プライド
セミの鳴き声が日に日に騒がしくなる。そんな夏の昼下がり。
私が立っている甲子園球場外苑には、この世の人々が全員集まっているのではないんじゃないかと思う程凄まじい込み具合で、人間模様もそれぞれだ。応援団、ブラスバンド部の生徒達、年齢もそこそこのおじさんたち・・・他にも沢山の人が居た。
「全く、夏の甲子園はいつ来てもなれねーな」
背中に聞き慣れた声がぶつかる。
なんとも呑気な声で、高校野球決勝戦を控えている感じになんか全く聞こえなかった。例えるなら、きっとカバだ。いや、ゾウかもしれない。体格は見合わないけど。
仕方なく振り返ると、彼は何故か上半身裸だった。
「燐、出場できなくなるよ」
「あー、それは勘弁だな」
私よりも身長が低いけど、身体つきは男の子そのものだ。色んな所が筋張っていて、筋肉も程よく、昔の面影はちっとも残ってない。変わらず身長は低いけど。もうそれはそれは、小さい。からかうのが何だか憚れるくらい。
ユニフォームを着た燐の姿はまさに「馬子にも衣装」だ。
「それにしても、3年間必ず地区予選から見に来るなんて、酔狂な奴だな聡里」
「燐の負ける姿がどうしてもみたくてね」
「ひでー奴」と言い、短髪を掻いている。高校3年にはとても見えない愛らしさでそんな仕草をするもんだから、不意にもドキッとしてしまう。
あーあ、なんでこんな奴好きになっちゃったんだろう。
いつから好きになったのかも覚えてないし。
「あっと、もう時間だ」
「そっか」
「なんだよ、幼馴染なら頑張っての一言くらいあってもいいんじゃね?」
少しむすっとしている燐の顔をつねってみる。女の子らしくない私の精一杯のエール。
「いってー。ったく、可愛げねーな」
くるっと半回転して「頑張れ」と小さく言う。多分初めてだ、素直に言ったのは。
「・・・おう!」
聞こえるはずのないくらい小さな声だったのに、燐はちゃんと返事をして走っていく。後ろ姿はもう小さくなんてなかった。
(頑張れ、燐)
今度は、胸の中で言ってみた。そんなに抱えられるほど大きくないけど。
今回は、ベストポジションだった。
ホームベース側の席がベストなのかは人に寄るだろうけど、燐の投球を見たい私にとってはこの上ないベストポジションだ。3年間、この場所に座ることが無かったから、ちょっと感動だ。
席に着くと、隣には見知った女の子の顔があった。話した事はないけど、碧海学園の生徒だ。
「今日も応援?」
「えっ、あの、あなたは?」
「ああ、ごめんね。私、白瀚高校の戸目石聡里」
「今日の対戦相手の・・・。私、智礼恋です」
ショートカットで前髪ぱっつんの彼女は、弱々しく答える。なんて可愛らしいんだろう。私もこんな風に弱々しくて、たれ目の可愛い女の子に生まれたかった。それと同時に、変な違和感を感じた。
そう思う私の事を無視して、試合開始のサイレンが鳴り響いた。
甲子園ならではの緊張感に包まれ、選手でもないのに緊張してきてしまう。私の感じた違和感なんて吹き飛ばしてしまうくらい。
最後なんだから、頑張ってよね燐。負けたらダメだよ。
ぎゅっと拳をにぎってどうにか落ち着こうとする私をよそに、恋ちゃんはまっすぐにグラウンドを見ている。
視線の先を追うと、1人の高校球児が目に入った。
細身に似合わないくらい筋肉質で、燐とは違い髪が少し長い。
「碧海学園 背番号1番 星野友諠くん」
鶯嬢の声で彼の名前が分かった。
あぁそっか、恋ちゃんも私と同じなんだ。
友諠って男の子が好きなんだ。だから毎年甲子園に応援に来てたんだ。
けど、1つ不思議に思うことがあった。
確かに、碧海学園も甲子園常連だけどあんな選手は見たことなかった。でも、恋ちゃんは毎年来てた。なんでだろう。
悶々としながら恋ちゃんの様子を伺ってたけど、会場の歓声で私の意識が熱気に包まれたグラウンドに戻される。
マウンドには燐の姿、そして対するバッターは星野くん。初球から、伸びのあるストレートで押していく燐。私の隣には、星野くんただ一点を見つめている恋ちゃん。
いつもなら、喉が張り裂けそうになるくらい応援してるのに、今日はなんだか声が出ない。
そんな時だった。
凄まじい勢いの金属音が響き渡り、白球が三遊間を飛び越していく。中継を挟んでるうちに星野くんは、二塁まで進塁する。
「燐・・・」
「もしかして、戸目石さんの彼氏さんですか。あの投手」
思わず口にした言葉は、どうやら恋ちゃんに聞こえてたみたい。
急に恥ずかしくなり、ぶんぶんと手を振り否定する私。
「違う違う、ただの幼馴染だよ」
「そうですか・・・。でも、好きですよね彼の事」
なんでだろう、恋ちゃんには何を言ってもばれてしまいそうな気になる。たれ目で可愛らしいのに、瞳の奥底には確かな熱意が宿っている。
「えっと、その」
頬の暑さがスタンドに照り付ける太陽のせいなのか、恥ずかしいからなのか分からなくなる。
私は確かに燐が好きだ。けど、私の好きは「愛」じゃなくって「恋」だった。わがままで、愛が欲しい独りよがりの恋。ただ漠然と、燐も私が好きなんじゃないかって言う恋。けど、恋ちゃんは違う。
恋ちゃんは、愛に恋してるんじゃなくて恋を愛してるんだ。
色んな感情がぐちゃぐちゃに絡んでしまって、私は顔を上げる事が出来ない。
「実は私幼い頃、彼に1つのお願い事をしたんです」
恋ちゃんの、急角度な話題転換に置いてきぼりにされて反応するタイミングを逃してしまう私。
「優勝しなくても良いから、甲子園に立ってる君の姿が見たいって」
私は、そう言う恋ちゃんを見てハッとした。これだ、私の感じてた違和感は。
大阪の今日の最高気温は37.8度。いくらかいつもの年より低い気温なんだけど、じっとしていても自然に汗は流れるし、ブラウスもぴたぴたなってくる。なのに何故か、恋ちゃんは1滴も汗を流してなかった。
なんでだろう、汗かきにくい体質なのかな。
そんな思いを、さっきより大きい歓声と叫び声がかき消していく。
「っしゃぁぁ!」
マウンドで叫ぶ燐。バックスクリーンを見るといつの間にか、一回が終わっていた。
ランナーは残留。この回で打たれたヒットは星野くんの1本だけだった。
「今日も絶好調だな燐」「テンポ上げすぎてへばんなよ!」
チームメイトから声を掛けられる燐はとっても嬉しそうだ。何だか、安心した。
ベンチに戻るそんな白瀚野球部の中、メットを外しながら悔しそうに引っ込んでいく星野くんに視線を送る恋ちゃんは気が気ではない様子だ。
「小さいのに、いい球投げるでしょ。燐は」
「でも、ゆうくんは打ちました」
頬を膨らませながら反論する恋ちゃんの姿に、女子の私ですらドキッとしてしまう。あー、もう、可愛いな。
試合は両校拮抗状態で、7回まで進んでいた。
碧海学園は、ランナーが出るものの要所要所を燐がしっかり押さえている。対する白瀚高校は、碧海の投手構成に苦しめられ決定打に欠けていた。
その間恋ちゃんと他愛のない話をしては、マウンドに浴びせられる歓声に一喜一憂する私たちだったけど、八回に入った途端話をやめてしまった。理由は、星野くんの行動だった。
試合を中断してから5分ほどの間、星野くんが深々と頭を下げながら何かをお願いしてるようだった。それをしり目に燐は、マウンドで退屈そうな顔を浮かべていた。
「どうしたんだろう、星野くん」
「わからないけど、なんか頼み込んでる?」
審判が遂に折れたのか、審判陣を招集してなにか会議をしてるようだ。
2~3分くらい経っただろうか、審判団の1人がアナウンスである言葉を放った。
「皆さま、ほんの少しの間静粛にお願いいたします」
いきなりのアナウンスにざわつく外野スタンドを他所に、星野くんは静かだけど芯のある声で言い放った。
「多分、碧海学園には君をまともに打ち崩せる打者は1人も居ないだろう」
スタンドの観客達は依然ざわついているけど、私達2人にはちゃんと聞こえてきた。
その声を受けて、マウンドの燐はにやっと笑っている。
「ったく、全打席芯を完全に捉えてる奴に言われたって嬉しくねーよ」
グラブを突き出しながら燐は続ける。
「最後は三振で仕留める。打者一巡してまたお前の相手をするのはごめんだからな。それに、無名の奴に打たれたんじゃプロ入りも怪しいし」
そう、燐は高校野球界で知らない人が居ないくらい有名で、大学やプロ野球チームから一目置かれてる存在だった。
あ、そうか。
思い出した。
私は、燐の真っすぐで変わらないこのプライドが好きなことを。
プライドって言うとナルシストで自信過剰なんて思われるかもしれないけど、本当は曲げない意思の強さと実現させるための絶え間ない努力だと私は思っている。
昔から燐は、大人になったらプロ野球選手になると言っていた。何気なく聞き流していたけど、少しずつその夢が現実味を増していく間にきっと好きになっていた。
いまだに将来を描けない自分とは違う燐に。
「君に譲れないプライドがあるように、僕にも同じ感情がある」
金属バットをバックスクリーンにかざす星野くんの後姿は前までの打席と違った。なんて言うか、気迫が体から溢れてるみたい。
いきなりのホームラン宣言にスタンドのざわつきが一気に鎮まる。
ヘラヘラしていた燐の表情もそれに合わせたかのように顔が変化する。力のこもった投手の目に。
「おもしれぇ。お前のプライドと俺のプライド、どっちが強いか決めようじゃねーか」
審判のプレイと言う掛け声と共に、燐はセットポジションに入った。観客達は、2人の一挙手一投足に釘付けになってる。
マウンドから放たれた白球はストライクゾーンから大きく外れた軌道を描く。けど距離が縮まるにつれ空気を巻き込み内側を抉るように曲がっていく。カーブだ。
外角低めに曲がっていくその白球を、星野くんはいとも簡単に弾き飛ばす。
豪快な金属音と共にライト方向に飛んでいき、ポールスタンドを巻いて消えていく。一瞬スタンドに入ったように見えたけど、判定はファールだ。燐も後ろを振り返り、立ち尽くしていた。
「今まで流し打ってたのに、いきなり強振・・・」
明らかにふり幅が違うのに気付いた。
完璧な選球眼、タイミング。なんでこれ程までの選手が今まで注目を浴びなかったのか不思議なくらいのバッティングだ。唖然としている私に、今まで黙ってた恋ちゃんが無音の熱気に紛れ口を開く。
「ねえ、聡里さん」
「な、なに、恋ちゃん」
呟くように私の名前を言い、呼吸を整え続きを切り出す。
「今から話すのは独り言なので、聞き流してもらって大丈夫です」
可愛らしい口元から出た言葉の意味を理解できなかった私の頭には、いくつものクエスチョンマークが浮かぶ。
返事とも言えない曖昧な頷きを表してみる。何を話すんだろう、恋ちゃん。
「ゆうくんは小さい頃から病気で身体が弱かったんです。でも、私は知ってました」
澄み切った空に溶け込んでしまいそうな声はふわふわと漂い、私の心の隙間に入り込んでくる。その度反応に困ってしまう。
「幼い頃の私のわがまませいで努力を強いていた事を。とても悪いことをしました」
そう言った恋ちゃんに、自分自身を重ね合わせてる私が居る。
容姿とかじゃなくて、考え方とか想いみたいな・・・そう、言うならプライドだ。私が燐を想ってるように、恋ちゃんが星野くんを想ってるように、そこには互いに譲れないプライドが有る事に感情を重ねていた。
「わがままなお願いを聞いて真に受けてしまうくらいお人好しで、私の大好きだった人」
言い切った様子の恋ちゃんに「なんで過去形なの」と聞くことは出来なかった。触れてはいけない事は誰でもあるから。
でも、私が考えてる事とはどうやら違ったようだ。
いきなり耳を裂くような歓声が沸き上がる。その言葉に視線を戻すと、マウンドではうなだれる燐、その先には悠々と走る星野くん。
バックスクリーンを見ると、ゼロが8回まで並んでたところに1の文字が抜かれる。
そっか、打たれちゃったんだ燐。
「星野くん凄いね」
恋ちゃんに向けて放った言葉だったのに、返答が来る様子もなくただただ熱風に紛れて何処かにいってしまう。
不思議に思い隣を見ると、今まで話していた姿は無かった。
何処に行ったんだろうと、反対側に居たおじさんに聞いてみる。
「すみません、私の隣に居た女の子どこに行ったかわかりますか?」
「何言ってんだい嬢ちゃん。もとからそこに誰も居なかったぞ」
そんなはずはない。
じゃあ、今の今まで話してた恋ちゃんは一体・・・。
辺りを忙しなく見回す私の目に入ったのは恋ちゃんではなく、天高く拳を跳ね上げてる星野くんの姿だった。その拳を胸にそっと持ってきて何かを呟いてる。
「れ・・・ん・・・。れん?」
あっ・・・。
星野くんの行動で全てを悟った。
「そっか、そうなんだね、恋ちゃん」
汗をかいてなかったのも、過去形で話してたのも、そういう事だった。
試合は、結局0-1で白瀚高校の敗北で幕を閉じた。
「おい、碧海の1番! 勝ち逃げなんて絶対許さないからな」
そんな燐の、負け犬の遠吠えが印象的な閉会式になったのは言うまでもない。
どこまで馬鹿なんだろうか、といつもなら呆れてるのに今日はそうは思わなかった。だってそんな馬鹿を好きな私が呆れたら、私まで馬鹿だと認めてしまう事になる。
甲子園球場外苑で燐を待ってると、遠くに星野くんの姿が見えた。チームメイトからの祝福を盛大に受けたんだろう、髪の毛がぐしゃぐしゃだ。
「星野くん!」
思わず呼び止め駆け寄る。戸惑ってる星野くんはバッターボックスに立っていた人と同じとは思えないくらい優しい顔付きだ。
「あ、あの、どうして僕の名前を」
「今日来てた観客ならみんな覚えたでしょ。自覚無いの?」
「いやいや、たまたまですよ。投手の球が良かったからあそこまで飛んだんですよ」
謙遜を次々に放つ星野くんには何だか、呆れてしまう。恋ちゃん、我慢強い子でもあったんだね。苦労を察するよ。
「それで、なにか御用ですか?」
言おうかどうか迷ったけど、これは私が抱えられるものではないし何より、恋ちゃんが報われない。
「今日ね、君の事が物凄く好きだった女の子と話したんだ」
そう切り出してもピンとこない様子で首を傾げる星野くんに、呆れを通り越してすこしイライラしてしまう。なんで、過去形にして話してるのに恋ちゃんが出てこないのか。他にも色々言いたい事はあるけど、どうにかそれを飲み込んで話を続ける。
「約束では、優勝しなくても良いって言ってたのに自分で決勝点あげるとはね。星野くんも実は好きだったとか?」
少し意地悪い質問を作り笑い交じりに言ってみると、ほんの一瞬だけ表情が曇る。やっと気付いたか。
たたみかける様に私の口が動く。
「そうだ、伝言頼まれてたんだった」
「ちょ、ちょっと待ってください。彼女はもう・・・」
星野くんは、言いかけた口を寸ででつぐんでしまう。
そんなの構うもんか。
言ってやる。
「恋ちゃんがどうかした?」
「な・・・んで、その名前を・・・」
もしかして今まで堪えてのかな、恋ちゃんの名前を出した途端顔に陰りが浮かび今にも泣きだしてしまいそうになってる。
その表情に私の良心が、流石にいたたまれないと信号を出す。仕方ない、優しく言ってあげるか。伝言なんて頼まれてないけど。
「恋ちゃんね・・・」
「わりぃ、聡里。遅くなった」
空気を読め、燐。
汗だくになりながら走って来る燐の顔はどこか誇らしげだった。
少し、ほんの少しだけどイラッとした。
「あ、お前、碧海の1番! 何の用だ!」
私の思いと言いかけた言葉を無視して突っかかる燐は、びっと指を突き出して星野くんを指す。
その様子に、ただただ苦笑いを浮かべている星野くん。
「星野くん言っていいよ、暑苦しいって」
「いや、でも・・・」
イライラしてる私、挑発的な燐、苦笑いと戸惑いを浮かべる星野くんと言う不思議な構図は傍から見たら女の子を2人の男子が取りあってる感じだ。
とりあえず、燐の左指を反対側に捩じろう。この構図を壊すためには致し方ないよね、うん。利き手じゃないし、ありがたく思ってよね。
そんなに力入れた訳じゃなかったけど、伸びた爪が食い込んだろう。燐は痛みで顔を歪める。
「いってーな! なにすんだよ聡里」
「あんたこそ、少しは空気読みなさいよ」
「はぁ!? 訳わかんねーよ」
妙な構図が崩れたのは良かったんだけど、いつもみたいに燐と喧嘩を始めてしまう。
そんな私たちを少し間を開けて眺めていた星野くんは、慎まし笑顔を浮かべて言い放つ。
「仲良いんですね」
「良くない(ねぇ)!」
見事にシンクロしてしまう私と燐のリアクションに破顔する星野くんは、どこか嬉しそうでもあり寂しそうでもあった。
「まあまあ、仲睦まじいのは良い事ですし」
「だから、良くねぇって。あ、そうだ」
急に何かを思い出した燐は、スパイクやグラブが無造作に放り込まれてるバックの中から1通の封筒を取り出す。そのくしゃくしゃになってるそれを突き出された星野くんは訳も分からず受け取る。
「これは?」
「わかんねー。なんか知らねぇおっさんがお前に渡してくれってさ」
「ちょ、ちょっとまって、後ろ見て後ろ」
封筒の裏に印刷されていたロゴに思わず声をあげてしまう。
私の声に促されたのか、封筒を反転させる星野くん。
「これ、白売シャインズの・・・」
「ってことは、俺と同じとこから声が掛かったってことか!?」
ちょっと待って、知らないおじさんって白売シャインズの人だったんじゃ。
そう燐に言おうとしたのに、とてつもない熱量で遮られる。発熱元はもちろん燐だ。
「おー、お前みたいな奴と野球できるのか。なんか楽しみだな!」
「燐、閉会式の時と言ってる事違うけど」
「まぁ良いじゃねーか。俺は、楽しいの事を共有したいんだよ」
すっかり入団することを前提で話を進める燐は、想像を巡らせてはにやにやと笑う。
「でも、僕は」
そんな中、短く漏れた吐息のような声を私は聞き逃さなかった。
あ、そうだ。
「恋ちゃんね、ここまで来たらプロの舞台に立つ君を見たいってさ」
その言葉は脚色なんてものじゃなく、完全なる嘘だ。ごめんね恋ちゃん。私のわがままで星野くんの行く先を変えちゃうかもしれない。
けど、恋ちゃんの元に星野くんの声を届けるには天に届くくらいの舞台じゃなきゃ駄目だと思うから。
「持ち帰って、考えてみます」
その言葉を最後に星野くんと別れた。
すっかり空の色が変わり、ひぐらしの鳴き声も涼しげでいい感じだ。
身体に照り付ける太陽も心なしか和らいでいた。
「なぁ聡里、れんって誰だ?」
「ん? 内緒」
不思議そうに聞いて来る燐には多分言っても馬鹿にされるだけだからやめておいた。
特に問いただす事もせずに燐は「そうか」と言ったきり黙ってしまった。
おかしい。いつもなら、しつこいくらい聞いて来るのに今日はそうじゃなかった。その代わりに、何か言いたげな表情をしてる。
そんな燐より先に私の口が動いていた。
「ねぇ、お腹すかない?」
甲子園の雰囲気に呑まれて、昼食も喉を通らなかった私のお腹は限界に達していた。
黙ってたらお腹が鳴りそうになるから、出来るだけ話をしてごまかそうっていう私なりの女の子らしさだ。
「だな」
「じゃあさ、駅前のラーメン屋行こうよ」
我ながらセンスも女の子らしさも感じられないチョイスに思わず苦笑してしまう。
「いいな! もちろん聡里の奢りだよな」
「いいでしょう。今日の私は機嫌が良いですから」
予想も出来なかった回答だったのか、煽り飲んでいたスポーツドリンクを吹き零してしまいそうになってる。
「だって、高校無敗の投手があんな無様に打たれたら、それはそれは機嫌も良くなるよ」
「ほんと、性格悪いな聡里」
子供の様にむすっとしてる燐の頬をつつく。
「なんだよ」
「お疲れ様、3年間もよく頑張ったね」
くすぐったいような顔を見せる燐の顔はオレンジ色に染まり、照れくさそうに笑っている。
私の手が離れると、少し寂し気な表情を浮かべ陰りが出てくる。
「んなことねーよ」
なんか、いつもの燐っぽくない。
粗暴で、喧嘩っ早くて、私の事なんてまるで男の子を扱うような感じなのに、今私の目の前にいる燐は別人みたいだ。私にとってこの状況はとても不思議に感じた。
昼間にあれほど出ていた入道雲は見る影もなく、綿菓子をそのまま千切ったようにふわふわと浮いている。そのひとかけらが夕陽を隠すと、今まで光ではっきりと見えなかった燐の顔を鮮明に映していく。
けど、顔を覗き込むような無粋な真似はしなかった。
それは、燐が多分一番見られたくない表情だと思ったから。
私は声をかける事もしないで、ただたそっと燐の頭を撫でた。決勝戦前に見た大きな背中は間違いではなかったけど、今の燐は何だか子供みたいで可愛い。
「聡里、俺は・・・」
震え交じりに出した声の続きはきっと燐のプライドが許さなかったんだろう。「今日勝てたら」と仮定形で話している燐自身の体も震えていた
その内容はとても嬉しくて、初めて女の子として見てもらえた気がして安心したけど、私は敢えてこう返事をした。
「じゃあ、新人賞までこの話は保留だね」
俯いた顔からこぼれた何かが、真夏の太陽をたっぷりと含んだアスファルトに落ちてじわりと広がっていく。
次第にその何かは幾つも零れ、歩いてきた道に目印を付けているように見える。
それからは特に何を話す訳でもなく並んで歩き、いつの間にか駅前まで到達していた。
「なあ、聡里」
「ん? 何」
急にしおらしくなるものだから次は何を言われるのか身構えたけど、なんてことはない言葉が飛んでくる。
「俺の事、どう思ってるかだけ教えてくれ」
少し首を捻り、回答を模索する。
私の想いは、出来るなら今伝えたい。けど、そんな事をしたら、してしまったら私のプライドが許さない。でも、隠しておくことは出来ない。
私も、もしかしたら恋ちゃんみたいになってしまうかもしれないから。
中々歯がゆいな。
どのくらい時間がたっただろう、ほんの数秒かもしれないし、もしかしたら数分経ってたかもしれない。
抱えた想いの末に、1つの答えを導き出す。これなら、燐のプライドの火が消える事もないだろう。
言うよ、私の気持ち。もちろん、私の歪んだプライドの案だけど。
すうっと夏の夕陽に背を向けて言い放った。
「ナイショだよ」