1-19 人類園-Human Garden-
真っ白の部屋で目覚めた男は、全ての記憶を失っていた。
右も左も分からず、困り果てた時、とあるAI・スプリングが彼にこう告げた。
「ようこそ、生命保護領域へ。そして、ここはホモ・サピエンス保護区――通称、人類園。絶滅危惧種たるあなた達人間を保護するための場所です」
男は困惑しつつも、未来へ、未知の世界へと足を踏み入れる。
鈍痛を感じながら目を開ける。そこにあるのは真っ暗な闇。
眼球を上下左右ぐるりと動かしても、どこもかしこも同じ景色だった。
それに寒かった。肌が焼けるほどに。まるで宇宙だ。
■■はそんな場所で目を覚ました。
ここであることに気づく。■■は■■をどのように呼称していたのだろう? ■■を指す言葉を思い出そうと必死に頭を働かせ、やっとのことで浮かんだのは、■■を指す言葉が一人称であるという情報だけだった。
だが、それ以外のことは何も思い出せない。
■■は■■に関する情報そのものを失っていた。
単純明快に言い換えると、■■は記憶喪失だったのだ。
本来なら慌てふためくのが自然なことだろう。だが、常識的なことである、一人称の喪失の方が衝撃的だったようで、記憶喪失という事実をどうにか受け入れることができた。もっともそれは小数点同士を比べるようなもので、平生を保てたかと問われれば嘘になる。
考えるべき事柄はそれだけではなかった。
そもそもここはどこなのだろう?
まずは周囲を探るため、仰向けの体を起き上がらせようと試みる。
しかし、全身に力を入れようとした途端、体中に激痛が駆け巡った。これは動くべきではない。そう本能的に察し、体を動かすのを諦める。代わりに耳に全意識を向けることにした。
ゴオォォォ。聴覚から認識可能なのはそんな鈍く激しい音だ。例えるならナイアガラの■■である。……湖の水が高所から勢い良く流れ落ちるあの音のようである。
どうやら喪失した単語は一人称だけではなかったらしい。
あの水の流れ落ちる場の一般名を思い浮かべることができないとはどうかしている。この異常を説明できる者は誰かいないのか?
そんな不満を抱いたその時だ。暗闇から光が差し込んできた。
その光は頭上からやってこなかった。足元からやってきた。
それは闇を消し去り、白の世界へと誘った。
眩しい。■■は咄嗟に瞼を下げる。まるでモグラの気分だ。そんな思考を数秒続けた後、鈍痛に苦しめながらも目を開けた。
視界に映ったものは真っ白な天井。端には楕円体のカプセルを半分に切ったようなものがあり、それは割れた卵の殻に似ていた。
多分だが、この楕円体が■■の体を覆っていたのだろう。だから暗かったのだ。先ほど聞いたナイアガラの音は、楕円体が持ち上がった音、つまりモーターの駆動音だったに違いない。
おそらく■■は蓋付きのベッドのようなもので眠っていたのだろう。
視線を下に向ける。そこには灰色の、か細い足があった。
■■は病人なのだろうか? 体を動かすと、激痛が走るのはそのせいだろうか? それは記憶喪失に関係するのだろうか?
そんな数々の疑問でいっぱいだが、ひとまず脇に置き、■■は数メートル先の景色を眺めた。そこには長方形の茶色い物体が壁の中に埋め込まれていた。おそらく扉の類だ。■■はここが室内であることを把握した。
「おはようございます。気分は如何でしょうか?」
何者かが、丁寧な言葉遣いで■■に呼び掛ける。
変声期前の男児のようであれば、低音の女性のようにも聞こえる。中性的で、妙に無機質な声だった。
それは天井から聞こえた。だが、それらしきものは見当たらない。
多分、小型のスピーカーが設置されているのだろう。そうでなければこの声は幻聴で、■■の頭がどうかしているということになる。この考えは否定したかったが、常識的な単語、記憶の喪失があるのだから、ありえないと言い切ることはできなかった。
さて、どうしたものか。とりあえず■■は、先ほど声を掛けた相手に挨拶を返そうと口を動かす。だが、思うように言葉を発することができなかった。
「申し訳ございません。あなたが解凍されたことを失念していました」
解凍とは何のことだろう?
丁寧な謝罪から零れた不可解な単語に、■■は眉を少し顰めた。
「あなたが疑問に思うのも無理はありません。何故ならここは未来なのですから。より具体的に申しますと、西暦2922年12月24日です。……挨拶が遅れました。わたくし、人類凍結保全システムの管理AI、スプリング・ウィスパーと申します。スプリングとお呼びください。以後お見知りおきを」
スプリングというAIは、執事のような上品さで自己紹介をした。
白状すると、■■の脳は処理すべき情報の多さに熱暴走を引き起こしていた。機械であるスプリングが冷静なのに対し、人間の■■は混乱していたのだ。
■■の記憶や常識的な単語の欠如、身体不全。これだけでも情報過多だというのに、西暦2922年の未来、おまけに人類凍結保全システム、その管理AIがやってくるのだから、情報整理の時間を設けて欲しいものだ。
「何から話しましょうか。……まずは簡単な質問ですね。とはいえ、あなたは解凍直後で体を、正確には口を動かせないようですから――」
解凍。このAIはまたも意味不明な単語を発した。これは■■が解凍という意味を知らないのではない。この場で解凍と口にするスプリングの思考が解せないのだ。
「はい、ならば瞬きを一回。いいえ、ならば瞬きを二回。よろしいですか?」
スプリングに問うべきことは多いが、現状は厳しい。このAIと意思疎通を図るのに、瞬きしかできないとは歯痒いものだ。
そんな不満を抱えながら、■■は瞬き一回でスプリングに意思を示した。
「では、単刀直入に。あなたは何かしらの記憶を失っていますか?」
瞬きを一回。
「なるほど。やはり凍結の影響で、脳機能に支障をきたしていましたか。ところで、あなたはコールドスリープというものをご存知でしょうか?」
その妙な問いに、少し間を置いてから瞬きをまた一回。
コールドスリープ。それは人体を凍結で長期間の冬眠を可能にさせるもの。凍結期間によっては擬似的な時間移動にも使える、夢のような技術だ。
ここで■■がコールドスリープで目覚めたのだと理解する。
スプリングは明言しなかったが、きっとそうに違いない。
にわかに信じがたいが、今まで抱いた疑問の数々を解消するのにコールドスリープ以上の答えがなかった。例え突拍子もない話でも、それを上回る説得力がない限り、コールドスリープを信じるより他なかった。
「瞬きでの応答は可能。コールドスリープも把握できているようでしたら、脳機能に大きな支障はなさそうですね」
スプリングはただ事実を確かめるように言った。
しかし、その認識は間違いだ。一人称や特定単語の喪失は、とても大きな問題だ。強い否定をあのAIに示すため、■■は両目を何度も開閉させた。
果たして意味は伝わるのだろうか?
しばらく沈黙が続いた。
「脳機能に悪影響があるようですね?」
意図を察したスプリングがそう訊ね、■■は一回だけ瞬きをした。
「承知いたしました。あなたが話せるようになりましたら、話を聞くことにいたしましょう。それまではしばらくの辛抱です。申し訳ございません」
この一方通行の謝罪に、■■は苦言を少しばかり呈したいところだが、口がろくに動かせないため、それはできなかった。
体の自由がないのがこんなにも不便なことだったのか。まるで手錠に足枷を嵌められた囚人のようだ。そう考えると、この真っ白い部屋が牢屋のように思えてきた。もしくは囚人を被験者にした実験室だろうか。
もっとも■■は囚人ではないのだが。おそらくないだろう。ないはずだ。
「では、気分転換のため外へ出ましょう。未来の世界を知るためにも」
スプリングが提案すると同時に、駆動音が騒々しく鳴り始めた。それから■■の体が不意に起き上がった。体が動かせるようになったのではない。■■が横になっていたベッドが椅子の状態に変形したのだ。
■■の視界は真っ白い天井から、扉のある壁面を視認できるようになった。相変わらず動かせるのは眼球ぐらいで、歩くことはできなかった。代わりに椅子が前方へ移動を開始した。部屋の扉がシャッターのように上がった。
そこから光が漏れた。■■はその中へ入り、未来の世界を目の当たりにした。
白と緑で構築された世界。建物が等間隔に立ち並び、道には木々花々が植えられていた。そんな場所で人と機械が暮らしていたのだ。
人について語ることは少ない。珍しいものがないからだ。強いて言うなら、袖口に余裕がある服を一様に着ていることだろう。■■のように灰色の肌を持つ者はほとんどいなかった。
逆に機械については語るべきことが多かった。
空中に浮遊する小型の機体、円筒型で地平を滑走する機体、二本足で移動する人型、四本で動く犬型など、多種多様な機械がそこにいる。
人と見紛うほど精巧に作られたアンドロイドもいた。機体を構成するパーツ同士の隙間さえなければ、人そのものだ。少なくとも、動く姿は人と大きな違いは見られない。
「ようこそ、生命保護領域へ。そして、ここはホモ・サピエンス保護区――通称、人類園。絶滅危惧種たるあなた達人間を保護するための場所です」
スプリングの言葉をどう受け止めることができただろう?
少なくとも■■の脳は処理すべき情報の多さに再び熱暴走を……、あるいは悲鳴を上げていた。





