2話
「か、かわいい・・・」
口をついて出た自分自身の言葉に気づかず、ジルは少女の姿を目で追った。
学校のマドンナや町で噂の美人、あるいはちょっと可愛いクラスの女の子。ジルはそういった異性に人並みには興味があったし、目を奪われるような経験も何度かあった。
しかし、そういった女性は自分とは縁遠い存在だと理解、と言うよりは半ば諦めていた為、一歩や二歩、物理的にも心理的にも離れたところで遠巻きに見ているだけで十分満足だった。
「――ね、ねえ・・・」
いつも通りの自分なら、このまま去っていく少女を見送り、可愛い子だったなと内心で呟いて終わりである。
それなのに、どうしてだろうか、
「ちょっと待って!」
まるで自分の意思とは別のところで体が動いているかのように、ジルの手は少女を引き止めるように虚空へと伸ばされ、口はいつの間にか言葉を紡いでいた。
やけに鮮明に響いたその言葉にジル自身が驚いて、そのままの姿勢で固まってしまう。だが、そんなジルの事情など、声をかけられた少女が察せるはずもなく、寂しげな瞳がジルを捉えた。
正面から少女を見て、ジルは呆然と改めて思った。
(かわいい・・・)
大きな翡翠色の瞳。
背丈はジルより少し小さいくらい。
見たことはないが元々この色なのだろうショートカットの白い髪は、それ自体が発光しているかのように陽光を反射していて、老いと言うよりは幻想的ですらある。
ずっと昔に好きだった御伽噺に、白の姫なんていうお話があったな、なんてことを目の前の少女を見て唐突に思い出していたジルに、少女は初対面の相手に対するには些か無礼ともとれるくらいに形の良い眉を訝しげにひそめ、薄い唇をおもむろに開いた。
「――えっと、私に何か用?」
「えっ、いや、その‥‥」
半ば見とれていたジルはそれで我に返り、しどろもどろになりながら返す言葉を考える。
だが、端的に言えば可愛い女の子につい声をかけてしまった訳で、用などあるはずがないことをすぐに思い至る。
ジルはコミュニケーション能力が壊滅的な訳ではない。訳ではないが、異性、それもストライクゾーンど真ん中の女の子と普通に話せる程の経験はない。と言うより、女性と会話するという経験だけで言うならそれこそ壊滅的だろう。
故に、経験のない思春期真っ只中のジルが、少女とまともに視線を合わせることが出来ず、顔を赤らめてしまうのは仕方がないことである。仕方がないことではあるが、これも話しかけられた少女にとっては関係のない問題であるわけで、
「何もないなら、もう行くけど」
少女はその瞳に警戒の色を強めて、言葉を返さないジルから半歩後ずさった。
それを認識したジルは、そこでようやく自分が不審者として警戒されていることに気づき、慌てて顔の前で手を振った。
「違う違う!そういうのじゃないから!ただ、見かけない顔だなーって思っただけだから。君、この町の人じゃないよね?」
そう言いつつも、ジルは『あんたに関係ないじゃない』とか返されるのだろうなと、思い出したくもない経験から想像してぎこちなく笑った。
そもそも初対面、それも偶然見かけただけの、これといった繋がりの無い相手と会話するなど自分には出来ない、とジルは思う。
世の中にはナンパという行為があるようだが、そんなことを平気でやれる人間は、いったいどれだけの語彙力と度胸があるのだろうか。自分には一生かかってもに無理な気がする。ジルの思考が脱し始めた所で、
「・・・うん。まぁ、そうだけど」
少女がきょとんとした顔をしながら頷いた。ジルの質問の要領を得ないといった風である。
それも当然だろう。ジル自身、この話の流れの着地点が見えていない状況なのである。
ジルは冷たくあしらわれなかった事に内心で驚き、これで会話が終わらないようにと考えを巡らせ、自身のうなじを擦りながら言葉を返した。
「い、いやー珍しいなと思ってさ。この町、特に見るものなんて無いから・・・あ、観光で来たの?」
「んー、まぁそんなところ、かな?」
小首を傾げて言う少女の仕草に、ジルは身悶えしそうになるのを何とか抑える。
「ま、まあ畑ぐらいしか見るものないけどね」
頬を掻きながら戯けるようにジルは笑うが、少女はそれに同調することはなく、どうして笑っているのだろうと、困惑した顔でジルを見つめていた。
やがて耐えきれなくなったように小さくなっていくジルの笑い声が収まると、少女は躊躇いがちに口を開く。
「ねぇ、ちょっといい?」
「な、なになにっ!?」
食い入るようなジルの勢いに若干押されながらも、少女はしっかりとジルの目を見て口に言葉をのせる。
「その、車の部品とか売ってるお店、知らないかな?」
「車の?車の・・・うん。まあ、幾つか知ってるよ」
「よかった、そこの場所、教えてくれない?」
「えっと、だったらさ・・・お、俺が案内するよ。どうせ暇だし、なんだったら荷物持ちも任せてよ」
自分の胸に手を置いて売り込むように言うジルに、少女は再びきょとんとした顔を見せた。
その顔に少しだけ頬を緩ませたジルは考える。それほど考えて出した提案ではなかったが、存外悪くない。
顔を合わせるにはもう少し時間を置きたい老人が家にいるが、現状で暇を潰す方法は全く思い浮かばない。ならば、この少女の買い物に付き合うのは丁度いい時間潰しになるだろう。
自分は暇を潰せる上にもう少しこの少女と一緒にいられ、少女は案内役兼荷物持ちを得られる。まさにWin-Winの関係と言うやつだ。
「それは・・・」
ジルの目を見つめながら、少し困ったように少女は言う。
「何かお礼とか見返りとか、そういうの期待してるなら、何もしてあげられないわよ?」
「別にいらないよ。暇だし、好きでやるだけだから」
見返りを望んでいたわけではないが、はっきり言うなあ、とジルは苦笑しながら思った。
自分も彼女のようにはっきりと物が言えれば、痛い目を見ることも無くなるのだろうかと、ジルは数時間前の学校での出来事を思い出す。
―――きっと無理だろう。
弱い自分があのような場面で強く言えるとも思えないし、そもそも自分がああいう目に合うのは、はっきりと物が言える言えないとは別のところに理由があるのだろう。以前に一度聞いたことがあるのだが、その理由は『お前が能無しだから』という所謂理屈じゃない、少なくとも自分には理解できない理由だった。
故に、はっきりと嫌だ、止めてくれと言ったところで、ああいった奴等がやめてくれるとは思えない。
何より自分は、抵抗して事を荒らげるよりも、我慢して事を納めることに慣れ過ぎてしまっている。
嫌なことを思い出してしまった。
「本当に何もあげられないわよ?」
「・・・ありがとう位は欲しいかな」
「ありがとう」
嫌なことを思い出したので、気分転換に少しふざけたつもりだったが、何ともなく真っ向から返された。ちょっと悔しい。
ジルが言葉に詰まっていると、少女はさも不思議そうに首を傾げた。
「・・・君って、ちょっと変わってるね」
「か、変わってる!?ーーそれって、き、気持ち悪いとか、そういうこと?」
「気持ち悪い?体調が悪いの?」
「いや、そういうことじゃなくて。俺がのうなーーー」
言いかけて、ジルは唐突に気がついた。
この町の同年代の殆どが、自分に付けられた『能無し』というあだ名と、それが意味することを知っている。故に自分も“そういう”扱いを受けることが当たり前なのだと、そう思い込んでしまっている。
でも、目の前の少女は違う。彼女はジル・バケットという人間のことを知らないのだ。ならば、
「ーーいや、何でもない」
「大丈夫?」
「へーきへーき。ちょっとお腹が空いてるだけだから、あ、リンゴ食べる?」
話題を変えようと考えたジルは、ポケットに二つリンゴがあることを思い出して手を伸ばした。ポケットから赤い物がちらりと見えたその瞬間。
「いただきます」
そう言って、少女は両手を受け皿のようにして前に出した。
「・・・えらく早いね」
「・・・リンゴは、好きだから」
「そ、そっか、じゃあ丁度良かったよ。えっと・・・ごめん、まだ名前も聞いてなかった」
ジルは二つのリンゴの内一つを、受け皿のようにして待ち構えている少女の手の中に置き、言葉を続ける。
「俺はジル。ジル・バケット。君の名前は?」
少女は手の中のリンゴをじっと見つめていたが、やがて何か納得したのか一度頷くと、顔を上げて簡潔に、
「・・・リブ」
とだけ言ってリンゴを一口かじった。
「リブ、リブか・・・」
ジルは確認するように口の中で呟き、そしてリブから顔を逸らして若干頬を赤く染めながら、
「それじゃあ、その・・・り、リブ」
「?どうかしたのジル?」
「・・・」
自分は緊張して閊たのになと、何でもないかのように自分の名前を言うリブに何となく負けた気がして、ジルは言葉を返せず固まってしまった。
すると、リブはごくんと口の中のリンゴを飲み込んでから、不思議そうに首を傾げた。
「ジル、やっぱり体調悪いの?」
「そ、そういう訳じゃないから大丈夫」
顔がやや赤いままのジルは、それよりも尚赤いリンゴを勢いよくかじって言う。
「よし、行こう。こっちだ!」
「うん。よろしくね、ジル」
そう言ったあと、リブはもごもごと口を動かしながらジルの後を着いていった。
◆
町外れにあるジャンク屋。
照明器具が三つ程しかなかったり日当たりが悪いせいか、日中にも関わらず手狭な店内は薄暗く、どこかカビ臭い。
足の踏み場だけは辛うじて確保するように配置してある棚や段ボールの中には、知識のない者にとってはガラクタにしか見えないような物で無造作に埋まっていた。
この店をリブに案内したジルも、それらがどんな物なのか分かってはいない。恐らく何かの部品なのだろうなあと、曖昧に理解しているだけである。
そんなジルが大きな袋を両手で胸の前に抱え、何とはなしに店の中に視線を彷徨わせていると、雑多に物が置かれた整理されていないカウンターの奥に座る四十半ばの店主の男が、無精髭のある四角い顎にあてた手とは逆の手に握るメモを見て口を開いた。
「ーー悪いがうちにはねえな」
「そう・・・」
カウンターを挟んで店主の男と向かい合って立っているリブが短く返す。
どことなく残念そうなその声色に気付いたジルがそちらを向くと、抱えていた袋の口からはみ出しているパイプのような物がジルの方に傾き、鼻頭にぺしりと当たる。ジルは顔をしかめた後、うざったそうにそれを退けて、
「あの、ここの前に行った所で、おじさんの店ならもしかしてって言われたんですけど?」
「ん、まあ、確かにこの辺じゃそこそこ品揃えが良い方だけどな」
店主の男は得意げに言ったが、後に続く言葉はそれとは反対に、
「けど、このメモにあるようなもんはうちには無い。どうしても欲しいってんなら、用意できないこともないだろうが、一ヶ月は待ってもらうことになるな」
「・・・一ヶ月」
店主の男の言葉を反復するように漏らしたリブの言葉は、それだけで一ヶ月も待てないという彼女の心境を理解できる声色だった。
何かを考え込むように黙り込んでしまったリブの気持ちを代弁するように、ジルが再び口を開く。
「もう少し何とかなりませんか?一ヶ月はちょっと」
「んなこと言われてもなあ。こんな田舎町で無いもの取り寄せるってなったら、それぐらいは普通に掛かる」
店主の男はジルの服ーーこの町ではよく見かける学生服をちらりと確認してから続ける。
「坊主なら分かるだろ?ーーって言うかお前、学校はどうしたんだ?」
「・・・その、頭痛が痛くて」
「なるほどな。ま、そういう時もあらぁな」
ニヤニヤと悪戯っ子のような笑みを浮かべて店主の男は言った。
ジルはその笑顔から逃げるように、いまだ黙考しているリブに話を向ける。
「一ヶ月も待てない、よね?どうする?もう一軒くらい回ってみる?」
「そう、だね・・・うん」
「お二人さん。重ねて言うが、この町じゃどこも同じだと思うぞ」
店主の男は最後に手元のメモを一瞥してから、それをリブの前に差し出した。リブはメモを受けとると、そこに書かれている内容に視線を落としながら、独り言のように呟く。
「国境が近いから、警備団用にそこそこあるだろうって言われたんだけど・・・」
「誰に言われたんだが知らないが、この町の人間じゃないことは確かだな。このミニースが国境にある警備団の詰め所と一番近いってのは確かだが、それでもウン十キロも離れてる。直接的な交流はないんだ」
店主の男はそう言ってジルに視線を向け、にやりと笑う。
「彼氏に聞かなかったのか?」
「な・・・っ!?」
「カレシ・・・?」
真っ赤になったジルと、きょとんと小首を傾げるリブ。店主の男はその反応の違いに二人の関係をある程度察したが、そのことは口には出さず、しかし面白そうな笑みを強くした。
「なんだ、遠距離だと思ったんだが違うのか。坊主と嬢ちゃんはどういう関係なんだ?ん?おじさんに教えてくれよ」
「私たちの、関係・・・?」
「き、聞いちゃ駄目だリブ!これは悪いおじさんだ!」
「え?う、うん」
「何かあったらまた来いよー」
ニヤニヤとからかうような店主の笑みから逃げるように、ジルはリブを先導して店から出た。そのまま無意識に次の店の方角へ歩みを進めながら、後ろに着いてきているリブを意識して口を開く。
「さ、さっきのおじさんも可笑しなこと言うよね」
「可笑しなこと?」
「いや、その・・・彼氏とかさ」
「・・・可笑しいの?」
「!?それってどういうーー」
「それよりも」
勢いよく振り向くジルの言葉を遮るようにリブは話し始める。
「次のお店って、こっちでいいの?」
「え?う、うん。こっちだよ」
ジルはリブの平静な態度に、先程の言葉に他意は無かったのだと理解させられた。同時に、『もしかしたら』なんてことを考えていた自分に気付いて少し顔が熱くなる。
「そう。それじゃあーー」
「うん。早く行こうか」
「え?」
「ん?」
リブにしては分かりやすく、少し驚いた様子でジルに視線を向けていた。
今日ここまで一緒に行動してきて、あまり表情が変わらない娘だという印象をリブに持っていたジルは、単純にリブの驚いた顔を見れたということが嬉しく、かと言ってそれを表情に出すのは良くないと内に留めて、こほんと咳を交えてから改めてリブと目を合わせた。
「ーーえっと、どうかした?」
「どうかしたって、もしかして次も案内してくれるの?」
「ん?いや、ここまでも案内してきたじゃん」
「でも、もう日も暮れてきてるし」
リブの言葉にジルはちらりと周囲に目を向ける。
彼女の言う通り、日は傾きを増していて、その姿は山の影に少し隠れている。
町のそこかしこが紅く染まりつつあり、どことなく郷愁を誘う景色。自分の生まれ故郷なのだから当然か、と息を漏らしたジルは、リブへと視線を戻して小さく笑った。
「大丈夫、大丈夫。子供じゃあるまいし門限なんてないから、最後まで付き合うよ」
大人しく家に帰るという気持ちにはまだなれていないし、何よりこのまま『さようなら』というのは嫌だ。
かと言って、今の自分に何か行動するような勇気はない。そう自覚しているからこそ、少しでも長く一緒にいたい。そうジルは考えていた。
ジルは行こうと短く声をかけて歩き出す。
「・・・君はーーーいや、ありがと。でも、荷物は私のだし、ここからは私が持つよ」
リブはジルの背中に一瞬探るような視線を向けたが、すぐに霧散させて隣に並んだ。
「いや、これは俺が持つから!持たせて下さい!」
「そ、そう?よく分からないけど、じゃあお願いね」
語気を強めたジルに若干困惑しながら、リブはそこまで言うならばと、ジルの横を歩き出す。
納得してくれたことに安堵したジルは、隣を歩くリブをちらりと見てから周囲に目を向ける。
通りは昼間よりも幾分か人通りが増えており、その中には若い男女の二人組も見受けられた。
それらがどのような関係の二人組なのかを確かめることは出来ないが、何か荷物を持っているのは男性のほうが多い気がする。
女の子と連れだって歩くなんて経験のないジルでも、それが『女性の荷物を持ってあげるのがデキる男』、という世間一般での認識から出た結果なのだと理解できた。何でもかんでも持てばいい、という訳ではないことまでは理解していなかったが。
とにかく、ジルにはリブという少女が、そういう人によっては当然だと思っていることに頓着する性格なのかは分からなかったが、周りを見て、持たないよりは持ったほうが絶対にいいという考えから、荷物を持つことに頑なになったのである。
(ーーにしても)
ジルは隣を歩くリブをちらりと盗み見た。
(・・・なんだかなぁー)
女の子と二人で並んで歩くという状況に少なからず緊張している自分とは違い、隣のリブは表情にこそ出ていないが、物珍しそうに周囲に視線を彷徨わせている。
そのことにはどこか微笑ましいものを感じるものの、釈然としない。
隣を歩いている人間に、もう少し興味を持ってくれてもいいと思う。
しかし、まあそれが当たり前であろうことは理解している。何しろリブとは今日会ったばかりの他人だ。町で偶然あった道案内をしてくれる親切な人に感謝こそするが、それまで何の接点もなかった人物と、いきなり友達などになるということは稀だろう。
それはリブにしたって同じで、自分はお店の場所を案内してくれる親切な人、というぐらいの認識なはずだ。そしてそれは、案内が終わればまた接点のない他人になる。リブがミニースの町の人間じゃないことも考えると、一生の内で会うのは今日が最後かもしれないのだ。
自分がリブの立場だったとしても、その程度の人とはある程度まで親しく接するだろうが、深くは踏み込んで行かないだろう。
唐突に、焦燥に駆られる。
このままでいいのだろうか。
偶然見かけた女の子に声をかけて、名前を聞いて、こうして連れだって町を歩いている。
普段のジル・バケットなら絶対にあり得ないような現状にあって、尚その先を目指そうとしている自分に気付き、ジルは自分という人間がよく分からなくなる。
そういうのは諦めたはずだ。
魔力のない『能無し』の自分と仲良くしてくれる人間など存在しない。
そう。今のこの関係も、リブがジル・バケットという人物をよく知らないから成り立っているのだ。
リブが自分のことを『能無し』だと知っていれば、本来こんな現状はあり得ない。
「ーーどうしたの?」
不意に視界にリブの顔が現れる。
いつの間にか俯いていたジルの顔を下から覗きこむように、リブが体を動かしていたのだ。
ジルは一瞬顔を赤く染めてぎょっとするが、すぐに誤魔化すような小さな笑みを繕って応対する。
「い、いや、こんな田舎町で申し訳ないと思ってさ。探している物も幾つか見つからないし」
「ん?それはジルのせいじゃないじゃない。それにーーーここはいい町だよ」
「・・・」
ジルの前で、初めてリブが笑みを浮かべた。
頬笑むその横顔に引き込まれる。
「ね?」
「あ、うん・・・」
同意を求めるようなリブの声に、ジルは半ば放心していた意識を覚醒させつつも曖昧に返す。
それと同時に、自分自身の心情に少しだけ驚いた。
リブの言葉がお世辞ではなく、本心から出た言葉なのだと漠然とではあるが理解出来たからである。
ジルは他人の言葉をそのまま受け入れることが出来ない。
称賛や励ましの言葉には裏があると反射的に考えてしまうし、実際に今まではその通りだったことが大半だった。
自身の気持ちを言葉で隠して、それで滞りなく回っている周囲に違和感を感じつつ、しかし上手く回っているのだから間違っているとも言えない。そして、違和感を持っていたはずの自分自身も、いつしか周りと同じようになって、今ではそれが当たり前になってしまった。
それが今の自分。
それが今のジル・バケット。
ふと考える。
他の人間がどうだったのかは分からないが、ずっと昔、子供の頃のジル・バケットは、今よりずっと素直だった。今ほど多くの言葉を持っていなかったけれど、今より自分の気持ちをちゃんと伝えていたと思う。
今のようになったのは、いつ頃からだろう。
いつも笑顔で挨拶してくれる近所のおばあさんが、陰で自分のことを『能無し』だと笑顔で話しているのを目撃した時からか。
イジメられている自分をいつも庇ってくれて、好きになりかけてたクラスの女の子が、影ではイジメを助長させていたのだと知った時からか。
ーーーやめよう。
今は楽しい時間のはずだ。
「・・・ジル、大丈夫?」
「んぁ、ああごめん。リブがいい町って言ったからさ、ちょっと驚いちゃって」
「ん?いい町でしょ?」
不思議そうに言うリブに、ジルは苦笑を漏らす。
「う~ん、隣の芝生は青いってやつだと思うよ」
「・・・それ、どういう意味なの?」
「ん、えっと、そうだな・・・他人の物は何でも良く見える、ってことかな?」
「良く見える・・・それじゃあジルは、私の何かが良く見えてるの?」
その質問はひょっとしたら、答えを求めていなかったのかもしれない。
リブはそれぐらいに小さな声で、どこか自嘲的に、目を伏せて言ったのだ。
しかしジルはぴくりと体を震わせると、バレバレであるが平静を装って返事を思案し始めた。
リブがした質問の意味、そしてそれに適した答えは、何となく頭に浮かんではいる。
だが、問題はそこではないのだ。
ここで敢えて、リブの外見的特徴を挙げたらどうだろうか。
可愛いだとか綺麗だとか、そんな月並みな言葉しか浮かんでこないが、自身を誉められて喜ばない女性はいないと、以前に聞いたことがある。
だがしかし、それが時と場合によってはマイナスになること、そしてそういった台詞が似合う人物と似合わない人物がいることは理解している。
故にジルは考える。
果たして、ジル・バケットという人物には似合うだろうか。
それが許される空気だろうか。
単純に可愛いや綺麗ではなく、もっと具体的なほうがいいだろうか。
言ったとして、「え、何言ってるの?」と引かれないだろうか。
時間にして数秒であるが、ジルは考えに考え抜きーーー
「ま、まあ、町の外から来たってだけで、俺としては羨ましいな」
自分のヘタレ具合に情けなくなりつつ、ジルはそう答えた。
小さくため息をつきながら肩を落とすジルに、リブは怪訝そうに顔を向ける。
「羨ましい?」
「う、うん。実は俺、生まれてからずっとこの町で暮らしてるんだ。ここ以外の町や村にも行ったことがないから、本なんかで知識としては知ってるけど、それを直に見てきた君がーーまあ羨ましいんだよ」
ジルは抱えている袋に視線を落とし、自嘲的に笑って続ける。
「ここがいい町だってリブは言ってくれたけど、正直ここには何もないよ。何も起こらないし、何も始められない、そんな場所だ」
「・・・だとしたら、私も君が羨ましい」
目を伏せて予期せぬ言葉を吐いたリブに、ジルは驚いたような顔を向ける。
それに気づいたのかリブは立ち止まり、ジルも釣られて立ち止まった。
「魔法なんてあるからみんな勘違いするけど、人に出来ることなんて限られてるじゃない・・・どれだけ頑張ったところで限界はある。そこで苦しむくらいなら、最初から何もしないほうがいい、何も知らないほうかいいんだよ」
どこか吐き捨てるようにリブは言った。
「・・・そんな・・・」
どうしてそんな目をしているのか、何がそう言わせているのか。
その時のジルには聞きたいことが山ほどあった。
でもその前に、言わなければならないことがある。
思い出すのは父親の言葉。
「そんなのーー」
『ドォォオン!』
ジルの言葉は、突然の爆音に遮られた。
「な、なんだ!?」
「・・・」
ジルは酷く驚いた様子で、少女は目を鋭くさせて、反応の違いはあれど、二人とも爆発が聞こえた方向を向いた。
空に一筋の黒煙が上がっている。
赤く染まる町の中で、風に歪に揺られる黒煙の様子は、どこか不吉な予感をさせる。
周りに複数いる通行人も、ジル達と同じ方角の空を驚いたように見上げていた。
次第に困惑や不安によるざわめきが広がっていくところを見るに、町の催しという訳でもないだろう。
「魔動四輪でも爆発したのか?ーーーって、 ちょっとリブ!どこ行くの!?」
「ごめん、ちょっと見てくる。荷物はその辺に置いといてくれればいいから」
リブにしては珍しく焦った様子でそう言い残し、走って行ってしまった。
その背中を見つめてたっぷり五秒ほど沈黙したジルだったが、やがてハッと気がついたように抱えている袋に視線を落とすと、
「いや、その辺にって・・・そんなわけにもいかないだろ」
困ったように呟いて、袋をよっと持ち直す。
リブの行き先は分かっている。
問題があるとすれば、身体能力強化の魔法を使って走っているであろう彼女に、自分がついて行けるかだ。
「体力には自信あるけど、あてにならないよなぁ」
遠ざかって行くリブの背中を見つめて、ジルはうんざりした顔で走り出した。
◆
【爆発の三十分前】
大きな円筒形の建物が、町の広場に悠然と構えていた。
鼠色の壁には楕円形の窓が無数に設けられており、今はその内の幾つかが外側に開かれている。
中に入れば一目瞭然だが、建物の中央は一階から最上階である八階までが吹き抜けになっており、ガラス張りの天井から傾いた日の光が指しこんでいた。
各階には、背丈が低く横幅の広い石が等間隔にずらりと並んでおり、その表面には何やら文字が刻まれている。
石畳の通路の脇には草木や花が植えられていて、よく人の手が入れられていることが見て取れた。
墓地。
外界と隔絶されたかのように静かなその場所には、どこか厳かながらも優しい空気が流れている。
まるでそこに眠る故人達を起こさぬように、一台の大きい魔動四輪がひっそりと、建物内部の隅っこに停まっていた。
その車体にはそこかしこに傷やへこみ、擦った痕があり、右のヘッドライトは完全につぶれてしまっている。
車の周囲には何が入っているのか分からない木箱が山のように置いてあり、それを積み込むために数人が車の中と外を世話しなく行き来している。
外に置いてある荷物の量と車の大きさを比較すると、とても全て積みきれる量ではない。
だが、この車には高度な魔法がかけられており、内部の広さは実際の何十倍にもなっていた。
そんな車内の一室。
広い部屋の中は落ち着いた茶色を基調としており、壁際には様々な背表紙で埋め尽くされた幾つかの本棚。調度品や観葉植物が置いてある棚。そして絵画が一枚壁にかけられている。
「・・・まずいな、こりゃ」
何かの資料や本が両端に山積みになっている書類机の奥に座る男が、脈絡も無しにぽつりと呟いた。
男は手に持った書類をどこか疲れた様子で眺めていたが、一通り目を通したのか、椅子の背もたれにぎしりと音を立てて体を預けると、ため息混じりの息を吐いた。その勢いで手に持っていた書類を机の上に軽く放り、その手のままで机の上に置いてあるマグカップを手に取る。
マグカップの中には幾らか冷めてしまった珈琲が中程まで残っており、それを一瞥した男は瞑目して一啜りした。
男の名前はブロド・ミリガン。
鍛えられているのか体格がよく、顎に短い無精髭を生やしている三十代半ばの男。
ブラウンの髪の毛はほどほどに伸びており、無精髭も合わせるとだらしなさを感じるには充分であるが、彼からは不思議とその印象は受けない。
鋭い中にもどこか優しさのある瞳には、現在疲労が色濃く表れている。
「ーーー何とかならないか? ククルー」
そんなブロドの声に、反応する声があった。
「現状ではどうにもなりませんよ」
返ってきたその呆れの混じった言葉に、ブロドは顔を上げる。
ブロドの座っている書類机の正面には背の低いテーブルが置いてあり、その左右にはテーブルの幅と同じくらいの長さのソファーが置いてあった。
ブロドはその左側のソファーに座っている、白衣を羽織った女性に視線を向けた。
女性の名前はククルー。
肩甲骨辺りまである、伸ばしっぱなしのような長い金髪。
視界を確保するためかカチューシャで前髪を上げており、広めのおでこの下にある顔は二十代前半といったところ。中々に整った顔立ちである。
しかし、フレームレスの眼鏡の奥に光る青い瞳の下には、くっきりとした隈があり、それが彼女の持つ可愛らしさというものを見事に打ち消している。
ブロドはそんなククルーの言葉に参ったように笑い、
「あっさり言ってくれるな」
「いやいや、あっさりとは心外ですね。私の下の目蓋を見てから言ってもらいたいです」
ククルーは自身の下目蓋の辺りを指差して言った。
ブロドはそんなククルーの顔をじっと見つめたあと、
「ーー化粧には詳しくないが、その、ちょっと変だぞ?」
「・・・本気なのか冗談なのか分からないですけど、これは寝不足によるものなので、意図してのものじゃありません」
「もちろん知っている」
「・・・ハァ~、苦手です」
珈琲を飲みながらゆったりと言うブロドから面倒くさそうに顔を背けたククルーは、テーブルの上に置いてある、デフォルメされた可愛らしいウサギの絵のマグカップに手を伸ばし、口元へと持っていく。
そこで喉を潤す前に、視線だけをブロドに向けて口を開いた。
「で、どうするんですか?」
「いや、どうすると言われてもな、ウチではこれ以上無理なんだろう? だったら、何とか解析できる場所まで行くしかないじゃないか」
「んー・・・そうなると、まあ、まずこの町ではまず無理でしょうね。王都にでも行ければ確実なんですけど」
飲み干したマグカップをテーブルの上に戻したククルーは、眠たそうに欠伸をする。ブロドはそれに苦笑して、
「無茶を言うな」
「ま、ですよね。取り合えず、大きな町にでも行ければ、何とかなると思いますよ。もっとも、解析しようとしている物自体が偽物だったら、どうしようもないですけどね」
「・・・その意見は変わらずか」
ブロドは机の上に放った書類にちらりと目を向けた後、机の左端にある折り畳まれた紙を手に取り開いた。
それはこの周辺一帯の地図のようで、ブロドは珈琲で口を湿らせつつ、それに視線を落とす。
そんな様子を横目で見たククルーは小さくため息をついたあと、テーブルの上に置いてある皿に乗った数枚のクッキーの一つに手を伸ばした。かじりつき、それを咀嚼しながら、半分程に削られた手元のクッキーを見る。
「私も当然興味はありますが・・・常識的に考えて、あの話の通りの物が存分するとは到底・・・」
「常識に囚われないのが研究者なんじゃないのか?」
「・・・そういうノリは苦手です」
そう言って少しだけ顔をしかめて、半分になったクッキーを口に放り込むククルー。
しかし、口内に広がる程よい甘さにすぐに顔を綻ばせていると、
「ーーすまないな」
「・・・えっ!? ど、どうしたんですか急に!? ちょっと気持ち悪いですよ」
吃りながらククルーが顔を向けると、真っ直ぐなブロドの視線と重なる。
「今の状況は俺の判断ミスだ。すまない・・・」
ブロドは小さく頭を下げる。
ククルーはそんなブロドを居心地悪そうに見ていた。
「ーーそういうの苦手なんですけど」
「『文句を言うな、俺に付いてこい』。なんてタイプが嫌いなのは知っているだろ。俺なりのケジメを一番言いやすい奴に言っただけだ」
ブロドはすぐに頭を上げて、マグカップの中に残っている珈琲を全て飲み干してから続ける。
「返答が欲しい訳じゃない。キャッチボールじゃなくて壁アテだ」
「私は壁ですか」
「場合によってはな」
「・・・苦手です」
「苦手なものが多い、難儀な性格だ」
ブロドは意地の悪い笑みを浮かべつつ、机の右側にある通信機の結晶に手を添え、そこに魔力を送る。すると通信機上部にある小さな結晶が赤く光り、しばらくするとそれが青色に変わった。
何処かと繋がったことを示しているそれを確認したブロドは、ゆっくりと口を開く。
「ギムレッーーー」
ブロドが通信機に向かってそう話しかけた次の瞬間。
「お呼びですかブロド隊長!」
扉を勢いよく開け放ち、一人の女性が笑みを浮かべて入室、と言うより突撃してきた。
美人と言って差し支えない端整な顔立ち。
腰まで届く長い黒髪を後ろで一つに束ねていて、腰には鞘に収まった一本の剣を吊るしている。
ブロドはしばらく呆然としていたが、やがて咳払いをして気を取り直し、その女性を迎えた。
「早いな、ギムレット・・・」
「待たせてはいけないと思い、走って来たので」
「走って、ですか」
ククルーが何か言いたげに呟く。
ブロドは苦笑して通信機から手を話した。
「急いではなかったんだが、すまないな」
ブロドに気を使われているギムレットに、ククルーがどこか不憫そうな視線を向ける。
「何を見ているんだククルー?私の顔に、何か着いているのか?」
視線に気づいたギムレットが、微笑を浮かべてククルーに言った。
しかし恐い。目の奥が笑っていない。
黒い微笑である。
きっと幻覚だろうが、ギムレットの背後に『ゴゴゴゴッ』という文字が見えていたりする。
「い、いえ。何でもないです」
「ふむ、そうか?言いたいことがあるなら、言ったほうがいいぞ?」
「ほ、本当に何でもないですから」
ククルーは素早く顔を背け、誤魔化すようにいそいそとクッキーを頬張る。
そんな様子を困ったような笑みを浮かべて眺めていたブロドが、タイミングを見計らっていたように口を開いた。
「あー・・・、そろそろいいか?」
「はい、すみません。それで、何のご用ですか?」
ギムレットがぴしりと姿勢を正す。
「車体の修理はどんなもんだ?」
「それですか・・・そうですね。予備で賄なえない部分もありましたので、現在町で調達できるか調べています」
「それは・・・あまり期待はできないな」
僅かに顔を歪めたブロドに、ギムレットは小さく頷いた。
「はい。加えて、後ほど必要な部品のまとめを提出しますが、その・・・」
「金が足りない、か」
「はい。遺憾ながら」
ブロドはどこか後悔するように息を吐く。
それを見たギムレットは、しかし僅かに表情を明るくさせて、
「それでも、手持ちの予備で当分は問題なく動かせるそうです。現実的に、この町からはその状態で発つことになるでしょうから、どれくらい行けるかの正確な数字を割り出しています」
「そうか・・・いや、気を回してもらって助かった。結果が分かり次第教えてくれ」
「分かりました」
ギムレットの返事を聞いて満足そうに一つ頷いたブロドは、切り替えるように口元に笑みを浮かべると、
「しかし、部品の調達の件で町に行った奴には申し訳ないな」
「あ、その辺りは気にしなくていいかと、向かったのはあのトランですから」
「なるほど、あいつか」
「あいつです」
ギムレットとブロドはお互いに同種の苦笑いを浮かべ合い、その気持ちを共有したかのように小さく笑った。
そこへ、
「ーーあの、ちょっといいですか?」
ククルーが主にギムレットの顔色を窺いながら、おずおずと小さく手を上げた。
「ん、なんだ?」
「・・・」
ブロドは先を促すような言葉をかけて、ギムレットはじろりとククルーを睨む。
視線に晒されたククルーがびくりと肩を震わせたが、しかしギムレットはそれ以上の攻撃的な言動は見せず、ちらりとブロドに視線をやってから、同じように先を促す言葉を投げた。
「言いたいことがあるなら早く言え」
「は、はい。いやその、大したことじゃないんですけど、トランさんの話が出ていたみたいなので・・・」
ギムレットは意外そうな顔をして、
「ふむ。あいつがどうかしたのか?」
「はい。その、トランさんなんですけど、ギムレットさんが言っていたようなことはしていませんでしたよ」
「・・・詳しく聞こう」
眼光が鋭くなるギムレットにびくりと肩を震わせたククルーだったが、その矛先が自分ではないことをすぐに思いだして、「苦手です」と内心で呟いてから続ける。
「ここに来る前、ついさっきですけど、休憩中のカリーナさんと一緒に・・・いや、カリーナさんに一方的に纏わり付いてました。ま、例によって相手にされてませんでしたけど」
「・・・ふむ。なるほどな」
微笑を浮かべながらも、額に青筋を立てるギムレット。
それは先ほどククルーに向けられた黒い微笑と比べると、些か暴力的と表現するほうが適切である。
ブロドはそれを宥めるでもなく、話に上がったトランという人物を思い出して苦笑を浮かべた。
「あいつも懲りないな」
「私が言ったって言わないでくださいね」
「分かっている。サボったか、もしくは誰かに押し付けたか。ブロド隊長、すみませんが、私はこれで失礼します」
「ああ、ご苦労だったなギムレット。それから、程々にしてやれよ」
「勿論です。死なない程度の絶妙なラインを攻めて行やります」
ギムレットは腰元にある剣の鞘を指でこつりと叩き、ニヤリと暴力的に笑った。
「私が見たときは食堂にいましたよ」
「そうか、分かった」
そうしてギムレットがその場を辞そうとした丁度そのとき、
「―――あのー、すんません」
扉が開かれる音がしてから、控え目な男の声が聞こえた。
そこにいたのは、少しだけ開いた扉の隙間から、室内の様子を窺うようにひょっこりと顔だけをこちらに出す一人の男。
歳の程は二十代前半といったところで、栗色の髪の青年である。
話題に上がっていたトランという人物ではないが、ブロド達の仲間の一人であった。
「急ぎなのか?ノックもなしとは」
そんなギムレットの言葉に、ククルーが何か言いたげな視線を向けたが、それに気づいたギムレットがそちらを向くと、ククルーは連動するようにスッと目を逸らす。
「いや、一応ノックはしたんすけど、聞こえてなかったみたいなんで」
「それは別に構わん。で、何なんだ?」
ブロドの言葉に青年はホッとしたような表情を少し見せ、しかしすぐに用件を思い出したのか、何とも言えない引きつったような微妙な顔を見せた。
その様子に何か嫌な予感を覚えたブロドだったが、表情には出さずに青年の言葉を待つ。
「えーっとですね。何て言うか、まぁ簡潔に言うとーーーこの建物、警備団に囲まれてるみたいです」
その報告にしばらく固まった三人だったが、すぐに女性二人がブロドの方に顔を向け、青年と合わせて三人、指示を仰ぐような視線がブロドに向けられた。
「ーーハァー・・・」
ブロドは大きくため息をつき、傍らのマグカップに手を伸ばして持ち上げたが、その重さに先ほど既に飲みきったことを思い出して残念そうに置き直すと、ゆっくりと席を立った。
◆
【爆発の十分前】
追い詰めた。
包囲は完璧だ。
この墓地を取り囲むように、360度全てに兵を配置している。
賊共はまだ気づいて無いだろうが、すでに逃げ道は無いのだ。
それは国境警備団に支給される紺色の制服をかっちりと着た、神経質そうな容貌の男。
背は高いが、全体的にほっそりとした体格。
あまり日に焼けていない肌もあいまって、周りにいる体格のいい団員達に比べて酷くひ弱に見える。
しかし、彼の胸に光っている階級章は、周りにいる団員達よりも階級が上なのだと主張している。
見た者の大半が、腕っぷしは強くないが勉強は出来るために出世したのだと判断するこの男は、ルダル王国国境警備団で小隊を預かっているグレゴール・ロンドである。
簡素な天幕の中で椅子に腰かけているグレゴールは、テーブルの上に置いたティーカップをソーサーごと持ち上げ、大好きなミルクティーを一啜りしながら考える。
包囲は完成した。
兵達は静かに建物を囲んでいる。
いつ仕掛けられても対応できるが、こちらから仕掛けることができないーーー何故か。
賊がよりにもよって、墓地などに潜んでいるからだ。
多くの故人が眠るその場所に踏み込んで、暴れるのはよろしくない。
いくら賊の殲滅という大義名分があったとしてもだ。
信心深いわけでも、愛国心に溢れているわけでもない。
出世の為だ。
馬鹿な大衆が見ている。
グレゴールは徐々に集まりつつ野次馬を入り口の隙間から一瞥して、田舎者が、と心の中で吐き捨て小さく舌打ちをした。
少しでも悪い噂が上の耳に入れば、それだけで出世に関わる。
こんな田舎町からでも、噂というものはあっという間に広がるのだ。
このとてつもなく広い王国の国境を守る、とてつもなく大きい組織で出世するには、そういった事にも気を付けなければならないと聞いたことがある。
とにかく、こちらから手を出したという事実が良くないのだ。
こちらからの平和的な交渉も通じず、むこうから攻めて来たのでやむなく、というのが理想的だ。
グレゴールは慎重な男だった。
(ならば、正直に交渉に行かせるか?)
グレゴールはその考えをすぐに否定した。
現在、中には数人だが、一般人がいるという情報がある。
こちらが取り囲んでいることが知られれば、人質の一人もとってくるだろう。
まずは密かに誘導して、馬鹿な一般人をどかした方がーーーいやダメだ。
馬鹿な一般人は馬鹿だから馬鹿な一般人なんだ。
こちらの意図など無視して喚き散らし、敵に存在を知られる可能性もある。
(ならば賊が出てくるのを大人しく待つか)
考えて、すぐに中断。
そのとき奴らが人質をとっていないとは言いきれない。
人質をとられていたら、それこそ手が出せなくなる。
何も出来ず、ただ見ているだけの警備団というのは、最悪な展開だ。
作戦を練り、人質をとられる前に中の賊を処理するという考えは、グレゴールの中には存在しなかった。
それほどの強さが自分の隊にあるとは思っていなかったし、何より、本質的に部下を誰一人信用していなかったのである。
彼はただ単純に、「自分は悪くない」と、そう言いきれる結果を目指していたのだ。
グレゴールは慎重な男である。
(・・・いや、そうだ。そうすればいいのだ)
何かを思いついたグレゴールは、その時適当に目についた部下を一人選んで、交渉に行くように命令した。
まだ幼さの残る顔をした、おそらく初年兵だろう。
グレゴールは緊張して震える初年兵の背中を叩いて、頑張れと鼓舞してやった。
初年兵は笑顔で感謝をのべた後、何かを決意した真剣な面持ちで入り口へと歩いて行く。
グレゴールはその背中を興味無さげに見送ると、一度天幕の中に入ってミルクティーの入ったカップを手にして戻ってくる。
その間に初年兵は十段ほどある階段を上がって大きな扉の前に行き、左右に立つ同僚二人と何かしらの会話をして、ゆっくりと中に入る。
そして三歩ほど歩いた所で、初年兵が急に爆発した。
文字通り、物理的に爆発したのである。
遠目から見て、背中の辺りから爆発したように見えた。
初年兵だったモノが周囲に飛び散り、大衆から悲鳴が聞こえる。
ぽちゃんという水音にグレゴールが視線を落とすと、大好きなミルクティーの中に肉片が入ってしまっていた。
赤黒く濁るミルクティーは酷く汚ならしい、これでは飲めないじゃないか。
嘆息したグレゴールはティーカップの中身を地面に捨てた後、天幕の中に入ってテーブルの上に優しくカップを置く。
後で洗わなければなとぼんやり考えながら、グレゴールはゆっくりと外に戻り、怒りに震える演技をして叫んだ。
「卑怯な賊共め! もはや交渉の余地なしと見た!ーーー全軍突撃!賊を皆殺しにせよッ!」
そう皆殺しだ。
その後で、人目につく前に死体を焼こう。
骨も残らないように、全て焼きつくすのだ。
なぜなら、この建物の中には賊しかいないのだから。
グレゴール・ロンドはそこそこ慎重な男だった気がしなくもない。