8 古き魔との邂逅
幽鬼が消えると同時に、ガラとオラフががっくりと膝をついた。どうやら呪縛が解けたらしい。
「あ、あなたは……」
カイは理解の範疇を超える出来事に対応できず、その一言を口に出すのが精一杯だった。
「待て、まずはあの者を見てやらねばならん」
そう言うと黒衣の男はルーサーに歩み寄りその小柄な身体を抱き起した。
「ふむ、かなりの生気を失っておるが、心配することはない。……弱き者、我が慈悲を授けん……」
男が無言でルーサーの額に手をかざすと、たちまちルーサーの頬に血色が戻っていった。回復系の魔法については、座学で学んだことがある。一般的な回復魔法ですら実際に目にしたことはないが、どうやらそれとはまるで異なる技のようだ。
「助けてくれたん……ですか」
カイの横に立つガラが呟くように言った。その後ろにはオラフの姿もある。
「何、我にも責があることゆえ」
オラフを手招きし、ルーサーを預けると男は微笑んだ。その笑顔にカイの心に残った警戒心は解きほぐされていった。脇を見るとガラもうっとりと男の顔に見とれている。
「さて、いつまでも寝かしておくわけにもいかん」
男はオラフの腕の中にいるルーサーに向って指を鳴らした。
「……!」
ルーサーが目を開き、一体何ごとが起きたのかと辺りを見回した。
「一体どうなってるんだ」
オラフが途方に暮れたような口調で呟いた。ほんの僅か前まで自らの腕の中でピクリとも動かなかったルーサーが、まるで何ごともなかったかのように立ち上がったのである。
「俺は……」
ルーサーは訳が分からないという様子で自分の身体を叩いて無事を確かめている。
オラフがその肩を抱き、ガラが手を取る。カイもルーサーの前に立ち安堵に微笑んだ。どことも知れぬ深い洞窟の中に和やかな空気が醸し出された。そんな中、カイはふと我に返って、黒ずくめの男に向きなおる。
「あの、恐ろしい魔物を追い払っていただいた上に、仲間を助けてくださったんですね。本当にありがとうございます」
ガラたちもはっとしたような表情になり、男に頭を下げた。
「何、気にすることはない。それより、なぜこのようなところにおる」
カイたちは、男の問いかけに対して、里の探索訓練で初めての領域に足を踏み入れたこと、先ほどの幽鬼に追われて当てもなく逃げ回り、この場所に追い込まれたことなどを説明した。
「ふむ、なるほどな……」
男は表情ひとつ変えず話を聞いていたが、最後にひとつため息をついて呟いた。
「さてさて、これをどう捉えるべきか」
男は瞑目するとカイたちに背を向けた。
「あなたは……」
男の発する気配が変わる。いや、カイたちを包み込んでいた何かが落ちたのか。不意にカイは言い知れぬ不安に襲われた。
よく考えてみればおかしなことばかりだ。探索訓練の洞窟の最下層にいるはずのない見ず知らずの者が潜んでいる。そればかりか男は聞いたこともないような術を用いるのだ。カイは反射的に一歩後ずさった。ガラたちも警戒心を取り戻したようで、同様に男から距離を取ろうとしている。
男は例の幽鬼について自らの目覚めが呼び起こしたなどと言っていたのではなかったか。そして何より訝しむべきことは、元来極めて用心深いスメクランであるはずの彼らが、これほどに如何わしい要素をもつ相手に奇妙なほど心を開いてしまっていたことだ。
「迷い込んできたのが訓練中のひよっこ、しかも四人とはな」
男の周囲から、現れたときと同じ圧倒的な気配が湧きあがる。四人は地面を蹴ってさらに間合いとった。
「あ、あんた何者なの」
幽鬼の放った恐怖とは別種の迫りくる力を浴びて、ガラの声が震えている。身体を拘束されることこそないものの、この相手には敵わないという理不尽なまでの先入観が刻み込まれ、心の奥底から絶望が湧きあがる。
「我が名はセムケルヴ、古き闇を司るもの。新しき者共よ、我が前に汝らの生の証しを献じよ」
名乗りを上げて振り向いた男の瞳は深紅に彩られ、ニヤリと笑う口元からは鋭い犬歯が覗く。
「くっ」
カイが意志の力を振り絞って刀を抜いた。他の三人も震えながら武器を構えた。
「魅了の術を自ら破ること能わず、我が影の残滓にすら怯える者共。せめて全霊の抵抗を以て、この邂逅に興を添えよ」
セムケルヴと名乗る男は、構えをとるわけでもなく自然体のままカイたちと対峙している。
「いつまで呆けておる。我はここにおるぞ。好きなように掛かってくるがよい」
えもいわれぬ魅力あふれる笑顔を四人に向けるセムケルヴ。しかし、もはやその笑顔には妖しげな魅了の力は込められていない。
「や、やるしかないのか」
カイが相手の正面に立ち、オラフは左に、ルーサーが右に展開する。ガラはカイの後方で援護の姿勢をとった。
カイが遮二無二正面から打ちかかる。無謀に見える行動だが、まったく考えなしの動作ではない。カイの渾身の一撃はあっさりとセムケルヴが掲げた右手によって止められた。まるで空気がふわりと受け止めるように、掌にも触れることができない。しかし、カイの攻撃は陽動だ。左右からオラフとルーサーが挟撃する隙を作るためのもの。
セムケルヴは接近するルーサーに対して左手で掌底の動作をする。その衝撃でルーサーが弾き飛ばされた。一瞬遅れて殺到したオラフにはやんわりとした蹴りの動作で対応するが、空気も揺らさぬような蹴撃はオラフの大柄な身体を易々と洞窟の壁にまで吹き飛ばした。
カイは歯を食いしばって不知火に力を籠めるが、セムケルヴが、ふっと口元を緩めたとたんに凄まじい圧力に飛ばされ、背後のガラを巻き込んで壁に激突した。
「がはっ」
なんでもない動作から繰り出される強烈な圧により、肺の中の空気がすべて圧し出されて、カイは呼吸困難に陥った。
(この男はいったい何者なんだ)
笑みを浮かべながら立つ男を睨み、カイは唸る。背後でガラが動く気配がした。
「ガラ」
「だ、大丈夫よ」
見回せば、オラフやルーサーもかなりのダメージを受けたものの戦闘不能には陥っていないようだ。カイたちはよろよろと立ち上がると、位置取りを確かめつつ、じりじりと間合いを詰める。
ガラの手から銀色の輝きが迸った。仲間を援護するために投じた小刀だ。セムケルヴが避ける様子も見せないにもかかわらず、小刀は空しく遥か先の壁に軽い金属音を響かせてぶつかる。続いてガラは同時に三本の小刀を投擲した。狙いあやまたず小刀は相手の両目と眉間に突き刺さる――はずだった。
微かにセムケルヴの姿が陽炎のように揺らめき、小刀はまたも涼やかな金属音と同時に空しく壁に当たって落ちた。回避する動作を目視することすらできない。ほんの一瞬、目にもとまらぬ最小限度の回避行動ですべてを交わされたのだ。
黒衣の男は四人の攻撃を受けてから一歩も動いていない。
カイはオラフに目をやると、小さく頷いた。オラフは一瞬戸惑ったような表情を見せたが、力強く頷き返す。
「りゃあぁっ」
セムケルヴの横合いから裂帛の気合とともにオラフが突撃する。大上段に振りかぶった斧が、その重量を乗せ、空気を切り裂いて振り下ろされた。数々の魔物を屠ってきた全力の一撃。しかし、それはセムケルヴの掌によって軽く受け流されて地面を抉る。即座に手の内で斧の柄を持ち替えたオラフはさらに一歩踏み込むと下から上へと薙ぎ払う、セムケルヴは僅かに背を逸らしつつ、手をあげてオラフを弾き飛ばしてしまった。
だが、オラフの攻撃は無駄ではない。カイが側面から、ルーサーが背後から同時に急襲をかける。後方からガラの小刀が飛来して相手の動きを牽制する。刀と短剣がセムケルヴの無防備な脇腹と背中へと迫った。
「ぐはっ」
「がっ」
セムケルヴの見事な、それでいて軽い回し蹴りの一撃に二人は跳ね飛ばされた。
カイは三メルあまりも後方の地面に叩きつけられた。ルーサーも蹲って咳き込んでいる。
「稚拙なざまから基本には立ち返ったとはいえ、我が身に触れること能わず」
セムケルヴの静かな声が耳に届く。三人は倒れた状態からなんとか身を起こし、うずくまったまま、その声を聞くことしかできない。
本来盾役は身体も攻撃も重量のあるオラフの役割だった。一度目の攻撃は最近の探索訓練で無茶を続けてきたカイがその役を担っていたが、それは歪んだ連携なのだ。最も動きの速いルーサーと、最も動きの遅いオラフの挟撃により生じたタイムラグの隙をつかれ、いともたやすく攻撃を退けられた。
しかし、二度目の攻撃はカイたちのパーティーが過去に何度も難敵を沈めてきた得意の連携だった。それすらも、この相手には届かない。
「カイ」
ガラの囁きに振り返ると、彼女はかがみ込んでセムケルヴの視線をカイの姿で遮りつつ自分のベルトを指し示していた。もはや投擲用の小刀がないことを伝えてきたのだ。
カイは静かに立っているセムケルヴに目をやる。相変わらず最初の位置からまったく動いていない。カイたちの攻撃は傷ひとつ与えられなかった。それ以前に触れることさえできていない。その上、相手は底を見せていないどころかまともな反撃すらしていないようなのだ。ただ手をかざすだけ自分たちは弾き飛ばされ、力を込められたようには思えない蹴りで翻弄されている。
(どうすれば……)
カイの心中に迷いと怖れが渦巻く。戦いのさなかにおいて自らの目を曇らすもの。ただでさえ得体の知れない力をもつ相手に向かうにあたって、自らの中にまで敵を作っては勝負にならない。
「う、うわあぁぁっ」
恐怖に塗り込められた叫びが上がる。
「よせ、ルーサー」
カイの制止にもかかわらず、ルーサーは出鱈目に短剣を振り回しながらセムケルヴに向かって突っ込んでいく。
「やはり弱き者、耐えること能わず」
セムケルヴはルーサーの腕を掴むとその勢いのままオラフのいるほうへと痩せた身体を投げ飛ばした。倒れ、転がるルーサーをオラフが膝をついた姿勢のまま受け止める。オラフの腕の中でルーサーは震えている。これではもう戦力にならない。カイは開いたままの扉に目をやった。せめて脱出できれば。
「彼我の見極めは肝要。なれど容易に遁走できると思うことなかれ」
セムケルヴの腕が上がり、出口を指さす。
「ああ……。うむ、巌柱槍徹」
地中から高さ四メル、直径二メルにも及ぶ鋭い石筍が突き出し、出口を突き崩して塞いでしまった。
「な……。魔法まで」
カイは背筋を冷たいものが這い降りるのを感じた。近接戦闘だけでなく魔法も使いこなす相手である。こうして距離をとっている間もいつ攻撃されてもおかしくなかったのだ。
「くそっ」
オラフがルーサーを岩陰にそっと寄りかからせて立ち上がる。カイも不知火を中段に構えて立った。ガラがシャムシールを抜いて駆け、ルーサーのいたポジションを占める。
カイは相手の隙をうかがいながら間合いを調節しつつじりじりと移動した。セムケルヴは泰然自若としたありさまで身構えるでもなくじっとしている。それでいてまるで隙がない。
(隙があるとすれば……)
「オラフ、ガラいくぞ」
タイミングを合わせて相手の懐に飛び込む。今度は一撃で決めようなどとは思わない。とにかく一瞬たりとも止まることなく動き回り、威力は弱くとも、何度も何度も斬りつける。時には少しばかりの距離を置くヒットアンドアウェイも織り込んだ攻撃。ガラとオラフもカイの動きを見て、同様の攻めをする。
「ほう、面白いな」
すべての攻撃を難なく躱し、いなし、受け流し、セムケルヴは揺るがない。未だに立ち位置を変えることすらしていない。三人の手数を活かした連続攻撃は過去にないほどに息があった鋭いものだ。それでも触れることすらかなわない。
「しかしながら、所詮は少々疎ましいという程度。羽虫にも及ばぬ煩わしさよ」
セムケルヴが何かを払い避けるかのように右手を横に振る。そのひと振りで、三人はまた弾き飛ばされた。
「少しばかり我が力を味わうがいい……」
セムケルヴが魔法に集中する気配を見せた。それこそが、カイの狙った千載一遇のチャンスだった。わざと懐に飛び込み、相手を煩わせて、距離を置かれたところで魔法攻撃を誘う。魔法攻撃をする際にはどんな術者であっても、僅かなりとも隙ができる。
カイは、弾き飛ばされると同時に腰にさしていた二本目の刀、幼いころから使い慣れた小太刀を抜いていた。それを岩をも徹さんとばかり、渾身の力を込めて黒衣の男に向けて投じた。
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