8 穢泥貝の雫
さらに一行は歩き続けた。視界の効かない上に水中という慣れない環境に置かれて、すでにカイは時間の感覚を完全に失っていた。ほどなくして頭上に魔法の光を反射する水面が見えてきた。ようやく空気があるところに達したのだ。
濁り切った気泡の空気から解放されることを期待してカイの顔にほっとした表情が浮かぶ。力を振り絞って歩き、ようやく水面が胸の辺りまできたところで、モモは歩みを止めた。カイはあたりを見回すが、上陸できるようなところはなかった。洞穴は広いがかなり先で行き止まりになっており、この浅瀬が目的地のようだ。
カイの横でガラが苦し気な表情を浮かべて、自分の顔を指さした。
「あ、ここなら空気があるので、言葉は通じますよ」
モモがガラを見て言った。
「そうなの、じゃあこの魔法解いてくれない? 息苦しくって」
ガラの表情は冴えない。空気が悪くなった上に慣れない水中の移動で憔悴しきっているようだ。
「もう一度魔法をかけなおします。窮屈でしょうが、魔法を解くわけにはいきません。ここの空気はすっかり腐りきっていて、呼吸はできないのです」
モモが申し訳なさそうな表情で言った。そして、ガラの顔の前に手を掲げて呪文を唱える。
魔術師はその精神力を用いて魔法を発動する。以前ナムルから学んだことをカイは思い返していた。洞穴に入ってからずっと明りを灯す魔法を使い続け、こうして呼吸ができるように気泡の魔法も使っている。魔術師がどれくらいの魔法を使えるものなのかは分からないが、ただでさえ歩きにくい水中を周囲に注意を払いながら進んできたのだ。外見でそれを感じさせないが、モモもかなり消耗しているのかもしれない。
「さあ、ここに穢泥貝がいます。みんなで探しましょう」
モモがやや新鮮な空気が満ちた空気の膜の奥で疲れた笑みを浮かべた。
三人は足で深い泥の中を探りながら、あたりをそろそろと歩き回った。ともすればどこまでも沈み込みそうになる足を力任せに引き抜かなければならない。それは骨の折れる作業だった。
突然洞穴の中にガラの悲鳴が響き渡った。カイが振り返ると、ガラが顎まで水に浸かりながら苦痛に顔をゆがめている。
「どうしたんだ」
カイが駆けよるが返事はない。歯を食いしばったガラは口もきけない様子だ。
「まさか……」
モモは呟くと水中に潜った。ぎりぎりと歯ぎしりをして苦痛をこらえるガラの額に脂汗が浮かんでいる。モモが水面に青ざめた顔を出した。
「大変です……ガラさんの足が穢泥貝に挟まれてます」
「なんだって」
「たまたまほんの少しだけ口を開けていた貝に足を突っ込んでしまったようです。鉄製の脛当てをしていたのが不幸中の幸いですが、鉄がひしゃげて足に食い込んでいるようです」
「なんとか魔法で開かせてくれ」
気がせいて、モモを怒鳴りつけるような口調になるのをカイは止めることができなかった。
「ご、ごめんなさい。水中では水の魔法によって作り出される清流に汚泥が混じってしまうので、貝は十分に開いてくれないんです。だからわざわざ外まで持ち出すのですから」
「じゃあ、俺が貝を持ち上げれば何とかなるのか」
カイはいても立ってもいられない様子でモモに訴えかける。
「無茶です。貝はとっても重たいし、輝水壁の魔法の水は零度に近いうえにすごい圧力があるのです。ガラさんはもちろん、支えるあなただって恐ろしく体力を消耗してしまいます。ここから帰る分の余力は残りませんよ」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「……」
叫ぶカイに応じる言葉はモモにはなかった。じっと考え込んでいる。
「いつまでもここにれば、いずれはモモの魔法力もなくなって、定域滞留気泡が切れてしまいます。かといって助けを呼びに行こうにも魔術師はモモひとり。二手に分かれれば、モモがついていないほうが窒息死してしまう……」
そこで、モモはちらりとカイの装備している飛龍の胸当てを見た。
「いずれにせよ、ガラさんの足には今でも想像を絶する圧力がかかっています。やってみるしかないですね」
カイは力強く頷くと、ガラの腕を取った。
「しっかり俺につかまっていてくれ」
水中に潜ったカイはガラの足元を探る。すると今までに見たどれよりも大きい穢泥貝が、がっちりとガラの足を咥えこんでいるのが目に入った。カイは泥の中で腰を落とし、巨大な穢泥貝を抱えた。口を上にした状態で持ち上げてはガラの足に負担がかかる。ガラの身体が水平になり、カイの肩で支えられるように、貝を縦にして持ち上げなければならない。
カイは歯を食いしばり、全身の筋肉に力を込めた。じわじわと穢泥貝が持ち上がる。水面下まではなんとか持ち上がったものの、そこからは水の浮力に期待できない。腹に力を込めて、なおもじりじりと持ち上げていく。カイの肩の上ではガラがぐったりとしていた。あまりの痛みに気を失ったらしい。
「お願いです。もう少しだけ……もう少しだけ持ち上げてください」
モモの声に切迫感がうかがえる。カイは固く目を閉じてひたすら力を籠めた。
「輝水壁!」
モモの呪文が耳に届く。さらにずしりと重みがカイの腕にかかり、身を切るような冷たい水が両腕ごと穢泥貝を包み込む。がりがりと自分の奥歯が鳴るのをカイは聞いた。ゆっくりと穢泥貝が開いていく感触が伝わる。次の瞬間、耐えきれないほどの重みがわずかに軽くなった。背後で水音がする。挟みこまれた足が外れて、ガラが水中に投げ出されたようだ。
力を抜くと同時にカイはすっと気が遠くなるのを感じた。
「……さん。カイ……ん」
せわしなく肩を揺すられてカイは意識を取り戻した。
「凄かったです。おかげで無事ガラさんの足を貝から外すことができました」
「ガラは……」
「骨は大丈夫のようです。でもこのままじゃいけません。モモは治療の魔法は使えないですけど、この泥の中じゃガラさんの足の傷が心配です。せめて流水射で洗い流して、足にも定域滞留気泡をかけておかないと、雑菌で化膿してしまいそうなんです。少しの間、ガラさんの足を持ち上げていてください」
モモが申し訳なさそうに言った。
「分かった」
答えたカイはガラに向きなおろうとして顔をしかめた。全身の筋肉が悲鳴を上げていた。わずかに動くだけで激痛が走る。
「ううっ」
「カイさん?」
「大丈夫、大丈夫だよ」
カイはなんとか身を起すと、水面に浮かんでいるガラの足を持ち上げた。そこにモモが魔法をかける。施術が終わって気絶したままのガラの肩を担ぐと、二人はようやくほっと息をついた。
「そうだ、カイさん。さっき穢泥貝を開いたときにこれが転がり落ちたんです。今の状態で別の穢泥貝を持ち帰るのは無理ですから、これをタルベルトさんに渡しましょう」
モモが差し出したのは大きな穢泥貝の雫だった。
「モモが見た中でも一番の大きさですよ。ガラさんの意識が戻るのを待って帰りましょう」
相変わらず長く伸びた髪のせいで目の表情は読めないが、泥だらけの頬を緩めるモモの笑顔にカイの心はほぐれた。
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