君に会いに行く理由
※拙作「どうして君は、忘れたの?」のその後のお話です。前作をお読みいただかなくても大丈夫ですが、順番を変えて読むには向かない作品です。ご興味がある方はぜひ先にそちらからおねがいします。
僕はいつも、君と会う口実を探している。
遥さん、お元気ですか
仕事の関係で新鋭の写真家の
展覧会のチケットが手に入りました
一緒に行きませんか?
今月中の日曜で
どこかご都合がよろしければ
連絡待ってます
小山 純
二十五歳の男が、三つも年下の女性を誘うメールにしては、馬鹿みたいに固くるしいと自分でもわかっている。それに偶然手に入ったように装うのは、胡散臭いし情けない。もちろん実際には、彼女が興味を持ちそうな展覧会を探して、購入しただけだ。
知り合って二年。それでもまだ進歩した。
最初は墓参りをしたいという彼女からの申し出があって、弟が眠る場所へと案内した。そして、弟の思い出話をしたがる母にせがまれて、何度か家に来てもらった。
その後からだ。就職活動の相談、内定がもらえたお祝い、大学を卒業したお祝い……理由をつけては彼女と二人で会うようになったのは。
彼女が無事社会人になって、いよいよ会う口実がなくなってしまい、今回こうやって彼女の趣味でもある写真を利用してしまった。
夜の九時にメールを送って数分後、携帯の画面が「槙野遥」の文字を映し、着信音を奏でる。
「——こ、こんにちは。……じゃなくてこんばんは。純さん」
スピーカーの向こうからは、少し緊張した様子の声音が聞こえてきた。
僕からメールを送ったとはいえ、彼女がこうやって電話をかけてきてくれるのは、そういえば初めてかもしれない。
「こんばんは。メール見てくれた?」
「——はい。あの、ありがとうございます。私、いつでも行けます」
自分から話題を振ると、途端に彼女の声が明るく弾んでいく。
「なら、さっそく今週末でも?」
「——はいっ!」
すんなり話がまとまったことに浮かれそうになりながら、そんな単純な男心は必死に隠し、何でもないことのように待ち合わせの詳細を決めて電話を切った。
携帯を脇に置いて、ベッドに寄り掛かりながら、深く安堵の息を吐き出す。
気付くと、パソコン置き場になっている机の隅に置かれた、写真立てを見つめていた。
その額縁の中にいるのは、高校生になったばかりの頃の自分と、三つ年下の弟の光だ。まだあどけなさが残る弟の笑顔を見ると、さっきまでの自分に少しの罪悪感がわいてくる。
彼女——槙野遥は、病で早世した弟の幼馴染みで、二人はお互いが初恋の相手だったらしい。
中学に入る前に離れ離れになった二人は、たぶん恋人同士とまではいかない関係で、だからこそ純粋な気持ちを持ち続けていたのだろう。
最近まで弟の死を知らなかった彼女は、ずっと弟のことを忘れてはいなかった。
それは訳あって、僕と弟が離れて暮らしていた頃の出来事で、弟と彼女の思い出に僕の入る隙間はない。
二年前、弟が行くことができなかった約束の場所に、僕が代わりに訪れたことがきっかけで、彼女と僕の関係ははじまった。
といっても、彼女にとっての僕は、おそらく今も「小山光」という少年の兄でしかないが。
なんでも話してくれた弟が、唯一隠していた「特別」な存在。そんな彼女に、僕が思いを寄せることは許されるのだろうか?
その考えが、僕の心を重くする。だったらいっそ、会わなければいい。引き返せなくなる前に、関係を切ってしまえと、どこかで冷静な自分は警告している。
でも、彼女と話せば心は弾み、直接会えばちょっとした同類項の発見が楽しくてしかたない。手を振って「じゃあ」と見送った瞬間から、次に会うための口実を、また必死に探し始めている。
それまで僕は、人に好意を寄せるということは、ある程度自分でコントロールできるものだと信じていた。
交際相手がいる人は対象外。結婚している人はもっと対象外。弟の思い人も間違いなく対象外だ。深みにはまる前に、遮断するのは簡単だった。なのに今僕は、彼女への感情を断ち切る壁の作り方を忘れてしまった。
* * *
「こんにちは、純さん。今日はお誘いありがとうございました」
「こんにちは、遥さん。こちらこそ。来てくれてありがとう」
六月のよく晴れたある週末。都内屈指の流行発信地の名前を冠した駅の前で、昼過ぎに待ち合わせをした。お互い時間通りに到着し、相変わらずの礼儀正しい挨拶を交わすと、そのまま目的のギャラリーに向かう。
家族連れやカップルで溢れる駅前を、離れないように、肩が触れそうになるほどの距離で並んで歩く。実際は「何でもない」僕らが、親しい関係になったように錯覚してしまいそうだ。
けれども繁華街から一歩奥まった目的地に近づくと、人通りもまばらになっていき、自然と彼女との距離も広がった。
ふと、目の前に昨日の雨でできた水たまりがある。深くはないが、歩道を縦断していて、避けて通るのは難しそうだ。
僕は一瞬立ち止まると、歩幅を大きくして一気に飛び越えた。そして、後ろを歩く彼女にそっと手を差し出す。
「わっ、あ、ありがとうございます」
彼女は少しためらいながらも、僕の手をとった。ヒールのある白のパンプスが、水たまりを軽々と飛び越えていく。
「行こうか」
たった一瞬のふれあいは終わり、どちらからともなく手を離し、僕達はまた歩き出した。もう目的地はすぐそこだった。
「ここですね」
新しく建てられたばかりと思われるデザイナーズビルの、半地下になっているガラス張りのギャラリー。 外からでも、人がいるのがわかり、かといって溢れかえっているわけでもなく、入っていきやすい雰囲気だった。
「結構、盛況なんだ」
「注目されてる人なんですよ。この前、テレビでも紹介されていましたから」
誘ったのは自分だったが、「人気」の「写真家」を素人がインターネットで調べた結果の安易な選択だったから、自信がなかった。でも、彼女が横顔を輝かせていたので、どうやら間違いではなかったようだ。
展示されているのは、とある新鋭の写真家が、世界を旅して撮影した夜空の写真だ。砂漠と月、南の国の星空、そして北欧のオーロラを見事に捉えた写真もある。
彼女はすべての展示作品をじっくり見て、どこの空の写真であるのか、解説まで熱心に読んでいた。
写真や絵画は、興味のない人間はすぐに見終わってしまう。僕も本来はそういうタイプだ。もし一人だったら、端から端まで一通り写真だけ見て、漠然と「きれいだった」という印象を受けながらも、短時間で切り上げていただろう。
でも今日は彼女の視線を追いながら、僕もいつの間にか、ゆったりと流れる彼女の時間を共有していた。写真に夢中になっていたのか、写真を見つめる彼女に夢中になっていたのかは、正直わからないけれど。
特に彼女が時間をかけて見つめていたのは、湖の近くで撮影された星空の写真だった。僕はなぜ、彼女がそんなにもその写真に惹かれるのか知りたくなった。
光輝く無数の星々が、山に囲まれた藍色の湖面に吸い込まれていく情景。撮影場所は、北海道だった。確かに美しい写真だが、どうしてオーロラや南十字星より、この人の心を捕らえるのだろう。
尋ねようと僕が口を開く前に、彼女は次の展示に向かって歩き始めたので、タイミングを逃し、そのまま何も聞かずに僕もゆっくりと動き出した。
時計回りにギャラリーを一周して戻ると、腕時計は二時半を指していた。ここに来てから一時間も時がたっている。
どちらからともなく視線を合わせて「もう、出ようか」と頷きあったところで、彼女は何かを思い出したように「あっ」と立ち止まった。
「少しだけ待ってもらってもいいですか?」
てっきり化粧室にでも行くのかと見送ってしまったが、そうではなかった。彼女は受付の脇で販売されている写真集を手に取って、迷わずそれを購入する。
言ってくれれば僕が喜んでプレゼントするのに、そういう発想は一切ないらしい。そんな彼女の様子から、今までの男性との付き合い方をつい想像してしまって、安心するのはおかしいだろうか。
「気に入った?」
「はい。それに今日の記念ですし」
大切そうに写真集を抱えて戻って来た、彼女のはにかんだ笑みに、胸が高鳴る。僕と二人で過ごす今日を、特別な日にしてくれるのだろうか。
外に出ると、梅雨の中休みに顔を出した太陽が、容赦なく照り付けていて、眩しさで思わず目を細めた。ギャラリーは冷房がよくきいていたから、その反動で暑さも厳しく感じる。
とりあえず駅の方へ戻り、どこかの喫茶店に入るのが無難だろう。そう考え様子を伺うと、彼女は駅とは反対方向を指し示して言った。
「近くにおいしいカフェがあるみたいなんです。どうですか?」
「いいよ、行こうか」
「アップルパイが有名なんですって。純さん、甘いものは?」
「いける」
「よかった」
今度は、案内役の彼女を僕が追う形で歩き出す。
そのカフェまでの道のりには、もう水たまりは残っていなくて、二人の距離が必要以上に近づくことはなかった。
辿り着いたのは、アンティークな店構えのカフェで、混雑はしていたが、幸いすぐに席に案内してもらえた。
店内でたったひとつだけある格子窓の横の席は、この店の特等席と言ってもいいだろう。向かい合う赤い布の張りのチェアに腰を掛け、看板メニューのアップルパイとコーヒーを注文した。
「退屈じゃ、なかったですか?」
そう、遠慮がちに聞かれたのは、届いたアップルパイをひと口食べて、僕が「おいしい」と言った後のこと。
どうやら、本来芸術に疎い僕を気遣っているようだ。
「いいや、楽しかったよ」
すぐに否定しても、疑り深くこちらを伺っている。
「本当に?」
「本当だよ。写真の技術まではわからないけど、素直にきれいなものをきれいだと言えるから。旅に出て、オーロラや天の川を一度見てみたくなった」
僕がそう言うと、彼女はニッと笑った。
「オーロラは無理でも、天の川なら、案外近い所で見ることができますよ。純さんも行ったことがある場所です」
謎解きのような言葉に、どこだったかと記憶を巡らせる。彼女の誇らしげな顔を見て、すぐに答えが出た。
「そういえば昔、光も言ってた。空から星が落ちてくるって」
「そうなんです。あの町も少し山のほうに行くと、すごくいい星空のスポットがあって、山と山の間に天の川が流れていくように見えるんです。私達の家があった場所からも、条件さえそろえば、かなりの数の星がみえました」
それは二年前に僕も訪れた、彼女の故郷のことだった。
僕にとっては、もとは母方の祖母が住んでいた地で、一時期、父と別居していた母が弟を連れて住んでいた場所でもある。
東京からは車や電車を使って、日帰りでもどうにか行って帰ってくることのできる距離だが、彼女が住んでいた地区は山に囲まれた、特に人口の少ない集落だった。
確かにあの場所なら、東京よりたくさんの星をみることができるだろう。
なるほど、彼女はさっき、故郷によく似た星空だったから、あんなにも愛おしそうに見入っていたのか。
「空に星があることは私にとっては当たり前で、光が大声をあげて感動していた理由がわかりませんでした。これだから都会から来たヤツは、星もまともにみたことないのかって皆でからかったんです」
窓ガラス越しに、青い都会の空を見つめる彼女は、少し寂しそうに言った。
「……当たり前じゃなくなった時に、気付かされるんですよね」
今、彼女は見えない星の瞬きの思い出しているのか、それともその時一緒にいた大切な人のことを思っているのか。
兄として、彼女がいつまでも弟との思い出を大切にしてくれることは、本当に嬉しい。それも嘘偽りない、僕の気持ちだった。
ふた口目のアップルパイの味は、ひと口目より、なぜか酸味を強く感じたが、添えられたクリームの甘さでごまかした。
それからは、最近見た映画や読んだ本のこと、ほんの少しの職場の愚痴や苦労を笑いに変えながら、終始なごやかに過ごした。そして店を出ようとした時、彼女が突然言い出した。
「ここは私が払います」
僕より先に伝票を回収して、立ち上がる。
あきらかに遠慮や社交辞令とは違い、絶対に自分が払うという強い意志が垣間見え、僕は思わず苦笑した。
「社会人になったばかりの人の財布に頼るのは、ちょっと抵抗があるな」
「お礼ですから。今日の……」
彼女は、一度僕をまっすぐ見つめた後、何かを言い淀んだように視線を下にさまよわせる。
もしかして、気付いているのかもしれない。今日の写真展のチケットは、もらいものではなく購入したものだったと。
「……じゃあ、ありがたく」
僕は引き下がるしかなかった。
はっきりと口に出さないでくれる彼女に感謝した。嘘をついてまで誘った理由を、尋ねられたくなかったから。
駅で別れる時、改札に向かって歩き出した彼女は、見送る僕の方に一度振り返った。
「……また会えますか?」
少し不安げな表情で伺ってきた彼女を安心させたくて、僕はまた余計なことを言う。
「また今度、……遥ちゃん」
それまでより、親しみを込めて彼女の名を呼ぶと、曇っていた表情をぱっと明るくさせて、手を振りながら駅のホームに消えていった。
* * *
彼女と別れ、ちょうど日が落ちた頃に家に辿り着く。
両親と暮らす家には、当然のように明かりがついていた。キッチンがある場所にも照明もつき、曇りガラスの向こう側に母らしき人影がみえたので、引き返してしばらく時間を潰してこようかと迷ったが、結局はそのまま家の中に入った。
「ただいま」
「あら、純。もう帰ったの? ……てっきり夕飯いらないと思ってたのに」
やはり母はちょうど、自分達の夕飯の支度をしていたところだった。食卓には父と母、二人分の料理がほとんど並んでいる。
僕の姿を見るなり、「何かあったかしら?」と食品庫や冷蔵庫の中を確認しはじめた母を、あわててとめた。
「適当に、カップ麺でも食べるつもりだったからいいよ」
夕飯を外で食べてきたふりをするには、少し早すぎる帰宅となってしまった。
「今日、ハルちゃんと会ってたんでしょう。元気だった?」
「ああ、まぁ……うん。元気だったよ」
「夕飯ごちそうするくらいの甲斐性もないなんて……まったくもう」
母の指摘はもっともだ。けれども、僕が意図的にしていることだから、曖昧にごまかすしかない。
今まで二人で何度か食事はしているが、会うのは昼間と自分の中で決めていた。そこが、僕のボーダーラインだ。夜まで引き止めたら、送りもせずに駅で別れることが難しくなる。そうなれば、邪な気持ちを持たないという自信がない。
今日の自分を振り返ると、反省ばかりだ。
聡い彼女には、嘘をついてもすぐばれる。無理やり理由をつけて会うのは、もうやめなければならないのだと感じていた。
母や弟が「ハルちゃん」と呼ぶ彼女を、なぜ別の呼び名で呼んだりしたのか。その気持ちに、蓋をしなければならない。
* * *
九月。夏が雲に隠れ、朝から小雨が降る朝となったこの日、弟が旅立って、十回目の命日がやってきた。
家族での墓参りに、彼女を連れて行くのは、母の決定事項になっているらしい。あれから連絡を控えていた彼女と、久しぶりに会うことになった。
運転手役は僕で、助手席に父、後部座席に母が座る。途中彼女が春から一人暮らしをはじめたアパートに立ち寄り、そのまま墓地へ向かった。
僕には、意図的に会わないようにしていた後ろめたさがあったが、二人きりでないことが幸いだった。車の中で彼女はずっと母の話相手を務め、僕は運転に集中していた。
車中では陽気だった母は、毎回のことだが、墓地につくと急に黙り込む。もう何度かそんな母と一緒にここに来た彼女は、慣れた様子で、墓の前で打ちひしがれる母に寄り添い、傘をさしてくれていた。
普段明るい色を好んで着ている彼女が、暗い服を着ているからかもしれない。しばらく見ない間に、大人びた表情をするようになっていた。
「また来るからね」
弟のことを思いながら墓の前で手を合わせる彼女の横顔は、誰よりも美しかった。また来るから、と当たり前のように言う彼女がとても愛おしい。
僕は、誰かを純粋に思う彼女に恋をした。でも、彼女が思うその相手は僕ではない。永遠に弟のものであるべきだった。
光のことを思い続ける彼女を、ただ見守る。
——それが、ぼくなりの贖罪だ。
* * *
弟がいなくなってからの十年はあっという間で、弟の部屋は今も当時のまま残っている。その部屋を母が突然片付けると言い出したのは、墓参りから間もなくのことだった。
学習机を処分するつもりのようだが、引き出しの中身の多くは、まだ捨てる気にはなれなかったようで、母がひとつづつ段ボールに入れていく。僕はその様子を、ドアの空いた廊下の隅で黙って見ていた。
小学生のらくがき帳のへたくそな絵を眺めては、寂しそうに笑い、そしてぽつりと呟いた。
「あの家もね、もう手放そうと思うの」
母が言うあの家とは、祖母が残した家のことだ。弟と母が一年ほど過ごした家。弟は、元気になったらまた行きたいと、しきりに言っていた。たった一年過ごした地になぜ固執するのか、僕たち家族はずっとわからなかったけれど、それでも処分できずにいた。
今は、その場所に会いたい人がいたからなのだと知っている。家自体に拘っていたわけではないとわかったので、母も手放すことにそれほど抵抗はないのだろう。だが、思い出がつまった部屋まで急に片付けはじめた、その心境の変化には驚いた。
「母さんが決めたなら、反対はしないけど、どうしたの?」
「……ハルちゃんに悪い気がして。そんなつもりなかったのにね、ハルちゃんをうちの事情につき合わせてしまっているんだって、やっとわかったの。お墓参りの時にハルちゃんは『また来るね』って言ってくれたけど、来年も再来年も、当たり前のようにあの子がいるのはおかしいのよね。あの子にはあの子の人生があるんだから」
「そうかもね……」
例えば、彼女に恋人や夫ができたら、母の言う通り、ただの小学校の同級生の家族といつまでも付き合っているのはおかしい。でも、僕は来年も再来年も変わらず弟の為に祈る彼女を見ていたい。
「母さんは今更変われない。今でも悪い夢だったんじゃないかって思ってる。でも物に縋るのは、もうやめようと思う。みんなにいつまでも気を使わせてしまうものね。……純、あなたもいつまでも優先順位の一番が光でなくてもいいのよ」
そこで、母はようやくらくがき帳をしまい、僕を見た。
「純にもずっと悪かったって思ってるのよ。あなたは昔から器用で、我儘もいわない子だったから、ついつい、純は大丈夫って甘えちゃってたわ。……ごめんね」
今度は僕が、母から目を逸らす番だった。
本当に、この人は僕のことをちっともわかってくれない。僕は変わっていくことが怖い。ずっと光に謝り続けなければいけないから。
両親が別居すると言い出した時、弟は迷わず母との生活を選んだ。だから必然的に僕は選ばせてもらえなかった。
「塾もあるし、友達もいるし、引っ越しなんてしたくない。僕はここに残る」
そう言うしかなかった。でも、本当は母には捨てられたような気分になっていた。
一年ほどで、向こうでそれなりに苦労したらしい母と、体調を崩した弟が戻って来た時、そらみたことか、罰が当たったんだと笑った。入退院を繰り返していた時期は、そのうち治ると思っていたから、弟中心に回るこの家が嫌いだった。
光なんていなくなってしまえばいい、確かにあの頃の僕はそう思っていたんだ。物分かりのいい兄を演じながら。
弟はきっと見抜いていた。最後に会話した時「にいちゃん、ごめんね」と力なく、でも懸命に僕に伝えてきた。
その言葉を聞いて、僕は初めて後悔した。
* * *
十月初めの金曜日。変化など望んでいない僕の気持ちに反して、転機は訪れた。
「小山君、ちょっと」
上司が手招きしてきたのは、就業からちょうど一時間ほどたち、朝の慌ただしさが落ち着いてきた頃だった。
課長に連れられて、会議室の一室に入ると、間もなくして部長も姿をみせる。二人の表情に深刻な様子はなかったので、重大なミスをやらかして叱責されるわけではなさそうだと安堵した。
だとすると時期的に異動が決まったかと予想したが、正解だった。
今、僕が勤務しているのは東京の本社で、うちの会社には全国に支社がある。総合職で入社した場合、数年以内に一度支社に行くのが慣例となっていた。だから上司は「君もわかってると思うけど」と言いながら、気軽に辞令を出してくる。
「札幌……ですか」
「夏は涼しくていいよ」
好々爺を装って、白々しく言ってのける部長に向かって、課長がすかさず頷く。
そんなことは分かってる。ただし、夏はもう終わり、今は冬に向かっている最中だということも誰もが知っている。
今まで実家暮らしだった僕が、北国で一人暮らしをはじめるには、揃えるものも多くなりそうだ。
でも、頭の中の大半を占めているのは、引っ越しの荷物のことではなかった。「遠い」と感じてしまった基準がなんなのか、その時、脳裏で思い浮かべていたのは、彼女のことばかりだった。
きっと神様の意志は母と同じで、彼女を解放しろと言っている。
自分でもおかしなことをしていると、とっくに気付いている。彼女のことが好きなのに、彼女に好きになってもらうのが怖いなんて、こんな感情誰にも言えない。
つかず離れずで繋ぎとめ、僕は彼女を、身勝手な贖罪の犠牲にしている。
昼休み、社食に行く前に彼女にメールを送った。切り出し方がわからず「会って話したいことがあります。今晩ご都合いかがですか?」と一方的で不躾な内容になってしまったが、すぐに了承の返事がくる。また一方的に待ち合わせ場所を指定して、仕事に戻った。
金曜日の夜は飲み会やデートでたくさんの人が繰り出している。皆、疲れていても表情は明るい。
街路樹には、気の早い冬のイルミネーションが飾られていて、もしもこれがデートなら、最高な演出となっただろう。
「どうしたんですか? 急用ですか?」
「とりあえず、飯行こうか? 勝手に予約しておいたけどいい?」
雰囲気のいいカジュアルフレンチの店で、慌てて探したから期待半分だったが、味も良かった。
普段と変わらない会話をしながらも、彼女は途中で何度か、急に呼び出した要件が何かを聞きたそうにしていた。だが、店を出るまでの間に、僕がそれに触れることはなかった。
「送っていくよ」
普段なら遠慮してきそうな彼女だが、この日は黙って送らせてくれた。
タクシーを呼び止めて、二人で乗車する。アパートの前に到着して、僕は料金を払い、一緒にタクシーを降りた。彼女は、なぜタクシーを帰してしまったのかとは聞いてこなかった。
静かな住宅街の片隅で、そのまましばらく向き合っていたが、沈黙に気圧されないうちに僕は口を開く。
「実は、転勤が決まったんだ」
「……えっ?」
身構えていた彼女が、目を丸くしていた。
「国内だし、年に何度かは帰るけど。それに二年か、三年で、たぶんまた戻ってくる」
「そうですよね。飛行機で二時間かからないなら、思う程遠くないですよね」
ほっと、強張っていた彼女の肩の力が抜けていく。
「あの、会いに行ってもいいですか? 北海道。私、行ったことないので、いつか行ってもいいですか?」
安心した様子の彼女に、決意が揺らぎそうになる自分を必死に叱咤した。
「理由がないよ……会う理由がない」
なんとか絞り出したその言葉は、ゆっくりと浸食するように、彼女の顔を曇らせていく。
ぎゅっと首元のストールを握りしめたのは、寒さのせいではないだろう。ただひたすら、なぜ、どうして、と大きな瞳で訴えていた。
「勝手だと思う。ごめん」
「…………なんだ」
発した声が震えている。顔をゆがめた後、それを見られまいとさっと俯いてしまった。
「はる……」
おもわず手が伸びそうになるのを、僕はあわててとめた。
「私、すっごい勘違いしてて、ほんと、恥ずかしい…………ひどいな、純さんは」
「ごめん……」
「わかりました。大丈夫です。……だいじょうぶ。わかってます。ちゃんと……その可能性も、あるって……なんとなく、わかってましたから。でも……ちょっとだけ、ほんの少しだけ、期待……してて。そんなわけないのに、ほんとバカでした」
まるで、自分自身に言い聞かせるように、何度も「大丈夫」と「わかってる」を口にする彼女を目の当たりにして、どっと後悔が押し寄せてきた。
「ごめん……今までありがとう」
傷つけたかった訳じゃないのに。どこで間違ってしまったのだろう。
俯いたままの彼女は無言で背を向けて、そのまま自分の部屋に消えていった。
* * *
十一月付けで札幌の支社に異動になり、一ヶ月ほどが経過した。
住居は、職場と地下鉄で行き来できるマンションを選び、通勤時間もぐっと短くなった。知らない街での生活は、慣れるのに苦労する分、瞬く間に過ぎていく。
新しい人間関係と、炊事と洗濯。平日は忙しくてちょうどいい。余計なことを考えないで済むから。
実家に置いてあった車は、父名義で共同で使っていたため、引っ越しと同時に、思い切って中古のSUV車を買った。身の回りの最低限のことなら、公共の交通機関で十分だが、引っ越し前に揃えきれなかった生活用品を探しに行ったり、食料品をまとめ買いするには、やはり車が便利だ。
週末は愛車を駆使して、ホームセンター通いをしばらく続けたが、生活環境も整ってきたところで、だんだんと休日は暇を持て余すようになる。
持て余すと、彼女のことを思い出す。頭の中に思い浮かべるのは、幾度となく向けてくれた笑顔ではなく、最後に見た悲しい顔だった。
ある日、何気なく立ち寄った書店で、クリスマスのプレゼント向けの本を並べたコーナーを通りかかった時だった。見覚えのある本が、目に留まる。それは一冊の写真集だった。二人で見に行った写真展で彼女が買った、星空の写真集だ。僕は導かれるようにそれを手にとって、そのままレジへ持っていった。
家に帰って急いたようにページをめくると、やはりあった。彼女が気に入っていた北海道の星空が。よくみると湖の名前も書いてある。
思わずその場所をインターネットで検索してみた。てっきり川内や十勝地方のあたりかと思っていたが、意外にも札幌からそう遠くない場所だった。
次の週末の夜。僕はその場所に車を走らせた。
弟が感動したという本物の星空を、この目で確かめてみたくて、写真で見たような藍色の世界を探しまわった。
国道から外れ、車を停車させて歩き出す。一歩踏み出したところで、予想外の問題が立ちはだかり、すぐに立ち止まった。
「暗すぎる」
写真から想像していたのとは少し……いやだいぶ違う。あの写真では、湖面や大地がそれであるとわかる程度に明るさを持っていた。でも、実際には街灯がなければ真っ暗で、特に月が大きく欠けている今夜は、地面がどうなっているかもわからないほど暗かった。足元はただひたすらの闇が広がっている。
それでも僕はスマートフォンのライトのかざしながら、おそるおそる歩き出した。湖のほとりまで辿り着き、ぱっと空を見上げた。
そこには満天の星空が広がっていて、それは写真で見るよりも、ずっと壮大で美しい、生きた景色だった。しばらく注視していれば、流れ星だって見ることができる。
弟もこんな星空を彼女と見たのだろうか。
僕はなぜ、弟と彼女が見たものとは、似ているけれど違う星空を、一人で見ているのだろうか。
見上げていれば落ちないはずの雫が、いつのまにか零れていた。
例えばあの時、僕も無理を言って母について行っていったら? 子供の頃の彼女と出会っていたら何か違っていただろうか。
もうこの世界にいない相手とは戦えないし、何も奪いたくない。
でも、弟が幸せを願っていた大切な人を泣かせたのは、間違いなく僕だ。
彼女から、一通のメールを受け取ったのは、それから数日後のことだった。
* * *
お久しぶりです、遥です
突然のメールでごめんなさい
実は今、旅行で札幌に来ています
気ままな一人旅です
明日の夕方五時の便で東京に帰りますが
もし純さんの都合がよろしければ
少しお会いできませんか?
聞いて欲しいことがあります
連絡待ってます
最後に会った時、僕は「会う理由がない」と中途半端に彼女を拒絶した。きっぱりと二度と会わないと言えなかったのは、僕の未練であり、弱さだった。
己惚れかもしれないが、もし会ったら、彼女の気持ちを伝えられるかもしれない。そして僕の本当の気持ちを聞かせてくれと言うだろう。そうなったら、僕は渾身の嘘をつかなければならない。それはどうしてもできなかった。
夜のニュースで、天気予報のキャスターは、明日の札幌は雪になるかもしれないと伝えている。彼女へ何の返事もできないまま、ぼんやりとテレビから流れる音を聞いていた。
翌日は予報通り、午後から雪が舞い始めた。僕は窓の外と、天気予報と、空港のフライト情報のチェックをひたすら続けていた。
今はまだ滑走路は閉鎖されていないようで、欠航の情報はなかった。
いっそ大雪になればいい、そうすれば彼女を引き留められるかもしれない。会いに行く口実ができる。本気でそう考えている自分に気が付いた時、殴られたような衝撃を覚え、我に返った。
「馬鹿みたいだ……」
天気次第なんて、そんな馬鹿な考えが許されるはずない。
タイムリミットは迫っている。今なら、空港まで車で飛ばせば彼女を引きとめられるだろう。
僕は慌ててコートと車のキーを掴み、外へ飛び出した。
高速道路を使って車で千歳方面に向かう。
昨日の予報では、大雪になるとは言っていなかったが、降る雪はどんどんと強くなっていく。すでに、速度規制がかかっていたが、まだ間に合うと心を落ち着かせてハンドルを握った。
だが、事故渋滞に巻き込まれてしまうのは想定していなかった。
結局、僕が空港に着いたのは午後五時をわずかにすぎた時刻で、ほぼ同時に滑走路は閉鎖された。
彼女の乗る予定だった飛行機は飛ばなかった。
混乱しているターミナルで、彼女の姿を探す。出発カウンターの前のベンチにぽつりと座る彼女を見つけるのに、そう時間はかからなかった。
無言で近づくと、照明が、俯いた彼女の視線の先に僕の影を落としていた。
「遥ちゃん」
声をかけると、びくりと肩を揺らした。
「何しに来たんですか?」
ゆっくりと顔を上げた彼女は、感情を押し殺した様子で、そう僕に言った。
「行こう」
「どこに?」
「僕の家。どうせ今夜は飛行機は飛ばないから」
「優しくしないで。期待させないで。もしこんなに雪が降らなかったら、あなたはきっと来なかった」
違う、と否定することはできなかった。直前まで迷っていたのは事実だ。僕は屈みこんで、冷たくなった彼女の手を握った。
「雪が降ったら、君に会いにいく理由ができると思ってた。たくさん降って、君を引き留めて欲しいって、本気で願ったよ。でも空に振り回されるのはもうやめる」
思わず、握った手に力がこもる。その手に、彼女の瞳からこぼれた涙が落ちる。
「ただ会いたかったんです。私は……」
「うん」
「それじゃ、だめですか? 理由がないとだめですか?」
僕が迷って、迷って辿り着いた答えを、彼女は当たり前のことのように言う。何でもないことのように言う。
「だめじゃない。僕も、会いたかった」
そうして、ただひたすら、彼女を抱きしめた。
〈終〉