プロバイダー
需要に対する供給は決して上回ってはならない。少しでも余りが出ると価値は著しく低下してしまう上に、需要も減る。モノの価値と需要を保つためには、常に若干の低供給を維持するのが望ましいのだ。
例え、それが大量生産よりも難しいとしても。
「そんな話はどうでもいい、例の物は手に入ったのか?」
マスター曰く、ピンクのトレンチコートが目に痛いこの依頼人は十分前には来ていたそうだ。なんとも時間に律儀と言うか、こういった類の依頼主が俺よりも先に待っている事は珍しかった。それに加えて今日は特別な日でもある。こんな夜に限ってこんな場所に居る人間は間違いなく普通じゃない、そう言い切っても問題ないくらいスペシャルな夜だった。
「まあまあそう急かさずに。こんな綺麗な月が見れるなんて何十年ぶりかも分かりませんよ」
雲一つない真っ黒の空にぽつんと浮かぶ小さな宝石。一片も欠ける事無く琥珀色の輝きを放つ満月は真夜中を淡く切なく照らし出している。これほど綺麗に見えたのは幼い頃以来になるだろうか。なんでも月は少しずつ地球から遠ざかっているらしく、心なしか子供の頃に見た時よりも小さく思えたが、もはやその記憶も曖昧となっていた。
瞼を閉じると蘇る郷愁に耽ろうと思った矢先、前の椅子で葉巻を吹かしていた男は眉間にしわを寄せた。
もうほとんど客の居ないこの店には依頼人、カウンターに座る女が一人、仕事を終えたマスターの三人だけが窓越しの月を肴に酒を煽っている。
俺は酒を飲まないがこの店はよく利用する。決まった閉店時間はなく、客が居なくなれば閉まるし客が来れば開く、そういう店だった。
「俺は月なんざに興味はねえ、電球と同じだ」
それよりも早く例の物を渡せと男はぐっと顔を寄せ、アルコールの臭いが混じった煙を吐き出した。
この手の男に凄まれると無意識に歯を食い縛るのはもはや職業病と言ってもいい。あまり話の先は急いで欲しくないのだが、そんな馬鹿げた事も言ってられないし、気は重いがここはタイミングを見計らって話すしかないな。
「げほっげほっ! つ、月の電球ですか、それはそれでロマンチックだと思いますがねぇ」
男の息には他にも色々と混じっているようで、臭いがどんどん移り変わり最終的に全部混ざってドブのような匂いがした。世の中にこれほどクサい息を吐く人間が居るなんて驚きだ、学生の頃にキャンプで行った山の公衆便所も臭かったが、これはそれよりも臭いぞ。
……等と暢気に構えていられる状況ではないらしい、今にも爆発しそうな怒気が男の顔面に満ちているのが見て取れた。
「おい、いい加減にしねえか。お前、まさか手に入れられなかったなんて抜かすんじゃねえだろうな。前金も払ってんだぞ」
お願いだから先に言わないで欲しかった。いや、せっかくタイミングを見ていたのにこればっかりはもうどうしようもなくなってしまったではないか。これ以上話を引き伸ばすのは逆効果になりかねない、今すぐにありのままを話すしかないだろう。
その前に若干のクッションを挟めば怒りも和らいだりしないものかとさっきの話の触りを口にするが、男は殴りかかってくるどころか項垂れて葉巻の火を力なく捻じ伏せた。なんだか拍子抜けだが、ほっとした。
「俺はなあ、女房の髪も娘の目もこの酒も、ただの白と黒にしか見えねえんだ」
男はぽつりと、さっきまでの怒気を空気にばら撒きでもしたように穏やかに言った。
この手の男が見せるにはそれは余りに物憂げな目で、しかしそれだけで全てを物語っているかのようだ。
「赤いんだろ? この酒は」
唐突にグラスをこちらに傾けると、男は長い手を伸ばしぐらりと回しテーブルランプの隣に置いた。その行動の意味が分からなかったが、だらしない顔にならないようにだけ気をつけ、力を込めて頷く。間抜けな顔で殴られた時は痛みもでかいのだ。
「血も赤いらしいな、でも全然違う色なんだろ? 俺にはさっぱり分からねえ、透き通ってるか濁ってるか、それくらいしか分からねえ」
男の目線の先を追うと、ランプの光を浴びたワインが透き通り、白いクロスによく映える赤い影が揺れていた。
「今日は特別な日だったんだ、だからなんとしても今日欲しかった。後は言わなくても分かるな」
いつの間にか目線をこちらに戻していた男は打って変わって真剣な眼差しで、懐から何かを差し出してきた。得物の類ではない、それは白い封筒だった。
同時に直感する、これはヤバいと。
「あの、これは?」
男は俺の顔を指差すと、一片の冗談も含まれていない目を鋭く細める。
「闇医者の紹介状だ、予約はもう取ってある。手に入れられなかったお前の責任だ、その目は俺が貰う」
やはりそう来たか、男が指していたのは厳密に言えば俺の顔ではなかったらしい。殴らなかったのはその為だったとしたら納得もできる。
しかし俺とて何の収穫もなしに前金をぶん取ったわけではない。保険をかけて身の安全を確保するのも仕事のうちだ。
「あー、ちょっと待ってください、目とは違うものですが別の物なら確保できたんですよ」
もう殴られる心配はなくなったようなものだが、今はそれよりも命が危ない。やはりこういうのは何年やってても慣れないもので、用意したケースを華麗に開けるはずが手先が震えて上手くいかない。
「何言ってやがる、俺が欲しいのは目だ、最初にそう言ったはずだろうが」
その間にも男の怒気は高潮し、声こそ荒げないものの殺意は存分に感じ取れる。
てこずりながらもようやく一つ目のロックが解除できた、しかしもう一つ解除しなければならず、しかもそれは今開けた奴よりも小さい作りになっている。
畜生、なんで小さく作るんだ。もう二度とこのメーカーのは使わんぞ。
「確かにあなたは目が欲しいと仰った、しかしあなたが本当に欲しいのは目ではなく色だ。俺には分かります、それに、俺が用意した物ならあなた自身のその目で色を見る事が出来ます!」
焦りとともに口調も自然と早まる。クソ、開け開け開け!
こんな事ならこれを空ける練習もしておくんだった……!
「何? そんなモンがあるならもうとっくに……」
来たッ! 小さい鍵穴からカチッと手応えを得ると、一気に回し込み全力で開け放ち男に向けた。
「それがあるんですよ!」
中には2枚のレンズと、大きさの違うフレームが約20本。きっちり入っていて一安心、これを組み立てると(と言ってもレンズをはめるだけだが)眼鏡のような物になるのだ。
「ああ? てめえナメてんのか」
手が震えていてもこれだけは何度も練習した甲斐があって、男の顔のサイズに近そうなフレームを適当に選んで組み上げたものを差し出すと、男は黙り込み訝しげに顔をしかめる。
「一度でいい、騙されたと思って、掛けてみて下さい!」
まるで嫌いな食べ物が入っていないか疑う子供のようだ。恐る恐ると言った具合で眼鏡を手に取り、ぎこちない仕草で掛けると男の表情は一変した。
「どう、ですかね?」
「……こいつは驚いたな」
その表情は紛れもなく喜びを示していた。いや、感動しているとも取れる。全身で感情に浸るように店の中を何度も見回しては笑みを零す。
「さ、最近になって実用化された色覚矯正レンズなんですが、それはあくまで代わりの品です、また後日改めて依頼の物を」
しかし男は巨大な右手の人差し指を振った。それ以上は喋るな、と言うその合図に妙な違和感を覚えて声が出そうになったが、それより先に男が口を開く。
「いや、もういい」
何がもういいのと言うのだろう、まだ依頼は果たせていないと言うのに、この程度で満足だとでも言うつもりだろうか。
「もうあれ以上金は出せねえ。実はな、俺はもう足を洗ったんだ。この紹介状も嘘っぱちだ、ハッタリかまして金を返してもらうつもりだった」
彼が俺に依頼を出した時点で裏の人間だと言う事は分かったが、それ以外の素性はまるっきり掴めていないので、足を洗ったと言われても違和感は払拭できなかった。
こんな眼鏡なら壊れてしまえばまた元の色の見えない生活に舞い戻る羽目になる。それでなくてもレンズは曇るし万能ではない、生活の場面によっては外さなければならない事もあるだろう。金は十分に積んでくれたお客だ、あと少し時間をくれれば確実に用意できると言うのに。
「本当に……よろしいので?」
「もういいんだ。娘が家で待ってる。今日は娘の誕生日なんだ。そんな日くらい、自分の目で娘の顔を見てやりたい。女房の髪染めも褒めてやりたいしな」
なるほど、ようやく合点が行った。
妙に焦っているように見えたのもそのせいだったのか。
「……そうでしたか」
今の時代、手術だけなら数時間で終わるだろう。しかし眼鏡を掛けるのに時間はかからない。足を洗ったのも、家族と過ごす時間の価値の大きさに気づいたという事か。
「そうだ、一つだけ教えてくれ、これは何色って言うんだ?」
去り際に振り返った男は、喜ばしげにコートの襟を摘んで言った。
俺が答えると、それを噛み締めるように、決して声には出さず唇を震わすのが見え俺を一瞥。この手の男が見せるにはあまりに無邪気な笑顔で、
「娘の好きな色だ」
それだけを言い残して彼は去っていった。
依頼の品を用意できなかったと言うのに、大きなトラブルもなくスムーズに行ったのは奇跡とも言えるだろう。肝の冷える場面もあったが、きっと月の女神が計らってくれたに違いない。
さて、仕事も終わった事だし俺も四半世紀ぶりの月を眺めるとしよう。酒も飲めない客はマスターの邪魔にしかならない。
会計を済ませようと思ったが、何も頼んでいないのを思い出してそのまま出ようとすると、マスターに呼び止められた。気になって男と話していたテーブルの方を見るが、特に下手を打った痕跡はない。何かまずい事を仕出かしたか。
「お客さん、あちらの方からこれを」
と思いきやこれまた随分と珍しい事もあるもんだ。ここに通うようになって初めてそんなフレーズを聞いたな。出てきたのは淡い青色が印象的な美しいカクテルだった。
今この場には三人しか居ない。あちらの方、と言うのは必然的にあの女性からという事になる。ここからでは後姿しか見えないが、綺麗なブロンドの髪にドレス姿と言うだけで十二分に美人に思える女性だ。しかし、
「折角なんですが、生憎俺は酒はダメでして……」
彼女は退屈そうに窓の外を見つめながら、髪をかき上げる。
すっかり空になったグラスを片手に振り向いたその顔に鼓動が跳ね上がる。やはりしばらく見惚れていたくなるような美しい女性だった。
「ねえ、貴方プロバイダーなんでしょう?」
椅子から降りた妖美な肢体がこちらへ近づき、「だったら」と唇同士が触れそうになるほどの至近距離で彼女が呟く。俺が平静を保つのに必死になっていると、追い討ちを掛けんばかりの艶のある声が理性を崩壊へと導く。
「あたしの需要も満たしてよ」
……いよいよスペシャルな夜になりそうだ。