子爵令嬢は逃げ出したい
子爵令嬢ハリエット・ファン・ヘーゼは苛立っていた。
「公子はどなたにも平等なの。あなたが特別というわけではないわ」
──そうですか。世界一どうでもいい情報ですね。
「子爵令嬢ごときがつきまとっていい存在ではなくてよ」
──つきまとわれてんの、こっちですけど!?
「わからない人ね」
──どっちがァ!?
貴族社会も時代とともに変化し、今や名誉称号化寸前と言われる子爵家といえども、曲がりなりにも貴族令嬢として、また世子として──砂糖菓子のような見た目に相応しからぬ怒号を、すんでのところで飲み下す。
周囲を取り囲む高位貴族のご令嬢方が、冷ややかな視線を殊更棘のあるものにした。
──アレクサンデル公子殿下、ね。
心の中で戦犯の名を復唱し、大きくため息を吐いた。
お約束といえば──お約束である。
だが、これは歌劇でも恋愛小説でもない。現実だ。
ハリエットは領地経営科という、文理教養をあまねくゴリゴリに修める課程の特待生だ。とてもそうは見えない? 余計なお世話である。
“領主”という、総領娘以外の何ものでもない名を与えられ、教会領として知られるヘーゼ地方を治める母の背中を見て育った。十八歳で学園を卒業し、襲爵の資格を得たのちには、その足で領地に戻り母の後を継ぐ予定だ。
結婚は当主の義務であるものの、王都から遠く離れたエルトゥヒト州の、これまた外れにあるヘーゼで婿取りを考えているハリエットには、家付き箱入りご令息との恋愛沙汰など邪魔なだけである。端から求めたこともなかった。
ただでさえ教会領という、ある種独特の文化を持つヘーゼの人や風土に、王都の──言ってしまえば──チャラついた殿方連中が馴染むはずもない。向こうにだって選ぶ権利があるし。
だいたいの令息は、子爵というちょうどいい階位と、聖ルスナラの祝福という魔法、花のように可憐といっても差支えない少女の外見に目をつけ如才なく声をかけてくるものの、学生食堂の窓際で、目を皿のようにして業界紙を読みふけっている間にそっとフェードアウトしていく。しぶとく諦めないのは──そう、あのキラキラしい公子殿下とその周辺ぐらいのものである。
「あなた」
無感情な声がかかった。
声の主と目を合わさぬよう、ハリエットは丁重に淑女の礼をとる。
「──なんでございましょう。シーナ王女殿下」
「形ばかり敬われても気味が悪いわ。楽になさい。ここは学院よ」
「恐れ多いことでございます。ご容赦を」
頭を上げて良い、とは──言われていない。
こんなところで足をとられるわけにはいかない。
じっと爪先を見つめたまま礼をとり続けるハリエットに、王女殿下──ストーカー野郎の懲りない周辺筆頭──おそらくは目の覚めるような緋色の巻毛が美しい絶世の美少女は、つまらなそうに短く息を吐いた。癇の強い音を立てて、手にした扇を閉じる。
「貴賤結婚など、下位貴族が思うほど良いものではなくてよ」
ぐっと、息が詰まった。
「……承知、しております」
平静を装いたかったのに、声が震えた。忸怩たる思いで歯噛みをする。
シーナ・デ・モンテレイ王女。隣国タリスカル王国の第二王女にして、アレクサンデル公子の婚約者。何度否定しても、ハリエットが公子の寵愛を──気持ち悪──望んで受け入れていると信じて疑わない彼女に、的外れな確信を与えたくはなかった。十中八九、ハリエットの葛藤を公子への思慕故と受け取るはずだ。ヤバい、リアルに吐き気してきた。
──貴賤結婚なんて。
ろくなもんじゃない。あまりに身分が違えば教育も文化も経済観念も──食文化すら隔たりになる。いくら自分は次期当主なのだと、公妃の座などにかまけている場合ではないのだと言葉を重ねたところで、「無欲な人だ」「公妃が領地を持つこともあるよ」などと一笑に伏されてしまう。ヒマねえっつってんだろ耳ついてんのか。
子爵家嫡子の意志など、王族の前では塵に等しい。対等な意志疎通など夢物語でしかない。
あの俺様公子。私のことなんて愛玩動物か何かだと思ってるんだろう。圧倒的な権力差で、なんでも自由になると思って──。
「……わかってるわよ」
絞り出すような声が洩れた。いつの間にか、令嬢たちは姿を消している。人気のない裏庭にひとり佇む。
心の中で、雲の上の人々に向けた非難の言葉は、そのままぐさぐさと自分に返ってくる。
「おおい、コーネリアス──」
少し先の渡り廊下で、よく通る声がした。騎士科の学生だろう。場違いな大声を投げかけられた少年が、突き当たりから億劫そうに顔を出した。
「声がでかいよ。ヤン」
また、息が詰まった。
コーネリアス、と呼ばれた少年は、およそ健康的とは言いがたい、血の気の薄い顔で小さく欠伸をした。痩せた身体に、不釣り合いなほど分厚い本を何冊も小脇に抱えている。反対側にはいかにも危なっかしい手つきで、筒状に丸めた大きな羊皮紙を掴んでいた。おそらくはつい今し方までの講義で使っていた地図か何かだろう。
「お前また荷物運ばされてんの? そんなん委員の仕事だろ」
「それが、気づいたら誰もいなかったんだよねえ……」
「そうやって甘やかすから、アイツらつけ上がるんだぞ。放っときゃいいのに」
──そんなこと、あの人はできない。
痛むくらい瞬きを惜しみながら、物陰からじっと苦笑する少年を見つめた。コーネリアスは友人だ。同じ領地経営科の、この学院で二人きりの特待生。
コーネリアス・フォン・シュピーゲル。先の大戦で大きな武勲を挙げ、王妃陛下の名において南ホルフェーンの長閑な田園地方に封じられた、歴史の浅い騎士の一族。少年はその長子にして、庶子である。
ふと目が合った。
その──表情の移り変わりを、見たくない。
踵を返して走り出す。
「ハリエット」
相変わらず、覇気のない声がした。変わらない。泣きたくなるほど、何も変わらない。
「ちょうど良かった。重いんだ。手伝ってよ」
「お前、ご令嬢に何言ってんだよ……」
「ハリエットは身体強化も上手だから。僕やお前より下手したら強いよ」
あっけらかんと言って、コーネリアスは気が抜けたシャンパンのように笑う。
「……しょうがないなあ」
少女も──笑うことができた。
上手だから、という、言葉の選び方が好きだ。大修道院長の長子ハリエット。神の御業。聖なる乙女の祝福。そんな値札は気にも留めない。
頑張ったから。上手なんだ、ハリエットは。きっと心からそう思って、口にする人が好きだった。だった、にしなければならない。つい昨日、ハリエットは彼に求婚して、きっぱり断られたのだから。
──ありがとう。
──僕の立場だと、それは断れないね。
顔から──火が出るかと思った。
公爵家だの隣国の王家だの、この世のものとも思えない上位存在に振り回されていると忘れがちだけれど、ブレオステハ大修道院を擁するヘーゼ領は、国内でも有数の宗教特区のひとつだ。50人規模の修道者を擁し、経済的にも独立した独特の施設経営で、貴族女性の教育や宗教的役割の中心を担っている。周辺国から訪れる人も多い。決して田舎貴族と切って捨てられるような存在ではない。
武勲により叙爵を受けたとはいえ、団長クラスでもない騎士貴族の階位は男爵よりも下。正真正銘の小貴族である。ましてこの太平の世に、裕福な商人や豪農の方が権力としては上回るくらいだろう。建前とはいえ平等を謳う学院内だからこそ「友人」などと嘯いてられるだけで、ひとたび外に出れば目を合わせることも難しい。
必死で詫びた。僕の立場では断れない、その通りだ。泣くのは卑怯だと思ったから、頬の内側を噛み締めて耐えた。あの身勝手で恐ろしい公爵家のご令息や側近たちと、自分のしていることは全く変わらないのだと思うと、足元の地面が崩れ落ちるような心地がした。
──僕こそごめん。
──ハリエットに謝らせたいわけじゃないんだ。
心底困ったような、そしてどこか疲れ切った顔で、コーネリアスは言った。僕は庶子で、今どき男子しか継げない騎士貴族の子だから、結婚して家を出られるような立場じゃない。弟は、ケンドリヒはまだ小さいから。彼が成人して、無事後継を得るまで、僕はあの家に仕える必要がある。
理不尽だ──とは、言えなかった。
コーネリアスは、庶子だ。当主がメイドに手をつけて産ませた子。どこにでもあるつまらない話だと彼は言った。
騎士の家に生まれたけれど、びっくりするほど荒事の才能がなくて、お陰でシュピーゲル家は跡目争いとは無縁だった。剣も、弓も、攻撃呪文も、罠を仕掛けるのすら駄目。手先が不器用なわけではないのにと、本人すら首を傾げるような有様だった。
その代わり頭はとびきり良かったから、なかなか子宝に恵まれない当主夫妻の目が黒いうちに適当な武門の子女あたりを貰い受け、直系の血を繋ぐための器として育てられた──そうだ。
風向きが変わったのはほんの五年前、十歳の時。
当主夫妻に、待望の嫡子が生まれたのだ。
正直ホッとした、と、本当に安堵した表情で彼は語った。弟が生まれなければ、今頃はこの学院に来ることもなく領地で結婚でもしていただろう、と言う。
いつ思い出しても穏やかではいられない。コーネリアスはもう、ハリエットのものにはならないけれど、友人でいることぐらいは許されるはずだ。いつか夫となる人には正直申し訳ないが──彼のいない人生など、ハリエットにはもう考えられない。
榛色の優しい髪。実れる麦の穂のようなその色は、少年の左目の中にもあった。右目だけが、シュピーゲルの証である深い赤をしていて、それがなければ今の家に迎え入れられることもなかっただろうと、なんでもないことのように笑う。
あんなに思慮深い人を──ハリエットは他に知らない。
偉大な母も、それを誠実に支える父も、修道院のシスターたちも、とても知性ある人だった。それでも領を守り、ある程度の人口を抱え込む以上は──争いは避けられないものとして、時には武器をとり戦うこともあった。
──僕は。
──揉め事が本当に嫌いなんだ。
何せ弱いからねと、しごく真面目な顔をして彼は言った。十五歳の少年らしからぬ、睡蓮のような静かな声で。
──でも。
──僕が諍いを避けることで、誰かに皺寄せがいくのも嫌なんだ。
案外欲深いんだと思う、と、少し前を歩く背中が言う。決して大柄な方ではないハリエットより、頭半分くらい低い小さな身体で。馬鹿公子の招待から逃げ出すにはもう土魔法で寮の裏庭にトンネルでも掘るしかないのでは──と、真剣に悩んでいた「友人」を、するっと救い出してくれた。
誰も思いつかない、誰も傷つかないやり方で。
あの時からずっと、コーネリアスはハリエットの神様だった。泣きながらすぐ後ろを歩いた。母の後を継いで、大修道院の更なる発展を心には決めているけれど──ハリエットが祈る神様は、きっといつまでもたった一人だ。
まだ──たった3ヶ月前の話なのだ。信じられない。
「ありがと。正直助かった」
埃っぽい資料室で、羊皮紙の筒を用具入れの横に挿し入れながら、コーネリアスが振り向いて笑った。そんなことを言って、きっと誰かに手伝わせる算段くらいは立てていたはずだ。自分の半身より体積の多い書籍をひょいひょいと指先で棚に戻すと、ハリエットはわざとらしく利き手で力こぶを作った。
「聖女様に任せなさい」
「聖ルスナラの祝福をこんなことに使ったってバレたら謹慎部屋だな」
ふんす、と鼻息荒く威張って見せると、珍しく声を立てて、少年はおかしそうに笑った。
ずっとここでこうしていたい。でも、今すぐどこかに逃げ出したい。
そう思った。