弓国
トルベスタの首都トルタは国土の中央よりもやや北方に位置し、木々が溢れる山間にある。南方よりも緑が濃く、その植生はエデストルに近いかもしれない。大樹の幹は真っ直ぐに上を目指し、太い枝は青々としている。木と石から成る彼らの家屋は、そういった頑丈な木々に守られるようにして建てられていた。
「あれって、上の方にも人が住んでいるの?」
どう見ても窓としか思えないものが縦方向に三つ連なっている家を仰いで、ルゥナは隣のフロアールに問いかける。馬上にいても、当然屋根の上は見えない。
ポカンと口を開けている彼女に、フロアールはクスクスと忍び笑いを漏らしながら頷いた。
「ええ。わたくしも初めてここに来た時には驚きました。エデストルはみんな平屋だから、部屋の上に部屋があるだなんて、本当に大丈夫なのかと思いましたわ。一番高いのは見張り台で、五階建てでしてよ。トルベスタは、大木を主柱にしてその周りに床を張るようにして家を造っていくの。四方には石で支柱を立ててね。王のラープス様がいらっしゃるところは、何本もの木を主柱にしていてよ。だから、とても大きいの」
「木を、柱に……」
確かにそう言われて見上げてみると、屋根の上には枝葉が生い茂っていて、まるで屋根の上にさらに屋根があるようだ。
初めて『家』というものを目にした時、ルゥナは感心したものだった。けれど、今目にしている物に比べれば、あれは玩具のようなものに思える。
「堪能したかい?」
ルゥナの後ろから笑いを含んだサビエの声がそう訊いてきた。
「あ、はい、すみません……」
顔を赤くして俯いたルゥナに、今度は馬を寄せたエディが声をかける。
「トルベスタには見覚えがないのか? ここを見ても、何も思い出さない?」
「え、えぇっと、そうですね……何も覚えていません」
「そっか。早く何か思い出せればいいのにな」
「はい……」
ルゥナの言葉を素直に受け取り同情してくれるエディを、彼女は真っ直ぐに見ることができない。ルゥナの事をすっかり信じてくれているエディやフロアールに嘘をついていることが、彼女は後ろめたくて仕方がなかった。
ピシカは百五十年以上も眠っていたなどという荒唐無稽な話をするには、まずは彼らの信頼を得なければいけないと言う。
(だけど、秘密を抱えたまま、どうやって信じてもらおうというの?)
ため息混じりに、ルゥナは俯いたまま胸の中で呟いた。
だが、ルゥナの揺れる心中など知る由もないエディは、彼女のそんな態度が気に入らないようだった。
「なあ」
少々乱暴な口調で呼びかけられ、ルゥナはびくりと顔を上げた。
「はい?」
跳ねた声で返事をしながら、反射的にパッとエディの方を向く。と、声をかけたのは彼の方だというのに、何故か少し怯んだように顎を引いた。
「あ……なんだ、その、さ、もう少し顔を上げてれば?」
「え?」
「ずっと下を向いていたら根暗そうだ」
主人の言いぐさにルゥナの背後でサビエが小さく噴き出したのだが、エディの言葉に頭をはたかれたような心持ちになった彼女の耳には入らなかった。
「ねくら……」
その言葉を呆然と繰り返したルゥナに、エディが顔をしかめる。
この太陽のような髪と晴れ渡った青空のような目をした少年の名前が『エデストル』であり、額に『印』を刻まれている者なのだということは、彼らと行動を共にするようになってすぐに、ピシカからこっそりと教えてもらっていた。
ルゥナの記憶にあるかつての『エデストル』は、面倒見のいい年の離れた兄のような青年だった。
けれど、この『エディ』には、もしかしたら嫌われているのかもしれないと思うことすらある。
ふとルゥナが視線を感じて振り返るとしばしば彼と目が合うのだが、その途端にパッとそっぽを向かれてしまうのだ。ちょこちょこ話しかけてはくれるのに、何だかその言葉は乱暴だ。
裏表がない性格なのは明らかなので、ルゥナの事を実は疑っているというわけではないのだろうが、とうてい彼に好かれているとは思えない。
(もしかしたら、ここで別れようって言われちゃうのかな)
ルゥナは抱いているピシカにこっそりと頭の中で語りかけた。
(そんなわけにはいかないでしょ。せっかくこんなに早く使い手に会えたんだから、何が何でも食い下がりなさいよ)
腕の中からその金色の目でじろりと睨みながらのピシカの指令は、ルゥナにとってはかなりの難題だった。こんな時、ソワレがいればどんなようにもうまく事を運んでくれるのに。
小さく息をついたルゥナがエディをチラリと横目で見ると、彼は何だか渋い顔をしていた。
(多分、エディはわたしのことが好きじゃないんだ)
ここまで同行させてくれたのは、山奥に子どもを一人で置いてはいけないという親切心からなのだろう。
(きっと、うんざりしてる)
『エデストル』に嫌われているのかもしれないと思うと、ルゥナは何だか落ち込んだ。
肩を落とした彼女に、別の方向から朗らかな声がかかる。
「ふふ、お兄様は語彙が少なくていらっしゃるから、気にしない方が良くてよ?」
「あ、や、気にしては……」
「ならよろしいのですが。お兄様はまだまだお子様ですの。色々素直に反応しないようにね?」
「フロアール!」
怒った声が兄から飛んだが、フロアールは全く気にしたふうがなく、ルゥナにいたずらめいた笑みを向けた。
「さて、おしゃべりはそのくらいにして、そろそろラープス様の所へ向かいましょうか?」
場を仕切り直すように声を上げたのは、スクートだ。彼はそう言うと同時に手綱を引いて、馬を歩かせた。サビエとエディもそれに倣う。
金髪碧眼が多いエデストルに対し、トルベスタの民は茶色系の髪、目の者が殆どだ。エデストルとは交流があるとは言え、やはり華やかなエディ達の髪色は目を引くようだ。通りを行き交う人々が、ちらりちらりと振り返る。
しばらくすると、彼らが向かおうとしている方角から二つの騎影が近付いてきた。
「誰かが王に知らせてくれたようです。お出迎えのようですね」
馬を止めたスクートが、エディを振り返ってそう告げる。
「あれは……トール様とバニーク様ではありませんこと?」
近付いてくる影をしげしげと見つめて声を上げたのは、フロアールだ。
「知っている人なの?」
問い掛けたルゥナに、フロアールが頷く。
「ええ。お若い方の殿方はトール様――この国の第二王子でいらっしゃるの。もうお一方はバニーク様で、トール様のお付きの方ですわ」
「第二王子……」
教えられて、ルゥナはその姿を捉えようと目を細める。
フロアールは言葉を切って、上の空で彼女の台詞を聞いていたルゥナにどこか申し訳なさそうな眼差しを向けた。
「何故、一国の王子と知り合いなのか、と思ってらっしゃるのでしょう?」
フロアールはそう訊いてきたが、エディの正体をピシカから聞かされているルゥナは、全く何の疑問も抱いていなかった。ただ、このトルベスタという名の国の王子なら、もしかしたら『印』を持っているのかもしれないと考え、遠い目をしていただけだ。
「え?」
きょとんと見返したルゥナに、フロアールは小さくかぶりを振る。
「ごめんなさい、あなたにはわたくしたちのこと――お兄様のことを、お話ししていませんでしたわね。記憶のないあなたにあまり一度に色々お話をするのも良くないかと思って……でも、ここでなら少しは寛げますもの。後で、お話しいたしますわ」
「あ、はい、お願いします……」
下手なことを言ってはぼろが出るかもしれないと、ルゥナは無難に頷きを返した。それを受けてフロアールがホッとしたように微笑む。
その表情が心の底からルゥナの心情を思いやっているように見えて、気付いた時にはずっと胸の奥に飼っていた疑問がルゥナの口を突いてポロリとこぼれ出ていた。
「何で、そんなふうにわたしのことを信じられるの?」
「え?」
フロアールが小さく首をかしげる。彼女の後ろでスクートがわずかに目を細めたが、ルゥナは構わず続けた。
「わたしのこと、何も知らないのに最初から受け入れてくれたでしょう?」
彼女の故郷のイシュラは、警戒心の強い地域だった。基本的には見知らぬものは阻害される。ルゥナが病の人々をどんなに癒しても、彼らはルゥナとソワレを受け入れようとはしなかった。求められたのは、彼女の力だけだったのだ。
ピシカと出会って、邪神を封じる仲間を探す旅に出て、大陸のあちらこちらを回っていた時も、やはりどこか冷ややかな目で見られることが殆どだった。出会った直後から屈託なく話しかけられるなど、初めて経験する。
そんな生活だったから、こんなふうに同年代の少女と言葉を交わしたことも無い。いや、そもそも、ソワレとしか、まともな会話をした事がなかったのだ。フロアールやエディの態度をどう受け取り、どう返すのが正しいのか、ルゥナにはよく判らない。
(ソワレなら、何も言わなくてもわたしのことを解かってくれたから)
ソワレ――その名は、ルゥナの胸に刺さった小さな棘だ。
彼が生きていると臭わされてからすぐにエディたちと同行することになってしまって、まだピシカに話を聞けていない。もしも生きているのなら――何故生きているのかは、どうでもいい、ルゥナは何をしてでもソワレに会いたかった。
弟のことを考えて無意識のうちに小さく唇を噛んだルゥナの耳に、コロコロと朗らかな笑い声が入ってくる。見ればフロアールの目が面白そうに輝いていた。
「あなたの何を、疑えとおっしゃるの?」
彼女のその台詞は、本心からのもののようだ。ルゥナは眉根を寄せて、問う。
「え、だって、アヤシイでしょう?」
「あら、わたくしはモノを見る目を持っていますのよ?」
そんな疑問を抱かれることの方が意外だと言わんばかり一蹴され、ルゥナは言葉に詰まる。もじもじと俯いたルゥナに、フロアールが小さく笑った。
「お兄様のお言葉も、一理あるかもしれませんわ」
「え?」
「あなたは少し、下を向き過ぎだということ。せっかくお可愛らしいのですから、もっと堂々としてらっしゃったら良いのだわ」
年下の筈のフロアールは、ルゥナよりも大人びている。彼女の台詞が冗談なのかからかいなのか判らず、ルゥナは困惑の目を彼女に向けた。そんなルゥナに背後からも合いの手が入る。
サビエだ。
「そうですよね、特に目、その目は結構珍しい」
言いながら、ヒョイと彼が覗き込んでくる。至近距離にある顔は額が触れ合いそうで、ルゥナが狼狽に目を泳がせると、サビエは面白がる色を多分に含んだ笑みを浮かべた。
と。
「サビエ!」
怒っているとしか思えない声で、エディが従者の名前を呼ばわる。見れば、不機嫌であることが火を見るよりも明らかな眼差しを、ルゥナの方に向けていた。
「ごめ――」
自分が何をしでかしたのかも判らないまま、彼女の口から謝罪の言葉がこぼれそうになる。が、それを言い切る前に、スクートが割って入った。
「いい加減にしてください。ほら、トール様方が来られましたよ」
彼の言葉通り、前方に目を向けると、柔らかそうな栗色の髪と目をした十七、八歳の少年と、白髪混じりの褐色の髪とこげ茶色の目をした中年の男性が、間近に迫っていた。
「やあ、エディ、フロアール、無事でいてくれて良かったよ」
満面の笑みでそう言ったのは、トールの方だ。優しげな面立ちしていて、真っ直ぐにエディを見る。
「うちの大使も、危ないところをディアンナ様に逃がしてもらってね、三日前に着いたところなんだ」
「母上たちの様子は判るのか? ご無事なのか?」
勢い込んでそうまくし立てたエディに、トールは申し訳なさそうな顔になる。
「いや……マギク侵攻の報せを受けて、ディアンナ様は真っ先に大使を逃がしてくれたんだ。マギク兵が来る前に大使はエデストルを出たから、その後のことは何も……。だけど、すぐに間者を送ったから数日のうちに状況を掴めると思う。取り敢えずラウ川大橋は封鎖しているよ」
「クソッ……」
悔しげに顔を歪めたエディの隣に馬を寄せると、トールは彼の肩に手を伸ばした。
「疲れているだろう? 少し休んだ方がいい」
「先にラープス王にお会いしたいんだ」
頭を振って、エディがトールを見据える。その眼差しには一歩も退かないという気構えが漲っていて、トールは少し困ったような微笑みながら、フロアールの方に振り返った。
「じゃあ、フロアールと……そちらの方は? 可愛い人だね」
トールはフロアールからルゥナに視線を流すと、ニッコリと自然な笑みを浮かべる。
「あ……」
気後れして口ごもった彼女を押しのけるようにして、エディが紹介した。
「その子はルゥナだ。ここに来る途中で会った。記憶がないんだ」
「記憶が? それは大変だね。だったら余計、二人は休ませてあげないと。フロアールも美しいのはいつもと同じ――いや、前よりも綺麗になったかな。髪が伸びたね。でも、埃を落としていつもの輝きを取り戻さないと。君のその髪は黄金にも勝るよ。そちらの――ルゥナだったかな? 君にも着替えを用意しよう。その月の光のような髪が映えるような濃い青がいいかな、それとも神秘的な瞳が引き立つように淡い色の方がいいかな」
さらさらと流れるように女性を賛美する言葉を口にするトールにルゥナは面食らうが、エデストルの一行は慣れているようだ。完全に聞き流している。
「判った。二人は頼む。俺達の方はラープス王への目通りを」
「君は相変わらずせっかちだね。じゃあ、城へ行こうか」
今にも駆け出しそうなエディに苦笑し、トールは先に立って馬を歩かせた。