始まりと終わりの秩序 -鬼ごっこをめぐって- れどれ
最後に鬼ごっこをしたのはいつであったか、どれだけの大人が即答できるだろう。
小学校高学年あたりがボリュームゾーンだろうか。男性ならば中学生か、人によっては成人しても稚気を楽しむ機会に恵まれ、気持ちの良い汗を流したかもしれない。
ところで鬼ごっこという遊びには明確な終わりがない。最後に鬼ごっこをしたその日、……じゃあ終わろうか、バイバイまたね、をしたその手前……誰が鬼であったか。もしかしたら自分だったか。だとすると僕は今もまだ鬼のままだったりするのだろうか。同じように、街中を歩いているこじゃれたお姉さんも、電車内で澄ましている会社員も、ひょっとすると"鬼のまま"であるのかもしれない。ならばある日不意に、ある清々しい春風がおろしたての服をひらめかせる四月の終わりごろ不意に、「つかまえた」と肩に後ろから触れてくる手が延びてきても、何もおかしくはない。
いや、勘弁願いたい。不気味だ。
カギ括弧の
「
と
」
は必ず対に配置して使う、これは用法として鉄則なはずだが、ごくまれに誤植かなにかで、
「
で始まったはずの文なのに
」
で閉じられていない書きものを見かけることがある。
幾重もの校正を経ているはずの出版物を読んでいてさえこれまでに十回は遭遇した。その閉じられることのなかった文章は、句読点を通過し、段落を貫き、本の終わりに至っても完了を許されず、書物の外までどこまでもあふれて、外世界を侵食してゆく。
勘弁願いたい。不気味だ。
終わり、閉じること、締めること。
本来なされるべきこれらが怠られるとすわりが悪いのだ。
一度いただきますと言ったら、ごちそうさまで締めなければならない。さもないと、いつまでも食事が継続していることとなる。
婚姻を伴わない交際はわかりやすい例だろう。付き合いましょうという互いの了解から始まっても、別れましょうのやりとりがない場合がある。そうして、いつまでも交際が続いているものと錯覚されかねない状況が生み出されてしまう。しかもそれはたしかに、錯覚とは言い切り難いのだ。不気味だ。
閉じられていないカギカッコは手書きだろうとも書き足して閉じることだ。ごちそうさまを失念したなら何時であろうと呟くがいい。恋愛の始末には勇気がいるが、身近な誰かを頼るのもありだろう。
終わっていないかもしれない鬼ごっこも終わらせてみたい。それには当時の遊びに関係していた登場人物一同に、終わりを了解してもらわねばならない。
しかしここに、どういうわけか、その終わりを了解したがらない人物がいたとする。
……そんなやつがいるだろうか?
いる。
どう想定してみても一人は現れてくるとしか思えない。他者とはそういうものだ。この世界において自分と対峙する、理解を拒み解決を阻む靄のなかからポンと排出されてくる他者。得体の知れない、まったく自分ではない誰か。やつはこちらの交渉を撥ねのける。無視をする。話にならない。
でも、諦めない。
頑張ろう。やってみよう。根気強くやつに話をもちかける。
僕はいつぞやの鬼ごっこを終わらせたいのです。やつは了解してくれない。鬼ごっこ、終わらせてもらえませんか?まるで相手にしてくれない。おいこの野郎聞いてるのか。胸倉を掴んでやる。さすがに向こうも冷静ではいられない。抵抗とも防衛ともいえる衝撃が返ってくる。こちらもやり返す。二、三の応酬の末、こりゃかなわんと僕は逃げ出す動作をとる。やつは掴みにかかってくる。ぎりぎりで避ける。手が伸びてくる。距離をとる。距離を詰められる。じきにこれは追いかけっことなる。
街中を延々全力疾走する二人を思い描いてみると、どう想像してみても、どうしても二人は笑っている。
これこそが人間と人間のかかわりあいというものだ。生きることだ。
ようやく始まりと終わりの秩序から解き放たれ、今という時空間に二人はひたり果せている。
ああ、二人に祝福を!
そんなことを考えながら今日も通勤している。
電車に乗れば車両には知らない誰かがいっぱいだ。僕は知らない誰かを"鬼"と見なしてみたりする。知らない誰かとの鬼ごっこを夢想してみたりもする。僕がそんなことを考えていることを知らない誰かは知らない。同じように、知らない誰かも僕と似たような考えをもっているかもしれない。かれにとって僕は"鬼"なのかもしれないし、あるいはまったく別の役柄を割り当てられているのかもしれない。他者とはそういうものだ。
これを読んでいるあなたの日常の隣にも他者はいる。僕はいる。鬼はいるよ。




