田中天狼のシリアスな署名
おそるおそる振り返る。艶やかな黒髪がしゃらしゃらと音を立てるような、優雅な雰囲気を纏って、撫子先輩がやって来た。
「あ、なでしこセンパイ! おはよーございまーす!」
「おう、ナデシコ。遅かったな。朝、家に行ったのにもう出かけてるって言われたから、早めに学校に行ったのかと思ってたんだけど、どこに寄ってたんだ?」
朗らかに挨拶をする春夏秋冬と、片手を挙げて応える矢的先輩。俺は、凍りついたように固まっていた。
「あら、ごめんなさい、矢的くん。ちょっとした用があって、道場の方にいたから……ちょっと長引いてしまって、いつもよりも遅れてしまったわ」
優しげな微笑みを浮かべる撫子先輩。
と、彼女の視線が俺を捉える。
「あら……田中くん、どうしたの?」
「あっ! いえ! 何でも……何でもないであります!」
咄嗟に、直立不動の姿勢になってしまったのは、本能的なものか。無意識に敬礼しようとする右手に気付いて、慌てて引っ込める。
「そう……何か顔色が優れないみたいだけど……。具合が悪いなら、無理しない方がいいわ」
「い……いえ! 大丈夫であります!」
俺は、それだけ言うと、撫子先輩から目を逸らした。――正直に、『顔色が悪いのは、貴女が怖いから』……とは、流石に言えないわな……。
だが、撫子先輩は、心配そうな顔で、まじまじと俺の顔を覗き込んでくる。普通ならば、こんな美人に顔を近づけられて、嬉しいやら何やらでドキドキするシチュエーションなのだろうが、今の俺は、違う理由で心臓が破裂しそうだ。
「……そう?」
「……………………」
「おい、ナデシコ! そんな事より、ほら!」
矢的先輩が、割り込んできて、撫子先輩が彼の方に視線を向ける。……正直、助かった。
矢的先輩は、誇らしげに、A4のプリント用紙を掲げた。
「アクアがサインしてくれたぞ!」
「まあ。ありがとうね。アクアちゃん」
「えへへ~。なでしこセンパイ、よろしくお願いしまーす」
ニッコリと春夏秋冬に微笑みかける撫子先輩と、照れる春夏秋冬。
と、撫子先輩が再び俺に視線を向ける。
「……田中くんは、まだサインしてくれていないの?」
「……あ……あの、そ……その……」
俺の背中が、滝のように吹き出た冷や汗で、ぐっしょり濡れてくるのが分かった。
「あ、そう言えば、何か言いかけてたよな、お前」
「えーと……確か、『自分は入部を……』って言ってたような……」
「あー、そうそう。確かにそう言いかけてた!」
――止めて。
「――スマンな、シリウス。お前の話の腰を折ってしまったようで。大事な話なのか? 続けてくれ」
「……あ、いや……。えっと――」
「どうしたの、シリウスくん? 顔が真っ青……なでしこセンパイの言う通り、ホントに具合が悪いんじゃない?」
「おいおい、マジで大丈夫かよ? お前、顔色が信号機みたいになってんぞ!」
心配そうな表情で、二人がグイグイ近づいてくる。俺は、目を白黒させながら、二人の圧に押されて、じりじりと後ずさる。
「田中くん……」
「――!」
と、それまで沈黙していた撫子先輩が口を開いた。硬直する俺。
「田中くん……もしかして、入部するのを止めたくなったとか……? 『自分は入部を止めます』って言おうとしてたんじゃないのかしら?」
「「……エ――――――――ッ?」」
撫子先輩の鋭い言葉に、仰天する矢的先輩と春夏秋冬。
二人は顔色を変えて、俺に詰め寄る。
「おい! お前それマジか? あの日、俺たちは一緒に頑張ろうって、夕日に向かって誓っただろうが!」
「……い、いや……夕日に向かって誓ってなんかないですけど……第一、昼休みだったじゃないっすか、あの日……」
「シリウスくん! 一緒に、同じ部活で『炎極』バナで盛り上がろうって言ったじゃない?」
「――い、いや、そんな事言ってない……」
二人の剣幕に圧倒されて、しどろもどろになる俺。
「……で、正直なところ、どうなのかしら」
「!」
静かな声色でかけられた言葉に、俺の心胆は再び凍り付く。今度は、背中だけじゃなく、顔面からも冷や汗が吹き出す。
撫子先輩は、あくまで優しげな微笑を浮かべながら、静かな口調で俺に言う。
「田中くん……あなたは、本当に奇名部に入部したい気があるのかしら? ……もちろん、選ぶのはあなたの自由よ」
「…………」
「もちろん、私たちとしては、せっかくあなたとこうした縁が結べたんだから、これからも一緒にやっていきたいのだけど……。嫌がっている人に無理矢理居てもらうのも心苦しいし……」
「……………………」
「……まあ、正直、『人に期待させておいて、今更止めるとか、無いわー』って思う、嫌な気持ちが無いでも――」
「――アッハッハッハッハ! な、撫子先輩、何言ってるんですか! そんな訳ないじゃないですか! 『自分は入部を』……よ、『喜んでします!』って言おうとしただけッスから!」
俺は、そう大げさに笑うと、矢的先輩の手にあった創部届を引ったくり、胸ポケットから取り出したボールペンで、サラサラと『田中天狼』と署名した。
「あははは! これでいいっすか!」
「お……おう! 何だよ、もったいぶりやがって!」
「そうだよ~。シリウスくん、あたし達びっくりしちゃったよ~!」
ホッと安堵の表情を浮かべる矢的先輩と春夏秋冬。
撫子先輩は、ニッコリと菩薩のような微笑みを浮かべている。
俺は、変な表情で爆笑いながら、心の中は土砂降りだった。
――ああ。悪魔との契約書にサインをしてしまう時も、丁度こんな気分なんだろうなぁ……。




