聖槍
「貴女は聖槍の遣い手か」
白馬を軽く叩いて離れるように指示しているシュウに、ソワレが目をすがめる。
「そういう貴公は魔物どもの大将か? だいぶ派手にやらかしてくれているな」
彼女の緑眼が倒れ伏す兵士達を一巡し、最後に壁にもたれているルジャニカで止まった。スッとその眼差しが冷ややかになり、そのままソワレに向けられた。
「取り敢えず、お嬢さんを放してもらおうか。ルゥナが是非とも君と行きたいと言っているなら別だが、とてもではないがそうは見えないからな」
揶揄する口調でそう言ったシュウに、ソワレはルゥナにも聞こえてくるほどきつく奥歯を噛み締めた。
「ルゥナは僕と来る。お前たちには任せていられない」
「へぇ……ルゥナ?」
シュウは目顔で彼女に意志を確認してくる。
ルゥナは胸元でキュッと手を握り締め、彼女を見つめているソワレを見返し、そして首を振った。
「わたしは、エディたちと邪神を封じるんだよ。わたしの力で」
「ルゥナ」
低い声が突き刺さるようだ。昔のルゥナなら、ソワレにそんな声を出されたら気が萎えてしまっていたかもしれない。けれど、今の彼女は違う。ルゥナはソワレから逃れようと、彼の胸に手を突っ張った。
「わたしは、ソワレとは行かない。絶対。わたしを助ける為にでも、こんなふうにみんなを傷付けるのは、いや」
きっぱりとそう告げたルゥナに、ソワレの目から感情が消えた。表情からも、懇願するような宥めるような色が拭い去られる。
「ソワレ……?」
大事な大事な弟を傷付けてしまった。ずっと、彼女のことを守って大事にしてくれた弟を。
その事実に、ルゥナの胸が、ツキンと痛む。
「ソワ――」
心が揺らいだルゥナは、思わずかつての柔らかな丸みが削げ落ちた頬に手を伸ばしてしまいそうになる。が、彼女の指先がピクリと動いたその時、薄紅色の小さな塊が飛び込んできた。
「チッ」
ソワレの小さな舌打ち。
彼の右腕には、薄紅色の仔猫が――ピシカが、しがみついていた。
「は、な、し、な、さ、い、よ!」
唸りを上げて噛み付いてくる彼女を、ソワレはぞんざいに振り払う。そこに小さな身体に対する斟酌は微塵もなかった。
いとも簡単に硬い床に叩き付けられたピシカは、けれど、全く堪えた様子もなくクルリと立ち上がる。
「無駄よ――」
言い放ち、再びルゥナたちの元へ来ようとしたピシカに向けて、間髪を入れずにソワレは不可視の力を放った。
「あぅッ」
ピシカは再び吹き飛ばされ、クタリとなる。今度は、起き上がってはこなかった。
「ソワレ、ひどいよ……!」
あまりに容赦のないやり様に、ルゥナの声には非難が滲んだ。
昔の彼もルゥナ以外には冷たかったけれど、ここまでではなかった。
ソワレは呼吸数回分の間彼を睨み付けているルゥナを見つめていたけれど、やがて無言で彼女を更に高く持ち上げた。そうして巨鳥の背に乗せてしまう。
束の間彼の手が離れ、すかさず、ルゥナはそこから降りようとした。
が。
「動くな」
たった一言。ただそれだけで、彼女の身体はピシリと固まる。
「ソワレ……」
「君はそこでジッとしていて。すぐに片づけてしまうから」
「ダメ、ソワレ、シュウを――みんなを傷付けないで」
ルゥナは、彼に乞う。しかし、それは逆効果だったようだ。
彼女のその願いに、ソワレが身にまとう空気が一層冷ややかなものになる。
「君は、随分彼らに思い入れができてしまったようだね。まったく……どんな相手にもすぐに気を許してしまうのは、良くないよ?」
言いながら、手をルゥナの頬に伸ばしてくる。だが、その指先に伸びている鋭利な爪が彼女の肌に届く前に、ギュッとそれを握り込んだ。
「……おとなしくしているんだよ?」
そう残し、ソワレはルゥナに背を向けてしまう。
「ソワレ!」
唯一自由になるその口で名前を呼んだけれど、彼は振り向こうともしなかった。背中で彼女の懇願を拒んで、シュウと対峙する。
ようやくソワレの意識を向けられたシュウは、やれやれと言わんばかりに肩をすくめた。
「やっと私を思い出してくれたかな?」
「……少し苛々してるんだよね。手加減できないかもしれない」
「その必要はないさ」
ソワレに向かい合うシュウもまた、不敵な笑みを浮かべ、無造作に聖槍を提げた。
どちらも声を発することなく互いを窺っている。
ピンと張りつめた空気。
新たに駆けつけたシュリータの兵士たちも、主と敵の頭領との間に凡人が割り込む余地がないのを察し、遠巻きにして二人を見守っている。
長い沈黙ではなかった。
先に破ったのは、ソワレの方だ。
それが攻撃の手だとは、その場の誰も思わなかったに違いない。彼は声も無く右手を掲げ、そして斜めに薙ぐようにして振り下ろす。
ただそれだけの動きだったのに、そこから凶悪なほどの威力を持つ何かが発せられたのがルゥナには判った。
さっき、ルジャニカや兵士達を薙ぎ倒したものと、同じだ。
炎や風ではない――多分、純粋な魔力。
ソワレにはそんな力はなかった筈なのに、この百五十年という月日は、彼を姿かたちだけでなく内に秘めるものも変えてしまったのだ。
さっきは彼を中心にして放射状に放たれた力が、今はシュウだけに向けられている。
「ダメ、避けて!」
まともに喰らってしまったら、ただでは済まない。
叫んだルゥナに、しかし、シュウは涼やかに微笑み、その微笑みと共に槍をかざす。
瞑目。
そして、刹那そこに現れたのは、光り輝く壁。
バシン、と、何かが弾ける音――いや、気配が空気を震わせた。
シュウは平然とした顔で、変わらずそこに佇んでいる。
「そう言えば、槍はそういう力だったっけ」
わずかな沈黙の後、つまらなそうな声でそう言ったのは、ソワレだ。
「ふうん……君は神器のことを良く知っていそうだな」
槍を振って光壁を消し去ったシュウが眉を上げる。ソワレは彼女に肩をすくめて返しただけだった。
「まあ、取り敢えず、君のその妙な力は私の槍の力で防げるらしい」
「シュウ、わかっていたんじゃないの!?」
彼女の余裕な素振りは、明らかな確信があったように見えたのに。
ルゥナの声に、シュウはニッコリと笑った。やっぱり、余裕に満ち満ちている。
「まあ、聖槍の力はどうだかわからなかったがな、自分の力は信じている」
その根拠は? とルゥナはシュウに尋ねたくなったけれど、やめておいた。代わりに小さく笑ってしまう。
「ふふ、やっぱり君は笑っている方が可愛い」
こんな状況なのに、緊張感の欠片もない。ルゥナは、笑みを深くせずにはいられなかった。
そんな二人に、ソワレが苛々と割って入る。言葉ではなく、行動で。
流れるような動きで鋭い爪を振り上げ一気に二人の距離を詰めた彼に、シュウはすかさず反応する。
ギィン、と耳障りな音。
シュウを切り裂こうとしたソワレの爪は、聖槍の刃で受け止められた。
間髪を入れず再び彼女を襲う爪をかわし、シュウは槍を繰り出す。
軽やかで、速く、鋭い。
彼女の動きは、ルジャニカのものとよく似ていた。けれど、その切れが段違いであることは、戦いを目にしたことのないルゥナにもはっきりと判った。
刃の煌めきは流星のように残像だけを残して次々とソワレに襲い掛かる。
しかしソワレもまた、それを紙一重でかわし続け、槍の動きを縫うようにしてシュウの身体をその爪で切り裂こうとする。
どちらも、まったく無駄のない動きだった。
まるで示し合わせたように、ある意味息が合っている。
どちらもほんの一瞬も息をつく間も与えず攻撃一辺倒なのに、互いの得物は相手の肌をかすりもしない。
鋭い動きが空気を裂く音ばかり。
と、不意に槍がまた輝きを放った。
直後、ソワレの目前に再び現れた壁は、まるで陽炎のように彼を突き抜ける。
「おや、これは利かないのか」
意外そうにポソリとそうこぼしながらも即座に翻した槍でソワレを薙ぎ払ったシュウが首をかしげる。
「投石器で放った岩も、弾き返せるのだけれどもな、この壁は。確か、『印』を持つ者には、神器の力が効かないのだったか――ということは、つまり、君は『印』持ちということになる」
シュウの攻撃を避けてソワレが跳び退ったところで、彼女はそう独りごちた。
「随分とルゥナと親しそうだし……益々、君の素性が気になってきたな」
シュウの呟きはルゥナの耳にも届いて、戦いの真っ最中だというのにそんな余計なことに気を回していいのだろうかと、その呑気さに半分呆れ、その余裕に半分ホッとする。
けれど、そんなシュウの態度と台詞は、いっそうソワレの神経を逆撫でしたようだった。
「お前たちと一緒にするな。僕はルゥナを護る為だけに『印』を刻んだんだ。邪神なんか、知ったことか」
吐き捨てるようにそう言ったソワレの声は、嫌悪に満ちていた。あまりに憎々しげなその言い様に、シュウが眉をひそめる。
「私たちだって、別にルゥナを害そうとはしていないぞ?」
「は! 知らないとは罪だな。お前たちは、これからやろうとしていることがどんなことなのか、解かっていない。ルゥナにどんな犠牲を――」
「ソワレ!」
ルゥナは、殆ど悲鳴のような声で、彼の言葉を遮った。みんなが全てを知る必要はない。世界を守る為に知っておくべきことだけ知っておけばいいのだ。
きつく唇を引き結んでソワレを睨むルゥナに振り返った彼は、悲しげな眼差しを彼女に注ぐ。置き去りにされた子どものようなその顔にルゥナの胸は痛んだけれど、彼女の決意はもう固まっているのだ。
目で、もうそれ以上は言うなと彼に告げる。
「……犠牲、というのは、どういう意味かな?」
無言で視線を交わし合う二人に、シュウの静かな声が割って入った。
「何でもないよ」
「君が吐かないなら、その彼に口を割ってもらおうか? まあ、拷問などせずとも進んで話してくれそうだがな」
「ダメ、ソワレは言わない……言ったら、絶対、赦さないから」
強い口調でそう念を押すルゥナに、ソワレは何か言いたげに口を開き、そしてそれを結んだ。
「いいよ、言う必要ないから。君のことは僕が何とかするし、こいつらには関係ない」
ヒトの恐怖心すら煽りそうな異形の魔人の姿で、ソワレは拗ねたように言う。その様子は、まるで別れた頃の彼のままだった。
「やっぱり、力尽くか……」
と、つまはじきにされていたシュウが、呟いた。槍を手にして立つ姿が、先ほどまでとは少し違う。ぴり、と、触れたら切れそうな空気が圧力を伴って彼女から放たれている。
ゆっくりと、ソワレがシュウに向き直った。
「シュウ……」
ルゥナが名前を呼んだけれど、シュウの視線はソワレにひたと据えられて微動だにしない。
今度は、先攻をしかけたのはシュウの方だった。
ソワレとシュウの間には、優に五歩分の距離が開いていた筈だったのに、ルゥナが一つ瞬きをする間にそれはなくなっていた。
踏み込んだシュウに合わせるように、微かにソワレの頭が動く。ほんの一瞬そむけられた彼の頬に薄く赤いものが滲んでいるのがルゥナの目にも映る。
ソワレの頬を傷付けたのは、シュウの槍の筈。
ルゥナには、それがいつ突き出され、いつ引き戻されたのか、全く見えなかった。それほどまでに、速かった。
さっきの二人の攻防も、人間離れした速さだった。
けれど、今のシュウの動きはその比ではない。
(ソワレに、勝てるわけがない)
確かに、さっきの動きにはとても驚いたけれど、ルゥナの知っている彼は、剣や槍とは無縁の少年だった。
あんなシュウと戦って、ソワレが無事でいられる筈がない。
「お願い、ソワレもシュウもやめて! お願いだから!」
必死に懇願するルゥナに、ソワレとシュウが同時に振り返った。
「ルゥナがおとなしく僕と来てくれるなら」
「ルゥナが素直に洗いざらい吐いてくれるなら」
キレイに同調した二人は、不愉快そうに顔を見合わせる。
そうして、互いに身構えた。
身体を縛るソワレの魔力が無ければ、しがみついてでもやめさせたいのに。ルゥナは、どんなに力を込めても指先一つ動かせないこの身体に臍を噛む。
「さて、じゃあ、お姫様争奪戦を始めようか?」
ニヤリと笑ったシュウのその目の輝きは、以前にヤンが見せたものとよく似ていた。紛れもなく、彼女もまた戦いを愉しんでいる。
再び始まる爪と刃の舞い。
一振りごとに速度を増していくその動きに、ルゥナの息が詰まる。
時折、かわしきれなかった槍の切っ先がソワレの長衣を裂き、爪の先端がシュウの鎧を削ぐ。
いずれかが血を見ることになるのは、時間の問題に思われた。
二人のどちらにも傷付けられて欲しくないし、傷付けても欲しくない。
(お願い、誰か――)
目を瞠ったまま、ルゥナは祈る。
どこの誰ともつかない存在に。
――その声が、その『誰か』の元に届いたのか。
「ルゥナ、無事か!?」
新たな第三者の声が、その場に割って入る。
その声の主を、ルゥナは知っていた。
目だけを動かし、階段から現れたその姿を確かめる。
太陽のような金色の髪、夏の青空のような瞳。
いつも真っ直ぐで、迷いながらも前を向いて進もうとする人。
剣の腕前だとか、戦う能力は、彼はシュウやヤンに遠く及ばないことは、ルゥナも知っている。けれど、何故か、シュウが来てくれた時よりもホッとした。
「エディ」
彼女の想いは、彼の名前を呼ぶ声ににじみ出る。
信頼と安堵を含んだルゥナのその声に、戦いの最中だというのにパッとソワレが振り返った。無意識に上げた腕でシュウが振るった槍を受け止めながら。
普通の人間の腕であれば一刀両断していたであろう聖槍の刃は、ソワレの硬い鱗を打ち砕き、その下の肉体を切り裂く。
迸る紅い飛沫。
「いやぁ!」
ボタボタと滴り落ちる血潮を目にした瞬間、絞るような悲鳴と共に、ルゥナの呪縛が解けた。
巨鳥の背からひらりと飛び降り、ソワレの元に走る。何か考えるよりも先に深くえぐれた彼の腕を包み込み、力を送り込んだ。
ルゥナの力を受けて傷は瞬時に塞がったけれど、剥がれ落ちた鱗は元に戻らない。完全に癒えた後も、そこだけが、ルゥナと同じ色の皮膚を覗かせていた。
ソワレの傷を治してホッと息をついたルゥナは、すぐに置かれていた状況を思い出して彼から離れようとした。が、彼女が半歩も下がらないうちに、また強い腕の中に囚われてしまう。
「ソワレ、放して!」
もがくルゥナの抵抗を封じるように長衣で包み込み、ソワレはシュウ達を睨みながら後ろに下がった。
「ルゥナを放せよ、この野郎!」
声を上げながら駆け寄ってきたエディが、咆哮と共に抜き放った剣でソワレに切りかかる。
「あ、このバカ」
呟いたのはシュウだ。
彼女のその一言とほぼ同時に、ソワレが無造作に片腕を振るった。刹那放出された魔力がエディを襲い、彼を吹き飛ばす。
「うぁっ!」
「エディ!」
「エディ様!」
双子が駆け寄り、何度も跳ねながら転がっていった主を支える。
「エディって、エデストル? 剣の遣い手?」
ソワレは、まだ胸を抑えているエディを見据えながら、ルゥナに問う。その声の冷ややかさに喉を詰まらせながら、彼女は頷いた。
「そう。わたしが山の中で倒れてたところを、助けてくれたの」
「山の中で……? ふぅん……」
ソワレの声の中に、苛立ちを含んだ一切の感情の響きはない。けれど、平板なその返事に、ルゥナはむしろ嫌な予感を覚えた。
「エディは、わたしに優しくしてくれたんだよ? 少し――乱暴かもしれないけれど、とてもいい人なの。ねえ、お願いだから、わたしの言葉に耳を貸して。ほんのちょっとお話したら、きっと、ソワレだってみんなを好きになるから。エディとだって、気が合うと思うの」
何故か、ルゥナが彼を庇うほど、ソワレを包む空気は重苦しくなっていく。
「ソワレ……?」
恐る恐る、ルゥナは弟を見上げる。
彼はルゥナにはチラリとも目を寄越さず、エディやシュウ達を睨み付けたまま、指をパチンと鳴らした。と、その音と共に、倒れ伏して微動だにしていていなかったシュリータの兵達がムクリムクリと立ち上がる。その中には、ルジャニカもいた。
「ソワレ、何を――」
「ただ眠らせてやっても良かったけど、腹が立つから土産を置いていこう」
彼のその言葉と共に、シュリータ兵達が一斉にエディたちに襲いかかった。
突如として牙を剥いた味方達に、シュウもエディも不意を突かれる。
「ルジャニカ、何を!?」
突き出された槍をかわしてその柄を掴んだシュウが、ルゥナの視界の隅に入る。けれどそれ以外は、クルリと向きを変えたソワレの身体の陰になって、何も見えなくなってしまった。
「あの人たちを止めて、やめさせて」
「別に、あれだけ力の差があれば、誰も死なないよ」
平然とそう言って、ソワレはルゥナを抱いたままヒラリと巨鳥にまたがった。
どんなにルゥナがもがいても、鋼のようなソワレの腕は緩まない。絶対に逃すものかという決意がそこには満ち満ちている。
首を捻じってエディたちの姿を確かめようとしたルゥナには、たった四人に群がる兵士の群れしか見えなかった。