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9 弱き者ルーサー

 天井から下がる鍾乳石から滴る水滴がうなじを打った。ルーサーは岩陰で膝を抱えて座り込んでいる。


(もう嫌だ)


 仲間の激しい息遣いと地面を蹴る音が耳に届く。しかし、ルーサーの心には届かない。そんな現実を認められる状況ではないのだ。


(俺なんか……。弱いんだ。弱いんだから放っておいてくれよ)


 力はオラフとは比べものにならず、器用さや交渉術ではガラに遠く及ばず、剣技やリーダーシップの面ではカイにまるでかなわない。


(……ダメなんだ。俺は……)


 ルーサーにも強みはあった。幼いころからすばしっこさにだけは同世代の子どもたちの中で抜きんでていた。足が速いだけではない。急な方向転換や相手の虚をつくような動きをすることが得意で、小柄な体躯を活かし、遊びの中で追いかけっこをすれば彼を捕らえられる者はいなかった。


 だからこそ、成人したのちは繋ぎをとる伝令役になりたいと志願していたのだ。伝令とて危険がないわけではない。発見され、追跡されれば、戦闘になることもあるだろう。それでも――


(戦いなんか好きじゃないんだ)


 もしも、どうしても戦うことが必要であれば、自分より格下な相手としか戦いたくない。それも素早い動きを利用して敵の背後を襲うようなリスクのない戦いをしたい。でも、できることならば、それすらも避けたい。


「ほう、面白いな」


 どこかで声がした。しかしルーサーの耳には届かない。


(いつか、きっと、絶対に勝てない相手に出くわすことになるんだから)


 ルーサーとてスメクランである。幼いころから、ただ戦いに怯えるだけだったわけではない。ある出来事が、彼の心に深い傷を残しているのだ。

 それは、ルーサーの父ウルマスが六歳のルーサーを初めて里の外に連れて出た日のことだった。


***


 その日、ルーサーは朝から不機嫌だった。何日も前からバグレストの森に連れて行ってくれると約束していた父が、突然その約束を反古にしたからだ。


 薬草調合師だったウルマスは、定期的にバグレストの森へ薬草を採取しに出かけていた。それまで一度も里から出たことがなかったルーサーは、何度も父に一緒に連れて行ってくれと頼みこんでいた。見たことのない森の景色、さまざまな草花や生き物、幼いルーサーの胸は好奇心でいっぱいだった。当然、森には多くの危険も潜んでいる。まだ早いと渋るウルマスに散々ねだってようやく取り付けた約束だったのだ。

 その朝、窓から外を眺めたウルマスは、浅黒い顔をしかめるとルーサーに向き直って言った。


「ルーサー、今日は家にいなさい。次に薬草を採りに行くときは、必ず連れて行くから」


 出かけることを楽しみにしていた子どもが、そんな言葉に納得できるはずがない。当然駄々をこねた。

 どうやらウルマスは森の彼方の空に広がる雲を見て、危惧を抱いているようだ。とはいえ、凍てつく冬を終え、乾燥させた薬草の在庫も心許ないことは、幼いルーサーとは言え、両親の会話の中で悟っていた。


 春先の薬草採取では、できる限りの種類を大量に集めるのが常だ。冬の間に乏しくなった在庫を増やさなければならない。そうなれば、父の言う「次に薬草を採りに行くとき」までは、それなりの期間があることは、幼いルーサーにも容易に想像できた。子どもにとっての時間は大人の感じるそれよりも遥かに長い。父の思うさほど先でもない次の機会、半月なりひと月は幼いルーサーにとって、いつとも知れぬほど遠い未来の出来事になってしまうのである。


「お父さんの言うことを聞きなさい」


 母のイルメリが優しく、それでいて有無を言わせぬ口調でたしなめる。それでも食い下がるルーサーに、とうとうウルマスが折れた。


「その代わり、絶対に父さんのそばから離れるんじゃないぞ」


 うららかな春の日差しのもと、待望の冒険が叶う。ルーサーは喜びで有頂天だった。しかし、森の奥に入るにつれて、木漏れ日は力を失っていった。生い茂る木々が光を遮るだけでなく、空が次第に雲に覆われ始めたのだ。そんな天候の変化に気づくことは、子どもには無理な相談である。ひらひらと木の葉のように舞う美しい虫を追っているうちに、いつしかウルマスとの距離が開いていった。


 森の中を流れる小川の水は温み、春の気配が空気に漂う。のどかな日であった。雨が降るまでは――。

 仕事柄森で過ごすことの多いウルマスはもちろん、ザグレムの里の大人たちは知っていた。俄雨の降る春の日には警戒しなければならない相手がいることを。


 ぐろろろろうぅ。


 夢中になって虫を追っていたルーサーは、生い茂った灌木の奥から低く響く唸り声を耳にして立ち竦んだ。巨大な獣の気配がする。すぐに逃げなければやられる。本能的に危険を察知するが震える脚は言うことを聞かない。やがて、がさがさと藪をかき分けて唸り声の主がルーサーの前に現れた。


 体長四メルをゆうに超える獣、デルワースだ。普段は四足歩行だが、獲物を襲うときは後ろ足で立ち上がり、前肢の鋭い爪を武器にする。全身が粘膜状の分厚い皮膚に覆われ、よほど切れ味のよい武器でなければ刃が通らない。そんな肌の持ち主だけに、普段は巣にしている薄暗い湿った穴倉に籠り、よほど餌に困らない限りは、活動するのは主に雨の日という習性をもつ。


 普通は大きくとも二メルに及ばないが、数年に一度、冬眠の間に極端な成長を遂げる個体が現れるため、里では春になると巨大デルワースを討伐する部隊を編成して警戒していた。どうやら、この個体は討伐隊の眼を潜り抜けていたようだ。


 森の中の小さな空き地でデルワースと出くわしたルーサーは、あまりのことに逃げることもできず震えている。


 ぐぅおおおおおっ。


 後ろ足で立ち上がったデルワースが咆哮をあげながらルーサーに迫る。


「ルーサーっ」


 ルーサーが自分のもとを離れたことに気づいたウルマスが藪をかき分けて割って入り、手にしたロングソードで斬りつけた。しかし焦りで刃筋が定まらぬ一撃は粘膜の表面を滑り、傷を与えることができない。


「逃げろ、早く」


 危険を顧みずルーサーを振り返ってウルマスが叫んだ。その声にルーサーは、はっと我に返るが、我が子を想うウルマスの行為は敵に致命的な隙を相手に見せてしまう。デルワースの丸太のような腕が振り下ろされ、一本一本が短刀にも等しい鋭い爪がウルマスの身体を抉り、引き裂いた。


 幼いルーサーの頬に飛沫が飛び散る。頬を濡らした液体は驚くほどに熱く感じられた。思わず手をやったあと、朱に染まった自らの掌をまじまじと見詰める。何が起こったのか理解できない数瞬を経て、頭の中に凄まじい熱量の何かが吹き荒れた。


「父さんをっ、父さんをおおおっ」


 目の前で大好きな父親を屠られたことで、ルーサーの未熟な理性は吹き飛んだ。武器も力も持たぬ子どものルーサーが、冬眠から覚めたばかりで腹をすかし、血に酔ったデルワースに立ち向かうなど自殺行為以外の何ものでもない。デルワースの血に染まった腕が再び振り上げられる。


 その時、茂みを割って人影が飛び込んできた。鋭い剣の一撃がデルワースの腕を斬り飛ばす。


 がああああぁっ。


 デルワースが苦痛に吠える。人影はそのままルーサーを抱きかかえると一気に逃走を図った。しかし、僅かな差でデルワースのもう一方の腕がその人影の背を掠めた。


「ぐわっ」


 ルーサーを救った男が地面に叩きつけられる。腕に抱かれていたルーサーも激しい衝撃に呻いた。男の背から流れ出た血が雨と混じり、顔を濡らしていく。その感触がルーサーを正気に返した。


 ルーサーは男の肩越しに迫るデルワースをただ見詰めた。頼りになる父ですら一撃で殺された。そして今、自分を救おうとした男も、この巨獣の腕を一撃で斬り落とすほどの腕をもちながら、無残にも血を流して倒れている。


(怖い……怖い……怖い)


 妙に澄み渡った頭の中に純粋な恐怖だけが木霊する。

 どこかで、子供の泣き声がした。ルーサーは頭の片隅で、その声が自分と同年代の子どものものだと意識した。デルワースが残った腕を振り上げた。その一撃は男ごと自分の身体を引き裂くだろう。


(怖い!)


 ルーサーは固く目を閉じた。その瞼の裏が赤く光った。まるで目を閉じたまま強烈な日差しを仰ぎ見たときのようだ。そして、ルーサーの意識は途絶えた。


 ルーサーは自宅のベッドで目を覚ました。脇には目を泣きはらした母の姿があった。ぼんやりと記憶が蘇る。それは自分に迫るデルワースの血にまみれた爪のイメージ。ルーサーは叫んだ。狂ったように叫び続けて、また意識を失った。


 後に、ルーサーは自分を救ったのはイサリオンという男だったと知る。あの状況からなぜ助かったのかは分からない。しかし、ルーサーはそのいきさつをイサリオンに尋ねることはなかった。父を失ったその日の出来事を、その恐怖を、思い出したくもなかったのだ。


***


 鍾乳石から滴った冷たい雫が、また、うなじを打った。ルーサーが過去を顧みていたのは雫が滴り落ちる狭間のほんの僅かな時間だったようだ。


(怖い……怖い……怖い)


 膝を抱えた腕に一層力を込める。それが身を守るための精一杯の抵抗だとでもいうように。


(死にたくない、死にたくない)


「少しばかり我が力を味わうがいい……」


 どこかから声が聞こえる。その声がルーサーの心の奥深くに刻み込まれた何かを呼び覚ました。それはルーサーの本質とは異なる何か。


(怖い、死にたくない……《《生きたい》》)


 ルーサーは固く閉じていた目を薄く開いた。


(……《《生きなきゃ》》)

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