2 異変
耳元で風がうなる。まだ息は上がっていないが、カイの呼吸はだいぶ乱れ始めていた。
子供たちを救出した後、ザグレム党の長、カルバリンから褒賞を授けられたところまではよかった。しかし、救出メンバーの若手四人は体力不足をゴンザに咎められて特訓に駆り出されるという憂き目に遭っていた。パン平原を突っ切って、ひたすら南に向って走り続けるように命じられたのだ。
彼らの後ろを一定の速度でゴンザがついてゆく。落伍者は容赦のない鞭の餌食になることを覚悟しなければならない。四人は流れる汗を拭う間もなく走り続けていた。
「どうせなら、モノコーンの群れでも出てこないかもんかな」
カイの横を走るオラフが悲壮な声で物騒なことを言う。
「余計なことを言うな。息が続かなくなるぞ」
そう答えたカイも、今では難なく退けられるようになったモノコーンが、こんなときに限って一向に姿を見せないことを忌々しく感じていた。無茶なペースで走り続けるよりも、モノコーンクラスの魔物の相手でもしていたほうがはるかに楽なのだ。
「よし、歩け」
肺が焼けつくような息苦しさと、脇腹の差し込むような痛みが限界に達したときに、待ちに待ったゴンザの命令が下った。
「立ち止まるな。歩き続けろ」
思わずへたり込みそうになる四人をゴンザが叱咤する。
肩で息をする四人に対して、ゴンザはまったく息が乱れていない。バグレストの森を出て走り始めてから、すでに二時間あまりが経っていた。
「渡し場まで行って、日の落ちる前に里に帰るからな。覚悟しろ」
サルデア窟までの行程では、やや西寄りのルートを通ったが、初日でイルドゥイン川が見えるところまで進んで一泊した。カイやガラといった慣れない者がいたとはいえ、スメクランの歩行である。それですらかなりのペースだったのだ。どうやら教官はその倍以上のペースを課そうとしているらしい。カイには反抗する気力もなかった。
ゴンザはゆっくりと歩く四人から離れて周囲を歩き回っている。どうも何かを警戒しているようなそぶりだ。
「なあ、おかしいぜ。ここまでモノコーンはもちろん他の獣一匹見かけないなんて」
カイに話しかけてきたのは、走りには滅法強いルーサーだ。もう息も整いつつある。その脇ではオラフが荒い息をつきながら水筒の水を浴びるように飲んでいた。
「そういえば、やけに静かだな」
モノコーンに出くわさないことに漠然とした違和感をおぼえていたものの、そこまでの異変に気づく余裕がなかったカイは、過酷なペースで走りながら周囲を観察できるゆとりがあったルーサーの走力と冷静さに舌を巻く。
パン平原のおよそ中心あたりだろうか。周囲の草はすねの中ほどくらいまでの高さで揃っている。見晴らしがいいのはありがたいが、スメクランの習性だろうか、手近なところに遮蔽物がないのは、なんとなく落ち着かない。
たしかにルーサーの言うように、どこを見ても動物の姿はない。ただときおり吹き過ぎていく風が、草原の草を薙いで波紋のような模様を描いていくだけだ。
雲ひとつない晴れ渡った夏空のもと、青と緑の鮮やかなコントラストが目に眩しい。一見すれば長閑な風景だ。しかし、何かが欠け落ちたような静けさに得体の知れない不安が呼び覚まされる。
ガラとオラフも同じように感じたようで、周囲を見回して眉をひそめている。
しばらくしてゴンザが戻ってきた。
「よし、十分休んだだろう。出発するぞ。一塊になって、このまま南をめざせ」
後を追ってくるゴンザは心なしか速度を落としているようだ。あたかも全員が脱落せずに、可能な限り速く長距離を走れる速度に調節しているかのようでもある。おかげでカイは、それまでよりも多少の余裕をもって走り続けられるようになった。前半は喧しいほどに怒声を張りあげて叱咤してきたゴンザが一言も発せずにいる。
じりじりと日が中天へと昇っていく。目に見えて景色が変わらない中を走り続けるのは苦行だ。無限に続くかのように感じられてくるのだ。
ようやく、待ちに待ったイルドゥインの流れが目に入った。
小高い丘陵からの眺望は、以前カイとガラが訪れたときとは、また違った姿を見せた。夕暮れどきの光ではなく、夏の陽光を浴びて川は一層明るく眩しいほどに輝いていた。
川岸には船着き場があり、幾艘かの小舟が係留されている。その周りに、小さな集落が形作られていた。
一同の間をほっとした空気が流れる。
「さあ、あと一息だ」
「よっしゃあっ」
「フゥウウウッ」
ゴンザの声に若者たちは疲れも忘れて一斉に速度をあげて走り出した。草に覆われた、なだらかな河岸段丘を跳ねるようにして下っていく。
半日間に渡って足腰を酷使したにも関わらず、難路であるはずの下り坂を軽やかな足取りで駆けてゆくのは、目的地を目にした安堵からだ。
先頭を切って集落の門前に到着したのはやはりルーサーだった。続いてガラ、カイ、オラフの順で駆けこむ。
オラフが門前に据えられたトゥル用の水桶に顔を突っ込んで水を飲み始めた。
「汚いわねえ。ま、オラフにはお似合いだけど」
ガラが笑って言った。
「くーっ、たまらんぜ」
オラフが顔を上げてずぶ濡れの頭を振りまわした。しぶきが辺りにまき散らされる。
「ちょ、やめてよね」
ガラが飛びのきながら怒鳴った。
「おい、はしゃぎ過ぎるなよ」
たしなめるゴンザの表情にも安堵の色が見て取れた。
この集落に住んでいるのは、大半がザグレムの里出身のスメクランたちだ。ほかに、どこかから流れ着いた人間や、商店を営む一握りの小人がいる。
スメクランは他種族から蔑まれているが、この船着き場の集落には、そのような雰囲気はない。
ここがザグレムの里の勢力範囲内でスメクランの数も多いからだろうか。ここから出れば、いったいどのような待遇が待っているのか、そう思うとカイの心に影が差した。
五人は門から船着き場へと続く、道沿いにあるみすぼらしい食堂に入った。ゴンザが全員の注文を勝手に決めて、小人の店主に伝えた。一応訓練として来ているので、払いは教官のゴンザがすることになっている。
カイたちがぐったりと椅子の背にもたれかかって、食事を待っていると、ひとりのスメクランが影のようにゴンザへと歩み寄った。
「少々お耳に入れておきたいことが」
「どうした、ジグ」
ジグと呼ばれた小柄な男はカイたちにちらりと鋭い目を向けた。ゴンザは構わんとでも言うように頷いて見せた。
「先ほど、船着き場にやってきた旅人から妙な話を聞きつけました。そいつは対岸の川沿いを東から来たらしいのですが、何でもロゲスの巣がある辺りから幾筋も煙が上がっていたとか……」
「お前が訝しむわけだから、ただごとではないのだな」
ジグが暗い表情で頷く。
「何者かの襲撃によって焼かれたのではないかと」
そこへ、店主が食事の皿を盆にのせてやってきた。ゴンザとジグはぴたりと会話を止めた。皿が机に並べられていく。その間ゴンザは目を閉じて、何か考え込んでいるかのような表情を浮かべていた。店主が去ると、ゴンザはカイたちを見回して言った。
「お前たちも、よく話を聞いておけ」
スメクランの習慣で、カイは二人の会話を漏らさず聴き取っていたが、あえて指示されたことで、一層身を入れて話に耳を傾けた。
「それと、皆さんが子供たちを奪還した後ですが、我々が念のため警戒を厳重にしていると、ロゲスどもが、性懲りもなくここへ潜り込もうとしてきました」
「何だと」
「子供たちの誘拐事件以降ここの戦力も増強されましたし、不意を突かれさえしなければ、ロゲス程度は撃退できます。まあ、難なく追い返したんですが、ご存知の通りヤツらはそれほど執念深い連中ではありません。それがまた、というのが解せないんで、重傷を負った捕虜を締め上げてみたんです」
「それで?」
ガラが好奇心に目を輝かせて身を乗り出した。一方ゴンザの表情はどこか優れない。
「低能な連中ですし、妙に怯えていて要領を得ないんですが、なんでも生贄がどうとか。だいたい、普通は集団で子供を何人も攫うようなことはしない連中ですからな。元々妙な話ではあったんです」
「それについては、カルバリン様やケイドル様も懸念しておられた」
「ねえ、それってどういうこと?」
ガラが苛立たしげな口調で言った。
「黙っていろ」
ゴンザが一喝する。長の娘とはいえ、今は一介の訓練生である。その様子を見て、ジグは細い眉を片方吊り上げたが、また続ける。
「ロゲスどもの巣が以前から何らかの脅威にさらされていたんじゃないかと。それで、里に連絡しようと思っていた矢先に、あなたがお見えになったんで」
ゴンザは訓練教官であると同時に、有事の際はトリクやヘルムらとともに防衛の指揮官として行動するように長から命じられている。
ジグの報告を聞き、ゴンザは腕組みをして黙り込んでいたが、やがて顔を上げるとカイたち四人の顔を見回した。
「現場はこの目で確認したいが、お前たちを放っておくわけにもいかんか……。ジグ、里にすぐ伝書小竜を飛ばしてくれ。同時にことの詳細を説明できる足の速いやつを走らせろ。ルーサー、ジグの配下とともに里に戻る使者にたて。置いて行かれるな」
ルーサーは自分の顔を指さして、細い目を見開いた。彼は将来の里での役割として、自慢の走力で繋ぎを取る伝令役を志願していた。うってつけの役目だ。
「あと、腕の立つ者を二名ほど貸してくれ」
「それなら私が行きましょう。今のところこの街に脅威はありませんし、守備ならそこそこの腕の連中が残っていますから。
あとひとりは適当に見繕います」
ジグがニヤリと笑った。
「助かる。ガラ、カイ、オラフ、お前らは俺とロゲスの巣へ偵察に出る。いいか、今からは訓練じゃない。任務だ。心してかかれ」
カイはたいして美味くもない食事を大急ぎでかき込んだ。長距離を走ったばかりで食欲はないが、これからの行動のために栄養補給をするのも任務のうちだ。
その間に、ジグがスメクランの女をひとり連れてやってきた。
「モーズの里からの『降り』ですが、なかなか使えます」
『降り』は何らかの理由で、元々所属していた里に居られなくなったり、追放されたりして別の里に迎え入れられた者をいう。里の後ろ盾を失ったスメクランは、たいていの場合は野垂れ死にするか、生きていても物乞いに身をやつすか野盗に成り下がるのがせいぜいだ。『降り』となって新天地に迎え入れられる者は少ない。
「リータと申します」
顔色の悪い女は陰鬱な表情でゴンザに頭を下げた。ゴンザはジグに目をやった。
「以前こちらにやってきたトリク殿と私でじっくりとテストしました。信頼に足ります」
ジグが請け負った。
カイの心にふと不安がよぎる。信用と信頼は違うのではないか。スメクランの社会では腕は信頼できても信用できる相手は少ないのが常識だ。里の者であればともかく、外からやってきた得体の知れない相手とともに任務に就き、命を預けるのはやはり不安があった。
「お前とトリク殿が認めたのであれば、大丈夫だろう」
カイの危惧をよそに、ゴンザはあっさりとその女の同行を認めた。
「使いの者は、すでに門前に待機しています」
ジグが言った。ゴンザがルーサーに目をやると、ルーサーは即座に席を立った。
「伝書小竜は飛ばしたな」
ゴンザの問いにジグは黙って頷いた。
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