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癒しの乙女の永久なる祈り  作者: トウリン
第二章:目覚めと新たな出会い
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遭逢

「まずはラウ川から離れましょう」

 そう提案したのは、スクートだった。


 聖弓を祀る国トルベスタの首都トルタは、今エディたちがいるラウ川上流から北東の方角にある。険しい山の中のこと、川を下っていくのが安全確実ではあるが、ラウ川はほぼ真北に向かって流れており、それに沿っていくとなると西から迫っているであろうマギク兵に追い付かれる可能性が高くなる。

 足場の悪さ、ヒトを襲う凶暴な獣の存在など、多少厄介な行程にはなるが、ある程度東に向かってから北に行く方が追っ手からは遠ざかることができるというのが、スクートの考えだ。


 それに対して、サビエが少々渋い顔を見せる。

「ただ、この辺は剣歯狼リュピイ金色熊ウルズがいるだろう?」

 気が乗らなそうな声で、彼が言った。


 剣歯狼リュピイは、その名の通りさながら剣のように発達した鋭い牙をもつ狼だ。通常、十数頭の群れで行動する。一方の金色熊ウルズはその毛皮一枚で五年は暮らしていけると言われているほど美しい毛並みを持つ熊で、人の背丈の二倍はある巨体で繰り出す爪が危険極まりない。

 どちらも、エデストル内では滅多に見ない猛獣だ。エデストルの穏やかな山や森よりも、もっと険しい高所――トルベスタやヤンダルムの山岳地帯に生息しているのだ。

 そんな獣の事をスクートやサビエが知っているのは、ベリートの教育の賜物だった。それはエデストル国内のことに留まらず、遠いヤンダルムやシュリータのことにまで及んでいる。


 もしかしたら父は、こんな事態になることを予見していたのかもしれないと、双子は思っていた。ベリートもまた、数年前まではマギク兵と共に戦場に身を置いていたのだ。その中で、マギクの中にある何か不穏な空気を感じ取っていたのかもしれなかった。


 サビエは黙々と馬を進めているエディに視線を走らせ、また兄を見る。

「金色熊ならまだいいが、剣歯狼は厄介だろ、今は」

 一頭ならまだしも、群れで襲い掛かられると、エディとフロアールの二人を守るのは難しいだろう。エディは技術的には戦える。しかし、実際にその手で生き物を殺めたことはない。獣相手とはいえ、実戦で箱入り王子がどれ程動けるのか、サビエには判断が付かなかった。

 だが、渋面の弟にはチラリとも目を向けず、スクートはうそぶく。

「獣かマギク兵かと言われたら、獣の方がまだマシだ」

「まあ、そりゃそうだけどな」

 スクートの台詞に、サビエも不承不承といった態で肩を竦める。

「取り敢えず、動こう。エディ様、水は汲みましたか?」

 年長者二人のやり取りを聞き流していたエディは唐突に水を向けられてハッと肩を震わせた。


「あ、ああ……」

 言いながら彼は馬から水袋を取り、川の流れに差し入れる。

 ぎくしゃくとした動きに、いつもは快晴の空の色をして生き生きと輝いている目にわだかまる陰。そこには屈託なく太陽のように輝いていた少年の面影はなかった。

 フロアールはそんな兄の様子を案じる色を全身から溢れさせているが、エディは全く気付いていない。


 スクートとサビエは無言で目を見合わせた。

 裏切られ、国を追われ、慕っていた者を亡くしたのだから、エディのその反応は当然と言えば当然のことだ。だが、肩を抱いて甘やかしてやるわけにもいかない。今は――そしてこれからも、エディが彼らの司令塔なのだから。いずれ多くの兵を率いるようになる彼には、一刻も早くその心構えを身に着けてもらわなくてはならないのだ。

 以前のような彼に、というのは流石に望み過ぎだろうが、せめてこの抜け殻のような状態からは脱して欲しいところだった。


(どうしたものか)

 双子の胸中には同時に全く同じ台詞が浮かぶ。

 そんな二人の懸念を知らないエディは、水を汲み終え戻ってくると、それを馬の脇に結わえ付けてさっさと鞍に跨った。

 そうして馬上で真っ直ぐ背を伸ばしたまま、ボソリと言う。

「行くんだろ」

 双子を見もしないエディに、スクートは弟ともう一度チラリと視線を交わし、答える。

「そうですね、急ぎましょう。では、フロアール様、失礼を」

 スクートは一声かけてすくい上げた彼女を馬上に乗せると、身軽く自分もその後ろに腰を落ち着ける。


 動き出してからもしばらくは皆無言だった。足場の悪い山中の静寂を、馬の蹄が落ち葉や石を踏む音だけが破る。

 一度休憩を取ったが、その時も発せられた言葉は必要最低限のもののみだった。

 その状態に最初に耐えられなくなったのは、フロアールだ。充分に東へ進み、北へと馬首を向けてしばらくした頃、彼女はスクートの腕の中から周囲を見渡して彼に問い掛ける。


「この辺りはエデストルとは生えている木が違うのね」

 エデストルは平野部が多く、山も比較的なだらかだ。生えている木は一本一本が太く高く、下草も青々と生い茂っている。『山』というよりも『森』という印象の方が強い。

 対して、今いるトルベスタの山中は下り始めても足元は未だ岩場が多く、丈の低い草木はあまりなかった。木々もストンと天を衝くようなものはなく、梢は絡み合うように枝分かれして一行の頭上を覆っている。

「そうですね。東に行けば行くほど、険しくなります。更に東のヤンダルムは殆ど岩場ばかりですよ。それ故北の隣国シュリータの土地を求めていて、両国の間では戦が絶えません」


 フロアールも、その話は耳にしていた。最近になって魔物の勢いが強まってきていて、トルベスタやヤンダルム、シュリータにも協力を求め始めたのだが、ヤンダルムとシュリータからは色好い返事がもらえないと、城の留守を預かる母ディアンナが宰相と話しているのを聞いたのだ。

「始祖は、一緒に戦った仲間の筈なのに……」

 ため息混じりのフロアールの言葉に、スクートが苦笑する。

「まあ、ずいぶんと経っていますから。実際、マギクと我々エデストルが抑えていましたから、魔物の襲撃は彼らにとっては縁遠いことなのですよ。色褪せている脅威より今の糧、ですね。もっとも、これからはどうなるか判りませんが……」

「これから……」


 ボソリとした、呟き。


 それは、エディから発せられたものだった。移動を始めてから初めて聞かれたその声に、三人がハッと一斉にそちらへ目を向ける。


「どうやったら、マギクを倒せるんだ……?」

 スクートは一瞬サビエと目を合わせ、そしてエディに馬を寄せた。

「エディ様」

 呼びかけられて、エディは暗い眼差しをスクートに向ける。

「エディ様、本当の『敵』は魔物ですよ。マギクが今回のような行動を取ったのは、何か理由がある筈です。まずはそれを確かめないと」

「敵はマギクだ」

「エディ様」

 強い口調で名を呼んだスクートを、エディはギラついた目で睨み付けた。それまでの生気のなさがウソのように、彼にまといつく怒りの炎がはっきりと見える。

「裏切ったマギクが悪いんだろ!? マギクを滅ぼして、魔物を倒す!」

「マギクも神器を受け継ぐ、いわば同胞です」

「それが何だよ! あっちだって俺達を攻めたじゃないか! 先に仕掛けたのはあっちだ! だいたい、邪神なんか本当にいるのかよ? ただのお伽噺じゃないのか?」

 エディは吐き捨てるように言う。

「誰も見たことがないんだろ。そんなのより、今、目の前にいる敵を倒すべきだ」

 歯を食いしばり頑なな唸りを上げる子どもに、スクートは微かに目をすがめた。


 マギクに何が起きて突然エデストルに牙を剥いたのか。

 それはこの場にいる誰も、判らない。

 もしかしたら、何か已むに已まれぬ理由があっての事なのかもしれない。

 彼らなりの理由があって戦いが避けられないのであれば、それはやはり雌雄を決しなければならないのだろう。その時は、当然エデストルはマギクを倒し、国を取り戻さなければならない。他国の事情よりも、自国を守ることを最優先しなければならないのだから。

 だが、もしも戦いが避けられないものであるならば、その理由が感情であってはならないのだ。


「感情で戦えば、終わりが見えなくなる」

 ベリートは剣の技を教える度にそう繰り返したものだ。エディも何度もその教えを叩き込まれている筈だが、彼の頭からはすっかりそれが抜けてしまっているに違いない。

 スクートは関節が白くなる程きつく手綱を握っているエディの横顔を見つめる。

 今のエディは恨みに凝り固まっていた。そう簡単に彼の頭は冷えそうにない。

 時間は、多少その助けになるだろう。だが、それだけで解決するだろうか。

 スクートのその考えは彼の腕の中にいるフロアールにも共通するものだったようで、彼女は小さなため息を漏らした。

 どうやったら主人の頭の中から私怨を薄めることができるのかとスクートは考えてみたが、何も思い付かずにその強張った幼い顔に目をやるしかない。

 彼もため息をこぼしたくなる。


 と、少し先を行っているサビエが不意に声を上げた。


「おい、何か聞こえないか?」

「え?」

「女の子の声だ」

「こんな山奥にか? まさか」

 疑いの声を上げるスクートに首を振ったのはフロアールだ。

「いいえ、わたくしにも聞こえますわ」

「見ろよ、あそこだ」

 そう言ってなだらかな斜面の下方を指差しているサビエのもとにエディとスクートが集まり、彼の示すその先に目を向ける。

 一同の目にまず入ったのは、木々の間に見え隠れする薄紅色の小さな何か。茶と灰と緑しかないこの森の中では、とても目立つ色だ。と、彼らの気配に気づいたのか、それがこちらに振り返った。それまで聞こえていた少女の声は、止んでいる。


「あれは……何だろう、猫? それにしても小さそうだな。猫の仔か? こんなところに? ていうか、あんな色した猫がいるのか?」

 次々疑問符を浮かべていくサビエの横で、エディがハッと息を呑んだ。

「あれ、人だ」

「は? どう見ても猫か何かだろう。少なくとも、人間じゃない」

「違う、その横だ。だいたい、最初に気付いたのは女の子の声なんだろう? 猫がしゃべるわけないじゃないか」

 目立っているのは薄紅色の小さな獣だが、良く見ればその隣に茶褐色の布の塊がある。

「助けないと」

 そう言い置いて、エディは馬を降りて手綱を手近な枝に引っかけると、足元に気を付けながらできる限りの速さで下った。その後に、サビエも続く。

 二人が近付くと、猫はジッと彼らの動きを目で追ってきた――とりわけ、エディを。


 猫の隣にある茶褐色の布の塊は、さして大きくない。随分と汚れて所々破れた、外套だ。四肢は縮められているのか、その下からは足の先だけが覗いている。厚みもなく、山奥で獲物を探している屈強な大男にはとうてい見えない。エディよりも小さい――せいぜいフロアールと同じくらいの体格だろう。


「どう見ても子どもだよな。だけど、なんでこんな所にいるんだ?」

「この山奥に村があるとは思えないですけどね」

 首をかしげたエディに、サビエが頷く。

「子ども一人で旅ってこともないよな……」

 呟き、エディは油断なく彼を見張っている仔猫に目を移した。

「大丈夫、何もしないから。それはお前のご主人様か?」

 声をかけながらひざまずき、そっと頭巾と思しき部分をめくる。そこから現れた白銀色の美しさに、エディは一瞬目を奪われた。うつ伏せになっていて顔は見えないが、その髪はずいぶんと長そうだ。


「こりゃ見事。まるで月の色だな」

 感心したようにサビエが小さく口笛を吹くと、猫の金色の目がサッとそちらを向いた。咎めるような眼差しが、エディには何となく人間臭く感じられる。

「動かしても大丈夫かな」

「そうだな……」

 エディの隣にしゃがみこんだサビエは、外套の上からその下にある身体に触れる。と、何かに気付いたように一瞬その手を止めた。

「どうした?」

「いや、何でも……」

 言葉を濁してサビエは慎重に倒れ伏す子どもの身体を探る。

「少なくとも、骨は折れてなさそうだ」

 そう言うと、彼は慎重な手付きでそれを裏返した。

 やはり、髪は長い。頬にかかったそれを、エディはそっとよけてやる。指に触れた感触は柔らかく、上質な絹糸のようだ。


 次の瞬間、思わずエディは息を呑んだ。


「女の子、だな」

 サビエの声は、エディの耳を素通りする。髪をどかして現れた顔から、彼は目を逸らすことができなかったのだ。

 息がかかっただけでも砕けてしまいそうな繊細な顔立ちは、血の気を失っている。唇すら、微かに赤みがある程度だった。


 喉の奥に何かが詰まったような感じがするのを呑み下し、エディはサビエに問う。

「生きてる、のか?」

「温かいし、息も脈もある。意外にしっかりとな」

 サビエは答え、腕の中に少女を抱えたまま、彼女の外套の前をはだける。

「これは……」

 二人は揃って眉をひそめた。

 外套の下の服は、濃紺色だ。だが、その前身頃には、大きな茶色の染みがある。明らかに相当量の出血の跡だ。あちらこちらに大小のかぎ裂きがあるが、右のわき腹には一際大きな穴が開いている。サビエが少女の身体を傾けると、背中側にも同じような穴があった。


「何かが突き抜けたみたいだよな。まあ、そんな筈はないか」

 血の跡は大量で、彼女がそんなに出血していたのなら今頃命が無いに違いない。サビエが穴に指先をひっかけて少し広げると、眩しいほどに白い肌が覗く。そこには傷跡一つ残っていなかった。

 少女の素肌を目にして妙に落ち着かない気分になったエディは、小さく咳払いをしてサビエに目を向ける。

「動かせるか?」

「多分――」

 大丈夫だ。

 そう、サビエが続けようとした時、彼の腕の中から微かな呻き声が上がった。二人が目を落とすと同時に、髪よりも少し色の濃い灰銀色のまつ毛が震える。

 目蓋が上がり、そこから現れたものに、エディは息を詰めた。


 少女の髪が月だとするなら、彼女のその目は夜空のようだった。黒と見紛うほどに濃い紺色の虹彩に、髪と同じ色の細かな斑がちりばめられている――まるで満天の星空のように。


「ピ、シカ……?」

 わずかに血の気が戻った唇から銀の鈴を振るような声がこぼれ、エディは我に返る。少女の眼差しは茫洋としていて、彼を認識しているようには見えなかった。

「俺はエデストル――エディだ。君は?」

「エデ……?」

 少女は呟くように、繰り返す。

 そして、次の瞬間、彼女は微笑んだ。

 ふわりと花開くようなその笑みに、エディは目を奪われる。何かに心の臓を鷲掴みにされたような胸苦しさが、彼を襲った。


「あ……」

 何か言わなければと口を開いても、エディの頭にはまともな言葉が浮かばない。

 言葉を失った彼の前からすぐにそれは掻き消えて、あ、と思った時には少女の目蓋は再び閉ざされていた。


 エディがサッとサビエに目を走らせると、彼はもう一度彼女を検めてから小さく頷く。

「大丈夫、気を失っただけだ。取り敢えず、上に戻ろう。多分何もないと思うけどな、フロアール様にちゃんと診てもらった方がいい。オレが隅から隅まで見るわけにはいかないでしょう?」

 後半の台詞は冗談めかしていて、エディは少しホッとする。サビエが茶化せるのなら、彼女の状態はそれほど悪くないのだろうと思えたから。

「ああ」

 エディが首肯すると、サビエは少女を抱えたまま軽々と立ち上がった。歩き出した彼に続こうとしたエディは、薄紅色の仔猫の事を思い出す。


「お前も来いよ」

 人間の言葉が判る筈がないが、エディは賢そうな目で彼を見上げている仔猫にそう声をかけた。

「にゃあ」

 エディに応じたようなその鳴き声は何となくわざとらしい感じがして、彼は眉をひそめて仔猫を見つめ直す。仔猫はそんな彼に構わず、尻尾をピンと立てるとピョンピョンと跳びはねるようにサビエの後を追いかけていく。

「……変な猫」

 ポツリと呟くと、まるでそれが聞こえたかのようにクルリと振り返った金色の目が睨み返してきた。思わずエディが立ち止まると、仔猫はフン、と言わんばかりに鼻づらをまた前に向け、尻尾を揺らして駆けていった。

 エディは一瞬呆気に取られてその場に立ち止まる。坂の上からサビエに呼ばれて、慌てて彼らに合流した。


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