決裂
ソワレはルゥナから目を逸らし、何もない地面をジッと見つめている。そんなふうに打ちひしがれている彼を見るのは、初めてだった。
いつもソワレは泰然としていて、落ち込んだところもつらそうなところも――少しでもルゥナが不安になるようなところは、決して見せなかった。
「ソワ……」
ソワレに慰撫の声をかけようとして、ルゥナはハタとエディたちのことを思い出す。
彼らは、まだ戦い続けていた。
唯一無二の弟のことも気になるけれど、まずはエディたちのことを何とかしないと。
ルゥナはソワレの腕を掴んだ手に力を込める。尖った鱗が手のひらに食い込んでもそのまま握り続けた。
「ソワレ、エディたちを戦わせるのをやめて」
ソワレは動かない。
「ね、お願い。エディは、最初にわたしのことを助けてくれたの。それからずっと一緒に旅をして、優しくしてくれたんだよ。ピシカに起こされて、初めて会ったのがエディたちだったの。それからずっと助けてもらった――色んな意味で」
沈黙。
「ソワレ、お願い」
ルゥナは、頭一つ半分高い位置にあるソワレの目をジッと見上げた。視線が合わなくても、見つめ続ける。
そして、小さなため息がルゥナの前髪をくすぐった。
彼はルゥナと目を合わせないまま彼女の手を右腕からそっとどかすと、投げやりな様子で何かを払うようにそれを振る。
と、ピタリとエディたちの動きが止まった。
ルゥナが見守る中で彼らはキョロキョロと周囲を見回している。
ソワレの陰から覗くようにしてルゥナがその様子を見つめていると、エディの目が彼女たちの方に向けられた。
ピタリとその動きが止まる。
と思ったら、ものすごい勢いで駆けてきた。
「お前!」
エディの怒声。
その声の激しさに、思わずルゥナはビクリと肩をすくませた。そんな彼女が目に入っていないのか、エディは地面を蹴って跳躍すると、剣を振り上げソワレに切りかかってくる。
「ルゥナを返せ!」
「愚か者が」
呟きと共にソワレは片腕でルゥナを抱え込み、もう片方の腕でエディの剣を受け止めた。そしてそのまま跳ね飛ばす。
「チッ」
ソワレにきつく抱き締められたルゥナの耳に、エディの小さな舌打ちが聞こえた。彼はクルリと身軽く空中でトンボを切って、大地に叩き付けられるのを回避する。まだ小柄な身体は土煙を立てながら地面を滑った。その速度を相殺しきれないうちにエディは身を起こし、一瞬の躊躇もなくまたソワレに向かってくる。
「ルゥナはどこだ!?」
ソワレの身体にすっぽりと包まれているルゥナの姿が、エディには見えていないらしい。猛り立った鎧猪のようにがむしゃらに突進してくる。
ルゥナはソワレの長衣を掻き分け、大きな身体の陰から何とか頭を覗かせた。
「エディ、エディ、待って!」
「ルゥナ!?」
一歩を踏み込み身体を捻り、ソワレの胴――まさにルゥナの顔があるその場所目がけて斬り付けようとしていたエディは、のけ反るようにしてその腕を止める。
がら隙になったエディに向けて、ソワレが腕を薙ぐ。それがかすってもいないのに、エディの身体は吹き飛ばされ、今度はもんどりうって地面に叩き付けられた。
「エディ!」
彼の元へ駆け寄ろうとしても、ソワレの強い腕はびくともしない。
派手に飛ばされたにもかかわらず大きな怪我はなかったようで、ルゥナの心配をよそにエディはすぐさま起き上がった。
「貴様、ルゥナを放せ!」
吠えるエディに、ソワレはしっかりとルゥナを抱え込んだままゆっくりと向き直る。
「お前たちにルゥナは渡さない。お前たちはルゥナ一人に全てを負わせようとしているんだろう? そんなことはさせるものか」
冷ややかな声だった。背中から包み込むように抱き締められているルゥナには確認できないけれど、きっと、その目も同じように冷たいのだろう。
振り返って取り成そうとしたルゥナだったけれど、ピシャリと返してきたエディの声に、動きが止まる。
「ああ、そんなことはさせない」
「え?」
訝しむ声は、ソワレとルゥナの両方の口から漏れた。
「ピシカに全部聞いた。ルゥナを千年も眠らせるなんて、させるもんか」
「でも、邪神が――」
しどろもどろで返そうとしたルゥナを、キッとエディが睨み付ける。
「でももくそもない。させないと言ったらさせないんだ」
ルゥナを捉えているソワレの腕の力が緩んだのは、彼もエディの言葉に呆気に取られているからだろうか。
いつの間にかヤンやトールたちも近付いてきていて、ルゥナは戸惑い混じりの目を彼らに向ける。
彼らの『印』は邪神封じのためにある。その為に、何世代にも渡って神器も引き継いで。
彼らにとって、それが一番重要なことのはず。
そして、邪神を封じるにはルゥナの中に閉じ込めるしかなくて――
それが、ルゥナの存在意義だと言ってもいいくらいだ。
ルゥナの眼差しでの問いかけに、ヤンは肩をすくめ、トールはニッコリと笑い返してきた。それが何を意味しているのかが判らない。まさか、エディと同じ考えというわけではないだろう。
またエディに目を戻すと、怒ったような声で彼は言った。
「本当に、邪神ってやつを君の中に封じ込める以外の道はないのか?」
「え……」
「他に、方法はないのか?」
「ピシカは――」
ルゥナは口ごもった。そんな彼女にエディは手を伸ばし、両方の二の腕を掴んでくる。痛いくらいの力に思わずビクリと肩が跳ねた。エディは少し眉をしかめて力を緩めると、真剣な眼差しでルゥナの目を覗き込んでくる。
「アイツの言うことじゃない。ちゃんと他に手が無いのか、探してみたのか? 君も、昔の『英雄』たちも。考えに考え抜いて、それでも他に方法がなかったのか?」
「それは、わたし、は」
「考えもしなかったんだ。そうだろ?」
容赦なく詰め寄られ、どうしようもなくルゥナはうつむいた。つむじの辺りに、エディの視線を感じる。
かつて、まだイシュラにいた頃、そこで生じた奇妙な病の原因が邪神であることを、ある日突然現れたピシカから教えられた――そして、邪神を放っておけば、いずれ世界が滅びてしまうということを。
世界を守るためには、ルゥナの身に邪神を封じなければならない。
選択を委ねられ、ルゥナは良く考えた末に決めたはずだった。
ピシカに言われたこと、それを受け入れるか、拒否するか。
ルゥナにとっての選択肢はその二つだけで、『他に』なんて、考えようともしなかった。
今エディに問われるまで、頭の片隅にすら浮かばなかった。
(わたしは、何か間違えてたの?)
エディに腕を掴まれたまま、顔だけで振り返ると、ジッと見下ろしてくるソワレの眼差しがある。見た目は変わってしまっていても、そこにある光は昔と同じ、ルゥナを優しく包み込んでくれる。そこには、前にはなかった――彼女が気付いていなかった、悲しげな色もにじんでいた。
前を向いたらかつてのソワレとよく似たエディの真っ青な目が、その向こうからはヤンやトールが彼女を見つめている。
エディは少し身体を屈めてルゥナの目を覗き込んでくる。
「今すぐ全部がどうにかなっちまうってわけじゃないんだろ? だったら、他に何か手が無いか、探そう」
「だけど、魔物が……わたしが邪神を封じたら、そうしたらもうだいじょうぶになるんだよ?」
「全然、まったく、これっぽっちも『ダイジョウブ』なんかじゃない! どこがだよ!?」
エディは、怒っていた。
それは火を見るよりも明らかだ。
けれど、何故、彼が怒っているのかが解からない。
「でも、だって、新しい魔物はもう生まれなくなるし……みんな、何事もなく、何も変わらず暮らしていけるようになるでしょう? 全部、元通りで……」
何がいけないのか解からないまま、ルゥナは答えた。彼女にとっては、その選択が最善の道だと思われたのだ。
また、ルゥナの腕を掴んでいるエディの手にギュッと力がこもる。その強さに息を呑むと、彼はようやくその手を放して身体の両脇に下ろした。ルゥナから目を逸らして地面を睨み付けているエディの両手は、関節が白く見えるほどの硬い握り拳になっている。
「君は」
唸るような声。
それは低く過ぎて、ルゥナは聞きこぼしそうになった。
「え?」
眉をひそめてエディを見つめると、彼はギッと睨み返してきた。
「君は、どうなんだ? それでいいのか?」
やっぱり、怒っている。どこからどう見ても、怒っている。
ルゥナはおろおろと同じ台詞を繰り返すしかない。
「だって、エディだって、その方がいいでしょう? 邪神を何とかしないと、困るでしょう? みんなが良ければ、わたしは……」
「俺は良くない」
「え……」
「俺は、全然良くない。俺は嫌だ」
きっぱりと全否定を返されて言葉を失ったルゥナに、彼は目で彼女の背後に立つ者を示す。
「君の後ろにいるその弟だって、納得してないんだろ? だから、こうやって邪魔してくるんだ」
エディに言われて、ルゥナは反射的にソワレの顔を見上げた。心の内を見せない双子の弟は、エディの台詞を肯定も否定もしない。けれど、彼の行動は何よりも雄弁にその胸中を物語っているのだ。
エディは続ける。
「我が身を挺して世界を救うとか、君はそれでいいのかもしれないけど、俺は――そうやって君を犠牲にして救われた者は、いったいどう感じると思うんだ? 君と出会って、君のことを知って、君のことを――好きになった者が、どう感じると思う?」
「『犠牲』、なんて、そんなこと……」
エディの容赦のない切り込みに、ルゥナの声は口の中で消えていく。
彼の口調は、ルゥナのことを責めていると言ってもいいほどのものだった。
絶句し、ただただエディを見つめ返すことしかできないルゥナに、苛立ちで強張っていたエディの口元が少し和らぐ。そして、それまで彼の眼差しと声の中に満ち満ちていた怒りが、他の何かに取って代わられた。
「……俺は、悔やむ。君がしようとしていることが、一番確実で、唯一の道なのかもしれないけど、でも、このまま黙って君にそうさせたら、多分、俺はずっと後悔する。もっと他に何かできたんじゃないかって、他の方法があったんじゃないかって、死ぬまで考え続けて死ぬまで悔やむ」
苦しげに、唸るようにそう告げたエディに、ルゥナの胸は強い力で握り潰されたかのように痛んだ。
彼が露わにしているその苦しさは、さっきのソワレの告白の中にも溢れていたものと同じだ。
(正しいと、思っていたのに)
ルゥナには、判らなくなった。
みんなを守れると思っていたのに、最善の方法だと信じていたことだったのに、それが大事に想う人をこんなにも苦しめていたなんて。
(なんで? 何が違うの?)
百五十年前の『印』持ちたちがルゥナに向けたのは、感謝の言葉だけだった。
こんなふうに引き止めようとした者は、いなかった――ソワレ以外は。
「なあ」
うつむいていたルゥナは、のろのろと顔を上げる。なんだか、頭がうまく働いていない感じだった。
顔に続いて目を上げると、真剣な光を宿したエディの真っ青な目が向けられていた。
「君は、俺――たちと一緒に生きていけなくなることを、何とも思わないのか?」
「え?」
「ずっと眠ったままにしろ、目覚めたままにしろ、君は俺たちと同じ時を過ごせなくなるんだろ? 君だけが、全てから取り残されていくんだ。それでいいのか?」
ずきんと、ルゥナの胸が貫かれた。
それは、この時代に目覚めてからずっとルゥナの胸の奥でくすぶっていた不安だった。
いいわけがない。
ルゥナはまたうつむいて、唇を噛み締める。
エディたちと出逢ってから、ルゥナは幸せだった。
エディやフロアールたちと一緒に過ごして、自然に笑顔を向けられて、ルゥナは一人のただの少女としてこの世界に受け入れられていると、実感できていた。
それは、ソワレと二人きりでイシュラ中をさまよっていた時には得られなかったものだ。
永い眠りに就く前に共に旅をしていた、かつてのエデストルたちから感謝の眼差しを注がれている時にも、感じたことのなかったものだ。
エディやフロアールやトール……彼らと、一緒に生きていきたい。再び戻ってきてくれたソワレも共に。
そうできたら、どんなにいいだろう。
けれど。
――無理だ。
他の道なんて、ない。
(だって、ピシカはそう言ったもの)
無意識のうちに、ルゥナの目がその薄紅色の小さな身体を探す。
彼女は、少し離れた場所で前足を揃えて座っていた。いつものように、どこか小ばかにしたような輝きを金色の目に宿して。
ルゥナと目が合って、ピシカがパタリと尻尾を揺らす。
「で? 話は終わったかしら?」
退屈そうな声でそう言ってわざとらしく欠伸をして見せる仔猫に、その場の皆の視線が集まる。
突き刺さるような鋭い眼差しが集中しても、ピシカはどこ吹く風という風情だった。
「お前――」
苛立ちを隠さずエディが一歩踏み出すと、彼女は立ち上がってブルリと身体を震わせた。
「言っとくけど、他に手なんかないからね。ここに来るまでにいくつもの世界を潰してきたんだもの。どこもみんな、為す術なく滅びていったわ」
「え? いくつもの、世界……?」
戸惑いに目を瞬かせながらルゥナが繰り返すと、ピシカはフンと鼻を鳴らした。
「何よ。まさか、アタシたちがある日突然この世界にわいて出たと思ってたわけじゃないでしょ? もちろん、ここじゃない他の世界から来たのよ」
もちろん、と言われても、ルゥナにはピンとこない。
「他の世界って――海の向こう……?」
「バカね、違うわ。海の向こうでも空の向こうでもない、まったく別の場所。この世界には存在しない、アンタたちは存在することすら知らないトコロ。まあ、でも、他の島くらいな感じで考えてたら解かり易いんじゃないの?」
投げやりな口調は、ちゃんと説明する気がないからなのだろう。ピシカはツンと鼻先を上げる。
「とにかくね、この世界ほど『もった』ところはなかったのよ。これまでの世界は、あっという間に駄目になっちゃったから。元々、頑丈な世界なんだわ、ここは。これでアンタの中に封じれば、まず間違いなくアイツを制御できる筈なのよ」
有無を言わさない口調で断言する。だが、それにエディが食ってかかった。
「他の世界って――なんで『ここ』なんだよ! ここで生まれたもんじゃないのに、なんで俺たちがそれを被らなきゃいけないんだ? なんでルゥナが全部引っ被らなきゃならないんだよ!? 自分たちの世界に戻ればいいだろ! そもそもルゥナがやらなきゃいけないことじゃないじゃないか!」
「だって、『今』は、この世界の問題でしょ?」
「黙れ!」
咆哮と共に、エディが剣の柄を握り締めた。と、それまで無言を通してきた者たちも動く。
「確かに、僕たちには関係ないことだよねぇ。なんか、理不尽」
「まあ、はいどうぞとルゥナを差し出す気にはなれないな」
武器を携えたトールとヤンが、ピシカの視線を遮るようにルゥナたちの前に歩み出た。
「……ルゥナの中に邪神を封じる他に、この世界を救う方法はないのよ?」
彼女らしからぬ抑えた低い声で、ピシカが言う。
「その子を、その子一人を差し出せば、アンタたちは安泰なのよ? それでいいんじゃないの?」
「いいわけあるか! ルゥナ一人に全部負わせてのうのうとしてろってのか!? そんなことできない――できるはずがないだろ!」
エディの怒号が消えるとそれ以上言葉を発する者はなく、辺りはシンと静まり返った。さやさやと風が梢を揺らす音が妙に穏やかで、場違いな感じだった。
ピシカは身じろぎ一つ――ひげを震わせることすらしない。
エディたちも、武器を構えたまま微動だにしない。
やがて。
「アンタたちは、もうどうでもいいわ」
「ピシカ……」
平坦な、呟くようなその声に胸が騒いで、ルゥナはヤンとトールの間から前に進み出る。
ピシカはこちらを見てはいなかった。少しうつむいたその姿は、いつもよりも小さく見える。
「ピシカ、あの――」
どんな言葉をかけたらいいのかも判らないまま呼びかけ、口ごもる。伸ばした手を止め、胸元で握り締めた。
邪神のことでどんな背景があるとしても、ピシカがずっとルゥナの傍にいてくれたことには変わりがない。厳しいことを言われてばかりだったけれど、この世界で孤独を覚えた時、ただいてくれるだけでかけがえのない支えになってくれていたのだ。
それに、理由はどうあれ、ピシカだってたった独りでこの世界を救おうとしてくれている。
そんな彼女を、簡単には突き放せない。
「ピシカ、わたし、は」
また一歩踏み出したルゥナの肩を、強い力が引き止める。肩にあるのは鋭い爪が生えた異形の手で、振り返ると、紅い瞳が言葉よりも雄弁に「行くな」と告げていた。
「ルゥナ」
キンとした声で、名を、呼ばれる。
ルゥナはまた薄紅色の小さな姿に目を戻した。鋭い光を放つ金色の眼差しが、彼女を射抜く。
どうしたらいいのか、判らなかった。
「なんで、今さら迷うのよ?」
その中に責める響きはない。けれど、その問いを投げかけられて、ルゥナの胸はキリキリと締め付けられた。
答えられないルゥナに、ピシカが小さなため息を漏らす。いや、ため息とは少し違うかもしれない。
「そう」
短いその一言と共に、唐突に辺りの空気が重みを増した。
「いいわ」
ピシカの小さな身体からブワリと薄紅色の雲霞が噴き上げ、彼女を覆い隠す。それは皆が見守る中でみるみる膨らんでいく。巻き起こる風がルゥナの髪を乱し、長衣をはためかせた。
「何だ?」
隣でエディが小さく呟くのが聞こえたけれど、ルゥナには何も答えられない。長くピシカと一緒に過ごしてきた彼女も、初めて目にする現象だった。
それは一時ヤンよりも大きいくらいまでに膨らんで、やがて明確な形を取り始める。
その中心に見え始めた姿に、ルゥナは目をみはった。
「あれ、は……」
絶句した彼女の後を、エディが引き継ぐ。
「君、だ」
短い彼の言葉に頷くこともできず、ルゥナはただその存在を見つめる――薄紅色の髪と金色の瞳の、彼女と同じカタチをしたモノを。
「ピシカ、なの……?」
言わずもがなのことだった。
ピシカと同じ色を持つ少女は、肩にかかった髪を片手で払いのけながら小ばかにしたように首をかしげる。
「他の誰だって言うのよ?」
言い方も、声も、確かにピシカだった。
ルゥナと同じカタチ、けれど色もそこに潜む光も違う、その目で、ピシカは一同をねめつける。
「もう、こいつらはどうでもいいわ」
そう言って、片手を差し伸べた――ソワレへと。
と、彼の懐から漆黒の何かが飛び出した。
「!」
とっさにソワレが手を伸ばして捕まえようとしたけれども、わずかに間に合わない。それは真っ直ぐにピシカの元に向かい、広げられた彼女の手のひらの上でピタリと止まるとストンとそこに落ちた。
白いピシカの手の上で異様な輝きを放つ闇の珠。
「邪神……」
思わず呟いたルゥナの声に、ヤンが反応する。
「本当に、あれが? 何かの魔晶球、ではないのか?」
「僕があの中に封じたんだ」
ギリギリと牙を鳴らしながら、ソワレが答えた。
「お前が? そんなことができるのか?」
「したんだ」
半信半疑のヤンに唸るように返したソワレが、ルゥナの肩を抱いて引き寄せた。決して放すまいと言わんばかりのその腕が、ルゥナの身体に回される。
ピシカは感情のない金色の目をソワレに庇われているルゥナに向けると、小さく首をかしげた。
「ねえ、アンタはこの世界を救うんでしょう?」
「あ……」
「アタシと、約束したわよね?」
強く迫る声ではない。淡々と、確認してくるだけだ。
けれど、ルゥナはピシカの眼差しとその声に縛られているように感じられる。
息を呑んだルゥナをよそに、ピシカは手の中の珠をしげしげと見つめた。
「『印』持ちは、こいつをこの状態にする為に必要だっただけ。どうやったのか知らないけど、手間を省いてくれたわ。たいしたもんよ、ソワレ。感心したわ。お陰で、『印』持ちも神器も用なし。後はこれをアンタの中に埋め込めばいいのよ」
言いながら、ピシカは闇の珠を持たない方の手を、ルゥナに向けて差し伸べる。
「ほら、来なさいよ。アタシと約束したでしょう? この世界を救うんだって」
優しげにすら聞こえる誘いに、ルゥナはふらりと歩き出しそうになる。グッと力が込められたソワレの腕に、引き止められた。
見上げると、ソワレが黙ってかぶりを振る。
「ピシカ、わたし――」
どうすればいいのか、判らない。
世界の為には、ピシカと行くのが正しい。
けれど、大事に想う人たちの為には、どうなのだろう。
唇を噛んでうつむいたルゥナの耳に、ピシカの声が届く。
「そう、迷っているのね」
そこに何かの感情が込められている気がして、ルゥナは弾かれたように顔を上げた。彼女に向けられているピシカの表情は冷ややかなままだ。けれど、その目の中には狂おしいほどの何かが見え隠れしている。
その外見だけは淡々とした風情のまま、ピシカは肩をすくめるようにして首をかしげる。
「じゃあ、迷わないで済むようにしてあげる」
刹那、少女の姿は消え失せた。