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1話

幾つかの建物が周りを囲む、小さな広場のようになっているどこかの屋外。

空には半分ほど欠けた月が雲の合間から覗いており、冷たい月明かりが鬱蒼とした夜闇の中を所々照らしている。


『ーーポッ』


遠慮がちに聞こえている虫の音よりなお小さく、ふとそんな音が聞こえた。

見ると、それまでその場に無かった小さい光が一つ、中空に生じている。弱々しいその光は数センチ先しか照らすことはかなわず、ちょうど建物の影になっているその場所を鮮明にはしてくれない。


とその時、弱々しい光に釣られるように、数十にも及ぶ光がぽつぽつと生まていった。

大きかったり小さかったり、明滅したり煌々と輝くそれらの光に周囲の闇が取り払われ、辺りは次第に鮮明になっていく。


「うお~!」

「きれいだねぇ・・・」

「すっげ~!!」


感情のままに、幾つかの幼い声が上がった。

声から推察できる通り、男女半々といった割合で、十歳にも満たない容姿の子供達がその場にいたのだ。


生まれた光はその子供達の手のひらの上で重力に従わず、ふわふわと空中で踊っている。


子供達がはしゃげばはしゃぐ程、光はそれに比例するように激しく揺れて、いつしか手の上を離れて不規則な軌道で空中を飛び回った。

何のしがらみも知らないように縦横無尽に踊るその光たちは、まるで子供達の心を顕現しているかのように幻想的である。


「ーーあれ?ねぇ、ジルくんはできないの?」


手放しで喜ぶ子供達の中、一人だけ下を向いている黒髪の男の子に気づいた亜麻色の髪の女の子が、可愛らしく小首を傾げた。

とことこと擬音が付きそうな歩調で、女の子は自らがジルと呼んだその男の子の元に向かう。


「え・・・いや」


ジルと呼ばれた男の子は曖昧にそう返して顔を背けたが、女の子からの一向に外されない視線にため息を一つ吐くと、不承不承見せ付けるように手を前に突き出す。


「・・・・・・何も起きないね」


幾ばくかの時間を置いて、男の子の手のひらを覗き込んでいた女の子は不思議そうに、心底不思議そうに言った。

何の変化も起きない事実をまるで理解できないというように、可愛らしく首を傾げて唸っている女の子に背を向けた男の子は、伸ばしていた手をすっと引っ込めて、その手のひらに視線を落とした。


(ーー言われなくても分かってる、いつも通りだよ)


男の子は心の中で吐き捨てる。


分かっていたことだ。

自分の手から光なんて出てこない。

自分は周りの人間と違う、異常なのだ。


「ーーデルさん。残念だが、三歳児でも発動できる発光魔法だ。それが五歳になっても使えないとなると、その、ジル君には・・・」


少し離れたところから男の子を見ている男の子の父親に、誰かが話しかけた。

同情の色が伝わってくるその声に釣られるように、男の子は自分の父親がいる場所に顔を向けようとして、止まる。


勢い良く抱きつきに行きたい。

何か言葉をかけて貰いたい。

一緒に家に帰りたい。

男の子はしかし不機嫌そうに顔を歪める。


「ーーーーー」


男の子の父親は無言のままだったのだ。

どんな表情をしているのか、その顔が見えない。

いや、俯いているのは男の子の方である、男の子が父親の顔を見れないのだ。


泣いているのか怒っているのか。少なくとも笑ってはいないだろうと推察する。

男の子は、父親の笑った顔が好きである。

どんなに嫌な事があっても、その笑顔をみれば自分も笑う事ができたのだ。

けれどその笑顔はたぶん、もう見ることはできないのだろう。


幼いながらも自分の置かれた立場をほぼ的確に理解してしまっていた男の子は、そう考えてしまった。

一度そう思ってしまったら、それはどれだけ意識しても心から拭いさることは出来ない。

そうなるともう、男の子は父親の顔を見ることはできなかった。


怖かったのだ。

周りの大人達と同じ目になってるかもと思うと。突き放すように冷たく見られてると思うとーーー怖くて怖くて、下を向いたまま、男の子の首は鉛のように動かなかった。


そうこうしている内に、心配そうに男の子を見る女の子に気づいた他の子達が、「どうしたの?」と近づいてくる。

亜麻色の髪の女の子が舌足らずながらも事情を説明すると、「どうしてできないの?こうするんだよーー」などと言って、数人の子供が光の球体を手のひらに作り出して実演して見せた。


「ーーうるさいっ!」


その行為に悪気が無いのは分かっていた男の子だったが、それでも感情が高ぶるのを抑えることはできなかった。そもそも十歳にも満たない幼児に、それを求めるというのもおかしなことだろう。

男の子の感情の発露に、周囲に水を打ったように静寂が広がった。


いつの間にか虫の音すらも鳴りを潜めた月夜の中で、いくつかの光球が緩慢になりながらもふわりと宙に浮かんでいる。

目の前で嘲るように揺らめく光を見て男の子が思うのは、どうして自分に出来ないことが、彼等には当たり前のように出来るのかという当然の疑問。

擦り切れるぐらいに繰り返したその疑問の答えを、しかし男の子は既に持っていた。そしてその答えが意味することの残酷さに、男の子は幼いながらも漠然と気づいていた。


故に悲しくて、悔しくて、情けなくて、腹がたって。体の底から熱波のごとく湧き上がり、ぐちゃぐちゃになって渦巻く感情。

その思いはあまりにも大き過ぎて、男の子にはどうすればいいのか分からなかった。


処理しきれない苛立たしさに任せて発散すれば、きっと楽になるのだろうとは思う。

しかし、それは駄目なのだ。

それをすると、父親は本当に自分に愛想をつかす。見てくれなくなる。嫌いになる。それはきっとーー耐えられない。


根拠のない漠然とした確信が、男の子の理性を繋ぎ止める。

年齢に不相応に、ひたすら自身の感情と格闘する。我慢して、抑え込んで、押し殺して、格闘する。


「ーーなんだよ、しんせつでやったのに」


水を打ったかのような静寂は、そんな一人の声で崩れ去った。集まっていた子供達は興味を失ったように離れていく。

一番最初に男の子に話しかけた亜麻色の髪の女の子も、最後まで残ってはいたが、別の友達の声に呼ばれると、後ろ髪を引かれるようにしながら、しかし何の言葉も残さずに離れていった。


その頃には男の子も幾らか落ち着きを取り戻しており、そこで初めて、男の子は自分の目に涙が浮かんでいることを自覚した。それを知られたくなくて、男の子はさらに俯く。

俯いたことで視界に入ったのは、いつの間にか握り締めていた自身の小さい拳だった。白くなっているその拳に構うことなく、男の子はさらに強く握り締める。

痛かった。どこが痛いのか分からないくらいに痛かった。


地面に点々と染みができる様子を、男の子は滲む視界で奥歯を噛み締めながら睨み付ける。

すると突然ーーー


「ーーッ!?」


いつの間にか近くまで来ていた男の子の父親に、男の子はぎゅっと抱き締められていた。

それは優しくて力強い、いつもと何も変わらない父親の温もり。それが堪らなく嬉しくて、悲しさとは対極にあるはずなのに、気づけば男の子は声を上げて泣いていた。

あやすように、背中を優しくぽんぽんと叩かれる。


「ーーご、ごべん・・・ごべんなざい・・・」


何に対してかは男の子自身も自覚していない、そんな可笑しな謝罪が無意識に漏れる。


「なんも言ってないだろ」


嗚咽をもらしながら涙や鼻水を垂れ流す男の子に、しょうがないなと苦笑いした男の子の父親は、ゆっくりと語り始める。


「いいか、ジルーーー」





――――まぶしい。

暖かい日の光が顔を刺し、混濁した意識からゆっくりと覚醒させる。

汗で湿った服が背中にベッタリと張り付いている嫌悪感から逃れようと、芝生からのろのろと身を起こした。


そこにいたのは、歳は十代半ばぐらいのどこにでもいるような普通の少年。

背は高くもないが低くもなく、体格も特別良いわけではない。

視界に入らない程度に切り揃えられた黒髪。まだ幼さの残る顔には歳相応の頼りなさが垣間見えている。

寝たりないのか、半分ほどしか開いていない目を擦った少年、ジル・バケットは、ここが何処だったか緩慢に記憶をたどり始めた。


(ーーーここはそう、学校だ)


大陸の中央部に位置する国、ルダル王国。

そのルダル領内西部、ガーランド連邦との国境付近に位置する町ミニース。

農業が盛んで、薄茶色の屋根の家屋が立ち並ぶ、のんびりとした静かな町だ。


小高い丘を中心に円状に広がった町の外には、無数に区切られた広大な畑が広がっており、現在は辟易するような夏の日差しのもと、数種類の野菜が瑞々しく実っている。

畑の端には木の柵が設けられていて、その向こうには鬱蒼とした森が広がっている。

近くを流れる川から引いた水路が、畑の中にいくつにも枝分かれして伸びており、滞ることなく水が流れている。


先人達が苦労して作り上げたであろうその広大な畑は、それだけで圧倒されるものがあり、外部から来た者に対して町の人間が自慢するモノの代表である。が、その他に目を見張るものと言えば、町の広場にある一際大きい円筒形の建物一つだけ。


田舎である。

ここは、そんな田舎にある普通の学校。

古ぼけている外壁の校舎が、ジルのいる中庭を囲むように立ち並び、学校特有の微かな喧騒の中、涼しい風が頬を撫でた。

いわゆる気持ちの良い日和である。

あまりの気持ち良さに、木陰に入っていつの間にか寝てしまったのだ。


「昔の夢、か・・・」


ジルは既に曖昧になってしまった先ほどの夢を思い出し、意味もなく呟いた。

ぽりぽりと後頭部を掻き、ふと頭上を仰ぎ見る。

寝る前ここは木陰になっていたはずだが、今では傾きを変えた太陽の光がその木陰を侵食しており、無遠慮にジルを照らしている。

自然と目を細めたジルは視線を伏せて、それほど長い時間寝ていた訳ではないことを確信する。せいぜい二時間程しか経っていないのだろうと。


(ーーん?いや、二時間”も”だな)


いまいち頭が釈然としないことを感じつつ、大きな欠伸を一つ漏らしたジルは、服に着いた草を払いながら立ち上がった。


学校という施設において、そこの生徒という立場にある者が何の理由もなく二時間も寝ていたとなれば、それは言わずもがなサボりと言う行為になる。

しかし、当のジルは特に気にする様子もなく、燦々と降り注ぐ陽光から逃げるように校舎の方へと歩き出した。

それは開き直ったからではない。ジルのサボりは故意であり、ついでに常習であった。


「お~い、能無しのジ~ル君」


数歩進んだところで不意に聞こえたその声に、ジルは嫌そうにしながらも足を止めた。

声から伝わってくるのは、ひたすらに悪意である。気づかないフリをして立ち去りたくはあるが、「能無し」の通称は自分を指すモノであると理解しているし、何より気づかないフリをしたところで面倒が増えるだけだ。

声の主を思い浮かべてそう判断したジルは、内心の不快感を表情に出さず、平静を装って振り返った。


「えっと・・・何?」

「君、またサボったの?」

「その様子じゃあ昼寝でもしてたんだろぉ?気楽でいいよなぁ~」

「ぐふふ。気楽でもないとやってられないよね」


そこには予想していた通りの男子三人が、予想していた通りの気持ち悪い笑みを浮かべて立っていた。右からデブ、デブ、ぽっちゃりと言ったところだろう。もちろん本名ではなく、ジルが三人の体型から心の中で勝手にそう名付けただけである。

そもそもジルは彼らの名前は覚えていない、と言うより、向こうが名乗ったことはあっただろうか。

一瞬だけ記憶を探るジルだったが、名前など知っていたところで自分には関係ないと馬鹿馬鹿しくなり、デブA、B、Cと簡略化することに落ち着いた。


ちなみにどうして向こうがジルの名前を知っているのかと言うと、ジル・バケットという名前はこの学校、と言うよりこの町の中では、ちょっとばかり有名なのである。

そんな少し有名人なジルが面倒くさそうにして黙っていると、真ん中のデブCがふんと鼻を鳴らした。


「おいおい黙るなよ、俺達一応心配で来たんだぜ?なんか言うことないわけ?」

「・・・そりゃご苦労さん」

「そーゆう態度は良くないなぁ~、僕たち学生は勉強しにここへ来てるんだから。それをサボってるジルは悪いことしてるって自覚を持たなきゃ~」

「ぐふふ。そうそう、あんまり目立ってると、変な奴等に目をつけられちゃうからね」

「そうか、うん。分かった」


早々に退散しようと再び歩き出したジルの前に、デブAがその体格では考えられない程素早く移動して立ちふさがった。

やむを得ず立ち止まったジルは、三人に聞こえないくらい小さく舌打ちをする。言葉にしてまで文句を言わないのは、言えばもっと面倒なことになると分かっているからである。

ジルは眉をしかめて一歩後ずさりながら、駄目元で言葉を投げかける。


「あの、どいてくれるかな?」

「ぐふふ。変な奴らに絡まれた時の為に訓練、してあげるよ。どうせ暇でしょ?」

「いやいや暇じゃないし、いいから退いてーー」

「安心しろよ、手加減はちゃんとするって」

「俺達って友達思いだからさ、感謝しろよ?」


こっちの話は全く耳に入らないようだ、とジルは辟易する。だが、大人しくそれを享受するつもりはない。


ジルはやや乱暴にがしがしと頭を掻きながら、大きくため息をつく。そして寝起き早々なんだけどなと誰にでもなく呟くと、唐突に走り出した。

目の前のデブを迂回して校舎の方に走る。

残った三人はそれをにやにやと笑って眺めるだけで、何故か追いかける素振りは見せない。


追いかけてくる気配がないことに、『諦めたのか?』と肩越しに後ろを見たジルが見たのは、デブCが自身の短い腕を持ち上げて、手のひらを逃げる自分に向けている光景だった。

その行為の意味を理解しているジルはぎょっとして、短く悪態をつきながらそれまでより早く足を動かし始めた。文字通りの全力疾走である。


「ーーほぉーら」


ねっとり舐めるようにデブCが呟くと、ジルに向けている手のひらの正面に変化。空間が微かに歪み、何かを形作るように収束していく。やがて出来上がったのは、半透明な拳大の球体。

デブCはそのまま何かを調整するように微動すると、


「ーーよっと」


そんな掛け声と共に、出来上がった拳大の球体が中々な速度を伴って打ち出された。


数秒後、狙い通りなのかは不明だが、打ち出された球体はジルの背中に直撃。

ハンマーか何かでぶん殴られたかのような衝撃を受けて、肺から空気が押し出される。声にならない声。一瞬だけ意識が曖昧になるも、体から聞こえた『ミシッ』というな音に意識を取り戻して、ジルは妙な浮遊感と共に前方に突き飛ばされた。


体勢を立て直すことは叶わない。

防衛本能なのか、殆ど無意識の内に顔面から地面に激突するのを避けようと、ジルは体を捻って手を地面に付ける。幾らか勢いを殺すことが出来たが、それでも硬い地面を二転、三転してからようやくその動きを止めた。


数ヶ所の擦り傷ですんだようだと、ジルはふらつく思考で自己診断。

擦りむいた箇所がじんじんと痛みを主張してくるが、これぐらいの痛みには慣れているジルは、すぐに思考を切り替える。

ぐったりとした体に喝を入れて、いつでも動けるように体を起こす。


「ーーー」


頬に着いてしまった土を手の甲で擦り落としながら鋭い視線をデブ達に向けると、三人はゲラゲラ笑いながらジルに近づいて来た。


「たった一撃で終わりかよ。手加減はしたんだけどな」

「ほらぁ。早く逃げて逃げて、まだまだ走れるだろ?」

「ぐふふ。“魔法”が使えない能無しなんだから、体力ぐらいは人並み以上につけないとね」


またそれかと、ジルは不快感から顔をしかめた。

魔法である。

個人差はあるにせよ、この世界の人間は皆生まれながらに魔力という力を持っている。


ーー私達の祖先は、この魔力を使ってあらゆる現象を引き起こす魔法を確立させてきた。

魔法は人に夜を照らす光を、外敵から身を守る力を、様々なことを可能にした。

現在ある人間の社会は、そうした魔法の上に成り立っているのであるーーというのが、折り目のない教科書に書いてあった気がするなと、ジルはぼんやり思い出す。


そして、そんな教科書に書いてある定説に真っ向から喧嘩を売る、と言うよりは売られているのかもしれないが、兎に角。ジル・バケットと言う人間には魔力が全く無いのだ。

誇張などではなく、正真正銘のゼロである。

魔力至上主義の世の中にあって、ウン十億人に一人というハズレくじ。

ーーーー最悪だ。


「おいおい聞いてんのかよぉ?こっちは善意でやってやってんだぜぇ?」

「何とか言えよ?お?」

「ーーー」


逃げきってやる。それまでに何度も攻撃されるだろうが構わない。泣き言の一つも上げてやるものか。

そんな決心をして、デブ達と向き合う。

体の痛みも引いてきた。いつでも動ける。


「・・・あんだよその目は。ふざけてんのか?」


真ん中のデブが苛立たしそうに顔を歪めて、先程と同じように手のひらをジルに向ける。が、起こった変化は先程とは違っていた。

そこにあったのは、不規則に燃える赤い火。


ジルは数秒その火の揺らめきに呆然としていたが、やがて思い出したかのようにそこから視線を上げていき、そこで他者を痛め付ける、或いは暴力を振るうこと自体に愉悦を覚えている気持ち悪い目と視線が合った。

その瞬間、ジルは舌打ちを一つ残して身を翻した。再び全力で走り出す。


(冗談じゃない!!)


本能としか言い様のない所で理解する。あの目は本気だ。

今まで幾度と痛い思いをさせられてきたが、それでも最低限の手加減はあった。あったと思いたい。

でも、今あいつが振るおうとしている暴力は属性魔法だ。先程の、言ってしまえば殴る蹴ると変わらないような魔法とは違う。


今日は何か腹に据えかねることでもあったのだろうか。現実逃避とも言えるような思考を始めかけて、中断する。

相手がむしゃくしゃしていようが、自分には関係ないだろう。どうして自分が他人の気晴らしで、痛い目を見なければならないのか。そうして憤慨するが、これもすぐに馬鹿馬鹿しくなって中断する。

言いたいことがあるのは確かだが、今は目前に迫っている危機に関して考えようと結論。


中々どうして冷静でいられるのは、程度の違いはあれどこうした事態に慣れているからだろう。喜んでいいのか分からない。

そんな益体のない思考を最後に、今度こそジルは背後から来るであろう暴力について考える。


と言った所で、考えることなど殆どない。自分には迎撃も防御もそのすべがない。避けるだけだ。

唯一幸いと言っていいのは、相手が同年代の並の学生ということだろう。

これが腕のいい者であったなら、避けたところで当たるまで追いかけてくるというどうにもならない事になっていたはずだ。

まあ、こいつらじゃなければ魔力のない自分に火球なんて放ってこないだろうなーーーなんてことを考えられる自分は、以外と余裕があるのかもしれない。


そんなことを考えた次の瞬間。ジルは背後から微かな熱を感じ取った。気を引き締めて背後に意識を集中する。

一瞬で背後に感じる熱が高まった。もうすぐ後ろに来ている。後ろを振り反って確認する暇はない。冷たい汗が頬をつたう。

もう少し、もう少しーー


(今だッ!)


ジルは地面に飛び込むようにして前に倒れた。

初めからそうすると意識していたので、受け身も取れて痛みは少ない。

ほっと一息。火球は頭上を通り過ぎただろうと安堵するが、相変わらずヒリヒリとした熱を背中に感じることに気付いたジルは、全身が固まった。


「ビンゴぉ!」


嘲るように笑って、デブ達が騒いでいる。

冷や汗を感じつつ、ジルはゆっくりと首を回して視線を頭上に向けた。すると、


「なっ・・・!?」


ジルは目を見張った。

揺らめく拳大の火の塊は、ジルの真上、空中に止まっていたのである。

直接見てはいないが、この火の塊は中々の速度が飛んできたと思う。それ事態は不思議ではないが、その状態の火の塊を急に止めることが、はたしてあのデブ達に可能なのだろうか。


話半分に聞いていた授業では、速度を出せばそれだけ操作は難しくなると言っていた。戦闘で使えるくらいの速度の物を操作するのは、普通の学生には無理だろうとも。

だからあのデブ達には出来ないと思っていたのだが、実はそれほど難しいことではないのだろうか。想像でしか判断できないことがもどかしい。


「ぐふふ、授業で習った通りだね!」

「ああ、予め《あらかじ》どこで止めるかを込めておけば、操作するよりずっと簡単だ」

「使い勝手はいまいちだけど。でも・・・」

『ギャハハハハハ!!』


デブ達はジルに目を向けて笑う。


「まさかここまでドンピシャだとは思わなかったね」

「運が悪いどころじゃないだろ」

「それじゃ、ちょっと焼けてもらおうかな」


そんな言葉を合図に、頭上の火の塊に変化が起こった。火の揺らめきが激しくなっていく。

ジルはその光景に覚えがあった。恐らくは爆発だろう。

そのまま直接ぶつけられる訳ではないことに喜んでいいのか、難しいところである。

今からこれの範囲外に移動するのは不可能だろう。

ある種の諦めからか、ジルはつらつらとそんな思考に囚われていた。

頭を伏せて、来る衝撃と熱に備えて歯を食い縛る。やがて、


「ぼんっ!」


後でそんな声が上がった。

ジルの体に力が入る。しかし、


「・・・?」


予想していた衝撃も熱も来ないことに、ジルはゆっくりと顔を上げた。

視線を上に向けると、先程まで怖いくらいに揺らいでいた火の塊は跡形もなく消えている。

強張っていた体から力が抜けて、ジルはどっと疲れた気分から息を吐く。


ーーーからかわれた。


そんな結論に行き着き、であるならば聞こえて来るであろう煩わしい嘲笑を、顔をしかめて待つ。

しかしいくら待っても笑い声は聞こえず、不審に思ったジルが後ろを向くと、何故かジルと同じく顔をしかめているデブ三人。その視線は地面に転がっているジルには向けられておらず、釣られるようにジルは三人の視線の先を追いかける。


「おい!お前達なにやってるんだ!?」


ジルが目にしたのは、怒気を含んだ声を出してこちらに歩いてきている一人の男。三十代くらいに見えるその男は、当然だがジルと同じ学生服は着ていない。


「ちっ。面倒くせーな」

「邪魔しやがって、センコーが」


デブ達の呟きが聞こえていないのか、或いは聞こえた上で気にしていないのか、ジルの目の前で立ち止まったその男は、果たして学校の教師であった。

瞬時にこの教師に助けられたのだと察したジルは、安堵すると共にぱたりと仰向けに転がった。そのまま一息つくと、デブ達に対する怒りが湧きあがり、ジルは一言ガツンと言ってやれと、期待の眼差しを教師に向ける。が、


「中庭で火なんか使うな!火事になったらどうする!?自分達で消火できるのか、え?どうなんだっ!?」

(そっちかよ!)


ジルは力なくその場に撃沈した。

そんなジルに教員が顔を向け、冷たく見下ろす。


「バケットも、サボってばかりだからイジメられるんだ。もっとしっかりしろ」

「・・・はい」

「ほらお前達!もう解散だ!」


その言葉でジルは初めて気がついたのだが、遠巻きにこちらを見ている生徒が大勢いた。

一階や二階の窓から顔を出し、こちらを眺めている者もちらほらと見える。

彼、ないし彼女達の顔をぼんやりと見回したジルは、見世物になるとはこういうことか、なんてことを他人事のように考える。


ぞろぞろと退散していく生徒達の中には、面白そうにこちらに向かって野次を飛ばしてくる者もいるが、教員にそれを咎める様子がなく、ジル自身も特に言い返したりする反応がないことから、それらの生徒達はつまらなそうにしながら早々と解散していった。

解散する生徒達をしばらく見守っていた教師は、デブ達三人に話があると言って声をかけ、ジルに一瞥もくれることなくデブ達を連れていってしまった。


(ーー放置ですか、そうですか)


一人残されたジルはその場で仰向けのまま、しばらく気のない視線で空を眺めていたが、容赦のない日の光に耐えきれなくなったのか、やがて呆れたようなため息をつくと、緩慢に上体を起こした。

擦り傷や打ち身で節々が痛むが、ジルにとっては『こんなもの』、と平然と言ってしまえるぐらいには慣れたものであった。

打たれればそれだけ強くなるというのは本当かもしれない、なんてことを考えていたジルは、ふと何者かの視線を感じてそちらに顔を向ける。


「・・・ん?」


既に野次馬もいなくなった中で、醜態を晒した自分を見るために最後まで残っているとは、さぞかし意地の悪い奴なのだろうと予想していたジルの顔に、多少の驚きが浮かんだ。

そこにいたのは、亜麻色の髪をお下げにした少女、いわゆるジルの幼馴染であった。と言っても、最近は疎遠になっているのでほとんど会話はしていないのだが。


「・・・」

「・・・」


二人の視線は正面から交わっているはずだが、少女が何かを言う素振りはない。

そんなに悪い奴ではなかったと記憶していたジルは、もしかしたら自分を心配しているのかもしれないと思い至り、心配はいらないという意味もこめて小さく手を挙げた。


「え~と・・・よお」

「!?」


少女は何やらビクッと反応すると、一言も残すことなく逃げるように去ってしまった。

その背中を見送るジルは、挙げていた手をゆっくり下ろす。

ジルからすればあんまりな反応であるが、既にこのようなことにも慣れているジルは、少女のこの後のことを考える。

友達と共に「気持ち悪い」だとか「気色悪い」だとか言って騒ぐ幼馴染の姿を幻視したジルは、変わってしまったのかと、感慨深げに肩を落とす。


「ーーよし、帰るか」


一頻り落ち込んだジルは、ふうと息を吐いて呟いた。

時刻は正午を軽く過ぎた頃だろう。

ジルはゆっくりと腰を上げ、草をはらって歩き出した。その足で校内にある自分のロッカーまで行き、荷物を取り出して校門をくぐり家路につく。

いわゆるお昼休み。

ジルを止める者は誰もいなかった。





学校からの帰り道。

ほとんど何も入っておらず、形だけのリュックを背負ったジルは、いわゆる商店街を歩いていた。

平日の昼間ということもあってか、夕方にいつも聞こえてくる快活な客引きの声は全くと言っていいほど聞こえず、のんびりとした時間が流れていた。


学校に通い出す年齢に満たない子供達が、茹だるような暑さにも関わらず元気に走り回っており、その親と思われる主婦達が、軒下でおそらく取り留めのない世間話を興じている。


暑いのによくやるなあ、なんてことを考えながらジルが視線を正面に戻すと、ふと一軒の定食屋が目に入った。

視覚と連動してか、同時に空腹を感じたジルは、引き寄せられるかのように定食屋の前まで行き、中をちらりと覗く。


昼時なだけあって席は半分以上が埋まっており、半開きのドアから漂ってくる匂いが鼻孔をくすぐってくる。

ジルはごくりと唾を飲み込みポケットから財布を取り出したが、手に持ったその残酷な程の軽さに気付き、中を確認することもなく、ため息混じりに財布を再びポケットに突っ込んだ。


諦めて帰ろうとしたところで、一人の男性がジルの横を通り、定食屋に入って行った。「いらっしゃい!」と快活な声に未練がましく再びそちらに視線を向けると、先ほどは気づかなかったが、壁に求人の紙が貼り付けてあるのに気がついた。


ジルはなんとはなしにそれに目を通す。

要約すると、十五歳以上で魔動四輪くるまを動かせる者、とある。それを理解したジルはにべも無く踵を返して再び家路についた。

先ほどの財布の軽さを思えばアルバイトでもしたいのは山々なのだが、求人にある条件は大抵の場合、今のように魔力があることが前提で書かれている。

魔力が無いジルでは話にもならないし、まして車なんて動かせるわけがないのだ。


個人差はあるが、二十歳くらいまでは成長と共に魔力量も自然と増えていき、ジルと同じ十四歳にもなると、車を普通に動かせるだけの魔力の持ち主も出てくるという。

そして二十歳にもなれば、殆どの者が車を動かせるだけの魔力を持つようになる、という出所の分からない常識を思い出したジルは、自分はもう車を動かせるのだと学校で自慢していたのがいたなと、意味もなく思い出す。


しかし、すぐに興味ないとばかりに思考を遮断したジルは、今度は自分にも関係のある事を考える。

アルバイトが出来ない、つまり、いくらか安定した収入が得られないということだ。

学生の身分ではあるが、大問題である。

現在自由に使えるお金は、ごく稀に貰える微々たる小遣いと、家の畑仕事を手伝った時に貰える少ない賃金だけなのだ。


「はぁ~・・・」


ため息を漏らす。

つくづく感じるのは、自分には生き辛い世の中だなという諦めにも似た想い。

ジルは気分が重くなるのを感じ、その思考の流れを中断した。

すると狙っていたかのように腹の虫が鳴き、うやむやになっていた空腹感が再燃してくる。


自身の腹を擦ったジルは、家に帰ればなにかしら食べ物があるだろうと経験からそう確信し、それまでより少しだけ歩調を早めた。

しかし、何かに気付いたようにすぐに足を止める。

何となく目に入ったそのショーウィンドーにジルが足を止めたのは、飾ってある商品に興味を引かれたからであるが、それは物欲からではなく好奇心からの行動であった。

これを純粋に欲しいと思って立ち止まる人は、恐らくいないんじゃないだろうか、と、ジルは呆れたような視線を向ける。


ガラスの向こうで虚空を見つめているのは、大小二体のマネキンであった。

季節の先取りと言えるのか分からないが、まだまだ暖かい、もとい暑いこの日に、何故か冬物の服を着せられている。

服のことは詳しくないが、値札を見る限り安いとは思えない。


店主は何を考えているのだろうか、とふと思う。

この町は田舎ではあるが、特別過疎化しているという訳ではない。

飾り気のある若い女性はいるし、そこそこ一定して服の需要はあるだろう。

だがだからと言って、もっとも人目につくこの場所に、季節違いの服を飾る理由にはならない。

見ていて面白くはあるが、それ以上に汗が噴き出してくる。

そんな益体のないことを考えていると、ふと懐かしい声が思い出された。


『ジル、よく見とけよ・・・っと!』

『うぉー!!スゲー!!』


それは幼い頃の記憶。

季節は冬で、珍しく積もるくらいに雪が降った朝のことだ。

周りは火の魔法を使い、欠伸混じりで雪を溶かすような人がいる中で、ジルの父親は暖かそうな冬物の服に身を包み、スコップを持って汗を流しながら雪かきをしていたのだ。


当時のジルは、単純に一所懸命な父の姿が格好よくて、その傍らで一回り小さいスコップを持って真似をしていた。が、今考えると、あれは自分のためにやっていたのだろうとジルは思う。


ジルの父親は、人並み以上の魔法の使い手だったらしい。らしいと言うのは、目の前で父親が魔法を使っているのをあまり見たことがないからであるが、人並み以上と言われていた父が周りの人間が使える魔法を使えない訳がないし、汗をかきながらキツそうにしていたので、身体強化の魔法も使っていなかったのだろう。つまり、本当の地の力で雪かきしていたというわけだ。

それを思い出したジルは、環境による辟易するような暑さとは別の、心地よい温かさを感じた。


『ふぅー・・・ま、こんなもんかな』

『父さんは力持ちだね』

『ジルだって、頑張れば父さんみたいになれるぞ?』

『ほんと!?』

『ああ、だってジルは父さんの息子だろ?』

『そっかぁ・・・じゃあ、もっと頑張る!』

『・・・ちょっと休もうか』


意図せずして思い出したのは、季節違いの冬服を見たせいだろうか。

ジルは父親が困ったように苦笑いしていたのを思いだして、自然と頬が緩むのを自覚した。


「ねえママー。あのお兄ちゃん笑ってるよー?変だよねー?」

「・・・見ちゃダメよ、ター君」

「えー、なんでー?だっておかしいよー?」


自分を指差して騒ぐ男の子と、その子を引っ張って遠ざかる母親の存在に気づいたジルは、引きつった笑みを浮かべた。

そして大きくため息をつき、心の中で力なく呟く。


(・・・最悪だ)


顔を俯かせ、ジルは逃げるようにその場を去った。





商店街を抜けたジルは、似たり寄ったりな薄茶色の屋根の家が並んでいる住宅街を歩き、ある一軒の石造りの門を通る。

広くもなく、かと言って狭いとも言い切れないぐらいの、ミニースでは一般的な二階建ての一軒家。

小さいながらも付いている庭には、誰の趣味なのか数種類の花が植えられており、よく手入れされているのが分かる。

中くらいの背の垣根で囲まれているその家が、ジルの自宅であった。


ジルは慣れた様子で敷地に入り、郵便受けの中をちらりと一瞥すると、何も入っていなかったのかそのまま進む。

小さな階段を上がり、少し黒ずんだ扉に手をかけた。


「ただいまー・・・」


ぎぃと音を立てて扉を開けたジルは、習慣になった言葉を発する。それは大きすぎず、かと言ってい小さくもない、家の中全てに届きうる絶妙な声量だった。

しかししばらく待つも、それに応える声はない。

ジルはその結果に安心したように息を吐くと、後ろ手に玄関の鍵を閉め、家の中を進んでいった。

言葉で言い表すなら、物が多くて悪い意味で生活感のある家の中である。


ジルは廊下を進み、扉はあるが常に開けっぱなしのリビングの中に入ると、見慣れた空間を見回した

そこにはやはり人の姿はなく、がらんとした静寂が満ちている。


使い古された黒いソファー。雑多に物が置かれた背の低いテーブル。長方形の食卓には椅子が四つ。床のすみには雑誌やらが適当に積んである。

日頃から片付ける人間のいない部屋の悪例だな、と他人事のようにジルは思った。


何か食べるものは、と視線を彷徨わせたジルは、食卓の上に置いてある籠の中に数個のリンゴを見つけ、それを三つほどかっさらい、そのうちの二つをポケットにねじ込んだ。

膨らみで多少の歩きにくさを感じつつ、リンゴの一つにかじりつきながらジルは廊下に戻る。


程よい甘みと酸味、いわゆる甘酸っぱい果汁が口内に広がって、自然と頬が緩む。

空腹は最大の調味料なんて言葉があったな、等と益体のないことを考えながら、ジルは慣れた様子で廊下を進み、一つの扉を開けて中に入った。


その瞬間、むっとした暑苦しい空気が、ジルの肌に纏わり付く。

部屋の中には一人用のベッド、閉められた窓の横には机と椅子、三つある棚には本と、一見するとガラクタにしか見えない物で埋まっている。

先程のリビングよりは片付いて見えるが、床に無造作に雑誌などが積まれているのは同じである。


そんないつもと変わらない自室の様子に安心感を覚えながら、ジルはリンゴをかじって部屋の窓を開けた。

微風が頬を撫でる。

窓から見えるのは、同じような家々。

それを気のない視線で一瞥したジルは、振り替えって背負っていたリュックを定位置の壁に掛けた。

しばらく換気をしようと、部屋の窓と扉は開けっぱなしのままである。


ほぅと吐息してベッドに腰かけたジルは、リンゴをかじりながらベッド脇の壁に飾ってある幾つかのスケッチを眺める。

中には写真も混じっているが、共通しているのは全てどこかの風景であるということ。


口の中のリンゴを飲み込んだジルは、まるで恋焦がれているかのようなため息をついた。

退屈なこの町の景色に比べて、それらはあまりにも輝いて見えたのだ。

この辺りとは造りの違う建物が並ぶ街並み。嘘みたいに大きな城。滝壷が無いほどの高い滝。人を寄せ付けないほどの鬱蒼としたジャングル。

どれもがジルの行ったことがない、ここに飾ってある平面でしか見たことがない景色である。


それを眺めるジルの瞳には、純粋な憧れが見て取れた。

以前から飾ってある物だが、見飽きる、と言う感情はジルにはなかった。一部分だけ切り取られているからこそ、そこに描かれていない周りの風景が色々と想像できて楽しいのだ。


これらの絵や写真はジルの部屋に飾られてはいるが、ジルが描いたものでもなければ撮ったものでもない。安く買った物も幾つか混じっているが、殆どがジルの父親の物である。

右下に小さくある、デル・バケットというサインがその証拠だ。


「ーーー」


食べ終わって芯だけになったリンゴをゴミ箱に投げ入れようとしたが、生臭くなることを危惧して、ひとまずは脇のチェストの上に置き、ジルは再び切り取られた風景に目を向ける。


聞いた話によれば、ジルが産まれるずっと前に描き、撮った物だという。

その頃の父親の旅の様子と、未だこの目で見たことのない風景の一部を頭の中で融合させて、ジルは羨ましいと素直に思う。

同時に、この町しか知らない自分を酷くつまらなく感じる。自分の目で、耳で、肌で、世界を感じたいと強く思う。

それがジルの夢であった。


ジルは頭の中で色々な場所を旅している父親の姿を自分に置き換え、だらしなく顔をにやけさせる。

端から見ると気持ち悪いだろーな、と自覚するが、部屋には他に誰もいないので大丈夫だろう、とジルがベッドに転がりにやけているとーー


「ーー何しとるんだ?」


僅かにしわがれている、低い男の声が発せられた。

呆れの混じっているその声の主に一瞬で見当がついたジルは、恥ずかしそうにベッドの上に居直った。

内心の恥ずかしさを誤魔化すように声の主を睨み付けたジルは、うざったそうに声を返す。


「な、何だよじっちゃん居たのかよ。て言うか勝手に覗くな」


麦わら帽子を首にかけ、よれよれのシャツに草臥くたびれたズボンを穿いた初老の男性が廊下に立っていた。

眼鏡の奥に光る瞳は訝しげ、と言うよりは変なものを見るようにジルを睨んでいる。

ドル・バケット。ジルの父方の祖父である。


昔気質むかしかたぎでいかにも頑固者然とした顔に刻まれた皺は年相応であるが、捲られたシャツの袖から覗く腕は力強く、よく日に焼けている。


ドルはジルの文句を一蹴するように「フンッ」と鼻を鳴らすと、そこから一歩部屋の中に入って口を開いた。


「開けっぱなのが悪いんだろうが。と言うかジル、お前またサボりおったな?」

「ッ!ーーーちゃ、ちゃんと行ったよ。少し早めに帰ってきただけだ」

「それをサボりと言うんだがな」


ドルは一目で分かるくらいに生え際が後退した髪を瞑目しながらさすり、呆れたように深い溜め息をついた。


そんなドルの様子にジルは内心で、まあその通りだな、と納得しながらも、その思いは一切表情には出さなかった。

素早くベッドから飛び起き、ドルと向かい合うように正面に立つ。


目測ではドルのほうが若干身長が高い。腰も曲がっておらず真っ直ぐに立っている所を見るに、ドルの健康ぶりが垣間見える。

少しだけ自身より目線が高いドルを睨み付け、ジルは口を開いた。


「で、用はそれだけかよ?」

「それだけって、充分大切だぞ。まったく、そんなことじゃ、儂の畑を継いでから苦労するぞ」

「っておい、ちょっと待て、俺がいつ畑を継ぐって言った!?」

「言わなくても決まっておる」


ふんと鼻を鳴らしてドルは言う。


「ふ、ふざけんな!俺はいつか父さんみたいにーー」

「出来るのかよ、お前さんに?」

「ーーッ!」


ドルの言葉に、ジルは押し黙った。

それを見たドルはジルから視線を外し、ゆっくりと部屋の中に視線を彷徨わせながら言葉を続ける。


「多少の貯金はしとるようだがな、満足いくまで貯めるのに何年かかる?それに、外でやっていける知識もないだろ」

「ーーー稼ぐ手段が限られてるんだから、仕方がないだろ。分かってんなら畑を手伝った時のお金、あれちゃんとしてくれよ」


そっぽを向いて不貞腐れるようにジルは言った。


「・・・勘違いしてないか?良くも悪くも、儂は家族だからと特別扱いはしとらん。“普通”の成果と比べて、お前の成果分をきちんと渡しとるつもりだ」


ドルはジルに視線を戻し、何も返さずに俯くジルに言葉を続ける。


「それが納得できんのなら、やはりお前はこの町で、儂の畑を継ぐべきだ。なにせ、納得できないそれが、外の現実だからな」

「・・・」

「この町でやっていけないようじゃ、外で生活などできる訳もない」

「・・・」

「まさかこのままいれば、いつか誰かが何かを変えてくれるーーそんなことを考えてるんじゃあるまいな?他人任せじゃ何も変わらんぞ」

「ーー分かってるッ!」


ジルの叫びに僅かに眉をひそめたドルは、睨んでくるジルを正面から見据えた。

そのまま沈黙が数秒続き、いくらか口調を和らげたドルが、教え諭すように話し始めた。


「儂は別に、夢を持つな等とは言っとらん。魔力が無いからと言って諦めることはないと思う。夢の為に努力をし、道を見つけたのなら応援もしよう。だが今のお前は、ただの現実逃避にしか見えんのだ」

「そ、そんなことーー」

父親あいつの影を追うのはもうやめろ」


ジルの言葉を遮るように放たれたドルの言葉は、結果としてその場に静寂を下ろした。


ジルは目を見開いてドルを見たが、そこにあった瞳は力強く、真っ直ぐ自分を見据えて離さない。

結果として、先に目を逸らしたのはジルの方だった。


頭がカッと熱くなって、咄嗟に何か言い返そうとしたジルだったが、何故かその口からは何も出てこなかったのだ。

何も言い返せなかった自分に腹が立つ。


「ーーーっ」


苛立たし気に、しかしそれを押し殺すかのように歯噛みしたジルは、目の前のドルを押しのけ、そのまま何も言わずに勢いよく部屋を出て行った。


押しのけられたドルは、何も言わずにそれを見送る。

廊下の先で玄関の扉が勢いよく開き、そして閉められた音を最後に、家の中に再び静寂が降りた。

そのまま暫くして、ドルがぽつりと呟く。


「ーー馬鹿者め」


開けっ放しになっていた窓から我が物顔で風が侵入してきて、壁に飾ってあるスケッチや写真を無遠慮に揺らす。

その音に気がついたドルは、開けっぱなしになっている窓の方に目を向けた。


まだまだ日は高く、眩しいくらいの陽光。

ドルは引き寄せられるように窓辺に移動した。

そこから見えるのは見慣れた町並み。

平穏で住みやすいここにドルは満足しているが、ジルが外の世界に憧れるのを理解出来ない訳ではない。


一頻り景色を眺めていたドルは体の向きを変えて、窓の桟に体重を預ける。

思わずというふうに鼻から息を出して眼鏡を外し、シャツの胸ポケットから取り出した布で眼鏡のレンズを拭く。再び眼鏡をかけてから視線を正面に向けると、正面の壁に飾られているスケッチや写真がドルの目に映った。


「ーーん」


そのまま何とはなしに眺めていたドルは、夕日なのか朝日なのかが海にかかっている様子を描いた一枚の絵に目を止めた。それには題名なんてものはなく、部屋に飾っているジルでさえも、夕日なのか朝日なのか判断がつかないものだった。が、ドルにはそれが夕日を描いたものであると断言できた。


ドルは瞬時にウン十年昔のことを思い出して、潮の香りを錯覚する。


「ーー血は争えん、か」


自嘲的に笑ったドルは、しかしすぐに額に左手を添えて俯いてしまった。


「何故、何故あの子なんだーー」


誰にでもなく力なく吐き出したドルの言葉は、吹き入れてきた一陣の風に揺られて溶けていった。





家を飛び出してからずっと走り続けていたジルは、ふと我に帰り速度を落とした。


「はっ・・・はっ・・・はぁ」


荒くなった息を徐々に落ち着かせ、ジルは立ち止まる。

場所はジルの家から程近い、なだらかな坂道。

眼下には見慣れた町並みが広がっており、普段なら人通りがそこそこある道のはずだが、平日の昼間ということもあってか、走っていたジルを何事かと見ている人間は二人だけだった。


「ーーふぅ」


ジルは息を整え、再び坂道を下り始める。

それを見て興味を失ったのか、ジルを見ていた通行人二人は、疑問符を浮かべながらも各々歩き出した。

僅かな羞恥心が薄らいできて気分が落ち着いたジルは、先程のことについて考え始める。


(現実逃避、か)


思いだし、ふて腐れるように僅かに表情を険しくするジル。

ジル自身理解しているのだ。家の農業を継ぐことが一番利口で現実的な選択であり、実現できるのかも不確かな夢を追い続けている自分は、端から見れば現実逃避だと思われても仕方がないと。


だが、それでも夢は捨てられない。

昨日今日に抱き始めたものではなく、ずっと昔から抱いていた夢だ。そう簡単には諦められない。諦められないが、どうすればいいのかも分からない。


今までは夢を叶えるのだと漠然と考えていたジルであるが、そろそろ将来のことを本気で考えなければならないと思い始めていた。


ジルは十四歳だ。

もう子供ではないが、大人にもなりきれていない年頃。そして朧気おぼろげながらも将来についての道を決め始める時期、というのが世間一般の認識であり、半ば強制されることでもある。


ジル本人はそこまで理解している訳ではないのだが、実家の仕事を継ぐという者、どこかに就職するという者、兵士や事務方として軍に入るという者、一定以上の魔法の素養や素質があるため、王都にある魔法学校への進学を希望する者、そういった同級生を見ていれば、自然と促すような空気が伝わってくるのである。


「ーー夢、か」


呟き、ジルは何となく立ち止まった。

後ろから聞こえてきた何かの低い稼働音に振り向くと、農業用の魔動トラクターが坂道を下ってきていた。

立ち止まっているジルの横をゆっくりと通り過ぎて行くそれを、気のない視線でぼんやりと見送ったジルは、ふと思った。


(ーーー諦めるか)


それは数分前の自分では考えられない思いであり、何の脈絡もなく出現した思いではある。

が、だからと言って決して軽いものではないと、ジル自身断言できた。

今でこそ学校の授業をサボったりしているジルではあるが、最初からそうだった訳ではない。夢を実現させる為に、あらゆることに意欲的に取り組んでいたのだ。

ドルが言っていたように、他人任せでどうにかなると考えたことが無いと言えば嘘になるが、それ以上の努力はして来たと、ジルはそう自負していた。


身体を鍛え、剣の腕を磨いた。

何かの役に立てばと思い、色々な本を読んで知識を得た。

だがしかし、そう努力して得た“力”を持ってしても、魔力が無いという事実は埋められず、魔法という存在の前では手も足も出なかった。


ーーーどうにもならない。


そう考えて諦めてしまう人間を、情けないと言う人はいるだろうし、それで終わるなら所詮その程度と切り捨てる人もいるだろう。

しかし、実際に夢を叶えられる人間はそう多くない。

夢と現実の差を理解して妥協することを、大人になると表現する人もまた存在する。

今回のジルがそのどちらに該当するのかは分からないが、それまでの何かが変化するはずだったのは確かである。


「ーーッ!!」


それはおそらく無意識だったのだろう。

目の前を通過する人影に何気なく視線を向けたジルは、思わず息を飲んだ。


そこにいたのは、ジルと同い年くらいの少女である。

一目でこの町の人間じゃないと直感したのは、見慣れた学生服を着ていないからではない。

この町の人間特有の空気が感じられなかったとでも言うのか、生まれも育ちもミニースであるジルから見て、その少女の纏う空気はその他大勢に比べて特別なものに感じられたのだ。違和感と言ってもいいかもしれない。


背丈はジルより少し小さいくらい。

風に優しく揺れるショートカットの髪は、見たこともないような白亜。そこから感じるのは『老い』ではなく、いっそ幻想的な程の美しさ。太陽の光を反射して輝くその髪とは対照的に、少女の瞳はどこか寂しげに陰っている。

吸い込まれそうになる思いに、ジルはぽつりと一言。


「ーーか、かわいい・・・」


言葉は口をついて出たのだった。

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