アタオコロイノナの薫陶、あるいは「嵐を呼ぶ男」 Mu
「マダガスカル島にはアタオコロイノナと言う神様みたいなものがいるが、これは原住民の言葉で『なんだかへんてこりんなもの』というくらいの意味である」
これは幼少からの愛読書北杜夫氏の『どくとるマンボウ航海記』の始まりの一文である。氏は水産庁のマグロ調査船に船医として乗り込み遥か欧羅巴まで半年あまりの航海を旅行記にしたためた本書でベストセラー作家となるのだけど、そもそも旅に出た理由について冒頭の一文に続いて次のように記していく。
「私の友人にはこのアタオコロイノナの息吹のかかったにちがいない男がかなりいる。一人は忍者を修行しようとして壁に駈け上り、墜落して尾骶骨にヒビをいらした。また一人は・・・(中略)こう言う連中がいなかったら、私は船になんぞ乗らなかったかもしれない」
もちろん、これは北氏一流の韜晦の術であり、ユーモアに包んだ羞恥心の秘匿でもある。戦後のまだ誰もが簡単には海外に行けなかった時代。そりゃあ、機会があれば誰だって行ってみたいだろう。一度は訪れてみたい憧れの場所。名も知らぬ未知の土地。今まで見たことのない景色。感じたことのない空気。旅はそれだけで何かを掻き立ててくれる。もちろん自分にも思い出深い旅はいくつもあり、それぞれがそれぞれの記憶を伴って自分の中に埋まっている。この機会に、少しそれを掘り起こしてみようと思う。ちなみにどくとるマンボウ航海記を読んでからマダガスカル島は一度は行ってみたい場所になったのだけど、残念な事にまだその機会はない。いつかアタオコロイノナを探しに旅に出たいと思う。
「月日は百代の過客にして行き交う年もまた旅人なり」と詠んだのは松尾芭蕉であり人生そのものが旅と感じる人もいる。またある有名な日本代表にもなったサッカー選手は引退後、自ら「旅人」と称し生き方自体を旅と定義した、のだけど、まあ、それはさておき、普通の人はどんな時に旅に出るだろう?
幼い頃のそれは親との家族旅行が一般的だろうか。自分も家族で旅行した記憶があるにはあるのだけど両親には誠に申し訳ない事にもう一つ明瞭な記憶は思い出せない。楽しかったことや驚いたことはもちろん、どこに行ったかもはっきりとは覚えていない。たぶん単に連れられて付いて行っただけだからだろう。自分の中で明確に思い出深い旅の記憶はもう少し成長してからの事で、まず初めに思い出すのは高校一年の頃のことだ。
話は少し飛ぶのだけど、みなさんは学校のクラスで好きだったクラスはあるだろうか? 仲のいい友達がいたとか、好きだった子がいたとか。僕にとって小中高12年間のクラスで最も好きだったのが高校一年のクラスだ。とにかくみんな仲が良かった。男子だけとか女子だけとかじゃなくて男女も仲が良かった。なんでそんなに仲が良くなったのか今から考えても不思議なのだけど、高校入学して初めてのクラスでみんな高校生活に何かを期待していたのだろうし、うちの高校は6月に文化祭があり、それに向けて活動することで急速にクラスが纏まっていったのもある。なにより特徴的だったのはうちのクラスだけ隣同士席をくっつけた配置で授業を受けていたことだ。これまたどうしてそうなったのかもやは覚えてないのだけど、いつの間にかそうしていた。もちろん隣が女の子の時もあり、授業中、ヒソヒソとしたやりとりを交わしたりして、とても楽しかったのを覚えている。ある授業の時、そんな教室の雰囲気に腹を据えかねたのか教師が怒り出し、席をくっつけるのをやめろと指導されたこともあったのだけど僕らはガンとしてやめなかった。まあ、そのくらい仲が良かったということだ。
さて、ある時、学校から回覧があり、夏休みに教師が引率して二泊三日で日本アルプスに登山に行く生徒を募集していた。そこで我がクラス、イベント好きには事欠かなかったのでたちまち10人以上の参加者が集まった。男女比ほぼ半々。もちろん自分も参加していたし、実はその中に、密かに気になっていた女の子も参加していた。
夏休みの当日、学校に集合し夜行バスで目的の登山口を目指す。もうこの時から楽しかった。翌日早朝から登山開始。登るのは白馬岳の大雪渓である。夏なのに一面に雪が覆っている大雪渓は結構傾斜もあり、滑り落ちたらやばそうだったけれど、別にカンジキを履くでもなく普通の靴で今から考えたらよくあんな軽装で登ったなあと驚いてしまう。でも体力の有り余っている高校生にはそれで平気だったのだ。クラスメイトとおしゃべりしながら歩いていると時間も山登りの苦しさも忘れてしまう。いつの間にか大雪渓を登りきり、僕らは白馬山荘に到着していた。翌朝、まだ暗い中、起き出した僕らは日の出を見るために山荘から歩き出す。夏とはいえ、3000メートル近い標高の世界は肌寒く、しかも吹く風が冷たかった。たどり着いた山頂でみな肩を寄せ合うように集まって暖を取った。そんな中、朝日が昇ってきた。それは山の稜線から顔を出し、燃えるようなキラキラした光を世界に投げかけ、見る見るうちに大きくなっていく。ふと隣を見ると肩を寄せ合っていた彼女の瞳に光が反射して、文字通り輝いている。綺麗だなと思った。それが最後のひと推しだった。僕はその子を好きだと自覚した。ーーーそんな思い出がある旅はたとえ何十年経っても忘れるわけがない。今でも明瞭に思い出すことができる旅の一つだ。
このクラスでは他にも忘れられない旅があって、例えばうちの高校では校外学習(遠足)はクラスごとに好きなの場所にいく事ができて、僕らは秋の京都に繰り出した。東福寺の紅葉の美しさ、南禅寺の山門の見事さ、その時見た光景は仲間の姿と共に忘れられない思い出だ。後年、僕は京都の大学生となり、毎日京都で過ごすし、有名な観光地も含めいろんな場所に行ったけれど、あの時見た、特に東福寺の紅葉は今でも別格だ。
ちなみに、夏と同様、冬休みにスキー旅行の募集があった時には、またしてもクラスの連中がわらわらと手をあげ、担任教師から、うわーやっぱりお前ら(申し込みに)来たかあ、と呆れられたのはいい思い出だ。
高校一年のこのクラスがあまりにも楽しかったため、学年が上がりクラス替えした二、三年のクラスはどこか物足りなく感じてしまった。もしできる事なら、このクラスで修学旅行に行きたかったと今でも思う。
とはいえ高校年代の旅は言わばツアーのような旅程の決まっている誰かの引率でする旅で、これが大学になるともう少し、大人の(?)もしくは破天荒な旅をする事になる。
京都で大学生になった僕は自主ゼミというものをする事になった。普通大学のゼミ(ゼミナール)なるものは授業の一環として教授が課題を出したり、専門書を読んだりして単位につながるものだと思うのだけど、うちの大学には新入生が集まって勝手に勉強会をするという伝統?みたいなものがあった。最初は上級生の世話役みたいな人がいて、新入生の交流の場を設けてくれて、そういうところで興味の合う人がグループを作る感じだ。僕が入ったグループは男女合わせて10名(男子8名女子2名)いた。僕らはある「量子化学」の専門書を輪講して勉強する事にしたので、自称「量子化学」ゼミと名乗った。この時出会った人々はまさに一生ものの友人であり、大学を卒業してはや40年が経とうとしている今でも交流があり、毎年年末には「量子化学ゼミ年会」と称して忘年会を開催している(近年はリモート開催になりつつあるげど)。いや、話が先走った。ドダイマダ出会ったばかりだった。
自主ゼミは週一で学内のゼミ室を使って読み当番が本の内容を説明するという感じで勉強していったのだけど、大学という取ってる授業も違えば、学部自体も違ったりして(理学部と工学部の人がいた)高校までとは違い同じ人と顔を合わせる事が少ない環境で、週一で顔を合わせる関係というのはそれだけである種の仲間意識が芽生えるものである。そんな訳で僕らの自主ゼミは急速にサークル化していった。例えば、ゼミノートなるものを作って持ち回りで自分の好きなことを書いたり、誰かの書いた事に対して次の人が自分の考えを書いていったり。あるいは示し合わせてご飯を食べにいったり、下宿に泊まりに行ったり。
そんな中、秋になって初めてみんなで京都を散策に出かけた。それはわずか半日のしかも京都市内の小旅行だったのだけど、でもそれが切っ掛けだった。この後、我がゼミはあたかも(貧乏)旅行サークルの様相を呈していく。それは主に鉄道や旅行に詳しいN君がグループにいたことが大きかった。
冬休み、山口下関出身の彼は列車で帰省するという。しかもわざわざ山陰線を夜行列車で帰るのだという。彼の話す列車旅の魅力、例えば高さ40メートルの余部鉄橋の壮観さや、ローカル鉄道の長閑さ、魅力的な車窓の風景、そういうものを聞いている内に誰とはなしに行ってみたいという話になり、あれよあれよという間に旅行計画が立ち上がった。もちろん貧乏学生の僕らにはどこかで宿を取るような余裕はないのでN君の家にみんなで一泊し、行き帰りはローカル鉄道だ。この時、貧乏学生に強い味方が今も昔も青春18きっぷである。このJRの普通列車乗り放題の切符には本当にお世話になった。年齢的にもまさに18切符だった。さて、その時の旅では余部鉄橋は通ったもののすでに日が暮れていて外を見ても真っ暗で壮観な眺めを見る事はできず、けれどN君の実家では大勢で押しかけ申し訳ない中、思いの外、盛大な歓待に遭い、下関という土地柄うまい海鮮料理をたらふくご馳走になったのはいい思い出だ。翌日には少し遠出をして島根あたりに出かけたのだけど、その時行った「鬼の舌震」というおそらく知っている人はほとんどいないと思える観光地は僕らの中では一つの旅の象徴になった。今でも「鬼の舌震」といえば、みんなあの時の旅を思い出す、そんな場所だ。そしてこの自主ゼミでの旅のハイライトは翌年の夏、東北地方大学寮巡りの旅である。
個人のプライバシーや安全意識の高くなった今ではもう無理かもしれないが、僕らが学生だった当時、大学の寮は他大学の学生を泊めてくれた。もちろん部屋の空きがなければ泊めることはできないけれど、例えば夏休みなど学生が実家に帰省している時期は空き部屋も多くなる。そんな時はほとんどただ同然で気軽に泊めてくれたのだ。2回生になった僕らは夏休みを利用してまたしても貧乏旅行に行く計画を立てた。交通費は青春18きっぷ+周遊券、宿泊は先ほど述べた大学の寮を利用するという格安旅である。行き先は東北地方、はるか青森まで行ってやろうという無謀旅である。ここでもN君が旅行計画を立ててくれたのだけど、実際には割と行き当たりばったりの旅になったことはいうまでもない。初日、京都から北上し、日本海へ出て、天橋立や舞鶴、美浜を散策し、敦賀から福井に辿り着いた。初日の宿はここ福井大学の学生寮の予定だったのだけど、電話してみると空き部屋がないという返事。初日から計画破綻かと焦ったが、実は女子寮なら空いているということだった。え? そんなところに男ばっかり泊まっていいの? と僕らは顔を見合わせたが、そもそもホテルを取るような予算はなく、泊めていただけるのならありがたくと言うわけで寮に向かった。もちろん健康な青年男子のこと、女子寮と聞いてある種の妄想が浮かんでないとは言わないけれど、着いてみるとロビーの白板に次のようなメッセージが書かれていた。
「京都から来る知らない学生さんへ 女子寮に男子学生を泊めるのは例外的なことです。くれぐれも節度を守って滞在してください」
うん。ごもっとも。
と言うわけで僕らは酒を飲んで騒ぐこともなく大人しく泊めていただいたのだった。ちなみに女学生の姿はチラリとも見なかったので、本当にあそこが女子寮だったのか今となっては定かでない。
2日目は福井を散策し、夜行で東海道を東行した。朝、東京駅に着いた後はそのまま北上し仙台へ。仙台の街中を散策してこの日の宿は東北大学の学生寮である。東北大の寮はなかなか綺麗で快適な建物だった。さすがは旧帝国大学と言う感じがした。もっとも旧帝大でも森見登美彦氏の四畳半シリーズで有名な京大の吉田寮なんかはいつ壊れてもおかしくないようなあばら屋なので別に帝大は関係ないのかも知れないけれど。泊まった東北大の寮には結構な広さの共同浴場もあって、僕らは東北大の学生のような顔をしてのんびり旅の疲れを癒した。
翌日、旅の4日目は仙台からさらに北上し、岩手では平泉で中尊寺金色堂や毛越寺に詣で、とうとう青森に辿り着いた。青森での宿は弘前大学の学生寮である。この日、弘前には夕方6時ごろに着いたのだけど、驚いたことにまだ日が明るいにも関わらず、どの店ももう閉まっていた。もちろん現在の弘前はそんなことはないと思うのだけど40年前に訪れた僕らを待っていたのは夕食を食べるところがないと言う現実。え? コンビニでお弁当を買えばいいんじゃない? と思う諸兄には若いっていいなと言っておく。その当時、コンビニはまだ地方ではそれほど普及していなかったのだ。そもそも僕が初めてコンビニを目にしたのは大学生になって京都の街を歩いている時「ローソン」と言う名の見かけない店舗を目にしたのが初めである。僕の実家のある大阪の片田舎にはコンビニなんかなかったし、この時の弘前でも目にしなかった。お腹が空いて困り果てていた僕らに学生寮で対応に出てくれた寮生が密かに教えてくれた。
「あそこのお店の窓を叩いてみ」
行ってみると小さな個人経営の食料品店らしく屋号が書かれたシャッターが閉まっている。教えられた通り裏口の窓を叩くと徐に窓が開き、中から店主が顔を出した。僕らは窮状を説明し何か食べるものを買いたい由、伝えると閉じていたシャッターを開けてくれたのだ。これぞ天の助け! 僕らは惣菜パンやビールなどを買い込んだ。そうしていると店主が「よくここがわかったね」と聞いてくる。弘前大の寮生に聞いたと伝えると、彼はなるほどと頷いた。普段からよくある事らしかった。こんなところで寮生御用達のお店を知れるのもまた旅の面白さと言うものだ。
翌日、奥入瀬から十和田湖を巡り、東北旅行を堪能し一路帰宅の途についた。東京からはもちろん夜行である。東京発大垣行きの夜行列車は青春18きっぷ勢には有名な列車で「人民列車」と通称される。ボックス席タイプの車両はヨーロッパとは違いなかなかに狭く、夜中に寝るためにはどうしても通路に足がはみ出てしまう。中にははなから通路でごろ寝しているような豪の者もいて、列車の中は足の踏み場に困る、まさに人民列車状態。実は数百円出してグリーン車両を利用するとすこぶる快適なのだけど、悲しいかな学生の身ではそれさえも惜しい。と言うことで夜の人民列車でうつらうつらしていたら、あるところで例のN君がいなくなっていることに気がついた。え? どこいった? と他の友人に聞いてみると、実はNくん、青春18きっぷがまだ1日分残っているからと、途中ですれ違う東京行きの夜行列車(東京に行くとき乗ったやつ)に乗り換えてもう一度東京に戻ったそうだ。その話を聞いた時、思わず、やるなあ、とつぶやいてしまった。これはまさしくアタオコロイノナの息がかかった振る舞いである。こう言う友人がいなかったら、後年、自分は一人でヨーロッパになんぞ行かなかっただろうと思うのだけど、それはまた後述しよう。
さて自主ゼミの仲間とはその後も九州の小さな鍾乳洞で腰を折って歩くのがやっとの狭いトンネルを膝まで水に浸かりながら踏破したり、土佐の山奥で野生のニホンザルに荷物をかっ攫われそうになって慌てて逃げたりとヘンテコな旅をたくさん行った。こういう旅をしておくと何十年経っても年末の量子化学年会での良い話のネタとなるものである。
大学院に進学すると忙しい研究の日々が待っていた。学会発表が迫ってくると研究室に泊まり込んで幾日も徹夜が続くこともあった。そんな忙しい日々の中で学会発表はいわゆるハレの日であり、その後の何日かは自分へのご褒美のような時間でもある。
僕の所属する分野では学会はたいがい春と秋に開催された。春のそれは年会と呼ばれ様々な分野の発表が一堂に会する大きな学会で基本的に東京と関西(大阪、京都)での隔年開催だった。それに対して秋の学会は分野ごとの小・中規模のものでいろんな場所で開催された。自分の行ったことのある場所で言うと、北は札幌から、仙台、横浜、名古屋、広島、福岡、熊本など、日本全国に跨がっている。なので学会に発表しに行くのは半ば旅に行くようなものだ。もっとも今の学生諸君は僕らの頃よりよほど真面目なのでそんなことはしないのかも知れないけれど、僕らの時代は学会に行ったらその後何日か近郊を旅してくるのが普通だった。もちろん学会旅費は自腹だったので誰に遠慮もいらない。ちなみに移動手段にもちろん飛行機なんぞ使わない。新幹線も使わない。関東付近に行く場合は夜行バスが定番であり、北海道とか九州とかの場合は主に船である。例えば北海道の場合、京都の舞鶴から小樽まで日本海フェリーが就航している。もちろん移動にはほぼ丸一日かかるのだけどとにかく安かった。同じく九州の場合、大阪湾から門司まで瀬戸内フェリーがあり、こちらもよく利用した。二等船室で雑魚寝なのだが人民列車に比べれば広々として天国のような寝心地だ。それに夜の甲板で観る瀬戸内海の夜空はこれでもかと言うぐらいたくさんの星が見えて綺麗だった。
そういえば話は逸れるのだけど、みなさんは今までの人生で観た一番綺麗な星空は何処でだろうか? 近年、阿智村など星空で有名な観光地が話題だが、そういう所だろうか? 自分はこれまでの人生の中で見た一番綺麗な星空は、エジプトはアスワンハイダムによって出来た人工の湖、ナセル湖の畔で観た星空だ。それはもう想像を超えていた。夜空に数えきれない星の粒が煌めいていて隙間が見当たらない。星が夜空を埋め尽くしていた。あの星空はいつかもう一度観てみたいと思う。
話を戻そう。札幌で学会があった時、学会で知り合った他大学の友人3人と北海道を観光したことがあった。レンタカーを借りて紅葉の大雪山や室蘭、支笏湖、洞爺湖辺りを巡って学会が終わって3日後に函館のいわゆる100万ドルの夜景を観るために函館山にロープウェイで登った。山から見える見事な夜景に感嘆していたら、ふと横を観るとどこかで見たことのある人が同じように夜景を観ていた。その人も僕に気がついて驚いた顔になる。それで思い出した。それは学会で見知った他大学の学生だった。なんと彼も学会が終わってから旅行を楽しんでいて、たまたま同じタイミングで函館山の上で夜景を楽しんでいたのだ。それにしてもなんというタイミング。すでに学会から3日も経っていて場所は札幌ですらないのに。我々は思わずニヤリと笑いあったのだった。
他にも福岡の学会の時は、水郷で有名な柳川で水郷巡りを楽しんだり、長崎まで足を伸ばし、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の舞台巡りなんぞをしたり、街にたむろする尻尾の短い猫を撫で回した。熊本では球磨川の急流降りを楽しみ、足を伸ばして高千穂渓谷を歩いたりした。
先ほど述べた札幌の時はめずらしく複数人での旅だったけれど、学会の時の旅は基本一人旅だった。その経験から僕は一人旅の気楽さ楽しさ面白さを知ったように思う。これもまた後年ヨーロッパ一人旅の動機のひとつになった。
さて旅の種類で言えば海外旅行は日本ではある種のハードルが上がる旅だろう。自動車で、あるいは鉄道に乗って国境を簡単に越えることができるヨーロッパなんぞとは異なり、必ず海を越えなければいけないからだ。
みなさんは初めて海外に行ったのはいくつぐらいの時でどこへだろうか? 昭和の時代には親に連れられてハワイに行くような子供は羨望の眼差しで見られたし、平成の頃には修学旅行で韓国あたりに行くような高校もあった気がする。
僕が初めて日本以外の国に行ったのは大学の修士課程の一年目、二十三歳の頃で、場所は中国だった。これは流石に一人旅ではなく、大学の友人と一緒にだった。その友人O君は先に出てきた自主ゼミの仲間とは別で、大学の専門課程に進んでからできた友達だった。うちの大学は2回生までは全学的な教養過程で3回生から専門教育が始まるのだけれど、3回生で取った化学実験で相方になったのが彼だった。なかなか恰幅のいい体格のお相撲を取ったら一瞬で負かされそうな彼は実験もまた豪快で、ある化合物を抽出する実験で大量の活性炭をぶち込んで不純物を一掃し、ついでに目的の物質もあらかた吸着させて回収不能にしてしまい、二人で大笑いしたことがある。そんな彼はまたアイドルオタクでもあり、下宿の天井にはアイドルのポスターが所狭しと貼られていた。時たま下宿に泊まりに行った時にはそんなアイドルのポスターを見ながら寝る羽目になった。そんな彼と何かの折りに旅行の話になり、二人ともまだ海外に行ったことがないということが分かるにおよび「じゃあ、行きますか」となんとも軽く彼が提案してきたものだ。こちらもしからばと応じ、なんやかやで一緒に海外旅行に行くことが決まっていた。なんで中国にしたかはもう覚えてないのだけど多分安かったとかそう言うことだと思う。ただしこの当時、中国には今みたいに自由に行くことはできなかった。中国側から招待ビザが必要で、もちろんその辺りはツアーに申し込むことで取得できるのだけど、確か神戸あたりの大使館まで取りに行った記憶がある。
そんなこんなで夏休み、僕らは初めての海外旅行に出発した。行き先は中国南部の蘇州・杭州と上海を巡るツアーで確か8〜10名ぐらいの参加者だったと思う。日本からの添乗員はなく現地スタッフの同行だったように思う。僕らは蘇州の有名な庭園(拙政園)などを観光し、杭州へ向かう列車の中では茶葉を直接湯呑みに入れて飲む中国流のお茶を楽しんだ。そう言えばこの旅で初めてカエルを食した。確かホテルの夕食で提供された料理に出てきたのだ。味はまあ悪くなかった記憶がある。あとこの旅で観光以外のところで記憶に残っているのが帰りの飛行機のコンファーム(搭乗確認)をしたことだ。普通ツアーだと添乗員さんがやってくれるはずなのだけど、この時はこちらでやってくれと言われ、どう言うわけか僕が全員分のコンファームをしなければいけないことになり、小一時間現地の航空会社のオフィスで初めてのことに四苦八苦しながらなんとかコンファームしたことを覚えている。その間O君は街の屋台を冷やかして美味しいものを食べていたそうで、文句の一つもいいっていいのではなかろうか。あと忘れ難いのは……
えっと、ここでまた話が飛ぶのだけど、みなさんは『嵐を呼ぶ男』と言う映画をご存知だろうか? 若き石原裕次郎が喧嘩っ早いジャズドラマーの主人公を演じた青春映画で、スティック片手に彼が「おいらはドラマー、ヤクザなドラマー」と歌い出す場面が有名なのだけど……実は僕も昔『嵐を呼ぶ男』と呼ばれた時期があった。……い、いや、うそじゃないんだ。本当なんだ。だからと言って別にドラムを叩けるわけでもないし、喧嘩っ早いわけでもなく、つまりは……お天気の話である。そう、世の中にはいわゆる晴女や雨男などというその人が出かけると決まった天気になるような人がいる。僕の場合はそれが「嵐」だったのだ。まあそこまでいかなくとも外出するとみるみるうちに天気が悪くなり、室内に入ると晴れてくるなどという摩訶不思議な現象に実際にたびたび遭遇するものだからただの気のせいと馬鹿にはできない。その極め付けが「嵐」。そしてそれはこの中国旅行の際に発動した。
杭州の街を台風が直撃したのだ。そのせいで泊まっていたホテルが停電し、夕食はなんだかお湯を入れただけのインスタントラーメンのようなものが出てきた。それよりも辛かったのはホテルの客室が十何階と言う上の方で当然エレベーターも動かないので僕らは懐中電灯片手に非常階段を登る羽目になった。ようやく辿り着いたホテルの部屋は真っ暗で懐中電灯の薄暗い灯りの中、O君が屋台で買ったという豚肉の燻製なんぞを齧りながらビールを流し込んだら出来ることがなくなったのでさっさと寝てしまった。翌日、台風一過の晴天の中、ツアーバスで市内を移動していると、道路のそこここで折れた街路樹が横たわっており、川でもないのに前方の道を横切るように水が流れているのが見えた。『嵐を呼ぶ男』の面目躍如である。ところでしばらくすると揃いの軍服の兵士たちがわらわらと現れて折れた街路樹などを片付ける様子が目に入ってきた。ああ、これが人民解放軍か、さすが中国だなと思った。この当時、中国は改革路線を進んでいる最中で、ある種の明るさというか、未来への希望があって人民解放軍も好意的に受け取られている部分があった。だから災害救助を行う兵士の姿に中国の明るい未来を幻想したのだ。けれどこの数年後、天安門事件が勃発し中国の改革路線は頓挫する。天安門の民衆に戦車の銃口を向ける人民解放軍の姿に甘い幻想を打ち砕かれることになった。
閑話休題。さてこの初めての海外旅行の次に海を渡ったのが、何度か話題に出てきたヨーロッパ一人旅である。この旅はもちろんツアーではなく『地球の歩き方』片手にリュック一つ背負って旅するいわゆるバックパッカーで、博士課程終了まで後一年という3月のヨーロッパを約三週間かけて巡った。どうしてこんな旅に出ようと考えたのか、今となってはもうはっきり覚えていないのだけど、学会旅行で一人旅の楽しさを知ったことや、自主ゼミのN君から鉄道旅の薫陶を受けたことが、旅に出る決意を後押ししてくれただろう。さらに言うと、この旅の前年、中国ではさっき述べた天安門事件があり、一方、ドイツではベルリンの壁が崩壊するという大事件があって、第二次世界大戦のあと長く続いてきた世界の構造が大きく動き出しそうな機運があった。たぶん、そういうのを自分の目で見てみたくなったのだ。
旅程はまずイギリスから入って、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリア、スイス、イタリア、フランスと、ヨーロッパ中央部を鉄道で移動する。海外からの旅行者にはヨーロッパ各国の鉄道乗り放題のユーレイルパスという切符があって、それを利用した。(イギリスは別途ブリティッシュパスが必要)宿泊は半分以上、夜行列車の車中泊である。夜行列車と言っても寝台車ではなく、普通の列車なのだけど、日本とは違いちゃんとした4人乗りのコンパートメント(扉がついている)があって、その座席は取り外して座席間の隙間にずらすことができ、割と快適な寝床が完成する。あとの宿はそれこそ『地球の歩き方』を参考に当日アポなし突撃だった。まあ、今ならネットで事前に楽々予約ができるのだろうが、当時はその行き当たりばったりもある意味旅の醍醐味だ。
この旅はそれこそいろんな思い出があるのだけど、イギリスの全英博物館でみた本物のロゼッタストーンの感動やネス湖畔で風に佇むの黒羊の群れ、ベルリンでは壊された壁の瓦礫を拾い、悠々と流れるライン川やドナウ河を眺め、おとぎの世界のようなロマンス街道の街々をへめぐり、雪に埋もれた白く輝くノイシュヴァンシュタイン城に感動し、美しいスイスの山岳鉄道とマッターホルンの勇姿、ローマのコロッセオやフォロロマーノの遺跡に古代へ思いを馳せ、『ローマの休日』に登場するスペイン階段や真実の口、あるいは映画『サウンドオブミュージック』に登場するザルツブルグの修道院を聖地巡礼し(当時そんな言葉はなかったけれど)、そしてフランス、ルーブル美術館の大階段を登って見えてきた勝利の女神ニケの雄々しさに震えた。どれも忘れ難い。けれどもそれとは別に、例えば、ミュンヘンからベネティアに向かう夜行列車の中で乗り合わせたやはりバックパッカーの日本人女学生と互いにどんな旅をしてきたかを一晩中語り明かした記憶や、到着したベネティアで見た朝靄に煙るサンマルコ広場の幻想的な景色は特に印象深い。
ちなみにこの旅でも僕の『嵐を呼ぶ男』は健在で、一日ミュンヘンの街で暴風嵐が吹き荒れ全ての列車が運行停止になり、街から一歩も出られなくなった。幸いにもこの街には自分の従兄がスポーツ用品メーカーの海外駐在員として赴任していたので泊めてもらうことができ、この旅では例外的に極上の宿を借りることとなった。当時、従兄は結婚して奥さんと幼い娘さんと一緒に赴任していたので、バックパッカーの汚い格好で転がり込むのは申し訳なかったのだけど、なんとか手土産に花束なんぞを買い込んで持って行ったのを覚えている。日本でならそんなキザな事はとてもできないので、これもまた旅の魔力かもしれない。
さて翌年、僕は結婚することとなり(まだ学生だったのだけど)それ以降の旅といえば、当然、夫婦や家族で行く旅が主になり、立場を変えて子供の頃に戻ったようなものだ。それがどんな旅だったかを語るにはもはや文字数がやばいことになっているので詳細には語れないのだけど、例えば、新婚旅行で行った冬のトルコではまたもや雪嵐を召喚してしまいツアーバスの中で5時間閉じ込められたり、家族で行ったエジプト周遊旅では非常に充実した旅を堪能したものの最後に生水ならぬフレッシュジュースに当たり死にそうになりながら帰国したり、そうかと思えば2年住んだアメリカ在住中には日本では決して見ることのできないスケールのナイアガラの滝やグランドキャニオンの壮大さに感動した。まだまだ世界にはすばらしい景色がたくさんあるのだ。
余談だが、ウチの奥さんは正真正銘の晴女であり、夫婦の力関係の変化と共に一緒に出かけても晴れることが多くなり今では『嵐を呼ぶ男』の二つ名もすっかり返上したことを報告しておく。
最後に、次はどこへ旅したいかと聞かれたら、なんと答えよう。
あるツアーでお世話になったガイドさんは今まで行った中で一番良かったのはガラパゴス諸島ですと話されていたのだけど、そういえばまだ南米大陸には足を踏み入れたことがない。今から思えばアメリカにいた時に行っておけば近かったのにと思う。日本から行こうとすればまる一日かかってもまだ辿り着けないのだから。それでもナスカの地上絵やマチュピチュ遺跡、ウユニ湖など魅力的な場所も多くいつか行ってみたいとは思う。
あるいは、毎年100作品近くのアニメを観賞する深夜アニメフリークの個人的年間ランキングで2018年の堂々1位に輝いたアニメ「宇宙よりも遠い場所」の聖地巡りとして南極大陸に行ってみるのはどうだろうか^^実際に行くとしたら200万円ぐらい必要らしいけど。
さらに夢を語れば、いつか宇宙旅行が現実化し大気圏外から地球を眺めることができたら最高だろう。
妄想が地球を飛び出たところでもう少し現実的な夢の話をすると、この歳になると最後のとっておきの旅に想いを馳せることがある。それこそ『葬送のフリーレン』で勇者パーティーが50年ぶりに再会し、エーラ流星を見るためにした旅のような、そんな旅。
そんなとっておきの旅ができたら人生の旅もまた幸せだと思う。