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6 カイとイサリオン

お読みいただきありがとうございます。

 カイは意を決して、住み慣れた家の扉を開けた。

 いつものようにイサリオンは机に向かっている。アーライルは既に自宅へも連絡が行っていると口にしていた。


「父さん……」


 イサリオンはゆっくりと振り向いた。その表情はいつもと変わらない。


「……」


 沈黙が流れる。イサリオンの眼にはカイを責めるような色はない。そのことがかえって落ち着かない気分を呼び覚ます。家に入る前に考えていた諸々のことが頭の中から消え去って行く。

 空っぽになった中から湧きあがる言葉を素直に口にしていくしかない。


「俺……。またしくじったよ。

 今度のことは今までとは比べ物にならないと思う。自分自身も死にかけたし、何よりガラを危険に晒すことになったんだ。力が足りないとか、反省したとか、そんな言葉じゃあ言い表せない何かを思い知らされたような気がする」


 カイはイサリオンの漆黒の瞳に魅入られたように続ける。


「父さんは言ったね、『誰かを犠牲にしたくないのなら、犠牲にせずに済むように強くなれ』って。今の俺にはどうしたらそうなれるのか見当もつかないけど、ただ……俺、強くなりたい」


 カイはそこまで言うと息をついた。言い訳じみたところもあるかもしれないけれど、今胸の内にある思いのたけを、とにかくすべて曝け出してしまった。


「ならば、それでいい」


 イサリオンはそれだけ言うと、また机に向かった。

 口数が少ない父だとはカイも思っていた。しかし、まさかそれだけで終わるとは思ってもみなかった。思い切り肩透かしでも食らったようだ。

 まだ父には聞きたいことがある。カイは会話の接ぎ穂を探してしばし逡巡した。


「ひとつ言っておきたいことがある」


 イサリオンがカイに背を向けたまま、唐突に言った。背を向けているはずなのに、睨み据えられたかのような強い圧を感じる。


「もし、強くなりたいのならば、どんなときも冷静さを失うな」


 イサリオンが今一度振り返ってカイを見た。その瞳には強い光が宿っている。


「そして、何より大切なことは恐怖に身を任せぬことだ」


 そう口にした後、その眼がふと和らいだ。


「今日のところはゆっくり休め」


 イサリオンの言葉はカイの心に染みた。


『どんなときも冷静さを失うな』『恐怖に身を任せぬことだ』


 この言葉を口にしたときにイサリオンから迫る強い『気』のようなものが印象に残った。

 それを胸に納めたうえで、まだカイは動かない。今こそ尋ねるべきことを口に出すときだと思ったのだ。この機会を逃せば、それを問いただすチャンスは無いと感じていた。


「父さん、聞きたいことがあるんだ」


 カイは意を決して口を開いた。


「父さんはなぜ、こうして引退したような生活を送っているの?」


 イサリオンの表情には変化がない。ただじっと黒々とした深みのある瞳でカイを見返すだけだ。


「技術だってぜんぜん衰えてないでしょう。十分に現役としてやっていけるはずなのに」


 ともすると目を逸らしたくなるのを堪え、カイは言葉をつづけた。イサリオンは先を促すかのようにただ黙っている。


「そうなったのは、俺を連れてこの里に帰ってきてからだって聞いたよ。一体何があったの」


 ひょっとして、父の現状には自分が何らかの形でかかわっているのではないか。それはカイが心のどこかにずっと引っ掛かっていたことだった。


「ひょっとして……」


「そうではない」


 そう言うイサリオンの表情に、カイははっとした。絶えず深く刻まれた眉間の皺が薄れ、頬には笑みさえ浮かんでいたのだ。


「お前が気に病むようなことは何もない。今、こうしているのは私が好きでやっていることだ」


 イサリオンは静かに諭した。カイは父の言葉に完全に納得したわけではないが、古傷が癒されていくかのような心持ちになった。それはカイが恐れて尋ねずにいながらも、心のどこかで求めていた言葉だったからだ。

 カイはひとつ頷くと、ふらふらと自室に戻ろうとして、足を止めた。まだ聞いてみなければならないことがある。


「父さんがいつも調べているもののことなんだけど」


「ミュートの紋章のことか」


 即座に返された言葉にカイは思わず絶句した。すべて読まれているのか。しかし、その驚きは続けてイサリオンが口にしたことで氷解する。


「お前たちが夜中にミュートの紋章を見に行ったことは、昨夜訪れたアーライル殿から聞いている」


 昨夜、あの場にアーライルがいたとは思いもよらないことだった。そして、その後にここへ来ていたことも驚きだった。


「私がミュートについて調べているのは個人的な興味からだ。この世界には、まだまだ解明されていない謎が数多くある」


 イサリオンは机に置いてある、革の装丁がぼろぼろになった書物を手に取りながら言った。


「今、ミュートの多くは生まれるなり殺されるか、特別な能力のある者はスメクランの里で道具のように扱われるのみで、禁忌とされている。そんな禁忌の中に、様々な謎を解く鍵があるのかもしれない。

 昨日今日にミュートを見たばかりのお前にはまだ早いが、時が来れば、お前にも詳しく私の研究を説明することもあろう。その折には、お前にも手伝ってもらうことがあるかもしれん」


 イサリオンは穏やかな目つきのままそう言った。


「とにかく今は休め。

 ただ、お前には昨日里の長の娘の危機を前にして何もできなかったという咎がある。いずれただでは済むまいが、こればかりはいくら気に病んだところでどうにもならない」


 その言葉がカイの心をチクリと刺した。覚悟は決めたつもりでも、やはり今までにない重い責任を負わなければならない事態に直面しているのである。あと二年ほどでスメクランとして大人と認められる十五歳になるとはいえ、まだまだ実践訓練を始めたばかりの子どもである。

 蒼褪めたカイの顔色を見ながらイサリオンは続けた。


「そんなときは、身体と心を休めて物事に立ち向かう鋭気を養うのも必要なことだ。今、お前が直面している試練を乗り越えられるかどうか、それはお前自身にかかっているのだ。

 後を見て後悔するくらいなら、一度ぐっすりと眠り、明日からは前を見て行動しろ」


 イサリオンの言葉に、カイは顔を上げ、しっかりと父親の顔を見て、力強く頷いた。


 じっと自室にこもって一日を過ごしたあと、カイはベッドに横になり考える。

 結局、自分が父に尋ねたことに対して、思いのほか具体的な答えは得られていない。どこか一番肝心なところをはぐらかされたような気さえする。

 しかし、今は立ち向かわなければならないことが目の前に迫っている。まずは、自分の為すべきことを為そう。

 そう思うと、カイは深い眠りに落ちていった。

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