懇願
その異形の男は――ソワレは、ゆっくりとルゥナの方に歩いてくる。
優しげな微笑みを浮かべながら。
思わず後ずさったルゥナに、彼は眉をひそめた。
「どうしたの、ルゥナ? 僕が判らない? ――ああ、こんなに変わっちゃったもんね」
仕方ないか、と呟く声が聞こえる。唇を尖らせたその表情は、確かにソワレのものだ。
「あなたは、ソワレだわ。ソワレ、だけど……」
ルゥナが認めると、彼は嬉しそうに笑った。
「判ってくれるの? じゃあ、おいでよ。また僕が守ってあげるから。大丈夫、邪神だって僕が何とかしてあげる。もうちょっとだけ時間は必要だけど、多分、もう少しなんだ」
昔と同じ響きのソワレの声に、ルゥナの気持ちは揺れる。
彼の言葉の内容よりも、彼の存在そのものに心が引き寄せられてしまう。
ソワレと一緒に居たかった。
ずっと寄り添っているのが、二人にとってあるべき姿だった。
どんなに姿が変わっても、ソワレはソワレだ。
こうやって再び相対していると、ルゥナはどんなに彼が恋しかったのかを改めて思い知らされた。
無意識のうちにふらりと前に踏み出しかけたルゥナの肩に、チクリと鋭い痛みが走る。
ハッと我に返ってそちらを見ると、肩に乗ったピシカがそこに爪を立てていた。
「ぼんやりしてるんじゃないわよ」
ぴしゃりと言った彼女は、次いでソワレに鋭く光る金色の目を向ける。
「アンタ、何言ってんの? アンタにあれがどうこうできるわけがないじゃない」
尻尾をピンと伸ばして背中の毛を逆立てたピシカは、悠然としたソワレをねめつけた。彼はそんな彼女を憎々しげに見返す。その眼差しのあまりの鋭さに、ルゥナはドキリとした。
元々、ピシカとソワレは仲が良くなかった。この旅に誘ったピシカを、ソワレは良く思っていなかったのだ。
けれど、百五十年前は、もうちょっと和やかだった気がする。
今のソワレは、まるでピシカを憎み蔑んでいるとしか思えない。
この百五十年で二人の間にある何かが変わったのか、それとも、百五十年前はソワレが自分の感情を押し殺していただけだったのか。
ルゥナはその憎悪に戸惑いながらも、ソワレに願う。
「ねえ、ソワレ……戻ってきて? わたしは、ソワレにいて欲しい。ソワレに助けて欲しいの」
その言葉に、心外だな、という顔でソワレは首をかしげた。
「だから、僕は助けてあげるって言ってるじゃないか。ルゥナだけを犠牲になんかさせない」
ルゥナは、キュッと両手を握り締める。
同じことを言っているようでも、ルゥナのしようとしていることと、ソワレがしようとしていることは、噛み合っていない。
ソワレが何をしようとしているのかルゥナには判らないけれど、それは彼女が求めている『助け』と違うのは間違いなかった。
「わたしは、ソワレとは行かないよ。ソワレに、わたしと来て欲しいの」
いつの間にか、ソワレとルゥナの周りを、兵士たちが取り囲んでいる。明らかに親しげな様子で言葉を交わしている二人に戸惑っているようで、剣や槍を構えてはいるがまだ攻撃はしてこない。
そんな彼らなどまるで眼中にない泰然とした足取りでゆっくりと近付いてくるソワレを見つめて、ルゥナは乞うた。
「ねえ、お願い、ソワレ」
彼女が見つめる中でソワレは少し困ったような笑顔を浮かべ、そしてかぶりを振る。
「駄目だよ。僕は、ルゥナにとって一番良い方法を取りたいから。君はいつだって感情に流されてしまって、事態をよく理解できていないんだもの。自分にとって最良の道がどれなのか、君自身が一番、判っていないんだ」
「ソワレ……」
彼女のことを何よりも大事に想ってくれている弟は、どうやっても考えを変えてはくれそうもない。
ルゥナは唇を噛んで俯いた。
と、また肩から高い声が響く。
「ルゥナがそれでいいって言ってんだから、もう諦めたら? この子自身が望むことが、この子にとって一番良い方法でしょ?」
バカにしたような、ピシカの言葉。
「ピシカ――」
ルゥナはやめさせようとしたけれど、一瞬遅かった。
ソワレが手のひらを上に向けて、真っ直ぐにピシカへと右腕を伸ばす。何だろう、とルゥナが眉をひそめる前で、彼は中指と親指で輪を作った。そして、それをピンと弾く。
本当に、気軽げな仕草で。
ただ、それだけだったのに、直後、肩の上にいたピシカが何かに殴りつけられたかのように吹っ飛んでいった。
「ピシカ!?」
何が起きたのかも判らないまま、ルゥナは振り返り、遥か後方にぐったりと倒れ伏しているピシカを見る。
「何が……」
慌てて駆け寄ろうとした彼女の肩が、そっと引き止められる。ハッとそこに目を向けると、鋭く尖った長い爪を有し、甲に硬い鱗を覗かせる手があった。
その手の持ち主は――ソワレは、優しくルゥナを向き直らせ、彼女の目を間近で見下ろしてくる。
「ルゥナ、行こう。全てから、僕が守ってあげるから」
姿かたちは何もかもが違うのに、目の前にいるのは、どうしようもなくソワレだった。ルゥナの幸せしか考えない、ソワレだった。
彼に従えば、多分、ルゥナにとって一番良いようにしてくれる。
けれど、それを成し遂げるまでにどれだけの犠牲を払うことになるのだろう。
彼女の脳裏には、救護室に運ばれてくる兵士たちの姿が、力無く街路に横たわる魔物たちの姿が、よみがえる。
ルゥナは心を裂かれるような思いでかぶりを振った。こんなにも自分のことを想ってくれているソワレを拒むのは、苦しかった。
それでも、彼に従うわけにはいかない。
ルゥナはソワレの手を振り払い、一歩下がって彼を見上げ、きっぱりと告げる。
「ダメだよ。わたしは、エディたちと一緒に、邪神を封じる。ソワレは今すぐ魔物たちを元いたところに帰して、解放して。もう、あの子たちを操ってヒトと戦わせるのはやめて」
断固とした拒絶に、ソワレの目元が一瞬歪む。目の中に浮かんだ悔しさと悲しさの入り混じった色はすぐに拭い去られ、彼はまたやんわりと微笑んだ。
「仕方ないな、できたらルゥナに納得してもらっての方が良かったんだけど」
言いながら、ソワレはルゥナに向けて手を伸ばしてくる。
ルゥナは数歩後ずさり、そしてパッと身を翻して彼から離れようとした。が、すかさず腕を掴まれる。
「ダメ、ソワレ!」
腕を突っ張って振りほどこうとしてもまったく効果なく、難なく彼に引き寄せられてしまう。
「無駄だよ、ルゥナ――!」
宥める声で言いかけた唐突にソワレの手が開き、逆らっていたルゥナは反動で力いっぱい尻餅をつく。
何事かと見上げた彼女の目に、ソワレに向けて振り下ろされた槍と、無造作にそれを腕で受け止めている彼の姿が飛び込んできた。
槍はソワレの服を切り裂き、その下に隠されていた肉体の一部が衆目に晒されている。びっしりと腕を埋め尽くしている鱗は、鋭い刃にも傷一つ受けていないようだった。
「ルゥナ様からお離れなさい!」
凛とした声と共に、槍がまた唸りを上げる。今度は胴を狙ったその横薙ぎの閃きを、ソワレは後ろに跳んでかわした。
距離が開いたソワレとルゥナの間に、すかさず人影が立ちはだかる。
「ルゥナ様、ご無事で?」
「ルジャニカさん……」
いつものふわりとした可愛らしいお仕着せではなく銀色に輝く軽鎧に身を包んだルジャニカが、ソワレを睨み付けながらルゥナに声をかけた。
「ご安心ください。シュウ様にも伝令を飛ばしましたから、すぐにいらっしゃいますわ。……それまでは、僭越ながらこのわたしがお守りいたします」
キリリとした声には決意が漲っている。
ルゥナの頭によみがえるのは、ヤンダルムでのソワレの姿だ。
「でも――」
とても強い筈のヤンでさえ、ソワレを前にてこずってはいなかっただろうか。
彼女を案じるルゥナの想いが伝わったのか、ルジャニカは真っ直ぐに前を見据えたまま、にっこりと微笑んだ。
「大丈夫、わたしは所詮時間稼ぎです。無理はいたしません」
言うなり彼女は床を蹴り、二、三歩の跳躍で一息にソワレとの距離を詰める。
舞うように繰り出されるルジャニカの槍を、ソワレは時にかわし、時に腕で受け止め、いなしている。
フロアールは、ルジャニカのことをとても強いと言っていた。確かに、目にも止まらぬ彼女の槍さばきは他の兵士と一線を画しているのだろう。二人の動きには、周りの兵士が手を貸す隙もない。
けれど、それでも、ルジャニカがソワレを退けることができるとは思えなかった。
シュウか、あるいは空を舞うヤンがこの事態に気付いてきてくれれば。
ルゥナは手を握り合わせて早く誰かが来てくれるのを願う。
と、その時、ルジャニカの槍を、ソワレが避けた。やや大振りの彼女の動きはわずかな隙を生む。
ルジャニカがソワレに振り返るまでのほんの数瞬、ただそれだけの間で、異形の掌中に光の珠が輝いていた。
「ルジャニカさん!」
ルゥナの警告の声も虚しく、その珠がソワレに向き直りかけていたルジャニカの脇腹に投げ付けられる。
「!」
軽く投げられただけのように見えた光珠に吹き飛ばされたルジャニカは、声もなく一度、二度と跳ねながら手摺壁に叩き付けられた。
彼女に駆け寄ろうとしたルゥナだったが、一瞬後にはソワレの腕の中に囚われていた。
「放して、ソワレ! ルジャニカさんが!」
「死にはしないよ」
もがくルゥナをいとも簡単に一方の腕で抱き上げて、ソワレはもう片方の手をスッと上げる。それが合図だったのか、バサリと羽ばたきが聞こえ、頭上に巨鳥が現れた。
と、ルジャニカが叩き伏せられ呆然としていた兵士たちが、その時に至ってようやく我に返る。
「待て!」
四方八方から剣を振り上げ襲いかかってくる兵士たちに、ソワレは面倒くさそうな視線を投げた。
「ダメ、やめて、もうやめて、ソワレ!」
ソワレの意図に気付いたルゥナは彼の頭にしがみ付いてやめさせようとしたけれど、何の効果もなかった。
ソワレが鳥を呼ぶ為に上げた手を今度は真横にグルリと薙ぐと同時に、兵士達は突風に吹かれた木の葉のように呆気なく飛ばされていく。
残っているのは、呻き声ばかりだ。
「ひどいよ、ソワレ……」
震える声で責めるルゥナを抱き直し、ソワレは肩をすくめる。
「大きな怪我はしてないよ。せいぜい骨が折れたくらいじゃない?」
そう言って、再び舞い下りた巨鳥の元に歩いて行く彼の腕の中で、ルゥナはもがく。
「放して! ソワレとは行かないんだから!」
「もう、君の意見は聞かないよ」
ソワレは倒れている兵士をまたぐ。身体を折って苦しむ彼を全く気にかけない弟の姿に、ルゥナの胸がズキズキと痛んだ。けれど、ソワレは、そんなルゥナの気持ちには気付かない。壊れ物でも扱うようにそっと、けれど身じろぎ一つできないようにしっかりと彼女を抱え、優しげに囁く。
「昔だって、そうだっただろ? 病気の家族を助けてくれって泣き付かれるたびに君は頷いて、毎回酷い目に遭っていた。君がしたいようにさせていたら、君は幸せになれない」
「そんなこと――」
「ある、だろ? だから、今度こそ、僕が君の取るべき道を決めるんだ。僕は、君の幸せの為に存在しているんだから」
言いながら、ソワレが今にも巨鳥の背に跨ろうとしたその時だった。
傷を負った兵士達の呻き声ばかりだったその場に、新たな声が割って入る。
「とんだ独りよがりだな」
そこに含まれているのは、揶揄と嘲り。
「また、往生際が悪いな……」
心の底から面倒くさそうな声でソワレが呟き、声がした方へと向き直る。彼に抱え込まれているルゥナにも、そこに立つ人物が目に入ってきた。
「シュウ……」
安堵混じりの声で、ルゥナはその名を呟いた。それに応えて、彼女がにっこりと笑う。
「嫌がる乙女を無理やり、というのは、良くないぞ?」
冗談めかして言ったのは、白馬を従えたシュリータの女王だった。