克己
エデストルの城は、広場から南に進んだところにある。
大人の男の胸の辺りまでの高さに整えられた生け垣にぐるりと取り囲まれているその建物は、『城』というよりも『屋敷』と呼んだ方が良いかもしれない。
エデストルの建築物は、様々な大きさに整えられた木材を組み上げるようにして造られていて、トルベスタやシュリータのように上に積み上げることなく、平屋だ。
基本的には木造りで、壁には土が塗り込められている部分もあるが、飛竜が体当たりすれば簡単に穴が開くだろう。
華奢にも見えるそれらに、武骨なヤンはしきりに物珍しそうな眼差しを向けていた。
一同が向かったのは、屋敷の敷地内の最奥の一画だ。
元々城はそびえる切り立った崖を背にしていて、正面以外からは進入できないようになっている。
聖剣が安置されている社は、その崖に殆ど包まれるようにして建てられていた。
白い小石が敷き詰められた前庭には人気が無く、しんと静まり返っている。
「ここに剣があるのか?」
ジャリ、と石を踏み締める音を立てて、百歩もあればその周りをグルリとまわりきってしまうだろう程の大きさの建物を前に、ヤンがエディを振り返った。
「こんな所に剣を置いているのか?」
ヤンは、見張りも付けず、斧の一撃で粉砕できそうな代物の中に聖剣を放置している事が納得いかないらしい。
だが、そもそもここには代々『印』を持つ者以外は立ち入ることができず、王妃のディアンナやフロアールも足を踏み入れたことがない。
「まあ、宝物ってわけじゃないですし、誰も盗みになんて来やしませんしねぇ」
頭を掻きながら答えたのはサビエだ。
「で、本当に行くんですか?」
「行く。さっさと取ってくる」
きっぱりと言い切ったエディに、スクートとサビエが顔を見合わせる。
何か含みがある双子の態度に、トールがいぶかしげに眉根を寄せた。
「何でそんなに心配げなの? 別に、この社がエディを取って食ってしまうってわけでもないんでしょ?」
冗談混じりの隣国の王子の茶々に、二人はまた視線を交わした。それを見て、トールも真面目な顔になる。
「何か、あるんだ?」
と、エデストルに着いてから無言を貫いていたソワレが、不意に口を開く。
「術がかけられているな」
彼の目は聖剣が納められている社に向けられている。
「術?」
気遣わしげな声でその言葉を繰り返したルゥナを見下ろして、ソワレは小さく頷いた。
「ああ。発動していないからどんな術なのかははっきりしないけど……仕掛けられたのはだいぶ前っぽいな。多分、そいつが入ったら何かが始まるんだろう」
肩をすくめたソワレは、いかにも興味なさそうにエディを目で示した。
「何かって――何?」
ルゥナがエディを見つめ、ソワレ以外の皆がそれに倣う。
「……剣を受け継ぐ前に試練がある、とは聞いている」
一同の視線に促されてそう答えたものの、エディ自身も詳しいことは聞かされていなかった。父のレジールは、ヒトの悪い笑みを浮かべながら、「強さを試される」とだけ言っていたのだ。
「試練、って……」
いかにも不安そうなルゥナの眼差しから無理やり自分を引き剥がすようにして、エディは社に顔を向けた。
「まあ、とにかく、行ってくる」
そう残し、それ以上の引き止めは一切聞かんとばかりに歩き出す。
ザクザクと音を立てて小石を踏み締めながら、三段ほどの階段に辿り着いた。それを上って、木製格子の観音開きの扉の前に立つ。
それを開いたことは、まだない。
五つかそこらの時に父に連れられてこの場所に立ったことはあったが、それきりだ。
外から察するに、内部はそれほど広くはないはずだ。
けれど、扉の格子は手を差し込めそうなほどの隙間もあるというのに、中の方が暗い為か、目をすがめて見てもどうなっているのかは全く見て取れない。
エディは小さく息を吸い込み、溜めて、手を上げる。
鍵があるとは聞いていなかった。
ただ、入る資格がある者しか、その扉を開くことはできないのだという。
その『資格』というものが、単なる血筋の問題だけなのか、それとも他に何かがあるのか。
(もしも、自分にその『資格』がなかったら……?)
たとえば、強さとか、覚悟とか、決意とか。
ほんの一瞬、エディの中にはそんな思いが湧いたが、彼は即座にそれを打ち消した。
(俺は、やれる)
胸の内でそう宣言し、手のひらを扉に押し当てる。
腕に力を込める。
扉は――軋み一つ立てず、ほんのわずかな抵抗もなく、するりと開いた。
あまりに軽いその動きにエディは一瞬拍子抜けし、最初から扉など存在していなかったかのように感じてしまう。
(まあ、少なくとも入れてはくれるってわけだ)
胸の中でそう呟きながら履き物を脱いで板張りの床に足を踏み入れたエディは、中ほどまで進む。と、不意に視界が暗転した。
いや、違う。
光がなくなった、だ。
「何だ?」
窓一つないが扉は格子なのだからたとえ閉まっても光は入る筈だ。
眉をひそめてその方向に振り返ると、扉がない。
灯りは一つもないのに暗闇ではなく、壁と床は見て取れた。自分の身体を見下ろせば、細部まで確認できる。
奇妙な空間で、やけに広く感じられた。
エディはグルリと中を見渡す。
そして彼は、眉間に寄せた皺をいっそう深くした。
「剣なんて、無いじゃないか」
思わず、呟く。
真四角の部屋の中には、それらしいものは、何一つない。というよりも、エディしか存在していないのだ。
さて、どうしたものか。
ここから出ようにも、扉は消えてしまった。
(この中で瞑想でもしてろってのか?)
そんな時間はないというのに。
エディは未練がましく扉があった辺りを振り返り、そちらに足を向ける。
刹那。
ゾワリと、首筋の毛が逆立った。
「何だ?」
剣の柄に手をかけ、彼は身を翻す。
何も存在していなかった筈だった――少なくとも、ついさっきまでは。
だが、今は。
何かが、いる。
エディは、目を見開いて一点を凝視した。
部屋の中央、暗がりの中に凝った、黒い塊。
初めは仔犬ほどの大きさだったそれが、みるみる大きくなっていく。エディが目を瞠る前で、あっという間に大人の男ほどの大きさになって立ち上がった。
いや実際に、どこからどう見ても、長衣を頭から被った人間、だ。体格は細身ではあるが、女性でないのは見て取れる。
ほんの少しでも不穏な動きがあれば即座に剣を抜こうと身構えるエディの前で、その――男は、無言のままに両手を上げ、顔の半分まで被さっている布を首の後ろへと追いやった。
そこから現れた顔形に、エディは思わず息を詰める。
「ッ――マギ、王!」
唸るようにその名を呼ばわっても、長衣の男は微動だにしなかった。
だが、たとえエディの呼びかけに応じなくても、彼はどこからどう見ても明らかにマギクの王だ。
頬に刻まれた『印』は暗がりの中でぼんやりと光を放っているよう見える。
マギ王は、淡々とした視線をエディに向けていた。
彼からは、まるで何も感じられない――戦意も、罪悪感も。
さながら等身大の人形のように、静かに佇んでいる。
エディが彼と顔を合わせたのは、もう十年以上前のことだ。どことなく母ディアンナに似たその王は穏やかで、優しげだった。
レジールも猛々しい王ではなかったが、武人らしい『芯』のようなものがあって、マギクの王とは全く違う。魔物との戦いが激化してきた時、エディは、あの王が戦うことなどできるのだろうかとその身を案じたものだ。
――その柔和さも寸分違わず。
今目の前に立つ男は、彼の記憶に残るマギ王そのものだった。
エディはとっさに腰の剣の柄を握り締める。
こいつは、仇だ。
その思いで、目の前が赤くなる。
レジールの、ベリートの、数多くのエデストルの兵士たちの命を奪ったにも等しい男なのだ。
だが――
エディの脳裏に、束の間、懇願するようなルゥナの瞳が閃く。
――マギクは、もう、『敵』ではない。
エデストル領内をうろついていたマギク兵は皆、自ら出頭し、全く抵抗を見せることなく城の牢獄に収容されたと聞いている。
だから、マギ王がここにいるのも、害意があってのことではないのだろう。
実際、目の前に立つ男からは、何かを為そうという覇気は全く伝わってこなかった。
エディは大きく一つ息を吸い、そして吐く。
「父たちの仇を討ちたい」という感情と、「話しをしなければ」という理性が、彼の中でせめぎ合った。ギリギリのところでぎらつく感情をかろうじて押さえつけ、エディは努めて冷静な声を心がける。
「ここで、何をしている――何故、ここに入れたんだ?」
一瞬の、間。
そして、問うたエディに答えを与えようとするかのように、マギの手が上がる。肩の高さまで来て、エディに向けて真っ直ぐに腕が伸ばされる。
それは、どこかで見た動きだった。
(どこで、だ?)
記憶を探った瞬間、エディは横に跳んでいた。直後、彼の腕の外側をかすめるようにして、何かが飛び過ぎていく。そして、その何かは壁に当たり、鈍い音を響かせる。
不可視の、力。
それはソワレと同じものだ。彼がルゥナを奪いに来た時に見せた業だった。
魔力の放出と言ったらいいのか、とにかく、『力』だ。
(マギクは降伏したんじゃなかったのか!?)
「くそ!」
二度、三度と転がりその勢いのまま立ち上がったエディは、剣を抜き放ってマギに向き直る。が、彼が背筋を伸ばすよりも早くマギが腕を薙ぎ払う。何も見えないのにも拘わらず、エディは何かが襲いかかってくるのを直感した。
体勢を整える余裕もなく、エディは矢継ぎ早に放たれる力の塊から身をかわす。そうしながら、彼はふと違和感を覚える。
マギの攻撃は、手数は多いものの、単調だった。
ただただ、エディに向けて力を放つだけ。
彼の動きを読むとか、裏をかこうとか、そういったものが感じられない。
(これじゃ、あの土人形の方が余程なんか『考えて』攻撃してたんじゃないのか?)
怪訝に思いながらもエディは右に一跳びし、着いた右足で床を蹴り、即座に左に跳ぶ。
案の定、マギはその唐突な動きの変化についてこられなかった。
大きく右にずれた魔力の塊を横目で見送りながら、エディは一気に踏み込んだ。
あと一歩と言うところで剣を後ろに引き、マギ王の脇腹から肩口へと払い抜くように斬り付ける。
が。
ガチン、という強い手応え。
「何!?」
エディの刃を止めたのは、マギ王の腕だ。
だがそれは、肉を裂いて骨に届いたという感触ではない。
まるで、岩か鉄の塊に剣を叩き付けたかのようだった。
生まれた、一瞬の隙。
直後エディは無造作に払われた腕に吹き飛ばされる。
「グッ」
背中が壁に打ち付けられた衝撃で、肺から一気に空気が押し出された。床に両手両肘をついて激しく咳き込みながらも、エディは涙の滲む目を上げる。
揺らぐ彼の視界の中で、何故かマギ王は攻撃の手を止め、ぼんやりと佇んでいた。
(何をしたいんだ、いったい?)
息を整え、口元を拭うと、エディは再び剣の柄を握る手に力を込める。
と、マギも動いた。ゆっくりと手が上がり、再びエディに向けられる。
いずれにせよ、マギは戦うつもりなのだ。それは明白な事実だった。
「だったら、ぶちのめしてから話を聞きゃいいんだよな」
もう、知るか。
エディの中からなけなしの『理性』が消え去る。
とにかく今はこのマギ王を倒し、強さを証明し、そして一刻も早く聖剣を手に入れるのだ。
そう決意したエディが柄を握り直した途端、まるで彼の意気込みが伝わったかのようにマギが動く。
先ほどよりも更に明確な意志を持って間断なく放たれる魔力の塊。
わずかな隙もなく向けられる攻撃に、エディは一歩たりともマギ王との距離を縮められない。
右に左にそれらをかわしながら、エディは願い、乞う。
もっと速く動ける脚を。
見切れる目を。
奴に一太刀を浴びせられる腕を。
マギの攻撃をかわす度、エディは、強く願った。
強く、強く。
速く、速く。
次第に、彼の額が熱を帯びる。
だが、エディはそれに気付いていなかった。
頭ではなく心で、ひたすらに欲する。
――『力』を。
額は、すでに燃えているようだった。
(俺は、力が欲しいんだ!)
全てをしのぎ――守るべきものを守れるだけの、力を。
刹那、額の熱が膨らみ全身に迸る。
その時、エディは、自分の身体が一瞬宙に浮いたような気がした。
次の瞬間、目の前にマギ王が現れる。
マギに距離を詰められた――いや、違う。
エディが、マギとの距離を縮めたのだ。瞬きひとつの間に。
何が起きたのかは、二の次だった。
エディはとっさに剣を振り上げマギの肩口に斬り付ける。が、それはあっけなく彼の腕に跳ね返された。
一瞬の間も置かず、手首を返すようにしてもう一度、剣を繰り出す。
同じだ。
腕に何か魔法のかかった防具でもつけているのか、このままではらちが明かない。
(どうする?)
ほんの一瞬エディの腕が鈍った隙を突いて、マギが手をかざす。目には見えなくとも、エディにはそこに力が凝るのが感じられた。
彼はためらいなく身を屈め、左足を軸にして右足でマギの足を薙ぐ。そうして、屈めた勢いでそのまま跳び上がる。
まるで羽が生えたかのように、身体が軽い。
ヒュン、と空気を切り裂く音を立て、体勢を崩し上体をぐらつかせたマギのこめかみに、グルリと回した右足を思い切り叩き込んだ。
確かな手ごたえ。
マギ王の長身が、もんどりうって倒れる。
すかさずエディは左右に広げられた彼の両腕を踏み付け、逆手に持った剣の切っ先をその喉元に突き付ける。
エディの手には、マギの腕に斬り付けた時とは違う、鋭い先端が柔らかな肉に食い込む感触が伝わってきた。
もう少し力を込めれば、体重をかけて押し込めば、マギの命は奪える――父の、ベリートの、皆の仇が、取れる。
ほんの少しの力で、いとも簡単に、何ヶ月もの間頭に思い描いてきたことが実現するのだ。
エディは柄を両手で握り締める。指の節が白くなるほどに、強く。
中途半端な位置で止めた腕に、震えが走る。
己の定めを悟ったのか、彼を見上げてくるマギの眼差しは静謐な光を宿していた。抵抗しようとすればできるだろうに、まるで、命を奪われることを待っているかのように、淡々としている。
エディの腕が、また少し下がる。
多分、もう、薄い皮膚は刃で裂かれているだろう。
エディは、水鏡のようなマギの淡い水色の目を睨み据える。
そうしながら、自問する。
(俺は、これを望んでいるのか? 俺がすべきことは……これなのか?)
聖剣を手に入れる為の、強さを示す試練。
(この男の命の奪うことで、それが成し遂げられるのか?)
エディは軋むほどに奥歯を噛み締める。
この刃を突き立ててしまいたい衝動と、本当にそれでいいのかと囁く理性。
(俺は、どうするべきなんだ!?)
と、エディのその問いに答えるかのように。
――呵責なく奪えることが、強いということなのかな。
不意に、少女の声が脳裏によみがえる。
全てを赦す、少女の声が。
誰よりもか弱いのに、実は誰よりも強いのではないかと思ってしまう、少女の声が。
癒しと安らぎをもたらす夜の空を映した瞳が、悲しげに煌めいた。
エディはきつく目を閉じ、また開ける。
猛る思いのままに奪うことは、容易い。
だが。
マギの眼差しは、ピクリとも動かない。静かな目で、ジッと彼を見返してくる。
ふと、本当に、鏡のようだとエディは思った。
やっぱり、彼には『強さ』が何なのかは判らないままだ。
何を持って『強さ』の証明となるのか判らないけれど、少なくとも、この場を血まみれにすることではないような気がした。
エディは小さく息をついて剣を引き、鞘に納める。
そうして、仰向けになったままの『仇』の目を、見下ろした。
どれほどの時間、そうしていたことか。
エディはマギの腕から足を下ろし、片手を彼に差し伸べる。
「立ってくれ、マギ王。外に他の連中がいる。あんたに会えたら喜ぶ子もいるんだ」
無礼であることは承知の上で、エディは強張った口調でそう言った。
マギ王は、自分に向けて伸ばされている手をまじまじと見つめている。
「……俺は他にやることがあるんだ。さっさと起きてくれないか?」
ムスッとした声で、エディはもう一度促す。
と、不意に。
マギが微笑んだ。
「え?」
思わずエディは強く目をこする。
何故なら、マギの微笑みが、一瞬、父の――レジールのそれに見えたから。
まつ毛が抜け落ちそうなほど手の甲を目にこすり付けたエディは、眉間にしわを寄せながら再び目蓋を開ける。
が。
「は!?」
とっさに背後を振り返ったが、誰もいない。そして、消えていた格子扉が、ある。
前に目を戻せば、マギ王が倒れていた場所にあるのは、一振りの細身の剣だった。
「どういうことだ?」
訳が解からないままエディはその場にしゃがみこみ、まじまじと剣を見つめる。
その柄と鞘に刻まれている精緻な文様は、トールの持つ聖弓やヤンの聖斧と同じだった。
「聖剣……?」
つまり今まで戦っていたマギは幻で、どうやらこの剣は幻ではないらしい。
「取って、いいんだよな?」
呟きながら柄を握れば、しっくりと手に納まる。まるで、幼い頃からずっと握り締めてきたかのようだった。
鞘から刀身を抜いて、軽く振ってみる。
それは驚くほど軽いのに、しっかりと空気を切り裂いた。
もう一度剣を鞘に収めながら、エディは眉根をギュッと寄せる。
結局、試練とは何だったのだろう。
何を持って『成し遂げた』とされたのだろう。
「……わっかんねぇ……」
思わずぼやく。
スクートやサビエに訊いたら、答えをくれるだろうか。
あるいはいつか――自分に子どもができてこの聖剣を引き継ぐようなことがあれば、その頃には判っているのだろうか。
「まあ、今は今の問題を片付けないとな」
エディは疑問を振り払うように、頭を一つ振るう。
とにかく、目的の物は手に入ったのだ。
エディは今一度両手で聖剣を頭上に捧げ持ち、瞑目する。
「俺は俺の為すべきことをする」
そう自らに告げ、皆が待つ場へと向かった。