田中天狼のシリアスな昼休み
(絵・紅蓮のたまり醤油様)
「――えーっと、田中くん? 大丈夫なの……かな?」
女生徒に、恐る恐る声をかけられ、俺は我に返った。
ここは――。辺りを見回すと、どうやら南校舎の階段の踊り場。女生徒が口走った一言で絶叫をあげた俺は、彼女の腕を引っ張り、教室を飛び出し、廊下を駆け抜け、ここまで、文字通り“暴走”して、やっと停止したようだ。
「――何か、あたし悪い事言っちゃったかな?」
「…………言っちゃった、どころじゃ、ないよ」
息が切れて、途切れ途切れになりながら、俺は口を動かす。
「え……『炎愛の極星』って、た、単語は、俺の――中じゃ最悪のぶ、禁句なんだよ……!」
「……そうなの?」
女生徒は意味が解らないとでも言いたげに、小首を傾げる。
「…………あのさ」
荒れた息をようやく整えた俺の眼は血走り、鋭い光を放つ。
「……何でそんなク……マイナーなマンガのタイトルを――?」
「え……? 知ってるのかって? それはモチロン、好きだからだよー!」
屈託なく微笑む女生徒。
「ハ――?」
俺は目を丸くする。女生徒は眼を輝かせると、うっとりとしながら口を開いた。
「だって、絵がとっても素敵じゃない? 金髪銀眼の熱血主人公のシリウス様と、黒髪ロン毛でツンデレ属性装備のザクティ様の叶わぬ愛! 許されないが故に、いっそ燃え上がる二人の想いを丹念に描いたストーリーも最高! 特に2巻で遂に二人が結ばれるシーンの8ページなんかは、エロ美しい作画がより神懸って――」
「ストップ、ストップ!」
階段の踊り場で、周りの目も一向に意に介さず、大きな瞳をキラキラと輝かせながら作品を褒め上げる女生徒に、慌ててストップをかける。
「……つーかさ、そんなに褒めちぎる様なマンガかな、アレ?」
「そーだよー。例えば3巻での、愛し合っているはずの二人が敵味方になって戦場で――」
「ちょ待って! だから、もういいから」
隙あらば、また『炎愛の極星』マンセー談議を再開しそうな勢いに、俺は辟易する。
「……ていうか、あんなの、ぶっちゃけただのエロホモマンガじゃないか。男同士で好きだの、あ、愛だのって……気持ち悪ぅ!」
「えー! そんなの偏見だよ! 『炎極』はねぇ、敵だ味方だ男だ女だってつまらない枠を飛び越えた不変の『純愛』を描いた大傑作なんだよ! というか、本当の愛の前には、性別なんて些細な事だ、って大切な事を伝えてくれる現代の聖書!」
「いやいやいやいや! 性別は些細じゃないでしょ? そこ飛び越えちゃダメでしょ! つーか、大傑作どころか、二十週打ち切りじゃん、あのマンガ!」
「打ち切りじゃないよ! 一時休載!」
「一時休載して何十年だよ!」
俺と女生徒は、踊り場で互いの主張を譲らず、睨み合う。
――と、彼女は突然くすくすと笑い出した。
「――へ? な、何だよ。何が可笑しいのさ?」
戸惑う俺。
「あ、えーとね。嬉しくて」
「……う、嬉しい?」
「うん。今まであんまり『炎極』の話題で友達と盛り上がれた事無くって……あまり有名じゃないじゃん、『炎極』って」
「……まあ、二十週打ち切りだからなぁ」
「一時休載!」
頬を膨らませる女生徒。
「あー、でも嬉しいよ。『炎極』バナを分かってくれる人に出会えて!」
「……そ、そう?」
「クラス分けの名簿で名前を見つけてから、気になってたんだけど、田中くんに声かけてみて良かった! ……あ、そう言えば、まださっきの質問に答えてもらってないよ!」
「――質問?」
「えー、もう忘れちゃったの? じゃ、もう一回。いくよ……田中くんの『しりうす』って名前って――」
少女は期待に目を輝かせて言葉を継ぐ。……どうでもいいが、本当に瞳が大きいな、この子……。
「『炎極』のシリウス様から付けられたの?」
「……………………」
じりじりとにじり寄る彼女と、その質問から、何とか逃れようと後ずさりする。が、狭い階段の踊り場に俺の逃げ道は無かった。
俺は観念して、大きなため息を吐くと、不承不承頷く。
「……そう、そう。オレノナマエハ『エンアイノキョクセイ』ノシュジンコウノシリウスカラツケラレタンデスヨ」
そう、苦虫と砂利と石炭をまとめて噛み潰した顔で吐き捨てた。
「うわ~! 素敵ぃ! いいなぁ~」
「は――――? す、素敵? いや、全然素敵でも良くもないから!」
うっとりと目を輝かせた女生徒のリアクションに仰天してしまった。
「こんな名前付けられて、本当に迷惑してんの、俺! みんなまず読めないし、読み方教えたら逆にキレられたりするし、小学生の頃はからかわれたりもしたし! おまけに名付けの由来がホモマンガの主人公の名前からだなんて……もうホント嫌になるわ!」
彼女の言葉には到底承服することが出来ないので、俺は一生懸命反論をまくし立てる。
しかし。
「いいじゃない。個性的な名前で。素敵な名前だよ。天の狼なんてカッコいいし」
「……か、カッコいい?」
人生で一度も経験した事の無いリアクションだった。意外極まる事を言われて、俺は顎が外れた様な顔になっていたと思う……いや、実際半分くらい外れていた。
と、その時、昼休み終了を告げるチャイムが鳴った。
「――あ、いけない、次は美術だった!」
少女は、時計を見て慌てた。そして、微笑んで手を振る。
「じゃ、田中くん。また――って、そういえば、あたしの名前とかまだ言ってなかったよね」
少女はそう言うと、ポケットからメモ帳を取り出し、挟んでいた猫柄のシャーペンでさらさらと何かを記し、ページを1枚切り取って俺に差し出した。
「――これがあたしの名前」
そして彼女は、悪戯好きな子猫のように目を輝かせて言葉を継いだ。
「――さて、ここでクイズです! 私の名前は何と言うでしょう?」
「え……? そ、そりゃここに書いてある通りの……て、え?」
紙片を受け取り、それを一瞥した俺が目を丸くするのを見た女生徒は、にんまりと微笑んだ。
「次に会うまでの宿題だよ! じゃあね、田中くん!」
と言いながら、少女はまた軽く手を振り、走り去った。
そして、俺は踊り場に取り残された。
俺の手には、『春夏秋冬 水』とだけ書かれた、謎の紙切れが残されていた……。