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団地から

作者: くまごろー

   (一)


 姉の弥生(やよい)六十七歳、妹の雪絵(ゆきえ)は十歳下の五十七際。ふたりの独身姉妹がこの公団住宅に引越して来たのはひと昔まえのことだ。しゃれた造りのアートヒルズは、南から北へ五号棟、四号棟、三号棟と順に並んで全五棟、それぞれ五階建のエレベータ付き。一五〇戸が居住する小団地に隣接して東側に、高尾山のようにムササビまでは見かけないが、造成中に何頭か出没したからか「タヌキ森」と通称される雑木林が残っている。真南から西にかけて眼下にゴルフコースと、乳牛二十頭ほどだが東京には珍しい牧場が、目を上げれば丹沢(たんざわ)の峰々が望める。この辺りいちばんの高台で自然に恵まれた集合住宅だ。

 姉妹は、視界が南に百八十度ひらけて邪魔物の一つもない五号棟の最上階に住んでいた。姉の弥生は特にそこからの眺望を気に入り、晴れた日にはベランダに出て紅茶を飲むことを好んだ。妹の雪絵は勤めている会計事務所が都心なので、便のいい駅近を望んでいたが〈いずれ勤めを辞めたら静かな方がいいに決まっている〉という姉の意見を受入れた。物わかりのいい妹もあと三年で退職する。

 十年は短いようで長く、長いようで短い。アートヒルズの灰青色の外壁は塗装が色あせ、そこかしこにクラックが目立ち出し、団地全体の化粧直しをする時期が来た。瞬く間に鉄パイプの足場が組上がり、目隠しのシートが建物を蔽うと、中で暮らす住人には洗濯物も思うように干せないうっとうしい日々が続いた。

「もう十年経つんだねぇ」

 弥生は感慨深そうに呟く。

「それにしても、楽しくお話が出来る人が居ないわねぇ、ここは」

 妹の雪絵は姉のいつもの愚痴だと聞き流した。……姉さんはいい。公立中学の国語教師を勤めあげて恩給暮しなんだから。でも、あたしには仕事が山ほどある。悪いけどのんびりつき合ってはいられないわよ……。

 弥生は、音楽や絵画や文学の話題がひとつも出ないアートヒルズは、高台の斜面を北東に広がる緑ヶ丘のメゾネット型の家々に住む人たちとは民度に差があるように思えてならない。せっかくの煉瓦敷き詰めた通路にタバコの吸い殻を平気で捨てる、規約違反の犬猫を当然の権利のように飼う、善意だろうけれど、子供の遊具やベンチを国防色のペンキで塗ってしまう──常識のない人たちだ。


   (二)


 常識がない──これには弥生にも入居早々に苦い思いをさせられた。近所迷惑だからピアノは止めてくれと自治会長が言って来たのだった。弥生は耳を疑った。 

「私のピアノが騒音ですって? ピアノがいけないなんて規約には一行もありませんよ。夜は弾きませんし、音が響かないように床も張り替えたんですのに……。気をつけているつもりです」

「そう言われても、集合住宅のことですから、その辺は常識でお考えいただいてですね……」

 弥生は〈常識〉と聞いてムカッときた。

「教えてください。どなたから苦情が出ていますの? 迷惑をかけたなら謝るくらいの常識は持ち合せています。これからお詫びに伺いますので教えてください、どちらですの?」

「そう言われても……」

 公団からの頼まれて初代会長になった男は歯切れが悪い。

「会長さんは私を常識知らずになさりたいのですか?」

「そういうわけないですっ」

「その方は名乗れない事情がおありなんですか? まさか、この団地に名前のない方がいらっしゃるのですか? それとも、このお話は聞かなかったことにしてよろしいんですの?」

 弥生の言い方に今度は会長がムカッと来た。

「一号棟の浦野さんですよっ。高原さん、入居早々もめごとはいやですからね、お願いしますよっ」

「一号棟ですって? 五号棟のウチからは百メートルも離れている団地の端っこどうしじゃありませんか。お隣や下の方からだって苦情言われたことは一度だってないんですよ。どういうことですの、それ?」

「だから、僕個人はそうは思わないと言ったでしょっ」

「それなら、なぜ私に取り継いだんですの? このお話はなかったことでよろしいのですね?」

「……」

 自治会長は、なんで自分だけがバカを見なきゃならんのか、と憤慨して帰って行った。

 ……この件は浦野氏にはどのように伝わるのだろう。


   (三)


 半年後──。団地の総会で一号棟の浦野老人が二代目会長に就任した。運の悪いことに弥生も役員に選ばれた。住居の配置で順番に役員が回って来るので、逃げようがない。弥生の憂鬱な日々が始まった。 

 他から干渉されずにゆったりと過ごせる時間を環境に恵まれたアートヒルズに求めた姉妹は、隣組み制度の(わずら)わしさを嫌って自治会に入らなかった。

 当初は管理組合と自治会の仕事にはっきりした境目がなかった。役員と名のつく人たちも、与えられた仕事は協力して和気藹藹(わきあいあい)のうちに何となく出来るものだと思っていた。

 弥生は管理組合の書記を希望したが、何故か自治会の会計に回された。この役員人事には浦野老人の思惑があったのだが、弥生は彼の人物を知らなかった。自分の仕事だけすればいいものと考えていた。弥生の会計には会計以外の雑用などないはずだった。それを新会長は次々に雑用を(こしら)えては、役員たちに押しつけた。夏祭り、餅つき大会、七夕祭り、クリスマスの飾付け、違法駐車への警告、年末警戒の夜回り、起震車を呼んで災害訓練、雑草取り、赤い羽根募金──思いつくだけでもきりがない。行事好きの老人はひとつひとつのイベントがアートヒルズにとっていかに大事かを延々と講釈する。会合の時間ばかりが無駄に長い。

 老人一人に振り回されて、慣れない雑用の山に役員たちは悲鳴をあげた。滅私奉公(メツシボーコー)率先垂範(ソツセンスイハン)がモットーの浦野老人は、大日本帝国海軍の空気を四ヶ月も吸ったと自慢する男だ。何かというと「だらしないっ」と〈部下たち〉に(げき)を飛ばした。月例会の他に各担当の進捗具合を報告させる臨時例会まで設けて役員を拘束した。役員たちは会長のワンマンぶりに呆れたが、さまざまな形で市役所、警察、消防署に協力して所謂(いわゆる)〈良いこと〉をしているので、浦野体制は役員以外の住民から支持されて盤石(ばんじやく)だ。悲しいことに役員の数では浦野老人をリコールすることはできない。

 タクシー運転手の中野さんが、仕事に支障があるので役員を降りたいとSOSを発しても、ワンマンは首をタテには振らなかった。役員たちは下の商店街の蕎麦屋に集まってみたものの、猫に鈴をつけに行く者はなく、結局、中野さんの仕事を分担して肩代わりすることで解決にするしかなかった。役員たちは非力を思い知らされた。

 ある時、浦野老人が弥生の住まいを訪ねて来た。彼はピアノの件では手回しよく署名を集めていて、住居番号・氏名の並んだ紙を弥生の眼の前に突き出した。署名は会長の息のかかった者や近所迷惑はいけないと単純に応じた者たちのもので、ほとんどが一、二号棟の住人たちだ。

「自治会に入れば、ピアノのほうは考えてやってもいいが、どうだい?」

 弥生の頭に血がのぼった。……ピアノが迷惑だなんてウソじゃないかッ。まったく人をバカにしている。でも、こんな署名でも住民の意思と言えばそうに違いない。なんと卑劣な……。

 長く教職にあった弥生は是々非々をはっきりさせたい性質で、権力を悪用する人間には虫酸(むしず)が走る。浦野老人は何としても弥生を落として、百パーセント自治会加入を達成したいのだ。それを他の地区の自治会長たちに自慢して自分の鼻を高くしたいだけなのだ。……こんなバカなことが通ってはいけない……。

「自治会への加入は任意のはずですから、あなたから強制される覚えはありませんッ」

 弥生は突っぱねた。浦野老人は弥生たち役員などどうにでも操れる子飼(こがい)の部下だと信じているらしい。老人には、これは古き良き秩序への反抗でしかなかった。

 ……運転手の中野さんが抜けた上に、私までやめる訳にはいかない。そうか、そういうことだったのか……。

 自治会に入らない弥生を自治会役員に据えて、居心地を悪くさせた上で加入を迫る───策士ではあろうが正しくはない。

 弥生はピアノを断念した晩、ただ口惜しくて泣いた。妹の雪絵が弥生の胸中を察して言った。

「お姉ちゃん、ここ引っ越そうか」

 ……こんな思いまでして何でここ住んでいるのか。放り出せるものなら役員など放り出したい……。しかし、弥生には、浦野会長個人への恨みとは別に、なぜかアートヒルズは離れがたいのだった。理由は思い当たらなかった。

 弥生は役員月例会のたびに、規約より慣習を重んじる会長から自治会未加入を皮肉られた。彼の散歩は朝・昼・晩の団地巡回で、それも五号棟最上階からピアノの音が洩れていないかどうかの確認が主目的らしい。

『あんな鼻っ柱の強い女はないなあ、同じ団地に住んでいれば自治会加入は当たり前じゃないか。変わり者とはあの女のことだ。役員が会員の手本にならんでどうするっ』

 老人の散歩には団地のあちこちに彼の意見を言いふらす目的もあった。まったく煮ても焼いても食えない。だれが食うものか。

 しかし、役員たちが待ち望んだ日は思ったより早くやってきた。天網恢恢(てんもうかいかい)()にして()らさず──浦野老人が心筋梗塞(しんきんこうそく)で倒れたのだ。人の不幸を喜びはしないが、アートヒルズ自治会役員が平和的な気分になれたのは事実だった。老人はそれから丸一年というもの人前に姿を見せなかった。

 やがて再びアートヒルズの住人は、杖を頼りにそろりそろりと団地内を歩きまわる浦野老人の姿を目撃するようになるが、彼には昔日の勢いはない。誰だって年齢には勝てないのだ。人を引きずり回し振り回して楽しむ老後などあってよいはずがない。浦野老人が散歩と称して団地住人の動静を窺っている。いったい何のために? 権勢を振るった昔を忘れられないのだろう。弥生はションボリと哀れな彼の姿を遠くに認めて思うのだ。……私のほうもこの一年で変わったのだろうなぁ……。


   (四)


 肉体の衰えは毎日わずかずつ訪れるから普段は気づかないだけだ。健康な体もいつしか(むしば)まれていく。老眼は度をまし、シミが出来れば二度とは取れず、シワはますます深くなる。

 ……でも私は、昨日と同じ今日が来てくれたら有り難いと思うほど年寄りじゃないわ。体の方は大事にするとして、気持ちは若々しくなくちゃあね。太極拳を始めたついでに中国語も習おうかしら。元気なうちに大連(だいれん)にも行ってみたい。雪絵は日本生まれだから懐かしくもないだろうけど……。

 遠すぎる思い出を生活の中に継ぎ木しようとしても、現実にはなかなか叶わない。弥生は大連で生まれて五才までを彼の地で過ごした。記憶の少ない遠い故郷だ。彼女は清岡卓行(きよおかたかゆき)の『アカシアの大連』を開いてみる。何度読み返したろう。作者の美しい文章で自分の記憶を補ってみるが、それは相変わらず(かすみ)がかかったようにぼんやりしている。……想い出は自分を励ますためにとっておいて、(つい)住処(すみか)と決めたアートヒルズで、せめて心豊かに生きて行く技術を身に付けよう。紅茶もコーヒーも自分でブレンド出来るようになりたいし、丹沢連峰も眺めるだけじゃなく油絵で描いてみたい。音楽も本物のコンサートにどんどん出かけよう、小説を書くのも面白いかもしれない……。

 弥生は、アートヒルズに引越して来たとき、更年期で体調が思わしくなかった。子供を産んでいない彼女は、閉経後の今も娘時代とほぼ同じ細身の体型を保っているが、体重が少し落ちて若い頃の張りはなくなった。

 女子高時代、弥生の美しい横顔と知的な眼差しに憧れる下級生たちから悩ましい手紙もずいぶん貰ったものだった。今でも鏡の前の弥生に、あの頃の面影は残っていているものの、白髪や皺は隠しようがない。……水商売じゃないんだからね、仮面を貼りつけたような厚化粧はハシタナイよ……。弥生はごく薄く白粉を()き、控え目に口紅をひいて鏡の自分に言い聞かせる。……いいのよ、年相応が……。

 そう言いながら弥生は自分のなかに十も二十も若い自分を住わせている。それは矛盾ではなく目標なのだ。容姿の衰えと戦いつづける運命に生まれついたのが女性という性なのだ。生活苦とは無縁の独身貴族が長かった彼女は、いわばお姫様だが、お姫さまとて女性であることには変わりない。

 ……私も出会いはほしい。でも、自分を無理に年寄り臭くするようなカルチャーセンターはゴメンだわ。団地の人たちはあんな意地汚いルールのゲートボールなんかにどうして夢中になれるのかしら? 

 他人の趣味にケチをつけている自分にハッとして、ピアノを失ったことが今さらのように悔やまれた。何かしたい気持ちはあるけれど何をしたらいいのか……。退職前にはまさかピアノが弾けなくなるなんて思ってもみなかった。私の同類は近所にいないのかな。下の緑ヶ丘に文芸クラブか何かサークルはないのかしら。でも、見ず知らずの他人と交わって神経を使うよりもひとりの方が気楽だし……。まるで子供ね。社会性のなさに我ながら呆れる。生活を支えてきたのが教員時代の気楽な我儘(わがまま)だったのかもしれないな。それなら文句は言えないか。今さら恋愛でも結婚でもなし、仕方ないよね。あんな素敵な人たちとそうそうめぐり会えるわけないんだもの……。

 弥生は若いときの恋愛のいくつかを思い返して、ため息をついた。

 団地に住む人たちの過去など隣の住人にだって分らない。弥生も親の反対を押切って青春を賭けた激しい恋愛があったかもしれないし、男への献身が裏切られたこともあったのかも知れない。しかし、どれほど想像をたくましくしても、弥生の過去らしいものを現在の姿から想像するのは難しい。現在の彼女は美しくて、品が良くて、聡明で、生半可でない趣味を持っている素敵な人としか言いようがない。


 笹森光一は弥生と同期の役員で広報担当だった。浦野から月一回「自治会だより」を発行するように命じられていたが、原稿はさっぱり集まらない。自治会主催のイベントがある度にテキトーなことを書いていたようだ。「自治会だより」は会長を持ち上げる記事が多いので、弥生は笹森を浦野老人の腰巾着だと思い込んでいた。が、よく読むと記事はどれも〈ホメ殺し〉だった。浦野老人は「僕をこんなによく書かれちゃ恥ずかしいじゃないか」と照れて満足そうだったが、住人は会長の御用新聞に関心はない。笹森も記事を鵜呑(うのみ)にするお人好しは浦野以外にないと踏んで書いていたようだ。

 あるときの役員会で弥生は隣合わせた笹森の手元を見て思わず吹出した。顔は浦野の似顔絵で首から下が太鼓腹のタヌキだった。笑い声の主を会長がジロリと睨んで言った。

「高原さん、なにか?」

「いえ、別に……」

 弥生は肩を小刻みに上下させて笑いをかみ殺した。その日は弥生には珍しく楽しい役員会だった。笹森との筆談がつづいたからだ。

 ……今度の自治会だよりにタヌキを載せましょうか?

 ……大受けしますよ、きっと。

 ……僕は恐竜で首のすげ替えをやりたかったんですけどね。

 ……恐竜もいいですわよ。いっそシリーズ化してごらんになれば?

 一週間ほどして発行された自治会だよりに「頼りになる会長の太っ腹」というコラム記事と共にそのタヌキが載った。  

 ……笹森はタヌキ親父の記事など「人を食ったものばかりばかりです。(だま)されてはいけません」と言いたいのだろう。見どころのある男かも知れない、弥生はそう思った。


   (五)


 笹森は四号棟の一階に住んでいた。団地もこの十年で住人の一割以上が入れ替った。パートに出ていた働き者の奥さんは乳癌で、入居後ほどなくして小学生の子供二人を残して他界した。男やもめの笹森の子供たちも今では高校生だ。どこの家にも時間は経つ。弥生は笹森がどこかの学校の教師だというウワサを耳にしていたが、自分の経験からしても笹森の家は教師の暮らし向きだとは思えない。事情があるのだろうが、弥生は知りたいとは思わない。経済と人格は関係ないだろう。ただ、笹森は言葉の端はしに弥生が気になることを言う男だった。

 笹森は女性をホメるとき、その人の二番目に素敵なところをホメる。女性は、多くの人が認めてくれて自分でもそう信じている一番のチャームポイントに触れてもらえない、と腹で不満に思う。しかし、二番目でもホメてないわけではないので、女性はその不満を口に出せない。弥生の場合、若い頃から美しいとかきれいと言われてきているから、笹森はこれに触れない。わざとどうでもいいような二番目を繰り出して相手の虚を衝く。女性は二番目であれ三番目であれ、自分をホメられてうれしくないことはない。しかし、女性の側には自他ともに認めるいちばんのチャームポイントがある。それを彼に認めさせたいという気がすでに起こって来る。彼は、そうした女性の気配を見取ってから、一番のチャームポイントなど『言うまでもないことです』と言ってくる。女性もそんなことで心を許しはしないが、笹森をまともな審美眼の持ち主と見てしまうのだ。

 男にとって警戒心の強い女ほど面白くないものはない。彼女らはひたすらガードを固めるが、護るほどの中身がないのが通例だ。男というものを性欲の塊のように見下している。男はそんな女を何さまのつもりかと不快に思う。この種の女は容貌をホメたりすると「ほら、やっぱり私を狙っている」と勝手な解釈をするので始末が悪い。性的な連想をさせる部分を話題するとますますそう思われる。髪型とか手ならホメても警戒心を持たれないので無難だし、こちらが相手に関心があることも伝わる。つまり、二番目のチャームポイントは誰にでも当てはまるもので特に相手に固有というものではない。こんなことがあった。


   (六)


 八月末のある日、弥生は管理事務所の前で、スーパーの買い物袋を両手にぶら下げた笹森とバッタリ出くわした。顔見知りではあるので挨拶をした。

「お買い物ですか、大変ですね」

「いえ、慣れたもんです」

 笹森が尋ねた。

「この頃ショパンが聞かれませんが、音楽は聴かれないのですか?」

 ……ショパンを、聴く?

「あら、あれは私が弾いていたのですわ」

「本当ですか? 僕はずいぶんすごいオーディオをお持ちなんだと思ってましたが、高原さんご自身でしたか。いやあ、それは素敵だ。で、なぜピアノを弾かれなくなったのですか?」

「処分しました。リューマチで思うように指が動かなくなったもので……」

 弥生は、こんなのは本当の理由じゃない、と腹立たしさを抑えながら言った。

「そうだったんですか。いや、もったいない。僕には楽しみだったのですよ」

 笹森が残念がってくれたのが弥生にはうれしかった。迷惑がるどころか聴いてくれていた人がいたのだ。弥生は我慢できなくなって言葉を継いだ。

「リューマチもありますが、一悶着(ひともんちやく)ございましたのでね」

 彼女はピアノを手放した経緯を笹森に話した。

「ひどいヤツだ。そうと知ってたら自治会だよりで書き立ててやれたのに……。お祭り男の会長なら自治会主催で『ショパンの夕べ』をやるのが義務だったはずですっ」

 過ぎたことだったが弥生には嬉しい言葉だった。

「じゃ、二号棟や三号棟から下手なピアノを聞かされるとストレスがたまるんじゃないですか?」

「ええ、いえ。あちらのピアノには苦情が出ないのだそうですよ」

「そうなんですか?」

「そんなとき私、市内へ出てコンサート用の貸しピアノをブッ壊れるほどブッ叩いてくるんですの」

「すごい言い方ですね、ははは」

 弥生は笹原と話して、少し気が晴れた。

「高原さんの白髪、すてきですよ」

 笹森が突然に言った。

「私の白髪が、ですか?」

 とっさにそう言われて弥生は意味がわからなかった。

「僕はですね、白髪で当たり前の年齢の人が妙な色に染めているのを見ますとね、他人の頭だと承知していてもむしりたくなります、はっはっは。いいですよねぇ、白いのと黒いのがいい具合に混じって。白髪は尊敬されるべきです」

 ……おかしなことを言う男だ。自分の薄くなったてっぺんにも昔はむしりたいほどフサフサしていたと言いたいのか。弥生はホメられているのかからかわれているのかわからない。

「年をとるのは仕方ないことです。でも、すてきな経験は大事にしなきゃいけません。年寄りの顔だちは若い頃の想い出が作ると言いますよ」

 ますますわからない。しかし、弥生は自分の何かを言い当てられたような気がしなくもない。

「こう言っちゃなんですが、僕はけっこうハンサムだったんですよ、ちょっと想像してみてください。あっはっは」

 ……クレージーだ……。

「例えば、ですよ。三、四十年前に高原さんと僕が出会ってたとしてもこうは親しく話せなかったと思いますね」

「どうしてです?」

「近寄れなかったでしょう。昔、グレース・ケリーという女優さんがそうだったと言いますが。今の高原さんの周囲は昔の貴女を知りませんよね。でも僕にはわかります。もちろん想像ですが、教え子の女生徒たちから付け文されて大変でしたでしょう? それに混じって気になる男性教師からもチラホラと。みな熱心な手紙だったはずです」

 ……失礼ではないか。だれに人の過去などわかるというのか? バカな。私を口説こうとしているのなら、お止しなさいよ……。

「そのうちに下の商店街でお茶でもご一緒しませんか? いや、駅前まで出ましょうか。友人が〈ユトリロ〉って喫茶店をやってましてね、そこの紅茶は僕がブレンドしているんです。よろしければ是非ごちそうしたい……」

 弥生は即座に返答できなかった。

 ……ふぅん、自分で茶葉をブレンドするのか、こしゃくな……。

「無理にとは言いません。僕の自慢の一杯をご一緒していただければ、高原さんの想い出を幾つか言い当てて差し上げてもいいですよ。いえ、僕は占いは信じません。飽くまでも僕のカンです」

「本当に昔の私がわかるんですの? それならせっかくの紅茶が不味くなるかもしれませんわよ。でも、せっかくのお誘いですから考えておきましょ」

「あ、あの、今、ちょっといいですか? ほんの五分、いや三分じっとしていてください」


   (七)


 笹森はスーパーの白いポリ袋を傍らに置くと、布カバンからスケッチブックを取出した。サササッと鉛筆が走り始めた。手際のよさは弥生にもわかった。

 ……ふ〜ん。笹森は美術の教師だったのか……。

「う〜ん、近いけどフランスじゃないなぁ」

「何が、ですの?」

「あ、動かないでっ」

 ……勝手な人ね。モデルを承知するとは言ってないのよ……。

 頭では否定したが、笹森に認められ、選ばれているという心地よさがある。弥生には久々の感覚だった。鉛筆の音を聞いているうちに、弥生は少しずつ気になりだした。しかし、それが笹森に対しての関心なのか、彼のやっていることに対してかはハッキリ区別は出来なかった。

「なんか北のイメージだなぁ。どっかが日本じゃないなんだなあ。ははは」

「笹森さん、わたしいい気持ちしませんわよ」

「あ、失礼。僕のイマジネーションがちょっと高原さんのご先祖さまにご挨拶に行ってたもので……」

「え? ご先祖って?」

「間違ってはいないと思いますが……」

 笹森は前置きをして言った。

「貴女にはヨーロッパが匂うんですよ。でも、その威厳というか落着きがどうもドイツよりオランダらしい……」

 弥生の心臓がドキンとした。

 ……まさか、笹森に何でそんなことまで判るのだろう。父方のひいお爺さまがオランダの人だとは聞いていたけれど……。

 弥生は背は高い方ではない。くっきりした横顔のせいで高校時代に混血疑惑も持ち上がったが、一笑に付して取り合わなかった。探られるのはいやだ。しかし、笹森はオランダまで言い当てている。

 自分に確信のないことを他人から断定的に言われるとおかしな感じがする。他人に知られたくないことを言い当てられたりすればさらに面白くない。弥生だってアートヒルズで残りの人生を趣味の合う人と楽しく会話しながら過ごしたいと思ってはいるのだ。……私のことをわかる人というのは私の心情を理解してくれる人のことで、笹森のように事実を突き付けでもするように私を解剖することじゃない。それにしても、この人に私のことがわかるというのは無気味だわ……。

 弥生は曾祖父身の上に想いを(めぐ)らせてみるが、直接の記憶はない。

 ……父親も彫りの深い顔だちだったけれど、どこでも日本人で通った。遺伝がどんな仕組みで現れるのかわからない。私はどうやらひいお爺さまの血を濃く引いているらしい。同じ親から生まれても、雪絵はどこから見ても大柄な日本人なのに、私は妹より小柄で痩せぎすだ。顔が雪絵より凸凹してるのが若いときは気になったけれど、考えても解決のつかないことなので悩まず放っておいた。放っておくことに慣れてみると、自分は自分でしかないという諦めのようなものが自然に身についた。今では、変えられないものは、そのまま変わらないほうがいい──居直りでなく素直にそう思う。ひいお爺さまの血も私を生かしているけれど、自分は自分でしかない、自分は大事にしようと思ったとき、私はオランダの血がきらいではなくなっていた。若いときの価値観なんてたいてい大袈裟な過敏症だから悩みと縁が切れないのだろう。

 弥生は血のことを今以上に解りたくない。解ってどうなるものでもない。なぜか知らないが、人が生まれて死ぬということに関しては、自分以外の人間が出す答は信用ならないと思えてしまう。かと言って自分の考えが唯一正しいものだとも思えるほど深い知識もない。……答を出すのに時間がかかるのなら焦って結論を出すことはない。結論を急いで割に合わない結果に終わった恋をいくつして来たろう。

 結婚だけが男女のあり方だとは思えない。世間体を気にして想像力をがんじがらめにしてしまうより、老齢の今こそ、夢とも現ともつかない、ぼんやりした世界を楽しめばいいのだ……。遊ぶという言い方は語弊(ごへい)があるけれど、世の中、四角四面にばかり考えて、他人の、それも個人に当てはめてみれば結局、誰のものでもなくなってしまう常識などに(とら)われてはいけない。その場・その時でなければ経験できないものを逃してしまうことになる。一期一会と人は言うが、実生活では、二期二会にも三期三会にもなってもらいたいのが素直な気持ちではないか。

 再婚・再々婚と繰返すの人たちが多くなった。何度も結婚するのはそれだけ正直なのだろうか。相手の期待するすべてを現実にすることだけが〈愛の証〉のように考える人が多いようだけれど、果たして……。

 年寄りどうしが社会的な契約である結婚を考えてしまうから、経済基盤が第一条件になってしまう。いっしょにいて楽しいか、心が潤うかが二の次、三の次になる。蓄えさえあれば女をモノにできると考える男がいるから、それを当てにして(はばか)らない女も出てくる。燃え残りの人生を男の鼻先にちらつかせて、生活のためだからと男を生け捕りにする女たちを弥生はどうしても好きになれない。彼女らがどれほど正直づらをしても何処かに嘘があるような気がする。彼女たちだって経験から知っているはずだ。それは相手のことを思いやるふりをした隠れミノで、やはりエゴでしかないのだと……。


   (八)


「はぁい、お疲れさまでした。ばっちりです」

 笹森の声に我に返った弥生はスケッチブックをのぞきこんだ。

「……?」

 楕円と線がたくさん描かれているだけだった。笹森のスケッチはそれで終わっていた。

「ディテールは頭に入ったんですの? これで本当に私になりますか?」

「そんな怖い顔しないでください。描きなおさなきゃならなくなりますよ」

「ま、楽しみにしてますわね。どの位で仕上がりますの?」

 弥生も絵に関心がなくはない。

「勤めもありますしね、一週間かな。出来たら電話差し上げます」


 指定された〈ユトリロ〉に行ってみると、笹森はマスターと話しこんでいた。親しいらしい。弥生は仕上がった絵をエサに笹森とのデートに釣られたのだ。同じ団地の住人であることが警戒心を(ゆる)めたのだろう。笹森が弥生の姿を認めて、マスターに紅茶を()れさせた。カウンタからそれを受け取った笹森が弥生の前につッと紅茶を差し出した。その香りを深呼吸して弥生は首肯いた。……いい香り。バラだわ……。

「わざわざお呼びたてして、どうも──。じゃ、さっそく」

 笹森が例のスケッチブックを布カバンから取出して、弥生の前にひろげて見せた。

「まっ」

 弥生は思わず息を呑んだ。楕円と何本もの線だけだったものが細部まで描かれて、水彩ゑのぐで薄く彩色されている。

 マスターが笹森の前に灰皿を置きながら、絵を(のぞ)きこんだ。

「へぇー。おきれいだったんですねえ。笹森のやつ、久々の傑作だ」

「マスターにもこれが私だって──?」

「そりゃ、わかりますよ。いやぁ、お美しい」

 弥生は気恥ずかしかった。どう見ても今の自分でないからだ。笹森はまるで若い時代に、弥生の恋人の画学生ででもあったかのように彼女を描いていた。

 ……この人たちは時のなかに埋もれてしまったものを見ている。毎朝私が鏡を見ながら見落としてきたものを見ている。むかしの私の写真も見ずに笹森にはどうしてこんな絵が描けるのだろう……。

 弥生は不思議でならなかった。彼女は四十年も前の自分をいつまでも見続けて飽きなかった。何度も口元がほころんだ。

「笹森とはむかしからの仲間なんですけどね、僕のほうは絵を止めちまったんですよ」

「ああら、なぜですの?」

「僕も少しは自惚(うぬぼ)れてましたけどね、こいつのすすめで写真に転向したんです。おかげでそっちの方では少し名も売れてポツポツ注文があるんです。この店の写真は全部ぼくが撮ったものですよ」

 そう言われて弥生は(あわ)てて近くの幾つかの写真に目をやった。風景や建物の写真だった。

「いいんです、無理にご覧にならなくても。あっはっは。ちがうんですよねぇ、画家と写真屋は……」

「どうちがうのですか?」

「写真屋には目の前のものしか撮れません」

「ひょっとして笹森さんって有名な方ですか?」

「無名なのがおかしいくらいです。世間の目が節穴ですね。その絵でもうお分かりでしょうが」

「南條。余計なこと言うなッ」

 笹森は紅茶を()れ直すようにマスターに言った。

 弥生が尋ねた。

「笹森さん、この絵を一日お借りできないかしら?」

「かまわないですよ。油絵にしようと思ってますから、そのときに戻してくれるなら二、三日は……」


   (九)


 弥生は雪絵に笹森のスケッチブックを見せた。妹は姉より絵画に理解が深かった。

「これを今の姉さんを見て描いたっていうの? あの四号棟の笹森さん?」

「先達って買い物帰りの彼につかまって、ピアノの愚痴を言ってる間にごちゃごちゃッと描いてさ、ごくろうさんって。ろくすっぽ私を見もしないの。スケッチブックをのぞいたら丸と棒だけでしょ。少し腹を立ててたのよね、うふふ。それがこれ。今度は油絵にしてくれるって言ってるの」

「油絵に? 信じられないなぁ。いいわねえ。姉さんの遺影はそれにするわ」

「やだ、縁起でもない。せっかく若返れたのにさ、ははは」

 雪絵は弥生と話している間、絵から眼をそらさなかった。

「姉さん、笹森さんってタダ者じゃないわよ……」

「え?」

「三十年前、四十年前のお姉さんなんて、私たちの他はだれも知らないはずでしょ? 笹森さんは一瞬でお姉さんの骨格から筋肉まで見抜いたんだわ。しかも筋肉の衰えを復元してお姉さんの過去を再現したわけでしょ? これ、ただの似顔絵じゃないわよ。並みの絵描きにできることじゃないわ。ダ・ヴィンチよ」

「そんな大袈裟なもんでもないでしょに……」

「でも、笹森さん、なんで姉さんを描いたのかしら?」 

「え?」 

 雪絵に言われて改めて考えると、簡単な質問の答がむずかしかった。

「う〜ん、たぶん()れたのよ。他に理由はないでしょ?」

「ははは。姉さん、勝手なのね」

「行動から動機を推理すればそうなるでしょ? きっとそうよ」

「それならさ、笹森さんが惚れたのは今の姉さん? 四十年前の姉さん?」

「むっ、どっちでもいいのよ。あの人のなかで同じなら……」

「わっ、今、姉さん〈あの人〉って言った。早くもお熱いわけね、ははは」

「こら、雪絵っ。そんなんじゃ……」


 弥生はベッドから見えるように、笹森から預かったスケッチブックを机の上に立て掛けた。若い自分の背後から笹森の息づかいが聞こえるような気がした。

 ……まさかとは思う。でも、私はあの人のなかで鏡が映しだす今の私ではなかった。妹には冗談で言ったけれど、この絵を描きながら、あの人の眼は私の何を見たのだろう。絵の私はあの人の何を見ていたのだろう。合わせ鏡のように見つめ合った眼と眼は何を語らったのだろう。その眼差しは、ひょっとして、やっぱり、愛を告げたかったのではないだろうか。この絵は告白ではなかろうか。──幼稚すぎるとからかわれようと、私は私の考えを笑う気になれない。私はいったいどうしたのだろう。もし、この気持ちが恋──なら、認めてあげたい。私のなかに生まれた私の大事な何かなようだ。弥生は自分の考えに顔が火照るのを感じた。恥ずかしいというより、誇らしいのだった。笹森はこの絵を油絵にするという……。

 若い自分に見つめられながら弥生はブラジャーを外して両手で乳房を包んだ。昔から大きいほうではなかったが、形は同じようでも時間は経っていた。時間の愛おしさは身体がいちばんよく知っている。柔らかいというより張りがない。そのたよりなさも(いと)おしくてならない。指で(こす)ると乳首は少し固くなった。弥生はその晩、いちばん薄手の派手なショーツを穿()いて寝た。手が自然に股間を這った。

 翌る日、弥生は名残り惜しいスケッチブックに一かごの林檎を添えて笹森に返した。


   (一〇)


 笹森は油絵の配色に悩んでいた。弥生の眼は光彩がくすんだ青灰色に(ふち)どられ白眼との境がはっきりしない。

 ……お年を召しておられるしな、老年性のものかも……。

 若い弥生の眼が、日本人には見かけない薄青色に包まれた鳶色だったのではないかと思ったのも、その青灰色からだった。笹森は、彼女の老醜をリアルに描きたくないのは、自分に新しく生まれている気持ちのせいだとわかっていた。

 彼は頭のなかの弥生の顔に少しずつ色を乗せていく。弥生の光彩に青色を入れてみた。すると急に思った通りにくっきりと若返って華やいだ眼になった。……美しい。オランダだったな……。

 眉の端に薄い茶色に引かれた眉墨の跡を思い出して、整った眉毛を生やしてみる。鼻も耳も顎の下も輪郭に丸みを帯びてきたものを、若い頃のピンと張り切ったシャープな線に戻してやる。唇も口紅の色のまま赤くふっくらさせる。白髪もオリーブ色の混じる黒にじょじょに変えて行く。その髪にツヤと張り与える光の処理をすれば復元できる。

 納得いく配色が出来るまでに丸々一晩費やした。笹森の頭のなかに弥生が完成し、彼はいよいよ制作に取りかかった。


 な、なんだ、これはッ──。笹森は右腕におかしな(こわ)ばりを感じた。絵筆を持った手が思うように動かない。いや、勝手に動いている。彼の手はパレットにたっぷり作った肌色の脇に、赤でなく茶を、黄でなく青をチューブから絞りだして隣の肌色と混ぜている。彼は左手で右手を押えつけた。

 ……これでは彼女の若い肌ではなくなる……。弥生を若返らせようとすればするほど笹森の意志とは裏腹に今の弥生に近づいていく。笹森は何度も意志を強く持ち直してはもがき、格闘した。恐ろしい力だ。

 笹森はこの不思議な現象が理解できなかった。

 ……僕の力では時の流れを(さかのぼ)れなということか。愛するためであっても、そうすることは不遜だというのか……。

 彼はうずくまって震えた。四日後、老女の絵が完成した。


 弥生は弥生で、笹森の絵の中に自分が若返れたことはうれしかったが、同時に心の中にうごめき出した不安にも気づいてしまった。彼が捉えたイメージは若いときの自分であって、毎朝いやでも鏡に現れる老いた自分ではない。笹森の画家としての腕は認めるにしても、意地の悪い見方をすれば、彼は専門の絵画技法で私を釣ったのかもしれないという、(かす)かであっても見過ごせない不安だった。もしそうだとするなら、絵が上手いのと口が上手いのとにどれだけの差があるというのか。笹森の誘いに乗って小娘のように有頂天になっていていいのだろうか。彼の想念のなかの私っていったいどんな存在なのだろう? ……単純によろこべばいいのかもしれない。若いときの自分はすでに失われている。あれだけの絵が描ける男だ。今の老いた私を描いて、若い私を想起させる絵だって描けるはずだわ──弥生は意地悪くそう思ってみた。

 今の私を描いた絵に若い頃の私が浮かびあがって来ないなら、老女以外の何者でもないなら、時を(さかのぼ)る男が現在の私しか描けないのなら───私にはそもそも歴史がない?──そういうことになりはしないか。

 そんなことをぼんやり考えているうちに、弥生は笹森に、今の、あるがままの自分を描いてほしいという気持ちが()いてきた。その気持ちは滾滾(こんこん)と彼女の心から溢れだした。あるがままの自分──それは彼に今の自分を受容れてもらいたがっているのかもしれない。妹が私の遺影になると言った油絵はいつ完成するのだろう。弥生は笹森に、自分を喜ばせるために、せっかくの絵で嘘をついてほしくないと思った。……ううん、笹森さん、私なら平気よ……。


   (十一)


 笹森から油絵が完成したと電話が入り、弥生はユトリロに出向いた。彼は絵筆を(ぬぐ)った跡のいっぱいついた風呂敷に弥生を包んで持ってきた。

 弥生は絵を見せられるのも、見るのも(こわ)かった。スケッチに描かれた自分であってほしいという気持ちと、あれではいけないと思う気持ちが目まぐるしく交差している。

 ……また(だま)されてしまう。あの水彩画以上に騙されてしまう。騙されて喜んで、騙されて泣くうちに、私の時間も目減りしていく……。弥生は老人の恋愛を想うと心が(ひる)んでしまう。……この年齢になっての失恋は若いとき以上に身に(こた)えるにちがいない。それまでして踏み込むべき恋愛ではないのかもしれない。世間では、年を取って配偶者を失した老人たちが新しい伴侶を求めて集団見合いをするのだという。彼らは先ず生活を考える。経済の安定が精神の安定をもたらすと経験で知っているからだ。しかし、それでは昨日と同じ今日が来るだけでいいと言っていた老人が、少し先を見て欲張っただけのことではないか。それで私は本当に満足するのだろうか。私は笹森が自分を理解してくれて信じられそうだから、見返りに恋愛してあげようとしているのか。私はそんな打算的な女なのか。そうかと言って、笹森とのことをこのまま淡い夢で終わらせたくはない。笹森に絵を描かせた私は何処へ行ってしまうのだ。彼に──いや、彼と私を引き合わせた神とか宇宙の摂理(せつり)とかいったものに()じけづいたのかしら。私には自分がわからない……。

「さ、ご覧になってください」

 笹森は無造作に風呂敷を払いのけた。

「あっ」

 弥生の身体が硬直した。描かれていたのは、スケッチブックの弥生ではなかった。人物の髪の白さに一瞬ほっとした。弥生は絵を見詰めた。眉間に微かなシワを寄せて陶酔したようにピアノを弾いている老女で、老女はたしかに弥生だった。笹森が口を開いた。

「題は『革命のエチュード』っていいます」

 ……穏やかな表情の老女が愉しんでいるピアノがなんで『革命のエチュード』なの? 弥生は慣れ親しんだ旋律を頭に浮かべながらじっと絵に見入った。……激しいところなど何処にもな…… 

「ああっ! ああっ!」

 弥生は声をあげた。怖いものの正体が見えた気がした。

 ……どうして? 居るわっ。たしかにコンクールに出たときの私。でも、神様はなぜこんなイタズラをするのかしら……。

 弥生がピアニストになろうか国語教師になろうかで真剣に悩んだのは十七歳のときだ。コンクールで『革命のエチュード』を弾いた。結果が出れば音楽学校への推薦がもらえる。技術には自信もあったが、弥生は解釈の(あら)い力まかせの演奏しかできなかった。演奏の結果が弥生に国語教師を選ばせることになった。運命は瞬間で決まるのだ。

 弥生は絵を前に涙が溢れて止まらない。悲しいのでも、うれしいのでもない。運命の神と芸術の神が結託した瞬間の衝撃に打たれたのだ。五十年の時の差が同じ人物に描き込まれるなんて……。

 この絵が展覧会に出ていたら、絵とはチグハグな題名に客は戸惑い、怪訝(けげん)な顔をするだろう。画家の真意がわからない、と。

 ……なぜこんなにもありありと私の眼に、力づくで演奏している私が見えるのだろう? 

 弥生の頭を笹森の言葉が(よぎ)っていった。

『年寄りの顔は若い頃の思い出が作るといいますよ……』

 彼女は画家のインスピレーションの凄さを思い知らされた気がした。

 ……笹森は私の過去をカンで当てると言っていた。私はあのとき内心、いい加減なことを言うなと笹森をバカにしたのだった。あゝ、こんな絵を描く人が同じ団地にいたなんて……。弥生は自分が磁石に惹きつけられる小さな鉄粉のように思えてしまう。笹森に引っ張られてたじろいでいる自分を、彼はさらに引き寄せるのだ。……踏みとどまれない、踏み止まる意味もない。

 それでも弥生は気を取り直して、油絵のお礼はどうしたらいいのか率直に尋ねた。

「林檎をください」

 笹森は真顔でそう言った。


   (十二)


 秋の深まったある夕方、弥生はベランダで冷たくなってしまった紅茶を(すす)りながら取留(とりとめ)のないことを考えていた。

 ……薄紅(うすくれない)の秋の実に人こひ()めしはじめなり、か───ふふふ。初恋は実らないから美しい? 林檎は実るのに初恋はなぜ実らないのかしら、受粉しないから? 自分の考えに自分で顔を赤らめて弥生は思い直す。きっと人が余分なことを覚えすぎたのよ。私のは純愛に届かない〈純恋〉だわね。私たちはたぶん結婚しない。結婚の条件も色々だろうけれど、結婚しないのだから条件なんか考える必要ないわ。条件を満たせば結婚も出来るし続けてもいける。お互いを見失ったとしか思えないような夫婦でも、惰性だ、諦めだ、責任だと言いながら結婚生活を続けている。でも愛情だ、とはなかなか言い切れないようね。彼らは結婚で何を得て何を失うのだろう? 独身の私には結婚で得るものを実感は出来ないけれど、失われるのはやっぱり恋なのではないかしらね。

 いたずらキューピッドの突然の贈り物は人間の事情などおかまいなしで、いつだって突然すぎるし相手かまわずだ。純情娘をヤクザ男に走らせ、堅い男を娼婦まがいの女に惚れさせる。恋に上下の隔てなどない。

 ……恋の正体は、身分も財産も取り去って、残ったものだと思えばいいのね。恋を持続させようとする意志を愛と呼んだらいいわ。人は現実に引き合わないというだけでサッサと恋を諦めてしまうから、恋だって形も残さず消えてしまう。そこをもがいてみれば、恋は成就(じようじゆ)しないまでもきっと記憶に残ってくれる。あの世まで持っていけるのは思い出だけよ。冥途の土産を用意しなかったと()いても誰のせいでもないでしょう。人生を豊かにするもしないも自分でしなないんだもの。

 結婚という契約で相手を束縛するより、一瞬一瞬をわかり合えるほうがどれだけ充実しているか知れないのに、生活の便宜ためのというのでは晩年が寂しすぎるわ。若い人たちとは違って、諸行無常(しよぎようむじよう)会者定離(えしやじようり)を身に()みて知った老人なら、契約の(もろ)さや果敢(はか)なさを知らぬはずないだろうに、なぜ結婚を繰返すのだろう。若いとき以上に貴重になってしまった時間をそんなに不自由に過ごしていいわけないのに。年を取ってこそ生活とは関わらない純な恋に遊べばいいのに。地位も財産も世間的な評価も関係ない、心と心が()かれ合って素朴に求め合う初恋のようなつながりが老人にあってもいいだろうに。計算ずくの世間の眼が及ばないところで、少年と少女のように愛し合えばいいのに。制度や慣習に囚われて結婚などというシガラミのなかに埋もれていくより、知恵と勇気で旧弊(きゆうへい)を超えて行けばいいのよ。そういう恋愛を私は少しも不道徳とは思わないわ。それとも独身だからそんな風に都合よく考えてるのかしら……。とにかく、思い出は大事よ。あれをお願いするなら笹森さんしかいないわ……。

 弥生は葉の落ちかけたくぬぎ林を眺めやって思いきったように揺り椅子から立ち上がった。


 弥生はユトリロで仕事帰りの笹森を待った。

 彼女は心の底にぼんやりしたものを抱えている。隠してきたつもりはないが、そのぼんやりしたものは弥生のなかでひっそりと生き続け、ずっと出口を探していた。

 笹森がよれよれのコートを脱いで弥生の前に座った。

「笹森さん、大連の絵を描いていただけないかしら」

「ダイレンって、あの大連、ですか? 僕は中国になんか行ったことないですよ」

「ふたりでスケッチ旅行に出てもいいんですけど、そういうワケにも行かないでしょ?」

 弥生は少女のように悪戯(いたずら)っぽく笑った。

「弥生さんが言うからには、今の大連ではないのでしょう?」

「さすがにおわかりですね。私たち姉妹もご覧の通りの年齢です。すでに両親はありませんし、大連と言っても妹の雪絵には特別に意味のある所でもありません。ですが、あの子に私の五年を分けてやりたいのです。あの子の両親は私の両親より十年短命なのです。あなたが描いてくだされば、私はそれで両親と大連を(しの)ぶことができます。大連は知らなくても雪絵は私より絵を深く理解します。妹が懐かしく思ってくれる絵を家に掛けて五年分をあの子にあげたいのです。お願いできますか? お礼はさせていただきます」

「いや、お礼のことはいいですけどね。まだ引受けたということにはしないでください。イメージがありません。近々大連のお話を聞かせてください」

「わかりました。私も想いだせるだけ想いだしてみますね」


   (十三)


 数日後──。弥生はユトリロでむかしを回想しながら、ぽつぽつと語りだした。

「父は満鉄におりましたのよ。終戦で母と当時五才の私を連れて引揚げてきました。父が国鉄に入って、雪絵が生まれたとき私はもう五年生でした。日本に戻ってからの両親は大連のことは話しませんでしたし、私は植民地二世ですのでね、大連が故郷なのは家族のなかで私ひとりです。日本生まれの妹には大連は未知の土地です。大連の夏は星ヶ浦の海水浴、冬は鏡ヶ池のスケート。近所の家並とアカシア並木。吸い込まれそうな空の色。私の記憶といってもそれくらいですの。笹森さんがイメージしてもらえるような言葉になりません。思い出そうとしてはみたんですが……」

「ふ〜む。絵になるのは家並かなぁ。どんな家でした?」

「満鉄も社宅でしたけどね、日本に帰ってからの国鉄のよりずうっと立派でした。二世帯で一棟の煉瓦の二階建です。中は畳を入れてましたけどね、外観はまったく洋風でしたよ」

「ふむ、一軒一軒でなく家並全体はどんな感じでした?」

「満鉄は大きいですからね、それはもう山の斜面に同じような家がずら〜っとね。南山の上から見たのかなぁ……」

「写真か何かお持ちじゃありませんか?」

「それがないんですよ。ぼんやりしたのが私の頭のなかにあるだけで……。あの、ご無理だったら仰言(おつしや)ってくださいね」

 笹森は腕組みをして考え込んでしまった。

「うちの、アートヒルズのそばの〈ゆりの木台〉のですねぇ」

「道路の向こう側に新しく出来た、ゆりの木台?」

「そ、あれくらいのが二つで一棟。でも煉瓦だからどっしりしてるの。煉瓦の壁はとても厚いのよ。ガラス窓は二重。夏は涼しくて冬は暖かくなきゃいけないでしょ。重苦しい感じの洋館て言えばいいのかな……」

 笹森は目を閉じて考えた。──家のディテールまではとても描けない。

「道路はどんなでした?」

「道? アスファルトで広くて真っすぐ。大連でカーブした道は覚えがないですね」

「並木はどんな?」

「アカシア。本当はニセアカシアらしいですけど、道の両側に。太くて大きな並木でしたわ。五月に白い花が咲いて町中がいい香りに包まれるんですのよ。空は真っ青。青紫かなあ。空も色がどっしりしてるの……」

「色がどっしり、ですか」

清岡卓行(きよおかたかゆき)という作家が『眼を洗いたくなるほどに濃く澄んだ青』って書いてましたけど、その通りだと思いましたわ」

 笹森は詩人だという作者の比喩のすごさに(うな)った。

「その本に家並のこと、描かれてますか?」

「家並の描写は印象になかったですね。お貸ししましょうか、『アカシアの大連』?」

「いえ、弥生さんのイメージになければ僕にも必要ありません。それにしても僕は想像力ないなぁ。描いても弥生さんに笑われそうだ。時間の方は急ぎませんよね?」

「私の頭の中を描いてもらうんですもの、無理は言えませんわ。でも、私の生きているうちにお願いね」

「長生きしてくださいよね」

 ふたりは笑いあった。

 弥生は大連の露西亜(ロシア)町にいくつもあったネギ坊主のような屋根の建物ならはっきり思い出せた。だが、それを笹森に言うのはためらわれた。造形的な特徴があるものは「描かれてしまう」気がしたし、(おぼ)えているからといって懐かしさが湧いてくる建物でもなかったからだ。自分が大連を懐かしいと想うのは、あの地に陽炎(かげろう)のように立ちのぼっていた空気なのかもしれないと思った。


 笹森は大連の手がかりを求めて市立図書館へ足を運んだ。写真は少なかった。満鉄の本社、市役所、ヤマトホテル、横浜正金銀行、東洋拓殖、日本橋、税関、三越……大きな建物の写真はあるが民家の家並はない。弥生が過ごした大連は彼女の家族と同じような多くの家族の、主人を失くしたアルバムに収められて押入れの奥で、揺り起こされることもなく眠っているのだろう。

 ……弥生さんが五才の頃の大連なんてなあ。ずらっと山の斜面に住宅──南山の山頂から見た風景だろうけれど……。笹森は何枚見ても、写真からむかしの大連は見えてこなかった。

 帰宅してインタネットで探すと、古い大連の街の画像がたくさん出てきた。デパート、映画館、寿司屋。……でもな、弥生さんは大連の繁華街を故郷だとは思っていない。彼女の住んだ社宅の家並、アカシアの街路樹、青紫の空。僕のイメージで描くしかない。戦前の写真を何枚見ても期待したものはなかった。

 笹森は疲れて、机に突っ伏して眠ってしまった。夢の中で、少年と少女が見つめ合っていた。セーラー服の弥生と学生服の笹森だった。どちらが追いかけたのでも、どちらが誘われたのでもなく、彼らの出会いには後も先もないのだった。出会えたことだけがよろこびだった。ふたりはアカシアの樹陰でそっと唇を重ねた。


   (十四)


 笹森は起きてスケッチブックを取出した。夜明けにはまだ間がある時刻だった。

 ……夢は夢の中でしかツジツマが合わないもんだな。五歳で引き揚げてきた弥生さんが、セーラー服の女学生で、居るはずのない僕が大連にいて、彼女とキスまでするなんて……。

 結局、笹森の鉛筆は何も描かなかった。スケッチブックを閉じた。どう考えてみても、彼の頭には何も浮かんで来なかった。……見えないものが描ける訳ないさ、写真と同じだ。いや、写真とは違う。ダリの絵もマグリットの絵も写真では撮れやしない。かと言ってあんまりシュールだと彼女は腰を抜かすだろうしなぁ……。

 笹森は弥生と共有しているものが何かないかと探してみる。夢のなかの二人の出会いを絵にできないかと考えて、すぐにあきらめた。街路樹の蔭のふたりは弥生に共有されるイメージではないし、雪絵さんにも不要な男を描いてしまうことになる。 

 ……今度の絵があの人のイメージと違ったら、あの人が僕の絵に故郷を感じなかったら、僕はあきらめよう。こんなことが続けば僕だって間違いを起こさないとも限らない……。

 笹森はアートヒルズ四号棟の屋上から朝焼けのピンクに染まった緑ヶ丘の住宅群を見下ろしていた。珍しく霜のおりた朝だった。

 ……ここが彼女の想念と僕の想念の交わる風景なんだろうな。ここで彼女とはぐれたら五十メートルと離れずに住んでいながら、ときたまは挨拶を交わしながら、僕らはもう永遠に出会うことはないんだ……。

 笹森は感傷的になり眼頭が熱くなった。

 ……こんな想いはなぁ。あの(ひと)も同じなんだろうか……。

 笹森は何日も屋上にイーゼルを運んでは朝日に白く光るメゾネットの住居群を眺めた。

 ……弥生がアートヒルズの最上階を選んだのも意識下の南山麓に導かれてのことだろう。ならば、彼女のなかの大連は、この緑ヶ丘を見ながら、夢の中にふたりを会わせたあの通りを描くしかないだろう……。

 笹森は広角レンズで北東の斜面を俯瞰するように描いていった。いつになく苦しい、()の悪い賭けにも似た作業が彼の想像力を酷使し疲弊させた。絵の中で煉瓦造りの住居をぬってアカシア並木は真っ直ぐに続き、中央付近で青紫の空の下に消えていた。中ほどの一本のアカシアの蔭に点のように描かれた二人の人物がいた。それは笹森がもう一度見る夢であり、雪絵の眼には邪魔にならない風景の一部だった。

「む、僕にはここまでしか……」 


   (十五)


 その年の暮れも押しつまったある日、ユトリロの南條から弥生に電話があった。笹森から『大連の記憶』を預かっているので見に来てほしいと言ってきた。笹森は子供連れで長野の実家に帰ったのだと言う。

 南條が奥から四〇号の上はある絵を出してきて隅のテーブルの壁に立て掛けた。

「うわっ。すごいっ」

 弥生はじっと『大連』を見つめて立ち尽くした。彼女の眼にまた涙が溢れてきた。

「ねぇ、南條さん。笹森さんは有名な画家なの?」

「あははは。高原さんは前に来たときも同じ質問をしましたよ。アイツ言わなかったですか? 高校を三つ掛け持ちで美術の非常勤講師やってるんです」

「そぉ、非常勤なの。大変ね」

「金にならないってこぼしながら先生やってます。あれだけの腕ですからね、頼まれたものを描きゃあいいんですが、描きたくないものは描けないってのが口癖で。だからあいつが描くのは自分の好きなものだけですよ。描ければシアワセですってさ」

「ピュアな方なのねぇ」

「まあピュアと言えばピュアでしょうね」

「笹森さんて私の頭のなかが分るのかしら。この絵の場所は見たことないのよ。それでもとっても懐かしい。初めて見るものが懐かしいってどういうことなのかしら? これを見ていると私の大連はここでしかないように思えてくるの。やっぱりあのひとは天才なのかしら……」

「そうかも知れませんね。僕に言わせると天才というより対象を掘り下げる努力型ですけどね。言い方を変えれば、オブジェと心中しちまうタイプですよ。でなきゃ描ければシアワセだなんて言ってられませんよ」

「私もわがままを言い過ぎたのね。なんだか気の毒な気がしてきたわ」

可哀想(かわいそう)だは()れたってことよ、ですね。あっはっは」

「やだ、南條さん、そんなぁ」

「それに、あいつが弥生さんを描いたってことは──」

「あ、そこまでにしてっ」

 ふたりは笑った。

「砂糖は入れずにこのままで」

 南條がカップを差し出した。

 弥生がひと口ふくむと花の香りが口いっぱいに広がった。弥生は首肯(うなず)いて口もとをほころばせた。

「ふふっ。南條さんもやるわねぇ」

「大連のものかどうかわからないですけどね、蜜蜂がせっせとアカシアから集めてくれたものですよ」

 心に込み上げてくるものがある。……年齢とは関係ないわね。いいわ、周りからどう見られたって。年寄りに怖いものなんてないわよ。年寄りこそ社会の制約から解放されて少年少女のような恋をすべきよ……。

 彼女の買い物カゴのなかにはスーパーで買ってきた、派手だけれど上品なショーツが入っている。

 ……彼がアートヒルズに戻ったら早速(さっそく)都合つけてもらいましょ。いいえ、誰にもフシダラなんて言わせませんわよ。(了)




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