田中天狼のシリアスなランチタイム
その日以来、彼女――春夏秋冬水は言葉通りに、しばしば俺の元に遊びに来るようになった。教室の中であろうと廊下だろうと一切構わず、俺を目ざとく見つけてきては『炎極』バナに興じようとする彼女に、俺は辟易させられてばかりだった。
正直、迷惑以外の何物でも無い。『炎愛の極星』というボーイズラブマンガには、成り行きで全巻読破しただけで、然程の興味も無いし。
何より……彼女との会話の端々から、是が非でも隠し通したい、俺の名前の由来が周囲のクラスメートにばれてしまうのだけは、何としても避けたい。
ただ、『高校デビュー』に乗り遅れ、さしあたって親しい友人が出来ていない俺にとっては、たとえ春夏秋冬との『炎極』バナであっても、孤独な休み時間の貴重な暇つぶしである事は否定できない事実であり、春夏秋冬の事を無下にする事も出来ない。
ただ、最近周囲の(特に男子の)目が気になってきた。彼らが俺を見る目が、日に日に「このリア充が!」というどす黒い殺気を帯びて、俺の背中を針のよう……最近では、もはや放射線のように突き刺してくる。
もちろん、実際はそんな事は全く無い。春夏秋冬の好みはあくまでザクティアヌス・エルダー・シュドワセル伯であり、天狼・N・サナドアスなのである。名前だけは同じだが、この俺、田中天狼は、耽美可憐な彼らとは似ても似つかぬ平凡な日本人の高校一年生男子だ。というか、BLマンガの登場人物と実在の人間を比べる事自体がナンセンスだろうが……。
俺と春夏秋冬が交わす話題の9割が、『炎極』バナに占められている状況で、リア充も何もない。「いや、むしろ、趣味でもないホモマンガ談義に付き合わされて、迷惑しているだけなんですけど~」……と周囲に釈明をしたいところだが、そんな事を教室の中心で叫んだとしても、誰も信じまい。
寧ろ、全てを話すとなると、必然的に『炎愛の極星』の事も説明せねばならず、更に自分の名前の由来も曝さなければならない――。
進むも地獄、退くも地獄……そんなにっちもさっちもいかない立場に立たされてしまった俺は、周囲のやっかみや邪推や好奇心の目から逃れる為、数日前から、昼休みは校舎の屋上にあるプールに「疎開」している。
地区予選1回戦敗退レベルの弱小の水泳部の為に、このプールにわざわざ水を入れてシーズンオフでも使える様にする程、この学校の予算は潤沢ではないのだろう。昨年の夏以降、掃除もされていないプールは、緑色の藻に覆われた水面をゆらゆらと波立たせている。
もちろん、夏になればプール開きで、人の出入りも多くなるのだろうが、まだ四月下旬のこの季節にプールに用がある人間などそういない。春先の、まだうすら寒い風が吹き抜けるプールサイドは、当面、人目を避けるのにはうってつけだった。
俺は、春の高くて青い空の下で、プールサイドのフェンスにもたれかかる。通学時に、コンビニで買った菓子パンを頬張り、パックのコーヒー牛乳を一啜り。そして腕時計に目を落とす。
――そろそろかな……。
「シリウスくん、お待たせ~!」
入り口の扉が勢いよく開かれ、満面の笑顔で春夏秋冬が現れた。
俺は、菓子パンをもう一口頬張り、空いている左手をひらひらさせる。
「――今日もお早いお着きで」
俺と春夏秋冬は、昼休みになると、この屋上のプールサイドでおち合い、弁当を食べ、その後始業のチャイムが鳴るまで『炎極』バナに興じる――のは、九割方春夏秋冬で、俺は適当に相槌を打つだけだったのだが――様になっていた。
春夏秋冬はとても楽しそうで、昼休みを待ち遠しくしている様子だが、俺は少々……いや、大分うんざりしているのが正直な所。
天狼の内心を知ってか知らずか、春夏秋冬はニコニコしながら小走りで駆け寄ってくると、さも当然そうに俺の隣に腰かけ、目を輝かせる。
「今日も『炎極』バナに付き合ってもらうよー!」
「……へいへい。まあ……お手柔らかに」
こっそりと口の端をひきつらせる。
「――と、その前に腹ごしらえ、っと♪」
春夏秋冬は鼻歌を歌いながら、膝の上に弁当箱を置き、包みを開ける。
「ではでは、いただきまーす!」
「……美味そう」
ふたの中から現れた、彩り鮮やかな春夏秋冬の弁当を覗きこんで、俺は思わず呟いた。小さい俵型のおむすびとエビフライ、ポテトサラダにタコさんウインナー……女子高校生の弁当というに相応しい、おしゃれでかわいらしい献立の弁当だった。菓子パンにコーヒー牛乳という自分の昼食が侘しい……。
「……食べる?」
「――へ?」
我に返ると、俺の目の前に、ピンクの箸に抓まれたウインナーがあった。
春夏秋冬が無邪気な笑顔を見せる。
「タコさんウインナー二つあるから、一つ食べてもいいよ~」
彼女は躊躇いなくウインナーを差し出す――俺の口元に。
「はい、あーん」
「――え? へ? あ、あの――!」
ちょ、待てよ! これって――え? いわゆる一つの……か、間接キ――キス? って、もしかして、ここは、そういうシーンなのか?
……いや、待て待て! そんなウマい話がある訳ないだろ? フラグ立てた覚えもないし……こんなBLオタの腐女子だし……いや、でも――。
突きつけられたウインナーを前に目を白黒させる。頭の中もコーヒーにミルクを落とした様に冷静の白と興奮の黒が入り乱れている。
「――! ……? ! ――え、と。い、いただきます」
結局、心中の喧々諤々の葛藤の末に、俺の取った行動は、右手を差し出してウインナーを受け取る事だった。
「はい、どーぞ」と掌の上に置かれた赤いウインナーを睨む俺の脳内は、「――まあ、無難な反応だな」という冷静な声と、「あーあ、このヘタレが!」という罵声が複雑に入り混じって、大暴動のようになっているのだった。
「あ、そういえば、シリウスくん……」
「…………へ? あ? ハイ! ……な、何?」
春夏秋冬から話しかけられて、我に返った俺は狼狽えて声を裏返す。
彼女は、そんな俺のコミカルなリアクションにも気付かず、珍しく真面目な顔で口を開く。
「――昨日、あたしのクラスのコから聞いたんだけど、……変な人が私の事聞いて回ってたんだって」
「……変な人?」
突然の不穏な話に、眉を顰める俺。
「うん。変な人というか、この高校の先輩みたいなんだけど……。私の名前とか色々聞いてきたみたい。それで、『遂に見つけた~!』って絶叫して走り去っていったんだって」
「……何だ、そりゃ?」
奇妙な話に、俺は首を傾げる。
「それだけじゃないの」
春夏秋冬は、真面目な顔のまま、言葉を継ぐ。
「……その人、シリウスくんの事も聞いてたらしいの」
「――お、俺の?」
思いがけず自分の名前が出てきて仰天する。
「な、何でだろ?」
不気味で背筋が寒くなる。何故上級生が自分の事を? 何か目をつけられるような事をしただろうか……いや、全く無い……多分。
「――あたしも、心当たり無いんだよねぇ……。取りあえず、あたしとシリウスくんの名前とかクラスとかを聞いたくらいで、後ろからその人を追いかけてきた人がいて、慌てて逃げてったみたい……」
「それは……」
怪しい。怪しすぎる。
「でも、何か怪しくて変な人だったけど、悪い人っぽくはなかったみたいだから、安心だよ~」
と、春夏秋冬は、ひへらぁ、と呑気な微笑を浮かべる。その一方で、俺は更に首を傾げる。
「――怪しくて変だけど悪い人じゃない……って?」
矛盾してないか?
「いきなり現れて、人の名前やらクラスやら聞いて回るなんて、不審者以外の何者でもないだろ……。えーっと、その友達って、そいつの人相とか格好について何か言ってなかった? その、不審者のさ――」
「だぁれが、不審者だああああああぁぁぁぁ!」
唐突に俺の言葉を遮った大音声。同時に、プールの水面が大きく波立った。