を抑えきれるのか、教義の威信は──議論はいつも紛糾し、教会は思い切れずにいた。
計算の魔法は、検算の話をしたときにコーネリアスが言い出したことだ。あれが使えるかもしれない、と、作り置きの保存食でも出してくるみたいに、軽い調子で。
「全っ然わかんない」
「説明が上手くなくて。ごめんなさい」
「いや話はめちゃくちゃ分かりやすかったよ。分かんないのはハリエットの気持ち。でもいいわ、分かんないってことは分かったから。とにかく、それがあんたの本音なのね」
「ええ」
お手上げだとでも言いたげに寝台に身を投げたウィレミナを、しっかりと見つめながら頷いた。だらしなくのびているけれど、大組織の副長であり、海千山千の冒険者でもある彼女の目は厳しい。経験値では敵うべくもなくても、気持ちで負けるわけにはいかない。
事務所でさわりを話しただけで、兄のマテウスはあっさり納得してしまった。直感的に生きるタイプなのだろう。裏切られてもそれはそれでなんとかする、と構えているタイプのタフな人だ。納得しなかった妹に、自室に引き入れられて今に至る。
南向きのアーチ窓から射す陽は、きた時よりだいぶ傾いている。すっかり長居してしまった。優れた開発者でもあるウィレミナの部屋は、過剰な装飾もなく適度に雑然としていて、インクや紙の匂い、出窓に並べられた植物の優しい色合いが、ハリエットをひどく安心させる。
師匠の部屋に似ているのだ。
「あいつ、固有魔法あと何個持ってんの? 計算、彫金、あと製墨の魔法、縫製魔法、水やりの魔法?」
「秤量魔法、紙修復魔法、こだまの魔法。これだけじゃなさそうね、きっと」
「バカでしょホント」
固有魔法はどれも、代替技術の発達や資料の散逸により、忘れ去られているようなものばかりだ。魔力の消費こそ少ないものの、特定の動作や作用にしか使えないため使い勝手が悪く、種類を増やしすぎると術者に微細な影響が出る。魔力の性質が断片化して大技が使えなくなるというものだ。断片化には限度があり、生活魔法も使えないほど細かく割れることはないため、元から大規模魔法とか使えないし──と、どうでも良さそうにコーネリアスは言う。
「テーゲル爺も何考えてんだか。あ、あいつの師匠ね」
「オットフリート・テーゲル天文台長よね」
「知ってんだ」
ベッドに寝転がったまま、ウィレミナは以外そうに大きな吊り目を瞬いた。
庶民階級から苦学のすえのし上がり、前王に重用された宮廷天文学者である。この国の貴族なら、知らない者の方が少ないだろう。かなり高齢のはずだが、いまだに矍鑠と街に降りて実地検分をして回る。平民にとって身近な分、著名人という印象は薄いのかもしれない。
ややこしい立場の子供を養い子にした、と、教会領から滅多に出なかった幼いハリエットでさえ、盛んに耳にしたものだったけれど。
「じいさんの弟子だから、閉架書庫でも顔パスなんだよね。あいつ」
自由な指導方針、と言っていいものか。豪放磊落な老人だが、技術に関して妥協せず、突き放すようなところがあると聞く。
「じいさんだけじゃないよ。コーディの周りには、止めてくれる大人がいない」
ふてくされたような顔で、ウィレミナはふいっと顔を逸らした。窓の外を見ているかのような、何も見ていないような丸い後ろ頭。
「ウィレミナさんは、止めたいのね」
問いかけというより、それは確認だった。ハリエットが呟くと、銀髪の少女はがばっと起き上がり、真剣な顔で身を乗り出す。
「ハリエットは、あのバカのこと幸せにしてくれる?」
もう一人のきょうだいの身を案じているような、切実な問いだった。かっと顔に血が集まるのが判る。私、そんなに分かりやすいのかな。
「……う──ん」
「何その間!? あんなに分かり合ってる感じなのに!? やっぱ身分が違いすぎるから!?」
「身分が違いすぎるから、って、私一度ふられてるから……」
「ハァ──!?」
今度こそ理解の限界を超えた、という様子で、ウィレミナは頭を抱えて見せた。大絶叫である。敵襲か何かと勘違いして、衛兵が駆けつけてこないかとハリエットの方がハラハラする。
「信っっじらんない……あんな通行人Aみたいなのが、この美少女を……聖女様を……」
「あら、コーネリアスが通行人Aなんかじゃないのは、ウィレミナさんもよく知ってるでしょう」
あまりの取り乱しように、おかしくなって少し笑った。それはまあそうなんだけど……と、口を尖らせているのがかわいい。
「じゃあやっぱりあの噂はホントなんだ」
「えっ、なんの噂!?」
「殿下がストーカー化して嫌がられてるって話……貴族令嬢は信じないんだけど、平民の間では、けっこう」
「待って! その噂詳しく聞かせて! たぶん本当です!」
二人して大騒ぎしているうち、いつの間にか寝てしまった。
この時までは本当に、平和な夜だったのだ。