田中天狼のシリアスな遭遇
突然、俺の言葉を遮った大音声、同時に、プールの水面が大きく波立った。
「う、うわわわあああああぁぁ!」
飛び散る波しぶきをまともに受け、俺は情けない格好でひっくり返る。
「――な、な――ん、だ?」
俺の目の前に、プールの中から飛び出してきた長身の男が、水と藻を滴らせながら、まるで、どこぞの世紀末覇者の様に、腕組みして仁王立ちした。もっとも、そんなにムキムキのガタイでもないのに、そんな格好でふんぞり返られても、威厳の欠片も無く、滑稽なだけだったが。
闖入者の人相は、ゴーグルとシュノーケルで顔面を覆われているせいでよく分からない。――もっとよく分からないのは、何故この男は、この4月のうすら寒い屋上野外プールの、藻にまみれた水面から突然海パン一丁で飛び出してきたのか……?
と、
「あ――――!」
目を丸くさせた春夏秋冬が男を指さして叫んだ。
「シリウスくん!この人だよ、さっき話してた――」
「え――?」
春夏秋冬の言葉に驚き、俺は男を凝視する。その視線に気付いた男は、ゴーグルを外すと、にやりと薄笑みを浮かべ、
「――ぶぇっくしゅ!」
盛大にクシャミをした。
「あらあら、いけない。風邪ひいちゃうわ」
すると、また新しい人物がこのプールに現れた。今度は普通にプールの出入り口の扉からだが。
腰まで届く長い黒髪で、大人びた雰囲気を醸し出した、優しそうな顔つきの美少女だった。
彼女はバスタオルを手につかつかと近づくと、濡れる事にも躊躇せず、仁王立ちする男の頭をごしごしと拭く。
「おう、すまないな、ナデシコ」
なされるままに頭を拭かれながら、鷹揚に言う男。
拭かれ終わると、男はゴーグルを外し、少女から手渡された縁なしの眼鏡をかけ、ゴホンと仕切り直しの咳払いをした後に、
「――さて」
と、俺と春夏秋冬に向き直り、口を開いた。
「タナカシリウスくんに、ヒトトセアクアくんだな」
「――は、ハイ!」
「……そ、そうですけど――人の名前を聞く前に、まず自分から名乗ったらどうですか?」
俺は、無意識の内に背中で春夏秋冬を庇いながら、毅然とした口調で男に言った。ただ、不気味な怖さを隠しきれず、言葉尻が震えてしまっていた……情けない。
男は、俺の言葉を聞くと顔を曇らせた。
……ヤバい、怒らせた……?
男は、大きな溜息を吐き、眼鏡をかけ直してから、
「…………違ぁぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁうううううううう~!」
爆発的な大声で叫んだ。
いきなりの大音声に、思わず尻餅をついた俺に、額に青筋を浮き上がらせながら詰め寄ってくる。
「――あ、スミマセン! 何が――」
「そこはそうじゃないだろーが? このシチュエーションだったら『何だチミは?』の一択だろーが、常考!」
「――は、はぁ~?」
「お前は、あの伝説のコント番組を観た事は無いのかぁ~っ!」
……『伝説のコント番組』。ピンときた。あの一流コメディアンの持ちネタで、一世を風靡した――!
「あの……て、アレですよね? いや、知ってますけど……観た事ないですよ! だって、あの番組やってたのって、もう二十年以上も前じゃないですか? まだ生まれてませんって……つーか、あんたも観た事無いだろ、その齢じゃ?」
「リアルタイムじゃなくとも、この世界には動画サイトという便利なものがあるのだ~!」
「……ぐ。い、いや、まあ、そうですけど……」
「ハイっ! やり直し!」
ツッコミを論破されて思わず怯んでしまった俺にビシッと指を突きつける男。そして、さっさと先程の立ち位置に戻り、息を整える。
「――はいっ、アックション!」という、男の声に合わせて、隣の少女がパチンと手を叩く。
「タナカシリウスくんに、ヒトトセアクアくんだなっ!」
ビシィッとポーズをキメる男。さっきより芝居がかっている……。
「はいはーい! そうでーす!」
何故かノリノリの春夏秋冬。
そして、その場の皆の視線が俺に集まる。――え? ここは乗らないといけないの? マジでかぁ~?
俺の心の中で渦巻く葛藤。
「…………な、……なんだ、チミは?」
結局、空気に逆らえなかった。顔面が滅茶苦茶熱い。
「『何だチミは?』――何だチミってか!」
穴があったら入りたい、寧ろ掘りたい気分の俺は置いてけぼり。男はノリノリで続ける。
「そーです、私がヤマトアンドリュウです! ♪あ、ヤマトアンドリュウ! ヤマトアンドリュウ! ヤマトアンドリュウったらヤマトアンドリュウ♪」
突然パンイチで手を叩きながら奇妙な踊りを舞う男。そして、
「――だっふんだっ!」
「…………?」
「……………………」
「……………………………………」
「…………………………………………………………行くよ」
奇声とともに変顔を突き出した男を前に、首を傾げて目をぱちくりさせる春夏秋冬の袖を引く。
「――あの、すみません。俺達はもう失礼します……あ、あと、さっき俺が言った『不審者』って言葉は訂正しておきます」
変顔をキメたままの男に言い放つ。
「……『不審者』じゃなくて、『不審な変質者』でした、では」
そして、踵を返し、その場からスタスタと早足で立ち去る。
「……シリウスくん?」
「早く行こう……関わっちゃいけないよ、アレは。絶対」
「……でも、面白そうな人じゃない?」
「――いや、どう見ても頭がかわいそうな人だろ……。ヤバいって」
「ちょおおおおおおおおおおおっと待った! 待て! 待って下さい!」
マッハの勢いでダッシュして二人の前に立ち塞がる男。
「アレか? ちょっとネタが古かったか! 分からなかったか? スマンスマン! まぁ、ちょっと話を聞いてほしいだけなんだ。少しだけ、時間いいかな?」
「すいません。そういうの興味ないんで。間に合ってますから」
「ツレないぞ~シリウス! 話も聞かないで、そんな新聞勧誘断る主婦みたいな冷めた態度は傷つくよ~!」
「な、何気安く人の名前呼び捨てにしてるんですか! ――どいてください!えーと、確かヤマト……ヤマトあ、アンド?」
縋り付いてくる男を避けながら、俺はふと違和感に気付いた。
「……アンドリュウ?」