飲む、読む、酔う 佐倉
一昔前の大人の遊びと言えば『飲む打つ買う』だが、僕の遊びはもっぱら『読む飲む酔う』で、つまりは本と酒が大きな比重を占めている。
とは言え、さほど上等な酒を飲むわけでは無く、飲んだとしても翌日には名前も味も吹っ飛んでいることが多い。ただ、美味しかったとか楽しかったという感情が残るだけで、よく言えば未練も後腐れも無い。
しかし時折、思い出せないことを惜しむ酒というものがある。
ひとつは神保町の三省堂書店地下にあったビアホール放心亭で飲んだ瓶ビール。
ドイツの地ビールという触れ込みで、味わいはピルスナー系のあっさりとしたものだったが、風味がちょっと他には無い……少なくとも日本のビールには無さそうなものだった。
例えるなら口の中ですぐにぼろぼろになる粉っぽいラムネ菓子の後味。特にイチゴ味が近い。
看板料理だというアイスバインを肴に注文したのだが、手間のかかる煮込み料理ということもあって中々やってこない。待っている間に一本が開く。料理の到着と共に二本目が開いたのだが、このアイスバインが異様に旨い。とろとろになるまで煮込まれた豚肉のうまみでビールが進み、結局4本飲んでしまった。あっさりとした味わいの中にある絶妙な風味が料理に良く合っていた。
使い込まれて油の匂いが染み付いた木製の調度品が立ち並ぶ、少し薄暗い店内で普段飲み慣れたものとは少し違ったビールを飲む。周囲を見わたせば様々な作家のサインが立ち並んでいた。京極夏彦、夢枕獏、浅田次郎、筒井康隆……覚えているだけでそれくらいなのでもっとあったかも知れない。
少し異様な雰囲気を感じさせる空間で神保町を歩いて収穫した本の表紙や裏表紙を眺めていると、何とも言えない昂揚感と悦びが感じられた。
確か三省堂のアウトレットで『霊術家の黄金時代』と『ザ・漱石』をそれぞれ千円ほどで購入できたのだったか。
もっとも、呑んでしまうと読めないのだが。
2021年の三省堂書店神保町店の立て替え工事に伴って放心亭は閉店した。新店舗への移転はしないようで、あの店はもうどこにも無い。閉店に際して出来れば再訪したかったのだが、仕事が忙しく叶わなかった。
あの時、何気なく開けた瓶ビールは何という銘だったのか。それを思い出せれば、消えてしまったあの空間のよすがを感じられそうなのだが。
もうひとつは日本酒。
こちらはさほど良いものではない。コップ一杯300円ほどのもので、安酒と言って良い。溝の口駅の西口商店街にあるかとりやという立ち飲み居酒屋で出していたものだった。
一升瓶には赤と白、金で彩られたラベルが派手に踊っていた。
味わいは醸造アルコールの甘みが強く、如何にも『酒』な感じの代物だった。基本的に冷酒で出しており、コップに注がれると結露が出来るほど冷やされている。その冷たさが、添加されたアルコールの安っぽい風味を消し飛ばしていて爽快だった。
西口商店街のかとりやは立ち飲み形式で目の前で焼き鳥を焼く手前側と、座って飲める奥のふたつがあった。僕が行くのは専ら手前側で、というのは父が贔屓にしていた居酒屋だったからである。基本的に父は手前側にしか行かなかった。どうやら出す酒や料理の味(特に焼き鳥)に大きな違いがあるらしかった。
かとりやの手前側の差配をしていたおじさんとは僕が通っていた大学のOBということもあってか優しくしてくれたのを覚えている。客同士でもコミュニティが形成されていて、一種独特の空気があった。
かとりやの手前側に行って、まず冷酒を頼む。提供されているのは葱と唐辛子がたっぷり掛かったモツ、肉汁たっぷりの牛串、中から熱い汁が飛び出る焼きネギなど。それらを頬張った後に、キンキンに冷やされた冷酒を流し込むと脳天に突き抜けるような心地よさが感じられた。
このかとりやの隣にも明誠書房という古本屋があった。本やマンガをメインに取り扱っていたものの、狭い店内にはプラモデルやプライズフィギュア、ソフビなども並んでいて、かなり雑多な品揃えをしていたのを覚えている。店の外側には百円均一の本が並べられていて、良くそこで本を購入していた。
学生にとってはとても手頃であり、大変お世話になった良い店なのだが、中に入るといつも酒の匂いが漂っている。丸い黒縁メガネを掛けた店主(声は声優のチョーや白鳥哲に似ていた)がいつも酒を飲んでいるのである。おそらくだがかとりやで例の酒を買って飲んでいたのではないだろうか。高校生の頃までは辟易としていたものの、自分も酒を飲むようになってからはなんだか羨ましいような気分になったことを覚えている。
先ほど、部屋の本棚を見ていたら田中貢太郎の『日本怪談大全』が見つかった。値札などはないが、おそらく明誠書房で購入したものだろう。それと藤子・F・藤夫のSF短編集もここで買った記憶がある。現在、どこに行ったか分からないが『日本仏教史』もここで買ったはず。角川スニーカーや電撃文庫などのライトノベルも良くここで購入した。『嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん』の3巻目はここで買ったはずである。
古本屋は自分にとってかなり身近なものだった。古本屋が本を読むと言う行為への入り口になっていた。明誠書房の存在は、僕の初期の読書体験を支えてくれていたのである。
そしてそこには、常に酒と煙の匂いが染み付いていた。
かとりやは現在も残っているが、手前側を差配していたおじさんは大腸ガンを患って亡くなってしまった。父はそれ以来、かとりやには行かなくなった。僕もそれっきり疎遠である。
だからかは分からないのだが、そのちょっと後くらいに明誠書房も西口商店街の方は閉店してしまった。現在は全く別の立ち飲み屋になっている。明誠書房はいくつか店舗があり黒縁メガネの店主も南部線沿いの方に移転したものの、こちらも閉店してバドミントンのラケットを売る店とクラフトビールと牡蠣を出す洒落た居酒屋に分割されている。
これもまた、消えてしまった記憶そのものと言えるだろう。あの匂いも、あの古本屋も。どれも今は残っていない。それを思い出すための味も、名前を思い出せないでいる。
……と、ここまで書いていたのだが最近『呑めば、都』という本を読んだところ、このエッセイの終わり方も少し軌道修正しなくてはならなくなった。
著者のマイク・モラスキー氏はイギリスからの留学生だったのだが、よくあちこちの大衆居酒屋を巡っていたのだという。そんな氏による酒場放浪記ともいうべき一冊なのだが、その中で西口商店街のことが取り上げられており、かとりやのことも載っていた。
そしてそのものずばり、かとりやで提供している酒の銘が記載されいてたのである。湖月という群馬にある酒造が作っているものらしい。かとりやにしか卸していないみたいである。というか、調べると現在のかとりやでも出しているようだった。飲もうと思えばこちらは飲めるのである。
ついでに言えば『呑めば、都』では明誠書房のことも取り上げられていた。なんだかわからないが一体のものとして認識されていたようである。明誠書房の看板がほとんどかとりやのテーブルみたいになっていたからだろうか。西口商店街にあって、あの二つは分かちがたい印象を与えるらしい。
失くなってしまったものを思い出したい、という感覚が今回のエッセイのひとつの動機になっていた。そのうちの半分は達成されたことになる。『呑めば、都』のおかげで思い出せてしまったので、やや企画倒れ感すら漂っている。
しかし、人生というものは常にオチのつくものでも無ければ綺麗に伏線が回収されるものでもない。
失くなったものがぽろっと出てきてしまうことも人生の一コマであり、エッセイが人生の一コマを切り取るような性質を持った媒体である以上、これも人生でありエッセイである……ということで良いのかも知れない。




