7 最深層に潜むもの
カイは頬の痛みを感じながら、第五階層へ降りて行くガラの背中を見送った。
仲間たちの気持ちを理解できないカイではない。
『騙されたくないのなら、騙されずに済むように知恵をつけろ。誰かを犠牲にしたくないのなら、犠牲にせずに済むように強くなれ』
イサリオンの言葉がカイの脳裏に浮かぶ。
(もう誰も、自分の未熟さのために犠牲にするわけにはいかない。強くなりたい)
しかし、強くなるということは一足飛びに成し遂げられるものではないことにカイは気づいていない。イサリオンの言う強さの意味を半ばしか理解していないのだ。
ロゲスの巣窟でリータを失った体験が、ただカイを急き立てる。
もっともっと、強くならなければ。
そんな焦りの中で、仲間との関りを避けるようになったのは、心を通わせた相手を失うことへの怯えからだ。それが手遅れであることにまでカイの頭は回らない。今更疎遠を装ったところで、万が一失うことになれば、心の痛手が軽くなるわけでもないのだ。
カイは歯を食いしばると、ガラの後に続いて隠し扉の奥にある階段に向った。
第五階層は、探索訓練用洞窟の最下層であり、成人直前のある程度腕を認められた者にのみ解放されていた。それまでの階層よりもはるかに広く、幾筋にも枝分かれしていることが特徴である。
階段を下った場所は、円形の石造りの部屋になっていた。壁には八方に洞窟が口を開いている。
「第八洞窟の深部まで行けって言ってたよな」
オラフが松明をかざして薄暗い部屋を見回した。
「こっちだ」
カイは唯一今までに入ったことのない洞窟へと向かった。ガラを怒らせてしまったことに胸は痛んだが、先頭を譲る気にはならない。
しばらく真っ直ぐな道が続く。これはすでに探索訓練を済ませた洞窟も同様だった。中心である第五階層最初の部屋から大きく離れたところから迷宮は展開を始めるのだ。
息を殺してあたりの様子を伺いながら歩みを進める。やがて重厚な扉が一行の前に立ちふさがった。カイを押しのけるようにして、ガラが鍵穴を調べた。
「罠はかかってないみたいだけど、鍵が厄介ね」
開錠の技術に最も優れているのはガラだ。細い金属針を操作して、ガラが鍵を開ける作業にかかった。残りのメンバーはガラの手もとを照らしつつ、周囲の警戒にあたる。
この扉まで一度も敵意ある生き物に遭遇しなかった。背後はほとんど安全なはずだった。
「……何かヘンだ」
ところが、顔をしかめたルーサーが低く呟いた。
ルーサーの気配を感じ取る勘は鋭い。暗闇に閉ざされた今来たばかりの通路にじっと目をやっている。
「どうした」
オラフが囁いた。
「しっ」
ルーサーが手で制した。開錠作業中のガラがたてる金属音だけが微かに響く。
「何か来る、ヤバいやつだ」
切羽詰まった口調だ。その顔からは血の気が失せている。どんな状況であっても、口数少なく絶えず冷静に振舞うルーサーにしては珍しい。
何も見えず、音もしないが、その存在の兆しは触手のようにカイにもまとわりついてきた。得体の知れない恐怖が背筋を這いあがる。
「ガラ……急いでくれ」
「分かってる、もう少しだけ。とにかくしっかり手もとを照らしてて」
ガラも気づいたのか、額に薄く汗が滲んでいる。
今まで感じたこともない禍々しい気配。闇の彼方に薄ぼんやりとした姿が浮き上がった。
「ま、まさか」
宙に浮かんだ青白い影が滑るように近づいてくる。突如として脳内に直接刺し込まれるように、鋭い金切り声が響き渡った。
「開いたわ」
ガラが叫んだ。
「オラフッ、先頭を頼む。走れ」
朧げなる魔物、死して肉体から遊離した悪霊はすでに背後数十メルにまでに迫っていた。
今までの第五階層の洞窟には比較的知能が高い獣系の魔物が現れていた。それはそれで危険には違いないのだが、今目の当たりにしている存在は次元が異なる。探索訓練の洞窟に不死系の魔物が現れるなど聞いたこともない。それ以前に、あってはならないことなのだ。
不死系であっても、蠢く屍など実体をもつものであれば破壊することはできる。しかし、より高位の実体をもたない魔物は聖なる武器を所持しなければスメクランには対処しようがない。
「ど、どうして」
ガラの怯えた声がカイの耳に届いた。
「クソッ」
オラフが喚いた。斧の一撃で倒された魔物を飛び越える。オラフが目前に現れる邪魔な魔物を蹴散らし、血路を開いている。しかし、第五階層ともなれば遭遇する敵も一筋縄ではいかないはずだ。自分も先頭に出て援護すべきだろうか。万が一足止めを食らえば挟み撃ちになる。そして、背後から迫る相手には対処する術がない。
カイは速度を上げてオラフの横に並んだ。
「援護する。みんな速度を落とすな」
闇から飛び出してくる魔物を斬り伏せ、殴り倒した。止めなど必要ない。訓練ポイントのことなど問題外だ。とにかく切り抜けて、背後から迫るモノを振り切ることだけを考えて走るしかない。
洞窟の天井から逆さ吊りになって襲いかかってくる長い毛に覆われた獣、テルヒムのそっ首を一撃で叩き落として駆け抜ける。同時に鋭い爪による一撃がかすめ、頬に鋭い痛みが走った。カイはぎりりと歯噛みする。
後ろからまた不死の魔物の放つ、断末魔を思わせる甲高い絶叫が響き、精神の均衡を削っていく。
無理な逃走は、次第に集中力を奪い、傷を負うことが増えてきた。カイはこの期に及んで、また自分の至らなさに舌打ちをする。
背後にちらりと目をやる。恐るべき敵との間は変わらない。追いつかれつつあるわけではないが、このまま振り切ることができなければ、いずれは捕まることになる。
もはや迷路のような洞窟をどう走ったのかも定かではない。ひょっとすると同じところをぐるぐると走っているのかもしれないという疑いがカイの心を苛んだ。
オラフの荒い息遣いが聞こえる。戦闘しつつ走り続けることが急激に体力を奪っているのだ。ましてや背後からは体験したことのない恐怖が迫ってきている。
「しまった」
袋小路に入り込んでしまったようだ。行き止まりになった通路の正面に目を凝らすと、古びた扉があるのに気がついた。迷っている暇はない。立ち止まることが許されない以上、出たとこ勝負であろうと扉の奥へと進むほかないとカイは腹を括った。
オラフが肩でぶち当たり、扉を開いた。
そこは広い空間になっていた。高い天井から無数の鍾乳石が氷柱のように下がり、地面のいたるところに大小の石筍が立ち並ぶ。その一部は天井の鍾乳石と繋がり、柱のようになっていた。壁は濡れた石灰岩が襞のように重なり奇怪な天然の模様を描き出している。
洞窟の奥には地下水が川のように流れているが、その先は壁で行き止まりになっているようだ。
「行き止まりかよ」
オラフが扉に向き直って斧を構えた。
「散開しろ」
カイは反射的に指示を出したが、この窮地を脱する策があるわけではない。
扉の先にぼんやりとした影が浮かび上がる。青白く揺らめく幽鬼は洞窟に入ると動きを止めた。その姿は人に似た輪郭をとり、顔の部分には表情のようなものすら見てとることができた。カイたちはできる限り距離を取りつつそれぞれの武器を構えた。それが相手に対して何の効力ももたないと分かっていてもそうせずにはいられないのだ。
(どうにか、やり過ごして扉に突っ込めれば……)
仲間に目で合図して、じりじりと扉へと向かう。
そのとき、冷たい炎のように揺らぐ影が一瞬大きくなったように感じられた。
「くっ」
物理的なものでない衝撃がカイの身体を走り抜けた。それは恐怖の波動とでも呼ぶのが最も近いだろう。全身が硬直し、手から不知火が滑り落ちた。ほかの三人も武器を取り落として固まっている。
(身動きが……取れない)
手も足も出ない状況に、冷たい手で心臓を掴まれたかのような恐怖がカイの心を支配した。
朧な姿の悪霊は品定めでもするかのように四人を見回すと、やがてそのうちのひとりのもとへゆっくりと進み始めた。
最初の獲物に選ばれたのはルーサーだった。
ルーサーは恐怖の限界を超えたのか、表情から一切の感情が失せ、虚空に焦点を結ばぬ視線を向けている。
(止せ、やめろ)
青白い影がじっくりと時間をかけてルーサーとの距離を詰めていく。まるで相手の恐怖心を吸い上げて玩味するかのように。
(くそ、動け、動け)
ルーサーをむざむざと見殺しにすることしかできない己の不甲斐なさにカイは臍を噛む。ルーサーの目の前に浮かんだそれは、ゆっくりと手を掲げる。その指先がルーサーの額に触れた。
「やめろおぉっ」
渾身の力を振り絞り、カイが叫びをあげるのと、ルーサーの身体が崩れ落ちるのは同時だった。呪縛が解けた瞬間に不知火を拾い上げると、カイは敵に向かって突進した。攻撃が通用するかどうかなどは意識の埒外だ。全力で斬りつけた一撃は、まるで手ごたえなく、幽鬼の身体をすり抜けた。
枯れ枝のように青白く、薄く向こうが透けて見える指先が、姿勢を崩したカイの額に向けて差し出される。
ぞくり。
異様な気配を感じ、カイの背筋に冷たいものが走る。それは自分に迫る魔物から発せられるものではなかった。
洞窟内の温度が数度下がったかのように感じた。奥の地下水脈の方向から濃密な『気』が押し寄せ、カイに指を向けていた青白い影が気圧されたかのように漂って落ち着かなげに揺らめく。
「なんたる騒々しさよ。我が静謐なる憩いのときを妨げおって」
静かでありながらよく通る声がカイの耳朶を打つ。恐る恐る目をやると、そこには何者かの姿があった。
長身の痩せた男である。漆黒の髪を綺麗に後ろになでつけ、貴族がまとうような豪奢な衣装に身を包んでいる。黒を基調に上品にまとめられたそれは、高価な服飾の知識がないカイから見ても嫌味のない着こなしに感じられた。
男は青白い影に目をやると、ふんと鼻を鳴らし、僅かに口許を緩めた。
恐ろしいまでの美貌である。やや細めだが綺麗に整った眉、切れ長の目に深い色を湛えた黒い瞳、尖り気味だがすっきりとした鼻梁。引き締まった口許はどこか酷薄な感じを受けるが、赤みのさした薄い唇がその印象を和らげている。
「どうやら我が目覚めが呼び起こしたもの。影の残滓が彷徨っておるようだな」
男は誰に言うでもなく呟くと、手で軽く何かを払い避けるような仕草をした。風も起こさぬような腕の一振りで、青白い炎のような幽鬼は、たちまち消え失せてしまった
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