田中天狼のシリアスな先輩
アンドリュウ……? それが、名前?
「そ! オレの名前はヤマトアンドリュウ。漢字で『矢的 杏途龍』だ。2年C組。お前らの一コ上だな」
プールのスタート台に腰掛け、海パン一丁で胸を張る男――矢的……不本意ながら、先輩。
俺と春夏秋冬は彼の顔をしげしげと覗き込む。彫りの浅い顔、眼鏡の奥の瞳も黒。軽い癖のついた髪の毛はやや茶色いが、根元は黒い。染めているのだろう。
「…………帰化した外国の方、じゃないですねぇ?」
「モチロン! ちなみにハーフでもないぞ。 正真正銘純血の日本人だ!」
「……どうして、そんな――個性的な名前を?」
おそるおそる聞く。自分の事もあり、名前の事を尋ねるのは気が引ける所があるのだが、好奇心に勝てなかった。が、矢的先輩はさほど気にも留めていない様にあっさりと答える。
「あー、ウチの親が言うには、国際社会に出ても通用するような名前にしたんだと。まあ、国際社会に出る前に日本社会で通用してないからどうなんだろという感じだけどなぁ。というか、ウチは三代続く蕎麦屋だっつうの。蕎麦屋が国際社会とか意識するなよ、って誰かツッコんでくれればよかったのになぁ」
からからと爽やかに笑う矢的先輩。
「――でも、いい名前じゃない! 別におかしくないよー」
そう言って微笑む春夏秋冬。
「まあな。正直オレもそんなに嫌な訳じゃない。何よりインパクトあるし、みんなの印象にも残るしな。お前もそうだろ? シリウス」
「…………えーと、寧ろそれが嫌なんですけどねぇ……」
「えっ! ホント? そうなの?」
「…………」
本気で驚いた顔で尋ねてきた|春夏秋冬に、俺は絶句する。あれ? この娘は、こんな変……個性的な名前なのに、嫌じゃないのか?
「――そうよね。変な名前だと嫌よね、やっぱり」
と、そこへ意外な所から俺に同意の意見が。矢的先輩の傍らでにこにこしながら三人の会話を聞くだけだった、ナデシコと呼ばれた少女からだった。
彼女は風に煽られる髪を片手で押さえながら、にっこりと俺に微笑みかけた。……可憐だ。『おしとやか』という表現は、彼女にこそ相応しい。
「分かるわ、田中くん。私もそうだもの。自分で選んだ訳でもない名前でからかわれたり、恥ずかしい目にあったり――。本当に嫌よね」
「……そ、そうですよ、本当に。どれだけ俺がこの名前で苦労してきたか。――えっと、ひょっとしてあなたも、なんですか? えー……」
名前を呼び掛けて、俺は口を噤む。ナデシコ……別に変な名前でも無くね? と気付いたからだ。少なくても、『杏途龍』や『春夏秋冬水』や『天狼』よりは普通にありふれた名前に思えるが……。どうして彼女は「分かる」と言ったのだろうか?
「あー、そういえば、まだ言ってなかったっけか」
と、矢的先輩が口を挟んできた。彼はナデシコの肩に手を乗せて二人に紹介した。
「彼女は撫子。オレの幼馴染で、『郷里羅』ってすごい苗字のおおおぉぉぉぉあああああっっ!」
矢的先輩は言葉の途中を悲鳴に変えながら、豪快に十メートルは吹っ飛び、派手な水飛沫をあげてプールの濁った水の中に落ちた。
「…………矢的くん。私の苗字は口に出さないで、って約束してたよね」
振り向きざまに、彼の鳩尾に凄まじい掌底を叩き込んだままの姿勢で、静かな口調で言う撫子。プールの方に顔を向けているので、俺たちには顔が見えないが、彼女がどういう顔をしているかは容易に想像できた。背中から、どこかの超宇宙人やゴム人間もかくやというような、憤怒のオーラが立ち上っているのが、素人目にもはっきりと見える。
「わ、悪い、つい。……でも、二人にお前の事紹介しないといけないだろ? だか――」
「今度言ったら――折るわよ」
「…………ら、ラジャ」
水面に仰向けに浮かんだまま、ふらふらと右手を挙げ、親指を立てる矢的先輩。
「………………えっと」
「!」「!」
くるりと振り返る撫子。その顔には、先程と同じ優しい微笑みが浮かんでいたが、俺達は咄嗟に背筋を伸ばして姿勢を整える。
撫子は困ったような笑みを浮かべながら口を開く。
「……ごめんなさい。変な所を見せてしまって。――改めて、私は撫子っていいます。あそこに浮かんでいる矢的くんと同じ2年C組です。よろしくね」
「――よ、よろしく~」
「ヨ、よろしくお願いしますです、ご…………撫子先輩!」
「……あの、できれば苗字では呼ばないでもらえると嬉しいわ。……私の苗字、あんまり好きじゃないから……。解ってもらえると嬉しいのだけど」
「モ、モチロンであります! 先輩殿!」
なぜか最敬礼の俺であった。……まあ、致し方あるまいだろ。命は惜しい。