田中天狼のシリアスな恐怖
部室の引き戸が、微かに軋みながら、ゆっくりと開く。
(……もう少し開いたら、飛び出す?)
俺の隣で、息を潜める春夏秋冬が、囁く。
(いや……まだ)
俺は、頭を振って、彼女を止めた。
さっきの鍵の件が、違和感となって、頭に引っかかっていたからだ。
(ちょっと……妙なんだ。――少し、様子を見よう)
(妙……って、何がです?)
扉脇の棚の陰に丸まって潜む黒木さんが、小声で尋ねてきたが、
(ごめん、長くなるから……取り敢えず、待機で)
と、答えると、黒木さんが頷いたのが、暗闇の中でぼんやりと見えた。
そして、ドアは完全に開いた。
――やっぱり、妙だ。
ドアを開けたのに、入り口に立ちすくんだまま、中に入ろうとしない。
幽かな息遣いと、暗闇の中でもぼんやりと浮かぶシルエットで、そこに何かが居るのはハッキリしている。
でも、ソレは――、
(矢的先輩じゃない!)
シルエットは、小柄な人間のソレだった。矢的先輩は180センチはある筈だが、入り口で佇む人影は、随分と小柄だった。春夏秋冬と同じか、少し高いくらいだろう……。
人影の体型は、ハッキリとは分からない。もう6月に入ったというのに、厚手のフリースの様なものを着ている様だったからだ。
そして、当然のように、フリースのフードを頭からスッポリ被っていた。その為、顔の造形を窺い知る事は出来ない……もっとも、この暗闇では、フードがあっても無くても、人相の確認は出来そうも無かったが。
(……………………)
(……………………)
(……………………)
俺はもちろん、あとの二人も、事の異常さを察したのだろう。驚かそうと飛び出すこともなく、寧ろ決して見つからないよう、ギュッと身を固くして、息を殺す事に必死だった。
何時間も経過した様な感覚だったが、実際は数十秒といったところだったろう。
コツ……。
乾いた靴音を立てて、唐突に人影が動いた。1歩、2歩……。ゆっくりとした足取りで、部室の中に入ってくる。
(あ……足音がするって事は……コレは幽霊じゃない……のか?)
その時、俺の脳裏に浮かんだのは、全く状況にそぐわない、こんな事だった。
もっとも、それは『恐怖と緊張が限界を振り切ると、全く明後日の内容の事を連想する』という、よく言われる心理作用だったのだろう……。
――と、春夏秋冬が、小声で俺に囁いた。
(シリウスくん……足のあるユーレイって……いるのかな?)
――隣の春夏秋冬も、同じ事を考えていたらしい……。
俺は、春夏秋冬の問いに答える余裕も無く、ジッと人影の挙動を観察していた。
人影は、暗闇の中を灯りも点けずに進み、部室の中央辺りまで入ってきた。
と、そこで状況が動いた。
「フ―――――――――――ッ!」
部室の奥に潜んでいたネコが、闖入者に対して、威嚇の唸り声を上げたのだ。
唸り声を耳にした人影は、ビクリとして、動きを止めた。
「シャ―――――――――――――――ッ!」
暗闇の中を、小さなシルエットが、人影に向かって飛びかかった!
「う、うわッ!」
ネコに飛びかかられた人影は、くぐもった叫び声を上げ、よろめいた。
「ニャギャギャギャギャギャッ!」
「……こ、コイツ……んのヤロッ!」
人影は、食いついたネコを引き剥がそうと藻掻く。
そして、小さなシルエットが跳ね飛ばされるように、人影から離れた。
「ニャガっ!」
小さな悲鳴を上げるネコ。人影は、足をもつらせながら、部室の外へと出て、そのまま走り出した。
「待てッ!」
「春夏秋冬ッ! 待ってっ!」
すかさず、春夏秋冬が、人影を追おうとするのを、俺は制止する。
「君と黒木さんは、この部屋でネコの介抱をしてて! アイツは俺が追いかける!」
「でも、足はアタシの方が……!」
「相手は、何持ってるか分からないんだ! ココは男に任せろ!」
「……無理しないで!」
「大丈夫! 足なら体育祭の時に散々鍛えてもらったから! そうでしょ、師匠?」
俺は、それだけ言うと、部室を飛び出し、暗闇に響く足音をダッシュで追いかける。
……………………恥ずかしい〜ッ!
俺は、走りながら、顔を火が出るほど真っ赤にしていた。
……緊急事態で、咄嗟に口から出てきたとはいえ、何てクサくてキザったらしいセリフを吐いちまったんだ、俺は!
ああ、穴があったら入って、中からフタを溶接して、3年間くらい引き籠もりてぇ〜!
そんな事を考えながら、廊下を走り抜け、部活棟の外に出た俺は……人影を見失った。
辺りを見回すが、走り去る人影も、足音も確認出来なかった……。
――逃げられた……。
俺は、ガックリと肩を落とした。




