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ROCK and SOUVENIR   ひめありす

 目次


 ROCK and SOUVENIR―――またはご挨拶代わりの創作術

 rock’n’roll supermarket

 佐倉に行って亡霊にあった話(前編/クロノタシス)

 佐倉に行って亡霊にあった話(中編/窓の中から)

 佐倉に行って亡霊にあった話(後編/GOOD LUCK)

 作家の貧乏性

 最終話 mockessay SOUP


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ROCK and SOUVENIR―――またはご挨拶代わりの創作術


エッセイを書くことになりました。

私はお話を書くのが好きで、ずっと書いてきたのですが、エッセイを書くのは初めての試みです。

なので、まずはお話を書くことと私のことの半々である、創作について書いてみたいと思います。

今回は恋愛小説縛りで書いた「虹」を例にとって創っていった順番をお話したいと思います。

なぜなら、普段の私の形を踏襲しつつ新しい要素に挑んだ作品だからです。あと、珍しく締め切りをちゃんと守った作品なので、語るにも罪悪感が薄い。


①何を書くのか―――今は殆どが覆面小説なので、開始時点でお題は決まっており、それに沿っていきます。以前はほとんど瞬発力だけで内容を決めていましたが、それだと書けなくなってしまった時が辛いので、書くのと同じくらいの時間調べ物をしたり、全体のフレームワークを考えたりしています。一万字なので大体二つ書きたいものを入れると丁度良いようです。


②登場人物の名前。これが一番楽しい作業です。語り手である「コータ」=小唄が先に決まっていました。歩の名前は「日本の音ではない」「母親と弟と三人で一つの意味になる」「話の都合上性別が分かりにくいもの」とルールを定め候補を絞っていきます。先に思い付いたのは「ciel」(空)という弟の名前でした。そこから「ラルク」「アン」「シエル」と発想を飛ばしてきました。心配だったのは「ラルク」という名前の是非だったのですが、調べ進めていくと「ラ」は英語の【the】と同じ冠詞だとわかったので外して「あるく=歩」という名前が出来ました。一筋縄でない美しい名前で、ルビを振らなければ誤読もしてもらえそうです。これで名づけは終了です。必然的にタイトルも『虹』と決まりました。


③タイトル。今回は名づけと同時進行のため割愛します。タイトルが決まると物語がしっかりした形を取ります。あまり格好良すぎると自分が気負ってしまうのでほどほどに力の抜けたものにします。このエッセイの場合は『ROCK and SOUVENIR』ですが、エッセイ集なのでトリビュート盤みたいなものだなあと思い、お気に入りのアルバムからタイトルを頂きました。二枚のアルバムがどちらもSy音で始まるフレーズが入っているので、それも使いたかった。辞書で引くと同じsy音の単語はsymphony(交響曲)くらいしか見当たらず、そんな格好いいこと言えないため却下しました。SOUVENIRにはお土産と言う意味もありますが、語源が『心の下から記憶がくるもの』であり、今回のエッセイにぴったりだったため、採用しました。


④BGM。これが一番苦労する所です。『虹』の場合はタイトルの由来となったアーティストの楽曲を採用し、とんとん拍子に決まりました。また、そこまで楽曲の力を借りずとも書くことが出来ました。逆に楽曲が大きな力となってくれた作品もあります。旅をお題に書いた『魔道具メラグラーナに纏わる往復書簡』では西部劇的な雰囲気もあったことから、ゲーム音楽をBGMとして最初は採用したのですが、なんだか筆が進まず、慌ててアニメの主題歌だったケルト調の音楽に切り替えたところ、すいすいと筆が進んだというエピソードがあります。

⑤書く。最初の二千字までが毎度難産で二日かかりますが、残りの八千字を二、三日位で書きます。余裕があるときで一週間、余裕がないと三日半。これがおおよその執筆時間となります。書くときにはWORDを文庫の体裁にして縦書きで書きます。これは作家の西尾維新さんが執筆するときに講談社ノベルスの体裁で書くことで、本になった時の事が想像しやすい、と言うようなことを言っていたのに感銘を受けたからです。今は横書きでの発表なので、一度縦書きで書いた後に横書きにして、横書きで読みやすいように改変しています。

というわけで、私なりの創作術でした。ご参考になれば幸いです。


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Rock’n’roll supermarket


 ありがたいことに生活圏にスーパーが充実している。なので、パンを買いたいときはここ、お肉や魚ならここ、野菜はここ、と言う風に幾つかを組み合わせて使っている。二十年ほど前は本当にお店がなくて、普段遣いに使えるのは生協一軒だけだった。脂身が黄色くなった鶏肉や賞味期限が切れたお菓子が平然と売られており、近所のお母さん達がいつも出入り口に固まって喋っていた。その脇をセーラー服のまま通り抜けて買い物しに行くと


「●●ちゃん、大丈夫?おつりちゃんと持てる?」


とレジのこれまた近所のおばちゃんが透明ビニール袋におつりを入れて持たせてくれるのである。

いや、いいんだけど!全然いいんだけど!ねえ!

そんな頃に比べると、なんと恵まれたことだと思う。

 そのルートのどれにも属さない小さめのスーパーがある。パンの品揃えが豊かで、見切り品コーナーは面白いが、その他は品数も少なく、値段も安い訳ではない。

 しかし、店内音響が素晴らしいのだ。

 まず、店舗のテーマソングが良い。

コール&レスポンスが出来るのだ。ポップにコールされる店名の後に小気味よい空白が一拍あり、気付くと縦ノリでレスポンスしている。

 次にBGMとしてかかる音楽が良い。

おそらくは私と同世代の、同じ邦楽ロックの洗礼を受けて育った人間が選んでいるに違いない。最近の爆発的な人気の楽曲ではなく、ちょっと前のアニソンだったり、今人気のアーティストでも古いカップリング曲だったり、BGM用にインストゥルメンタルに作り替えられているものの、聞く人が聞けばわかる名曲ばかりなのである。とにかくわかってしまうとうれしくて一曲聞き終わるまでレジを通れないのである。かくして買うはずでなかったアルコールの缶や終売となったチョコケーキやらがカゴの中に鎮座まします結果となるのである。

 ちなみに母が行っても音楽は鳴らないらしく、こうなるともはや私を狙い撃って曲を変えているのではないかという疑惑さえ浮かんでくる。

 そして、その疑惑が核心となる出来事がつい先日あった。

仕事帰りに必要最低限の買い物をするべく立ち寄ると、

あの、サイレンの音から始まる、私にとってのスーパーアンセムが流れ出したのである。

しかも、原曲ママで!

リリース日は近いものの、特段季節のイベントにかぶるわけでもなく、そもそも二十年以上前の曲のリリース日など把握している人間がこの町内にどれだけ居るというのだ。


 犯音響係―!!

あいつ、やりやがったなー!!

いますぐ彼(女)をここへ呼んでくれー!

 

しかし、楽曲はAメロの終わりで唐突に途切れ、店内アナウンスに切り替わった。閉店間際の割引を知らせるアナウンスであるので致し方ない。終わり時間から計算すると、一番盛り上がる大サビあたりから音楽が戻るはずである。それを聞いてから帰ろう、と思うと

曲が変わっとるー!

何の冗談でもなく、本気で床に膝をつきそうになった。

犯音響係よ、原曲ママは時期尚早だったのか……。

小さな反乱は失敗したのか……。

彼(女)の心情はいかばかりか。私も下野した政治家のような面持ちでレジへ向かった。

後日再度お店を訪れると店内BGMは単調なものへ変わっており、お店のテーマソングも別のものに差し替えられていた。

犯音響係よ、今は雌伏の時なのだな……。

ならば私も、買い物に来ることでささやかながらエールを送ろう。

いつの日か、隠れてないで、出てきておくれ。

その時は膝を突き合わせて語り合い、然る後、固く握手を交わそう。

かくして今日も私の通勤リュックの中には新商品のサイダーや20%引きの食パンが収まるのである。


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 佐倉に行って亡霊にあった話(前編/クロノタシス)


 とあるロックバンドを偏愛している。別に偏愛の部分にはどんな語を当てはめても良かったのだが、とにかく好いているのである。特段推している訳でもなく、大好き、だと文語としては若干浮いてしまうため、ここでは偏愛とした。

彼らの生まれ故郷が佐倉市で、たびたびMV等で登場していることもあり、一度行ってみたいと思っていた。

そんな折、同市内にあるIDC川村美術館が閉館することを知った。しかも、所蔵品の大半は散逸してしまうという。

これは見に行くしかない。

行くと決めれば早いのが、ソロ系アクティブ女子である。

閉館まで数日を残した平日、丁度桜が満開となりそうな時期を見計らってひとりで春の遠足である。


 聖地巡礼はとても楽しかった。

初めて来たのに何故か懐かしいその街とは、土地の相性が良かったようだ。ほとんど道に迷わず目的地を回ることが出来た。

歌詞に出てくる下り坂、小さな公園のお社。

MVで使われていた線路沿いのフェンス。

インタビュー等でたびたび登場する駅前のジャスコ。

小さな猫のぬいぐるみをポケットに忍ばせ、普通の人にとってはなんでもないだろう風景を高速で移動しながら撮りまくる。

若干不審者であっただろうが、町の人たちもそっとしておいてくれた。

目当てにしていたカフェでのお昼ご飯もしっかり二人前。こしあん苺サンドと季節のキッシュプレートーーーどちらもとっても美味しかった。お土産のパンと焼き菓子も確保し、さあいよいよこの日のメイン、IDC川村記念美術館である。

 ちなみに私はそこまで芸術に明るい人間ではない。現代美術となればなおさらである。

なので今回の旅の目的は


「行ってみたけどやっぱりわからなかったよー」


と報告するようなものである。

 事前情報ではかなり並ぶという触れ込みであったが、ノンストップで展示まで辿り着いた。

最初の部屋にはセザンヌやゴッホと言った教科書の常連達。しかしミュージアムガイドが始まってしまったためその場にとどまっていることが出来ず、さらっと見て次の部屋へ進む。

ちなみに、モネの睡蓮もあった。

睡蓮と言えば水面の深い色合いがぱっと思いつくのだが、ここの睡蓮は赤茶色い部分が大半で、何となくモネはこの睡蓮はあまり好きじゃなかったのかな、と思った。

 入場が存外スムーズだったこともあり、拍子抜けしたような、何となく乗り切れないまま、館内を歩く。

当初考えていた通り、よくわからない。

どうしてこれがアートなのか。

これに価値があると誰が決めたのだろうか。

その価値は永続するものなのか。

 そんな折、一つの作品が目についた。

時計の、盤である。

一瞬、針の影が見えた。六時半よりも少し先、おそらくは六時四十分くらいを指す短針である。

次に目を凝らした時には、その影はなかった。

ただ針を止めるホールが真ん中に、影として残っている。

この美術館は美術品と私達を隔てる距離が極端に短い。さすがに触ったら怒られる(と思う)が、立体作品であれば殆ど触れる距離まで近寄ることが可能である。

 影を覗き込むと、亡霊が見えた。


 まだ若い、おそらくは二十代前半くらいの青年だ。赤茶の髪を綺麗にカットしていて、笑う瞳に抑えきれない理知の輝きが宿る。

「博士、食事の時間ですよ」

語りかける先にいるのは初老の男。こちらはTHE博士☆と言うような蓬髪で、山と積まれた資料の奥から不機嫌そうに青年を見やる。

変わり者の博士と、助手。助手の方は名門大学を首席で卒業し、前途有望なはずなのに何故かこのさびれた研究所へ、殆ど押しかけ助手のようにして就職してしまう。もっと良い所へ行けと博士は度々けしかけるのだが、助手は有能なのでどんどん博士の研究を先へ進めて収益化してしまう。質素だった食事も豊かになり、博士の生活はどんどん快適に人間らしくなっていくので、追い出すこともできずにいる。どうやら二人はそんな関係性のようだ。しぶしぶと席を立った博士が研究室の扉を閉じる。扉の上で時計がこちこちと、素知らぬ顔で時を刻んでいく。

 またある日、同じように青年が男の元を訪れる。今度は女性も一緒だ。ポニーテイルにした短い髪をひょこひょこと揺らしているのが何とも可愛らしい。

「もーう、おじいちゃんったら!」

とぴよぴよ怒っているので、どうやら博士の孫娘のようだ。

『まだ時間にはなってないはずだがの』

男が顎でしゃくった先の時計は、針が外されていた。

けれど、その表情は一つ前の景色より明らかに柔らかく、楽し気なたくらみに満ちていた。

どうやら、三人で過ごす時は博士の心に某かの良い影響を与えたようだ。

彼らが見せてくれる記憶は刺激的でもあり、同時にひどく温かなものだった。

今取り組んでいる研究の道のりは果てどなく、けれど確実に良い方向へ向かって進んでいる。

のう?と満足そうに笑んだ博士に、青年は更におかしそうにまた笑う。

「だとしても、僕がくる時間はいつだって六時半ですからね。時計の針がなくったって、それは変わりませんよ」

 そしてまた、月日が過ぎる。

 戦争か、流行り病か。

青年は既に死んでしまっている。おそらくは孫娘の方も。理由は分からないが、とにかく二人とももういないのだ。

そして、残された博士だけが変わらずその部屋で研究を続けている。

針を抜いた時計の文字盤には、六時半を少し過ぎた針を書き込まれている。

時計の針は止まって(クロノタシス)見えたままだ。

そうすれば、青年が「遅くなりました」と呼びに来るとでもいうかのように。

けれど、その時は未来永劫訪れない。

そして、博士はある事に気が付く。

おそらくそれが世界の、彼にしか辿り着けなかった真理だ。

あまりに天才的で、あくまで悪魔的なその解答に、博士は躊躇いなく手を伸ばす。

文字盤に手が掛かり、―――


そこでふつりと、亡霊達は姿を消した。

私も、次の部屋を目指して部屋を後にした。


追記:私はこの作品を見たときにメモ書きで「針のない時計盤・クロノタシス」とだけ書き残していたのだが、この作品の正式名称はジャン・ティンゲリー作「真夜中です、シュヴァイツアー博士」と言うそうだ。今、とても驚いている。


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 佐倉に行って亡霊にあった話(中編/窓の中から)


 さて、美術館にはいくつかのメイン展示があるが、その一つがマーク・ロスコのシーグラム壁画七点を収めるための変形七角形の「ロスコ・ルーム」だろう。さすがにここはなかなかの混雑ぶりで、入場規制が掛かっていた。

が、私が心惹かれたのはロスコ・ルームへと続く廊下だった。C廊下と名付けられた、これもまた作品なのだ。

 ペパーミント色の、朝のはじまりのような光で照らされた廊下の果てに、切り取ったような窓が一つ。

 窓の向こうは半地下になっている。三月の終わり、やっと芽吹いたらしい苔がふわふわと地表を覆い、昨夜からの雨を吸って土は黒々と濡れている。幹の向こうに春の花が咲いているのが見て取れた。

飛行船の窓の中から宇宙飛行士が望むのは、きっとこんな夢だろう。

ゆっくりゆっくり進む列の中で、私はその廊下を堪能した。警備員さんさえも美術品の一つのような静謐な光と影を宿していて美しかった。

そして肝心のロスコ・ルームは

ごめんなさい!やっぱりよくわかりませんでした!

赤黒い巨大な壁画からは圧し潰されそうなプレッシャーと重苦しい情念を感じたけれど、それが芸術かと言われると正直自信がありません!

ただでっかいものに圧倒されていただけかも!

追い立てられるようにロスコ・ルームを出て先程のC廊下へ戻る。それまでの赤黒い空間と対をなすような薄青の光に満ちた廊下はやはり清々しく、居心地が良かった。

ほっと一息ついて、次の展示へと向かう。

この廊下を見られただけでも、よかったな、そう思っていたが。


次の部屋で出会うのがサム・フランシスの「無題」である。


それを見たとき、真っ先に踊りたい、と思った。

クラシックではないコンテンポラリーダンスに近いものだ。けれど、地面を転がるタイプのものではなく、もっとくるくるとターンを繰り返すような類のもの。

だってそれは、幾千の天使が歌っているように見えたから。

絵の前に佇み、脳内で空想の両手足を動かす。

そうしているうちに、絵は別の様相を示し始めた。

蒼い森へと変化したのだ。まず姿を現したのはキツネ。次いで、別の場所からリスとタヌキが姿を現す。残念ながらシカはいないようだ。あとクマも。クリスマスが近い、冬の森。何かが始まりそうな予感が満ちている。次は何が見えるのだろうか。そうやって顔を上げていくと


「これって、藤の花なのかなあ?」


隣からそんな声がした。

藤の、花。

確かにこの少し紫がかった青と、落ち着いた黄土色の組み合わせは藤の花に


見えないー!!


藤の花、好きなのに、全然そんな風に見えない……。っていうか、藤の花とか考えもしなかった……。

動揺していると青い森の幻想はすっかり姿を消してしまっていた。目を凝らしても天使の群れも見つからなくなってしまった。正解は何なのか、手掛かりを得ようにもこの作品のタイトルは「無題」である。何の手助けもしてくれない。

それでもしばらくその絵の前に佇んでいると、キツネがひょっこり姿を現した。キツネらしくにやりとハードボイルドに笑うと

「さあ、今度はどんな風に見る?」

ひょん、と尻尾を一つ振ると絵の中に潜って今度こそ喋らなくなってしまった。

この絵も、間もなくここを離れる運命にある。

でも、この絵だけはどこか行き先が分かったら、絶対もう一度会いに行こう。

「知らないよ、バーカ」

私もにやりと精いっぱい強気に笑って絵の前を離れた。


ここまで読まれて、お気付きの方もいるかと思うが、私は何かに引っかかると、別の方向に空想を始める癖がある。そうすると脳内は自分の空想に容量の大部分を割いてしまうので、現実にあるものをちゃんと見ているかと言うとそこは「?」となってしまう。音楽でも美術品でも、物語でも、同じことが起きる。

集中してちゃんと向き合わなくちゃ、と毎回自分を戒めるのだが、やっぱり空想の方にだんだん寄っていってしまうので、時としてとても失礼な状態になってしまう。

申し訳ないと思っていたのだが、展示の最後。

最後の作品ともいうべきメッセージがあった。

要約すると

『今日ここであなたが感じたことはすべて間違いではない』

と言うような事であった。

少なくとも、今日この場において、私が感じた事も、出逢った亡霊達も、何もかも間違いではない。

気が付くと、私はすっかりこの美術館と仲良くなっていた。


追記:確認のために改めて目録を見返しているのだが、あれ、これ、確かに藤の花かも……?


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 佐倉に行って亡霊にあった話(後編/GOOD LUCK)


 最後まで展示を見終わると、階段の踊り場で頬杖をついて一休み。

そういえば、美術館の中で何もしないで頬杖ついていられるって結構貴重な体験かもしれない。下を見ると、やはり今日はそこまで混雑していないようである。

もう一度C廊下を見に行くことにした。

だって、観賞は一回きりですって書いてないもの。

それに、最初の部屋に入って、もし可能ならやってみたいことがあった。

睡蓮の絵の正面に立ってみたかった。


―――あぁ、と知らず声が漏れた。


正面から向き合うと、光の加減が違う。

向かって右側の明り取りの窓から、白く明るい春の光が台形の形に差し込んでいる。

赤茶色く塗り潰された絵の上を、光が走る。色が中和される。

睡蓮は流れる水ではなく、溜まった水の上で咲く花だ。

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この光も織り込んで、この場所では一つの作品なのだ。四方八方から見て、最終的に最初に見たのとは正反対の、右サイドから見た絵が一番好みだとわかった。そうすると、絵の右半分は光に潰されて見えなくなってしまうのだが、絵全体に玉ボケがかかっているようでとても柔らかい雰囲気になるのだ。

時計盤の前に並んで立つ三人の亡霊にも手を振ることが出来たし、C廊下にも気が済むまで佇むことが出来た。無題の絵の中のキツネとはさっき散々話したので、これ以上話すこともなかろう。

飾るべき絵がなくなってしまったため、何も置いていないという潔く白く美しい部屋ではそこに思い思いの人物を配置して楽しむことが出来たし、現代美術を置いた広い部屋の天井は桐生で見た製糸工場のノコギリ屋根とよく似ていて、光を取り入れることの面白さに改めて気づかされる。

けれど、この建物とは、これっきりお別れなのだ。

そして美術品達とも。

実は訪問の数日前に、ロスコ・ルームを含む数点が、都内の新設される美術館に移管されることを知った。気鋭の建築家が手掛けるという新しい展示室も、勿論とても楽しみだ。

だけど、その他のものはどうなるのだろう。

どこかに新たな展示の場が約束されているのならいい。

けれど、買い手がついていないとしたら?

たとえ買い手がついたとしても、展示の場がなくて、倉庫の中に眠り続けなければならないとしたら?

私が、よくわからなかったように、美術品として、取り扱われなくなる可能性は、ないのだろうか?

 今日はとても美しい日で、私はそのとっておきの一日を満喫して。

 だからこそ、予期されてしまう未来が、切ない。

 どんな未来が選ばれるのだとしても、少しでもその旅路が安らかなものであるように。そう願わずにはいられなかった。

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 作家の貧乏性


 「●●さんてさ、施術中寝ないよね」

美容室で言われたことである。そう、私は美容室で寝ない女である。さすがにカラーやパーマの放置時間は雑誌を読んだり携帯をいじったりすることもあるが、基本的には起きている。起きて何をしているかと言うと、元来がお喋りなのでずっと喋っていたいのもあるが、

美容師さんの手元を見ているのである。

パーマのロッドを巻く時にはどんな角度で巻くのか、ロッド色の違いは何なのか、輪ゴムは何処製なのか、弾いて痛い思いはしないのか、などとにかくあらゆることを知っておきたいのである。

何故って、いつか小説の中で使うかもしれないから。

例えば、こんなシーンだ。


 恋人同士か、親子か、嘘をついた人なのか。逆光ゆえに両者の関係性は分からない。けれどこれは別れのシーンだ。この空間で、二人が積み上げてきた時が今終わろうとしている。クライマックスではないが重要な描き所である。

パーマをかけ終わったら、二人はサヨナラしなくてはならない。

時を惜しむように美容師の手はいつもより丁寧に、ゆっくり動く。

けれど、熟練したその手は躊躇いなく、最小限のダメージで済むように施術を続けていく。

その永遠のような時間に終わりが来て、二人はーーー


 そんなシーンを描くときに美容師の手の動きが曖昧だったらどうだろう。

別に全部を描き切らなくても良い。実際に書くならばちゃんと調べ直しもする。けれど、体験としてある下地は物語の中に確かな体性感覚を与えてくれるのである。

これを私は作家の貧乏性と呼んでいる。

あまりに色々なことを知っておきたいがために先日はついぞ胃カメラを麻酔なしで飲んでみた。

大変色々なことが分かったので医療ミステリーで「胃カメラの最中に首の筋緊張が強すぎて看護師さん三人がかりで抑えられた患者の話」を書くときには確かな体性感覚で描けること請け合いである。

 ところで、ひょんなことから母の頭を洗うことになった。

ここで役立ったのが、美容室で肌感覚で覚えたシャンプーの技術である。

シャンプーするときは髪の毛をかき回さない。地肌を指の腹で擦るようにして洗い、流す時は湯を貯めて少し乳化させる。洗い忘れちゃいけないのは耳の後ろから項にかけてのライン。必ず丁寧に洗われるのは某かの理由がありそうだ。トリートメントは逆に地肌に触れないようにしつつ、毛先に向かって伸ばすように指を通していく。ドライヤーは首を振って熱が一か所に停留しないように注意。ふんわり仕上げたいときは指を下から上へ通す。そうそう、ドライヤーの時はミルクを忘れないようにね、仕上がりが全然違うから、と言われていたっけ。一度掌全体に延ばしてからミルクを付ける。サイドの髪を少し後ろに引っ張りつつ前からドライヤーを当てて、最後に前髪に手櫛を通しつつドライヤーと一緒に手櫛もフリフリ。所要時間二十分程で完了である。

 かくて、私の胃は若干の腫れがあるものの治療を要するものではなく、医療ミステリーも美容室ヒューマンドラマも話が降りてこないが、母の頭髪は今日もさらさらツヤツヤで天使の輪が光り輝いているのである。

 

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最終話 mockessey SOUP


 レビューサイト出身作家(?)らしく最後はエッセイを書くにあたり、参考にした本やお気に入りのエッセイなどを上げてみようと思います。


☆岸本 葉子「エッセイ脳 800字から始まる文章読本」

書き方の参考書に。三分の一ほど書いてから読み始め、三分の二を書き終えたあたりで読了した。エッセイならではの書き方や分量の事などお手本にしたいことが沢山あった。


☆桜庭 一樹「桜庭一樹日記 BLACK AND WHITE」

桜庭さんと言えば『桜庭一樹読書日記』が素晴らしいのだが、こちらはそれより前。まだ兼業作家をしていた時代で、書ける場所が限られていたせいか、とにかく熱量がすごい。何者かになろうとする意気込みが感じられる。暫くエッセイの刊行は途絶えていたが、2021年に「東京ディストピア日記」が刊行された。こちらは何者かになった後、再び都市に埋没していく桜庭作品に出てくる女(得てして少女と対になって描かれる)そのものの姿が描かれている。こちらもおすすめである。


☆朝井 リョウ ゆとり三部作

史上最年少、初の平成生まれの直木賞作家となり、著作の多くが映像化される人気作家だが、私は彼を本当に天才なんじゃないかと思ったのはこのエッセイを読んだ時だ。「学生時代にやらなくてもいい20のこと」なのだが、まさしくその通りの煌めく日々である。人前で読むことはお勧めしない。


☆星 野源 「いのちの車窓から」「いのちの車窓から2」

何となく好きだなあと思う星野源さんはエッセイの中も居心地が良い。どれも良いけれど、今回はこれ。なぜならここに新垣結衣さんの事が書かれているから。「日本一可愛い普通の女の子」とか何とか言って可愛さに浮かれていたくせに、続刊ではさらっと妻として寄り添って貰っている様子が描かれており、よかったねえとにこにこふわふわな気持ちになる。


☆くどうれいん 「虎のたましい 人魚の涙」

れいんちゃん(と呼んでいる)の何者かに、と言う焦燥と、私が、私は、と言う自意識が全編に散見され、ハラハラヒリヒリした気持ちになる。感性と言葉が嵌る瞬間は余りに短く脆く生きにくくて辛いだろう。彼女を見て思う。私もそうだったから。と今はもう若くない私は思う。ただ、ここで手離して安穏を得るのか、傷を増やしながら破滅へ転がるようにしながらでも持ち続けるのか。何となく彼女は後者を選びそうな気がする。読むと自分の感性まで鋭敏化される。


と言うわけでおすすめのエッセイ五選でした。楽しく書いてきた文字数も、そろそろ制限いっぱいのようです。思い返してみれば、エッセイと言うよりは自己開示が酷すぎて、若干グロテスクな紛い物のニセ海亀の(mockturtle)スープ(SOUP)ならぬニセエッセイ(mockessey )のスープ(SOUP)のようなものでしたが私の心の下から来た記憶が、何か一つくらいお土産―――SOUVENRになってくれたら幸いです。

またいずれかの曲面、はたまた違う物語でお会いできることを願いつつ。

ひめありすでした。



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