挿話 クラリッサの日常
本編と関係ないわけではない、他の人から見たお話です。
私はクラリッサと申します。
ディーツェ子爵家の次女で、特に嫁の貰い手もなかったので両親や兄弟から痛い視線を浴びていたのですが、どんな手違いがあったのか、お姉さまが勝手に応募したお城での使用人という求人に採用され職場に伺ったところ、いつの間にか第三王子お付きの従者として働くことになっておりました。
それ自体は大変喜ばしい事で、一応貴族の娘ではあるもののそこまで上の立場でもない私のような者からすると夢のようなお話ではありますが、学校でそういった勉強をしていた時は上の立場の方にお仕えするのだとは言っても伯爵家や侯爵家だろうと思っておりましたので、それが公爵家どころか王家となると、お仕事の内容自体はそれほど変わらないと言っても緊張の度合いが全く違います。
お城での使用人という話でしたので誰につくわけでも無い雑用係だろうと思い、それほど気負わず採用通知書を手に出向いたところ、通されたのは応接室でも大勢の使用人が宿泊するような大部屋でもなく、数人が寝泊まりできそうではあるが誰も使っている様子のないどこかの寝室……。
そこまで案内してくれた使用人の方も、これから共に働く仲間で、それどころか既に先に働いている先輩だろうというのに、まるで立場が上の貴族様を迎えるように敬語で仰々しい態度で、もう何が何だか分かりません。
言われるままに荷物を置いて、何だかここに来るまでに見た使用人の方たちが着ていたものよりも質がいい気がする服に着替えさせられて、先導されるままに今度こそ応接室に通されると、そこで待っていたのはどう間違ってもメイド長には見えない立派な服をお召しになった七十代くらいの男性。
ここまで来るともう、相手が私を誰かと勘違いしているか、もしくは私が何か勘違いしているかのどちらかだろうと気がつき、失礼と思いながらも挨拶もそこそこに採用通知書を見せながら何かの手違いではないかと訴えたのですが、彼、ダーフィン様はにこやかに笑って、勘違いをしていたのは私の方だと教えてくれました……。
そこから、私の人生はそれまでとは全く異なる色に染まり、今までの常識が一つも通用しない生活が始まってしまったのです……。
ご主人様であるグラヴィーナ帝国の第三王子オルスヴィーン殿下が、先日まで行方不明であらせられたのは有名でしたが、お城で働かせていただきながら周囲の噂を伺っておりますと、どうやらそれは私が来る前に殿下にお仕えしていた従者の暴走が原因らしく、殿下の従者はそれに関わっていなかったダーフィン様を除き全員処刑されてしまったとのこと。
それは本当に従者の暴走で、彼らが金銭をだまし取って他国に逃亡しようと殿下をたぶらかしたのだと言う人が殆どでしたが、中には直接は言わないものの、実際は殿下が逃げ出しただけだが体裁のためにその罪を従者が被ることになったのではと遠回しに言っている人もいました。
殿下が隣国で発見され、今は帰国の準備をしているということで、従者という役職に就いたものの、他の使用人に混じって雑用をこなしていた私は、そんな事情も知らないで私に話を振ってくる彼女たちの噂話に曖昧な苦笑いを浮かべる事しか出来ず、夜は他の使用人がいないため個室も同然な寝室でただただ恐怖に身を震わせる日々……。
とうとう殿下を迎えに行くという日の前日の夜には、両親へ私を生んで育ててくれたお礼を書き綴った遺書のようなものを用意して、自分のベッドカバーの下にそっと隠すほど心が弱っておりました。
しかし、数日の旅を経てジェラード王国の王城へ伺ってみますと、そこでご挨拶させていただいた殿下はそれまでに高まっていた恐怖心から来る乱暴なイメージとは程遠く、それどころか王族とは思えないほど丁寧で落ち着いていて、最初に自己紹介をした際に私のことをクラリッサ殿とお呼びになって逆に私が慌ててしまうほど腰の低い方だったのです。
両親の話では幼い頃に何かのパーティーで私も一度だけ殿下にお会いしたことがあるとのことでしたが、本当にようやく自己紹介が出来るようになったくらいの年齢だったし、お姉さまのついでに挨拶した程度だったと思うので、その時の殿下の様子は何一つ覚えておりません……それでも、おそらくここまで腰の低い方では無かったのではないでしょうか。
城を出発する前にダーフィン様から事前に記憶を失ってしまっているというお話を伺ってはおりましたが、ここまで綺麗さっぱりご自身のお立場まで忘れてしまわれているとは思っておらず、どう接してよいものか戸惑うしかありません……。
そして、そこから……地獄のような……天国のような……高級なハチミツの海に溺れさせられるような日々が始まりました……。
移動の際に乗る馬車はダーフィン様へ事前に緊張でどうにかなってしまうと相談して別にしていただいておりましたので、それほど会話が必要になるとは思わなかったのですが、私が行きの旅路と同じように昼食を用意している時、何の前触れもなく殿下が私に声をおかけになったのが始まりだったと思います。
私としては出来れば食事は私が作るのではなく、町や村の宿などで用意してもらった方がいいとは思うのですが、馬車の移動速度は荷物を抱えた冒険者の歩くスピードよりも遅く、夜は出来るだけ大きな町で宿泊できるように移動すると昼の休憩がどうしても野外になってしまうという場面が出てきてしまい、そうなれば子爵家の次女という立場でそれなりに料理の経験があった私が作ることになっても仕方ありません。
しかし、料理の経験があるとは言っても家族に振舞える程度で、王族の食事を用意するどころか野外で料理をした経験などなく……ダーフィン様や、共に旅をする騎士のコンラート様からは、保存食として持ち運べるものが限られているので誰が作っても大体同じになるとは言われていたものの、いざ殿下に振舞うのだとなると不安で胸が押しつぶされそうでした。
そうです……ただ振舞うだけでも不安でならなかったのに、そんなところを殿下にお声をかけていただいてしまったのです……。
殿下は王族が旅の間に取る食事と、冒険者が野営で用意する食事の違いをお気になされていた様子で、鍋をかき混ぜる私の隣に立ってじっとその様子をお伺いになられたり、調理工程の所々で使用する食材や調味料などに関して質問を投げかけられました。
貴族令嬢の集まるお茶の席でも微笑んで頷くくらいの役割しか無かった私からしたら、隣に王子様がずっといらして、それどころかいくつもの質問を投げかけてこられるなど、衛兵に捕まって尋問を受ける方が何倍も楽なことのように思えます。
生きた心地がせず、いつも通りに作ったはずなのに味見をしても緊張で味が感じられず、しかしそれを伝えることも出来ずにそのまま自身の調理工程を信じて提供するしかなかったので、上手く出来たか分からずさらに緊張が増す一方……。
不安を抱えながらも、食事をお召し上がりになられたダーフィン様がいつも通りだったので、ホッと胸をなでおろしたのも束の間……次の野外食のタイミングで、なんと殿下が収納魔法から様々な食材や調理器具を取り出して自ら料理を始めようとなさりました。
私は殿下が自ら料理をなさろうとするほど前回の食事が不味かったのだと、全身から血の気が引いていきます……殿下の「不味くはないがもっと栄養のある食事をした方がいいだろう」という回答が無ければ、きっとそのまま倒れるか、立ったまま気絶していたでしょう。
しかし、保存食が限られているため栄養が偏っているのは事実とはいえ、だからと言って殿下が自ら料理をすることはありません……ダーフィン様が必死にそう説得したところ、殿下は「ならば自分が手を動かさなければいいのだな」と言って、何故か私が殿下の手足となり工程を教えられながら料理を作ることになってしまいます。
大切な人の突然の死など……人は簡単には受け入れることが出来ない、あまりにも大きくショックを受ける出来事があると、涙を流すのを通り越して、心を無くして呆然としまうということがあると聞いたことがありますが、これも似たようなものでしょうか……。
私は緊張が限界を振り切ると精神が無の境地ともいえる領域に達してしまったようで、雑念など全くない澄み切った心で、殿下のご指導の元、言われるままに、ミスなく、手際よく、作ったことのない料理を作っておりました。
あいかわらず私自身は作ったものの味が感じられませんでしたが、出来上がった料理をお召し上がりになられたダーフィン様が目を見開いて、いつもより早いペースで食事をなされていたところを見ると、それはうまくいっていたのでしょう。
そして、人の慣れとは恐ろしいもので、次からはダーフィン様も注意はするもののあまり厳しく止めなくなり、殿下と一緒に料理をすることが当たり前になると、自棄になったのか吹っ切れたのか、私もせっかくなら殿下の教えてくださる料理知識を隅々まで吸収してやろうと真剣に、時々自らも質問しながら料理をするようになりました。
……それが、次なる災難を招き寄せるとも知らずに。
♢ ♢ ♢
「ふんっ……性懲りもなくまたやってきたか……」
ここはグラヴィーナ帝国のお城にある調理室……。
正面には顔よりも長いのではと思えるほど長さのあるコック帽を被った、立派な髭を蓄えたドワーフの料理長……周囲にも白い服装で統一されたドワーフや人間の料理人が私を威圧するように並んでいて、ここが完全にアウェイな場所であることを認識させられます。
ああ……私はいったい何をやっているのでしょうか……。
そんな現実逃避に似た思いを抱きながらも、私は殿下に言われた通り、なんとか余裕のある表情を作り出して料理長と会話をします。
「はい、そしてこれが最後になると思いますので、どうかご容赦ください」
「最後……だとぉ? なんだ、魚をプレゼントしたい人がいるとかなんとかってぇのは、もう諦めたのかぁ? だっはっはっは」
料理長のそのセリフを聞いて、周りにいる他の料理人も大声で笑いだす。
殿下が魚を仕入れたいと言って何故か私を料理長への交渉役にお選びになってから、今回で四度目の挑戦……殿下の意向で魚をご所望なのが殿下であるということも私が王族の従者であるということも伏せたままこうして果敢に料理勝負を挑んではいるが、今となってはもうどうしてそんな状況になったのかは思い出せません……。
やっぱり、殿下から直接言ってもらった方が良かったでしょうか……。
三回戦目の引き分けを報告した際、殿下が自ら勝負を挑むと進言なされ、役目を全うできなかった私の末路がどうなるか想像もしたくないほど不安だったので、ついもう一度チャンスをと願ってしまいましたが……今思えばあそこで諦めた方がここで失敗するよりも刑が軽かったように思います……。
しかし、そんなことを言うのはもう遅い……言ってしまったからには、最後まで悔いなく、やれることをやってから散りましょう。
「勝負を始める前に一つ質問がございます」
「あん? なんだ?」
「ここにお米の清酒はございますでしょうか?」
「はぁ? そりゃあ料理にも使うからもちろんあるが、最初に言っただろ? 調理器具はちゃんと片付けるなら使ってもいいが、食材や調味料は自分で用意しろって……というか、ここにある清酒は俺たちだって自分じゃ買えねぇ高い酒だ……この料理勝負にだってあんまり使わないようにしてんだ、何があってもお前にはやれねぇよ」
「いえ、お伺いしただけなので大丈夫です」
あるにはあるが、それほど使えない状況……殿下のおっしゃっていた通りですね。
これで本当に殿下が予想なさっていた結果にまで辿り着くのかは分かりませんが、第一関門は突破という事でしょう。
私はその返答を聞くと殿下から預かってきた魔法鞄から食材や調味料を取り出し、自分に与えられた調理スペースに広げます……今回は下準備として事前に作ったものも多いので、その見た目はかなり大げさなものになりました。
「どっちも用意できたようだな……んじゃ……調理始め!」
料理長のその号令と共に、私と、今回の対戦相手が料理を始めます。
相手はやはり料理の練習も兼ねる下っ端ということらしく、基本に忠実な和食を主菜から数品の副菜、汁ものまで作って一つのお盆で御膳として作り上げる方針で、お米を研いで土鍋で浸漬するところから始めていました。
しかし、迎え撃つ私は出来た順から提供していく方式で、しかも今回は自分でも少し不安になるほどすぐに作れてしまう簡単な料理ばかりで、相手がお米を研ぎ終わる頃にはもう一品目を料理長を中心とした審査員に選ばれた料理人の方々が待つテーブルへ運んでいます。
「どうぞ……一品目、キャベツの塩昆布和えでございます」
「……は?」
料理長が視線だけで人を殺せそうなほど鋭い目で私を睨んでいます……。
分かっています……分かっていますとも……私だって、三度目までいくつもの考え抜かれた食材の組み合わせや完成されているとも言えそうな調理技術が駆使され、その見た目にまでこだわった誰が見ても完璧と言わざるを得ない料理を提供され、期待した四度目の最初の料理がこの数分もかからずに出来た料理だったら同じ反応をするかもしれません。
でも……これが殿下の指示なのです……私はそれに従うしかないのです……そんなに睨まれても、私には心で涙を流しながら続く決められたセリフを言うしかないのです。
「どうか何も言わず、次の料理が出来るまでそちらを召し上がってお待ちください」
「……」
私は震えそうになる声をグッと抑えながら、どうにか余裕のある表情を取り繕ってそう言い放つと、まだ睨み続ける料理長の視線を背中に受けながら自分の調理スペースへと戻っていって、それでも無言で鋭い視線を向ける彼をまるで気にしていないような素振りで、次の料理に取り掛かりました。
枝豆を塩もみしたり、キノコを濡らしたふきんで拭いたりしている間に、後ろでバリバリとキャベツを食べるような音が聞こえましたが、振り返ってどんな顔で食べているか何て確認する勇気はありません。
昨日、殿下に教わりながら下準備として塩昆布とやらを作るのにはそれなりに時間がかかっておりますが、今日やったことはキャベツを少し大きめに切って塩昆布とごま油で和えただけです……一応、昨日味見して不味くなかったのは確認しておりますが、貴族や王族が食べるには大きい切り方ですし、塩味も濃かった印象でした。
本当にこのまま続けて大丈夫なのでしょうか……。
そんな不安を頑張って表情に出さないようにしているうちにも、二品、三品目が完成してしまったので、二つ一緒に料理長のところへ運びます。
「二品目、枝豆の蒸し焼き……三品目、キノコの煮浸しでございます……」
相変わらずのスピード料理……おそらく一品目を提供してから五分ほどしか経っておらず、枝豆は下拵えの後に少ない水で蒸し焼きにして塩を振っただけ、キノコはこちらも前日に作った出汁と、醤油や酒などの調味料を合わせたものでしんなりするまで煮ただけ……先ほどと同様、料理と呼ぶには少々手間が足りていないように思えるものです。
「……」
料理長はもう驚くような反応すら返してくれませんでした……。
私は頭を下げると、一応全部召し上がっていただけたらしいキャベツの塩昆布和えが入っていた空の器を持って調理スペースへと戻り、次の料理を作り始めます。
その後も、薄くスライスしたジャガイモを熱々に熱した大量のラードでカラカラに揚げて塩を振ったものや、油揚げを焼いておろし生姜を乗せて醤油をかけただけのもの。
前日に小麦粉と塩とお湯で作った生地を小さく薄く広げた、餃子の皮と言うらしいものでチーズを包み、天ぷらのように荏胡麻油で揚げた後に塩を振ったものや、細く切った長芋を梅と海苔と醤油で和えたもの。
下準備どころか既に完成させておいた、モツという謎の肉を野菜と一緒に味噌などの調味料で煮込んだものを温めて、お好みでどうぞと七味と一緒に提供したりしました……。
次の料理を提供する度に料理長の顔は険しくなり……口に運ぶペースが遅くなったり早くなったりと不安定になっていきます。
そして、最後に、唯一持ち込んだ調理器具の七輪を使い、一口サイズの鶏肉を串に刺したものを、用意しておいたタレをつけながら炭火で焼いたものを提供する頃には、魔物と言われた方が納得してしまうほど眉間にシワがよっておりました。
料理長だけでなく、他の審査係の料理人も同じようで、何かを耐えているような脂汗まで浮かべて、その焼き鳥というそのままのネーミングの料理を口にするのを随分と躊躇っているようです。
もう既に満腹で、何やら無理してお召し上がりになられようとしているようにも見えましたが、一品一品はそれほど多くありませんので、その串が一口もお腹に入らないほどとは思えません。
例えそれほどお腹が減っていないとしても、最後のこの料理だけは、そのタレが焦げた香りのせいなのか、緊張であまり食欲のない私でも少し食べたいなと思える料理で、その証拠にそれを食べようと口に運んでいる料理長を見て、今回とくに審査役に選ばれなかった周りの料理人もゴクリと喉を鳴らしています。
そして……料理長や審査役の料理人の皆さんは、何かと葛藤するように食べるのを躊躇っては口に運ぶを繰り返し……焦れてしまった私が「熱いうちにお召し上がりになられた方が美味しくいただけるかと存じます」と言うと、ようやく口の中へ運び……。
それを味わうと同時に、隣に用意されていた対戦相手の御膳の、ご飯が入っていたと思われる茶碗を手に取りました。
「……」
しかし、そこには既にご飯は入っておらず、しかも何故か一緒に運ばれているはずの菜の数々は手を付けられておりません。
料理長はまだ一口しか食べていない焼き鳥を持って固まり……他にもまだ残っている今までに私が提供した料理を眺め……それから一泊置いて、物凄い形相で私を睨みつけました。
そんな飢えたドラゴンのような顔でこちらを見ないでいただきたいです……飢えているのであれば目の前にまだたくさん料理が残っております……。
私の作った料理に、麺類やご飯ものなど、主食がひとつも無いのは自分でもどうかと思っておりますが、それが殿下の指示なのです……私にはどうすることもできません……。
そして、私はこんな怖い状況で、殿下に指定された最後のセリフを言わなければならないのでしょうか……今も魔物のような眼力でこちらを睨む料理長が、そんなことを言い出した私に対して怒り狂い、太刀を持って斬りかかってこない確信などないというのに……。
背中に冷や汗をかきながらそんなことを思いますが、王族の命令を破って打ち首になるくらいなら、その指示に従って切られた方が親が悲しまないだろうと心を決め、しかしその心から恐怖で滝のような涙を流しながら、魔法鞄から大きなビンを取り出して料理長を見据えました。
「これが何か、お分かりになられますでしょうか」
「ゴクリ……そ……それは……」
「今回の料理勝負で使い切らなかった、清酒でございます」
私はそう言いながら次々と魔法鞄からお米で作られた清酒を取り出し、調理スペースに並べていきます。
「あ、余ったなら……それを……!」
そして料理長が全てを言う前に広げた手を前に突き出し、その言葉を遮りました。
「はい、もし余りましたら、こちらをここへ寄付しようと思っております……もし、余りましたら……」
「へ? 何を言ってるんだ? さっき……あ……」
「そうでございます……『今回の料理勝負で』使い切らなかった清酒でございます……」
料理長はその一言で私の……いえ、殿下がおっしゃりたい言葉が通じたのでしょう……ここでまた『引き分け』などという結果になったら、次回の料理勝負でも使うので余らないだろう……と。
「……」
「……」
沈黙が続きます……。
私も、料理長も、一切の隙も無く、互いを見つめているように見えるでしょう……。
しかし、相手はどうか知りませんが、私が微動だにしていないのは、料理長の迫力で前に進むことも出来ず、王族の命令という壁に阻まれて後ろに逃げることもできないだけです。
私は一体何をやっているのでしょう……どうしてこんなことになってしまったのでしょう……誰でもいいので助けてください……。
笑顔の仮面を張り付けているわけでも無く、ただ引きつった表情のまま固まってしまっているだけの顔の内側でそんなことを思いながら、最後の最後の言葉を放ちます。
「今回の結果がもし私の勝利ということであれば……」
「あれば……?」
「今日作らせていただいた料理で下準備した材料として持ってきたものも含めて、今までのレシピを全てお教えしま……」
「参りましたぁぁああああ!!!!!」
「……え?」
「おいお前ら!! 嬢ちゃんからレシピを教われ!!」
「「うっす!!!」」
「あ、あの本当に……」
「個人的に酒を隠し持ってるやつ!! 今すぐ自分の部屋から取って来やがれ!!」
「「うぉっす!!!」」
「あ、嬢ちゃん、詳しい仕入れ方法とかはまた今度でいいか? あと、今日使った材料がまだ残ってたら俺に買い取らせてくれ」
「はぁ……それはいいのですが……」
「よーし!! 嬢ちゃんからレシピを教わったらじゃんじゃん作り始めろ!!!」
「「うぃっす!!!」」
いったい何が起こったのでしょうか……私はいつの間にか睨むような不機嫌そうな顔から笑顔に切り替わっていた料理人の方々に囲まれてレシピを聞かれ、それを教え終わると魔法鞄に入れてきた材料を全て買い取られ、料理長を含めた全料理人に威勢よく「お疲れさまでした」と見送られて調理室をさっさと追い出されてしまいました。
とにかく分かることは、今回の料理勝負で私が勝ったらしいということと、怖い顔をしていた料理長さんに命を狙われることなく生きて帰れそうだということ……。
まぁ、何はともあれ……。
「うぇぇぇん……こわかったよぉぉぉ……」
私は自分以外誰もいない寝室に戻ると、殿下にも料理長にも見せられないようなぐしゃぐしゃの顔でしばらく泣き喚きます……。
そして、暫くそうして頭がすっきりしてくると、長く苦しかった料理勝負が終わったということは大変なことが起こらない普通の日常が戻るのだと気づいて、なんとかやっと、ドキドキすることが続きすぎてどうにかなりそうだった心が落ち着きをとりもどしました。
少し……いえ、かなり大変な日々が続きましたが、子爵の次女でしかない私が王宮で通じるような料理を学ぶことが出来て……ちょっと違うかもしれませんが、文官志望の貴族が学校で学ぶかもしれない交渉? のやり方まで教わったような気がします。
貴族や王族のお付きの従者になると学ぶことが多く、どこでもやっていけるようになると聞いたことがありますが、本当にそうなのかもしれませんね。
いきなりハードで少し動揺してしまいましたが、これが王族の従者としては普通の仕事なのかもしれません……暫くは一般業務が続くと思いますし、逃げ出さずになんとかこのまま頑張ってみましょう。
私はそんなことを決意して、殿下に料理勝負のことを報告し、やっと訪れた平穏な一般使用人として、扉の前で静かに顔を伏せながら立っています……。
すると殿下のお姉さまがお越しになられて……ダーフィン様がお越しになられて……。
「城の料理人が殆ど酒で倒れて……」
……ん?
「クラリッサを夕食準備の助っ人に……」
……んん?
「自分も夕食準備の助っ人に参戦しよう」
……え? え?
「ほぅ、面白そうじゃのぅ……わらわもその戯れに参加しよう」
えぇぇぇぇええええっっ!?!?
お父さま……お母さま……お家に帰りたいです……。