走馬燈
翌水曜日も十人読んでは倒れ、木曜日も十人が限界で、金曜日でようやく藤原美汐のクラスメイト全員を読み取ることに成功した。
「……全員……シロや……」
かろうじて倒れずにすんだとびぃ菜は、しかし蒼白な顔で息を切らしつつ結城に報告した。
「ん。そうか。藤原美汐は部活動してへんかったからな……全校生徒を読み取らせるか、このまま事故説を推すか……」
「ちょっと! 全校生徒数どんだけおると思ってんねん!」
全生徒数がどれだけか知らなかったが、校舎の規模からいってもそれなりの数だろう。知らんけど。
「千人ぐらいやな。あと教師も入れなあかんけどな」
告げられた数字に、とびぃ菜は目眩を起こした。無理だ。絶対に無理である。
「今のペースでいったら百日かかるな。……そんなんよりどう落ちたか考える方が建設的かもしれんなぁ」
百日以上この重労働を繰り広げることを思うと、本来の警察の捜査に任せた方がいい気がする。
「副本部長はこれ以上の進展が見られないなら捜査を打ち切る言うてはんねんけど、それも納得いかへんのよなぁ。踏み外すなんて不自然や」
保健室を借りて寝転がっていたとびぃ菜だが、ヒラヒラと手を振った。
「先見てきてええよ。目眩が治まったら合流するわ」
さすがに今すぐ一緒に行動するのは無理があったが、もう少しすれば立ち上がれるだろう。
「……トビー」
ベッド横のパイプ椅子から立ち上がった結城が、躊躇いがちに口を開いた。
「なに?」
「おかげで助かった。クラスメイトを除外して考えられる」
目眩がするので覆っていた目元の手を外して結城を見上げると、すでに背中を向けた後だった。
「……どういたしまして」
珍しく殊勝やな、とにやつく。背後でそんな表情を浮かべていると知ってか知らずか、結城はそのまま保健室を出て行った。それにしても。
「あ~、しんど」
会社員を辞めてから、これほど多くの人間の物語を意識的に読み取ることはなかった。意識的に、本名を知るような深い関係から遠ざかっていたからだ。交友関係も狭いし、恋愛関係になると皆無。だから久しぶりの負荷に頭が痺れていた。しばらく目を閉じ、じんわりと痺れが遠ざかっていくのを待つ。そうしているうちに、保健室のドアがノックされた。
『すみません、道頓堀先生はいらっしゃいますか?』
ノックの後、ドアの向こうから女性の声がした。
「はい?」
だらしなく寝そべっていたのを、慌てて上体を起こす。その途端にふらつき、頭を押さえた。
『あの、刑事さんが道頓堀先生呼んでくれって言ってはるんですけど。屋上で確認したいことがあるらしくて』
少し前に出て行った結城が、早速何らかの結果を出したらしい。わざわざとびぃ菜に確認させたいとは、誰かいるのだろうか。
「分かりましたぁ」
のそのそと起き上がり、人使い荒いわとぼやきながら来客用スリッパに足を通す。これがまた、ホテルで使われるようなスリッパなのである。クッション性も良く、さすが私立と思わざるを得ない。
半開きのドアから出ると、とびぃ菜を呼んだ女性はもう背中を向けて歩き出していた。
「こちらです」
どうやら屋上まで案内してくれるらしい。さすがに四日連続で通っていれば、校内には詳しくなるのだが、とびぃ菜はありがたく従うことにした。屋上どこやっけ、と使う頭がしんどい。今は頭を使いたくない。
一階の保健室から三階分の階段を登るのはきつかった。息をぜぃぜぃと切らし、手すりに掴まってどうにか登り切る。
「きっつ」
どんな大発見したんやと内心思いながら女性に続いて屋上に出る。
「……ん?」
屋上には誰もいなかった。
「刑事さん、この真下で何か発見されたらしくて、道頓堀先生に上から確認してほしいって仰ってました」
とびぃ菜より先に立って屋上の囲壁に歩いて行く女性の後を、とびぃ菜も追った。二手に分けて確認して欲しかったというわけか、と納得する。女性が囲壁によじ登るので、とびぃ菜もよじ登って下を見る。
「え?」
覗き込んだ下には誰もおらず、困惑して隣によじ登っていた女性を見る。四十代ほどの女性だった。どこかで見たことがある顔だった。実際に見た、というよりも、写真か何かで――。
――ドンッ
隣の女性は素早く体を翻し、固まるとびぃ菜の背後に回って背中を押した。慌てて掴んだ囲壁に腕を回し、落ちかけた足を回すが、その足を蹴り落とされる。腕に体全体の体重がかかる。抱え込むように掴まった囲壁が唯一の命綱だ。
「――藤原、香織さん……?」
囲壁の内側にかけているとびぃ菜の手を蹴ろうとしていた女性が、とびぃ菜の声に一瞬止まった。その一瞬に、女性の物語が流れ込んでくる。
兄よりずっと年下だった香織。兄は優秀で、有名国立大学に行き警察官僚にまでなった。どうやっても追いつけない、優秀な人。そんな兄に比べ、自分は『誰か』の付属品としてしか存在していない。誰かのために家事をし、誰かのために子を育てる。自分が自分として存在していないような空虚。それでも蓮が生まれるまでは平和だった。美汐は香織に懐いてくれていたし、可愛いと思っていた。こんな幸せもあるのだと思っていた。
でも、蓮が。蓮が同じ思いをするようになったら? 女には『妻』という逃げ道がある。けれど蓮は男だ。誰かの脇役という人生を送り続けるには、ひどく生きにくい性だ。蓮が、蓮のために……でも美汐は。
結局決断なんて何もできていなかった。ただの偶然で、美汐は屋上で香織に無防備な背中を向けただけだった。押そうとも殺そうとも思っていなかった。ただ、吸い込まれるように背中に手を埋めていて、そうしてあの子は驚いた顔でこちらを見つめながら落ちていった。
美汐。美汐、違うの。そんなつもりじゃなかったの。でも、蓮が。蓮が苦しむかもしれないって考えていたら手が。
兄から探偵が来ると聞いた。今度こそ、決める。美汐の背中を押した時とは違う。今度こそ蓮との生活を守るために、香織は戦う。探偵を殺し、蓮の将来を守るのだ。事故だと主張し、兄に事件を収めてもらう。そうすれば息子といつもの日常に戻れる。蓮、蓮、蓮。香織にはもう、蓮しかいない。
「――うあっ」
内側にかけていた指を強く蹴られ、壁から腕がずり落ちていく。指先だけで壁にかろうじてぶら下がっているとびぃ菜を確認し、香織はようやくホッとしたように微笑った。強い安堵が滲む顔だった。殺人という意識が感じられない、ただただ有害なものを排除するのに成功した、というような顔。
囲壁を覗き込んでいた香織の顔が引っ込む。足音がして、遠ざかっていくのが分かった。助けを求めるように上を見上げ、太陽の光に目が眩む。指先から力を入れ、掌で壁に掴まる。けれど腕力が足りない。足で壁を蹴ってみるが、どこにも足場が感じられない。そうこうしているうちに、腕から力が抜けていく。
不意に、視界がぶれた。手が、囲壁に届くこともなく差し伸べられたまま、落下していく。振り仰いだ屋上に、香織の呆然とした顔が覗いていた。
お母さん、どうして。心にじんわりとした哀しみが染みていく。
お母さん、どうして。どうして私もいちゃ駄目だったの。蓮とだって仲良くしてた。意地悪するつもりなんて全然なかった。いいお姉ちゃんだったと思う。それなのに、どうして。お母さん。
目を瞬くと、落下していく映像が断ち切れた。断ち切れたのに、これまで落下していたはずと体が勘違いを始めているような重力を感じた。
あ、死ぬんや。
唐突にとびぃ菜は悟った。このまま腕の力が尽きて、四階分の高さを落下して、藤原美汐と同じように死ぬ。交通事故で先に逝った家族よりも、ほんの少しだけ遅れて。
両親が、もっと時間がかかると思っていたのに、と悲しげな顔をするだろうことが分かった。弟は、姉ちゃんこっち来るの早すぎ、と馬鹿にしたように言うだろう。少し悔しそうな顔をして。
でも無理やん。
腕の力は限界で、頭の痺れも取れない。体の重さは増していく。足が引っかかるような場所もない。
シロさんも笑うかな。
どんな間抜けな死に方やねん。なんでそんなとこから落ちてんねん。呆れた風にそう言う結城の姿が浮かんだ。そこから結城の姿が年を重ねていく。ある時点で彼の年齢が止まった。
『あなたが堀河瑞菜の情報を、藤原香織に漏らしていたんですね』
表情を強ばらせた結城が、とびぃ菜の本名を呼んだ。
『あなたが身内の犯罪を隠すために、瑞菜の死を偽装したんですね』
結城の顔が凍りついていく。固く、固く。裏切りと不信、後悔で彼の顔が変わっていく。嫌な方に。目を閉じた結城が、目を開こうとする。その瞬間にとびぃ菜は叫んだ。
「そんなん認めへんわ!」
結城が向かうだろう暗い将来なんて認めない。ハーレム好きホスト崩れのヤクザみたいな男だが、根は正義感が強くて真面目なことをとびぃ菜は知っている。尊敬する上司の背信を知って変わってしまう未来なんて認めない。取り返しがつかないほど年を取ってから知る裏切りよりも、どうせなら跳ね返せる若さを持つ今のうちがいい。今ならその裏切り行為さえ軽微だ。
「っっっっっきんにくぅぅぅっっっ!」
とびぃ菜は叫んだ。カフェダンベルのマッチョ達を思い浮かべ、お前らの筋肉寄越してくんろ、とイメージトレーニングする。二の腕に力を溜めつつ叫ぶ。
「だぁぁぁぁれかぁぁぁぁ! たぁぁぁすけてぇぇぇぇぇっっっ!」
叫ぶのと同時に、力を込めて這い上がろうとする。掌が囲壁を掴むが、すぐにずり落ちる。ペンキが塗られているのが敗因だ。ざらついたコンクリート壁ならまだ摩擦力でどうにかなったのかもしれないのに。
「――トビー!?」
不意に、足元のさらに下方から声がした。九条院の声だった。
「はよ、助けてえぇぇぇ!」
そちらに顔を向ける余裕もなく叫べば、
「ちょ、お前なにしてんねん!?」
と結城の声も加わった。二人とも下方にいることを知り、上から引っ張り上げてもらう可能性が消えたことに絶望する。
「は、はよ……お、落ちるっ」
力が抜けていく。マッチョ達から筋肉は飛んでこなかった。火事場の馬鹿力も持続力はなさそうである。
「こっち、こっちや……、そう、足乗せぇ!」
足裏に、とん、と足場を感じた。ん? と思って足に力を入れると、足場は不安定に揺れた。怖々と下を見ると、窓から身を乗り出した結城が、拳を突き上げて足場にしていた。
「ほら、こっちも!」
さらに九条院も拳を突き上げて足場にする。そのまま室内に顔を向けて叫ぶ。
「誰か、屋上行け! 落ちかけてんねん、引っ張ったれ!」
室内がざわめき、はい、と返事をする声が複数聞こえた。
「もうすぐそっちに行くから、もうちょい持ちこたえぇよ!」
焦ったように叫ぶ九条院に、こいつも非常時は狼狽すんねんなぁ、とどうでもいいことを考えつつ、不安定な足場を踏んで腕を伸ばす。けれど体重をかけられるほどの足場では当然ない。現状維持が精一杯の状況で待つことしばし、屋上の扉が大きな音を立てて開いた。それからバタバタと足音が聞こえ、囲壁の上から腕を引っ張られる。足場にしていた頼りない拳を最後に軽く蹴って、とびぃ菜は屋上に生還した。
囲壁から慌てて下に降り、そこで力が抜けて座り込む。
「し、死ぬか思った……」
というか最後の方、色々考えていたアレは走馬燈というやつではないだろうか。今さらながらに血の気が引き、直射日光を浴びているというのにガタガタと体が震える。
「大丈夫ですか?」
この四日間でとびぃ菜が物語を読み取った生徒達が、不器用にとびぃ菜の背中を撫でてくれる。その無骨さが、涙が出るほど優しく感じられた。
「うん……うん、ありがとう。助けてくれて、ありがとう」
目から涙が零れ、情けなくしゃくり上げていた。