20 一振りのナイフと
立ち竦むゴンザの後ろ姿には、一瞬まるで不吉なものでも目にしたかのような戸惑いがあった。
一体何ごとなのか。その答えが目の前に晒される。ガラは息をのんで立ち尽くした。
「ミュート」
ガラの口をついて忌まわしき言葉が紡がれる。
眩い閃光を放っていたカイの額は、その光を失っていた。代わりにくっきりと浮かび上がったのは、ミュートの身体に現れる紋章だった。
ミュート、呪われし者。穢れた血の落とし子。
生まれ落ちると同時に、なかったことして息の根を止められ、極稀に異能を身に帯びた者のみが道具同然の扱いでスメクランに使役される。
ガラは再び混乱の極みにあった。
この僅かな時間に様々なできごとがあった。多くの里の人々が命を落とした、一口に『できごと』などと生易しい言葉で表現できない事象の連続。
ようやく生き延びて日常に立ち返ることができたと思ったばかりだった。
そこで目にしたものが、大切な仲間――いや仲間以上の存在――であるカイの額に現れた忌まわしき紋章だった。
ガラの脳裏に自分の知るミュート、『不死身』と『ナイトビジョン』の姿が浮かぶ。必要悪の道具であり、穢れた家畜。せいぜい怖いもの見たさや悪趣味な好奇心の対象程度の認識しか持たなかった存在。
それとカイが同列であるという事実が脳内で整理できないのだ。
(関係ない! カイはカイなんだから)
身を起したカイが、ゆっくりと立ち上がる。
キョトンとした顔がガラを見詰めている。『ミュート』と呟いたガラが何を言っているのか分からないといった様子だ。
カイの額が燦然と輝きを放っていたときに起きたことが、ガラの頭の中にフラッシュバックする。
大量に現れた奇怪な魔物に追われる人々。そして名状しがたい何者か触手。
ひょっとして、あれはカイのもたらしたものなのか。もしそれが、ミュートであるカイの呪われた力であるならば――
ガラの背筋を冷たいものが這い登る。
疲れ果てた様子のカイがガラのほうに向って一歩踏み出した。
次元の裂け目へと姿を消す寸前にガラを見やったイサリオンの表情が目に浮かぶ。絶望の淵に在りながら、微かな希望を込めた視線をガラはたしかに受け止めた。それはカイを頼むというイサリオンの想いだったのではないか。
(くっ)
ガラは自分の起した行動に衝撃を受けた。
自分に向って歩みを進めたカイに対して、一歩退いてしまったのだ。
カイとの大切な思い出の数々、イサリオンの希望、芽生えを意識しつつ抑え込んできたカイへの『想い』。
この世界に生きるすべての知的種族の心に刻み込まれた『二千年の忌避感』の前に、それらは脆くも崩れ去った。
ガラの動きに今度はカイが立ち竦んだ。
「見ろ、ミュートだ」
取り返しのつかない過ちを犯したことをガラが認識した直後、何者かの叫びがガラの耳朶を打った。
「ミュート?」
「ミュートだと?」
「化け物め」
「忌まわしい」
「さっきの化け物はひょっとして」
急激に騒ぎが広がって行く。
あたりに漂う血の臭いを纏い、人々の呟きはやがて叫びへと変わる。
「人殺し!」
血塗れの子供を抱いた女が金切り声を上げた。
(違う!)
ガラの思いは言葉にならない。
「よくも女房を――」
「娘を返せ」
「呪われたミュートのせいだ」
叫びは怒号へと変わっていく。
頭の芯が痺れたようになっていた。現状を認識できない。心の奥ではカイの潔白を叫んでいるのに、言葉にならない。
ガラは己の無力さに打ちひしがれ、カイの傍らに寄り添っていない自分に絶望した。
里の人々の目に明確な殺意が宿る。
今カイを守るのはあちこちが破れた闘技場の柵だけだ。
一触即発の張り詰めた空気が臨界点に向っているのが肌で感じられる。
ひとつの礫が飛び、カイの額を打った。
忌まわしい紋章の上に鮮血の花が咲く。
額を押えてカイが蹲る。一石が切っ掛けとなり、次々と礫がカイを襲う。
頭を抱えてカイは蹲っている。
怒号が一段と高まる。柵を掴み引き倒そうとする者、よじ登ろうとする者。殺意に目をギラつかせた群衆が動き始めた。
「静まれ!」
周囲を圧する大音声が轟いた。血に飢えた人々が動きを止めた。同時に呪縛が解けたようにガラが振り返る。
豺狼狷介、向背常ならぬとされる故に忌み嫌われ、蔑まれるスメクラン。そんな彼らが生きていくためにはお互いの団結が必要になる。それだけに里の血の掟と長の権威が絶対なのである。
「ケイ兄さま!」
崩れかけた雛段にケイドルの姿があった。
ガラは縋るような心持でケイドル見上げた。とどまることなく涙がガラの頬を濡らしていた。それは先ほどの涙とは意味が異なる。カイのために何もできずにいる自分に対する悔し涙だ。
ケイドルは憐れみの籠った視線でガラを見やると、隣に立つ男に何ごとか呟く。ザグレムの里のミュート使い『傀儡師』のラドルだ。
ケイドルの言葉をしばらく吟味した様子のラドルは暗い表情で首を横に振った。
ケイドルの顔に逡巡の色がある。立ち竦むカイと、涙を流すガラの間をケイドルの視線が行き来する。
里の長の代理としてこの場を収めるのならば、群衆の望みに任せカイを血祭りに上げさせることに否はないはずだ。しかし、ケイドルはまだ若く、里の指導者である前にガラの兄だった。
「長カルバリンの権限を代行しての命である。お前を今この瞬間からザグレム党から除名する。今後二度とザグレムの者であると名乗ることは罷りならん。どこへなりとも出てゆき二度とこの地に足を踏み入れるな!」
ケイドルがカイに向って叫んだ。
スメクランにとって所属の里を追放されるのは死にも等しい。どこかの里への『降り』に成功しない限り、一切里の庇護を受けられないスメクランを待つのは多くの場合野垂れ死にだ。
それでも、カイが八つ裂きにされる姿を愛する妹に見せるのは忍びないと思ったのだろう。
辺りは静まり返った。ケイドルの一喝で冷めたやり場のない怒りは勢いを失い、人々は人身御供を血祭りにあげるより失った者へ想を馳せることを選んだようだ。誰もが倦み疲れ果てていたのだ。
門の中へと引き上げていく群衆の重い足どり。幾人かが振り返ってカイに暗い視線を送り、唾を吐く。
残されたのはケイドル配下の警備兵たちだ。一様に沈痛な面持ちで犠牲者を運んでいる。
そして、ほんの僅か前まで成人の儀をともに戦ったガラ、オラフ、ルーサー、ゴンザの四人とカイ。
カイはじっと俯いたままだ。
今なら間に合うかもしれないという想いと、とても大切な何ものかが決定的に毀れてしまったという確信がガラの中で渦巻く。
カイに駆け寄り許しを請いたいのに身体が動かない。ガラの心は千々に乱れていた。
「貸せ」
ぶっきらぼうな声にガラは唇を噛み締めて俯いていた顔を上げる。声の主はオラフだ。一体何を貸せと言うのか。
「ナイフを貸せ」
オラフの視線はガラが腰から提げているミスリルのナイフに向いている。頭の芯が痺れたような状態のまま、ガラは腰からミスリルのナイフを外す。遠い昔、非情な決断ができなかったカイが得られなかった一振りのナイフ。
オラフはナイフを受け取ると、ゆっくりとカイに歩み寄った。
「俺が大事な人から借りたナイフだ。お前に預ける。絶対になくすな」
オラフはカイの手に、その『借り物』を握らせる。
「死ぬなよ」
オラフの囁くような言葉が風に乗ってガラの耳朶を打った。
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