挿話 ソメール教国でのお話 その一
本編と関係なくはないですが、主人公ではない人から見たお話です。
ジェラード王国の王都から南東の方角に位置する、ソメール教国の教都。
食事や睡眠を除く全ての活動時間を移動に費やしたとしても徒歩で十日ほどかかるその場所は、人族を乗せた箱舟がこの大陸にたどり着いて最初に築いた街というだけあって、現在も大陸内で一番発展している街だと誰もが認める大都市である。
大都市と言っても、高い建物がいくつも建ち並んでいるような、上へと伸びた都市ではなく、一定の高さを維持して、横へ横へと広がった都市となっており……隣の町との境界線まで途切れることなく建物が連なっていて、その道中で野生の獣や魔物に襲われる心配がないのは、おそらくこの大陸ではまだこの街だけだろう。
ここ、ソメール教国の教都は、それほど長く、広く発展してきた街なのだ。
歴史が長いこともあって、石畳の敷き詰められた路地の一部が少し崩れていたり、建物の中にはヒビが入りツタが絡まったりしているものもあるが、そういったものは完全に壊れる前に職人や魔術師に修復される。
なので、完全に倒壊していたり、人が利用できないような状況にまで老朽化していたりする建物はひとつもなく……いくつか見受けられる古びた建造物は、街並みの良いアクセントになっているだけで、決してこの街がボロボロで汚いという印象は与えていない。
そして、そんな古さも美しさも保っている大都市の中心に……荘厳で壮麗な大聖堂がひとつ、大きくどっしりと構えている。
建てられたのがそれほど昔ではないのか、頻繁に修復されているのか、ちらほらと見受けられる古い建物と比べると随分と綺麗な外観で、周囲に広がる庭園の木々や花々もよく手入れされているようだ。
そして、そこから四方へ延びる大きな道も、大聖堂と同じくよく手入れが行き届いており、特に南に向けて海まで続いている一番広い道は、周囲が貴族街だということも理由の一つになっているのか、石畳の敷き方ひとつ取っても曲線的なシンプルで美しいデザインで、その街を観光目的で訪れたのであればこの道を歩くだけでも気分が弾むだろう。
北側の道は、大聖堂に近い位置に、大きな噴水を中心とした広場が作られており、周囲に建ち並ぶ服飾店やレストランによって活気づいているその場所は、この街の人たちにとって日常の中心地となっている。
東西へと伸びる道は、そのどちらもが大聖堂に近い場所で二手に分かれており、片方はそのまま東西の門まで続いているが、もう片方は海に向けて弧を描いて曲がっていて、海沿いの通りを辺に加えて半円となったその中が教都の貴族街……。
そして、その半円の中点、大聖堂から南の通りをまっすぐ進んだ突き当りにあるのが、人類をこの大陸へと運んできた船……〈神の箱舟〉。
大聖堂と比べても……いや、それどころではない。
この大陸で一番大きな都市であるこのソメール教国の教都と比べても、それよりも大きい……もはや、小さな島……人口島と呼べる代物だろう。
一つの国を作れるほどの人類を運んできただけあって、その大きさは圧倒的を通り越して異常である。
これを視界に納めなければ、この街は壮麗な大聖堂を中心に栄えている都市だと思えるところだが、どうあがいても目に入ってくるそれの威圧感を一度でも感じてしまえば、この街はこの箱舟を中心に回っているのだと思わざるを得ない。
幸いにも、高さとしてはそれほど高くないので、噴水の広場で賑やかに過ごすこの街の住人のように、慣れてさえしまえば、それは威圧感ではなく、威厳や神々しさに感じるのかもしれないが、神の船だと聞いて初めてその街を訪れた人々は、その巨大な箱舟の姿を見て、予想を大きく外れた感想を抱くことになるだろう。
そして、そんなどんな大きな想像も超えた威圧感と神々しさを持つこの船に、この国の王……マルカント・ソメール教皇と、その関係者は住んでいる。
元々、古の人族が、世界滅亡の運命から逃れるために、未来の希望を託した選ばれし人類が乗り込み、彼らがそこから何百年もの間過ごしてきた船なので、王家の人間が何人もの官吏や使用人と共に住もうとも、全体の半分も埋まらないほどの居住スペースがあるが……。
信仰の対象にもなっているその船にそのまま住むというのは、一体どんな気持ちなのだろうか。
今は出航するために必要なパーツが壊れており、それを新しく作るどころか修理する技術ですら全く残っていないので、海に出ることなどはできないが、古代人の生命活動を何百年も支えてきた様々な施設は今でも稼働している。
まだこの大陸での栽培が成功していない植物を含む、様々な農作物を栽培している施設など、食料確保のための施設も稼働していることを考えると、たとえ大陸と船をつなぐ橋が完全に封鎖されたところで、文字通りいつまでも籠城し続けることが出来るだろう。
船に砲弾が備え付けられていることもなく、箱舟の監視者であり、この国の宗教的には五柱目の神である〈マギ〉の魔法完全抑制機能も生きているので、船内から船外へ攻撃を行うこともできないが、逆に船外から船内へ向けた魔法もかき消されるということも考えると、この船が三か国で最も堅牢な城であることは間違いない。
……そんな、たとえ包囲されたとしても、絶対に落とされることはない城に、戦争の足音が近づいているのは……いったい何の陰謀だろうか。
ソメール教国の教皇、マルカント・ソメールは、そんな世界一安全な建造物の一室で、様々な思いを巡らせている横顔を携えて、一体何を考えているのだろうか……。
「……」
—— コンコン ——
「入れ……」
箱舟にある数々の部屋の中でも一番よく街が見渡せる操舵室に、白を基調とした明るくも重厚な祭服を身にまとった男が一人、窓からの景色を眺めていた。
男は四十代後半という年齢ではあるが、腰に届きそうなほど長いウェーブがかったダークブロンドの髪も、同じように長く立派な髭も、その半分ほどが白髪になっており、いったいこれまでにどんな経験を重ねてきたのか、顔には齢六十と言われても違和感のないほどの深いしわがいくつも刻まれている。
この男こそがソメール教国を治める、マルカント・ソメール教皇……。
まだ齢が十歳にも届かなかった時から父親を亡くしてその座につき、しかし、その頃から父を凌駕する魔法の腕と優れた統治力を発揮していた、他の追従を許さない才能の持ち主で……他国の人間からは大賢者と呼称されることもあるらしい。
「失礼します」
そんな教皇のいる部屋にノックをして入ってきたのは、彼の服装を極限までシンプルにしたようなアルバを身にまとった若い男で、おそらく助祭であろう彼は静かに素早く教皇の側までやってくると、仰々しい仕草で膝をつき、ジェラード王国から手紙が届いたことを報告しながら、その手紙を両手で差し出した。
「下がってよい」
「はっ」
そして教皇は彼から手紙を受け取ると、その助祭をすぐに下がらせる。
助祭は扉の手前で振り返り、膝をつくときと同じように仰々しく礼をしてから部屋を出ていったが、その時にはもう教皇はまた窓の方を向いていたので、助祭の礼は彼の目には映っていなかっただろう。
「ついに始まるか……」
また部屋に一人となった教皇は、受け取った手紙を読みもせず、窓の外へ向けて独り言を呟く……。
その呟きはまるで、彼がその手紙を受け取る前から、今日助祭がいつ頃ここにそれを運んでくるのかも、そこに書かれている内容がどんなものなのかも分かっていたかのような、この状況を受け入れる準備を既に済ませていたかのような、そんな呟きだった。
「これも……この世界の未来のため……」
教皇は表情を変えず空を見上げ、また独りそう呟く……。
今、彼の頭の中には、どんな情景が浮かび、何を考えているのだろうか……。