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癒しの乙女の永久なる祈り  作者: トウリン
第七章:叶えられた再会
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確信

 ルゥナは目の前に横たわる兵士の身体に両手をかざす。

 ここに連れて来られた時の彼の腹は引き裂かれていて、内臓がそこからはみ出していた。

 今はその傷も閉じられているけれど、巻かれた布には鮮やかな赤色が滲み出している。顔色は蒼白で鼓動も弱い。


 ルゥナは、祈った。

 そよ風でも吹き消されてしまいそうな命の灯が、また力を取り戻すことを。


 生きて。

 生きて。

 生きて。


 彼女が胸の中でそう囁くにつれ、全身から滲む仄かな光が輝きを増していく。それが兵士の身体を柔らかく包み込むと、やがて彼の表情は穏やかなものへと変じていった。

 兵士の呼吸が深くゆったりとするのを待って、ルゥナは手を下げる。


(もう、だいじょうぶ)

 さっきまではひんやりとしていた彼の頬に指先で触れてみると、そこは温もりを取り戻していた。


 ルゥナがホッと小さく安堵の息をつくのを待っていたかのように、背後から感嘆の溢れる声がかかる。

「素晴らしい……」

 振り返った彼女の後ろには、兵士の傷を治療した医師の姿があった。彼はずっと固唾を呑んでルゥナが治癒の魔法をかけるのを見守っていたらしい。

「正直言って、彼はもう駄目だと思っていたよ。……もう、傷は完全に閉じているのか……」

 兵士の腹をあらためた医師が呟く。そうして、ルゥナに輝く眼差しを向けた。

「彼は助かるよ。ありがとう」

 彼は、自分の力が及ばなかったことを悔しがるよりも、兵士の命が助かったことを喜んでいた。

 医師の心からの賞賛と感謝に、ルゥナはモジモジと下を向く。今までにも何人もの人を癒してきたけれど、「ありがとう」と言ってもらえたのは初めてかもしれない。いつもは、「癒すのが当然」という反応ばかりだったのだ。

「わたしも、この人が助かってくれてうれしいです」

 小さな声でそう答えると、医師はルゥナの肩をポンと叩いてまた別の傷付いた兵士の元へと向かっていった。


 医師の背中を見送ったルゥナは、寝台で目を閉じている兵士へと目を戻す。

 ほとんどの怪我は医師の治療で命を取り留めるから、ルゥナが癒した者の数はそう多くない。戦いが始まって三日が経つけれど、彼女の力が必要となったのは、両手の指の数程度だ。けれど、その誰もが生と死の瀬戸際に追いやられていた。中には、ルゥナの力も及ばないのではないかと不安になったほどの怪我人もいる。

 今のところ、ルゥナの目の前で命を落とした者はいない。けれど、救護所内にいても、厚く硬い壁を通して外の音は聞こえてきた――獣の怒号や、ヒトの悲鳴、それに、争いの気配。

 ここに送られてくるのは、人間ばかりだ。


(だけど、外では……)


 たくさんの命が失われている。


 ルゥナはきつく両手を握り締めた。

 シュタの都には地下通路が張り巡らされていて、そこを通って各所に行くことができる。ルゥナたちのように戦う術を持たない者は、安全なその通路を通って移動をしていた。城に戻っても窓や露台の近くには行かせてもらえなかったから、今、街路がどんなことになっているのか、彼女は目の当たりにしてはいない。

 けれど、目にはしなくても、何が起きているのかは判っていた。苦痛と血の臭いが満ちた空気が、否応なしに教えてくれる。


 何故、こんなひどい事態になってしまったのか。

 それは、百五十年前に、ルゥナが邪神を封じられなかったから――百五十年前にソワレにあんなことをさせるのを、ルゥナが赦してしまったから。


 そして、今。


 握った両の拳を胸元に押し付けて、ルゥナはきつく目を閉じる。


(あの子がいる。すぐ、近くに)

 魔物との戦いが始まってから、その感覚はヒシヒシと身に迫ってきていた。

 ヤンダルムでは確信が持てなかったけれど、今は自分の感じているものは間違ってはいないとルゥナには思えている。

 彼女は部屋を見回し、隅の方に置かれた椅子の上で丸くなっている薄紅色の毛皮の塊に目を留める。慌ただしく殺気立った室内でも我関せずと澄ましている仔猫に、近付いた。


「ピシカ」

 名を呼ぶと、いかにも面倒くさそうに、彼女の金色の目の片方だけが開けられた。

「何?」

 くわっと大あくび。

 小さな牙の覗くその可愛らしい口を見つめながら、ルゥナは問うた。


「ソワレが来ているんでしょう?」


 静かなルゥナの声にピシカの目が両方開いて、二つの金色の輝きがジッとルゥナに向けられる。揺らぎのない、冷たさすら感じさせるその眼差しを真っ直ぐに見返しながら、彼女は続ける。

「ソワレは生きてるんだよね? ヤンダルムで見たあの黒い服の人はソワレだったんでしょう? 今、ここに来てるよね?」

 それは問いかけの形を取ってはいても、実質的には確認だった。

 顔は、長衣の被り物に隠されて見えなかった。

 見えたのは、鱗の生えた腕と、指の先に光っていた鋭い爪だけ。

 彼が何故あんな姿になっているのか、ルゥナには判らない。けれど、どんなに見た目が変わろうとも、あれはソワレだった。


「……アレがあいつだとしたら、どうするの?」

 ぱちりと瞬きをしてそう訊いてきたピシカに、ルゥナは一瞬言葉に詰まった。

 あれがソワレなら、戻ってきて欲しい。傍にいて欲しい。

(わたしが責任を果たすまで、一緒にいて欲しいのに)

 けれど、かつて一度はルゥナの言葉に頷いた彼は、結局、彼女の願いを叶えてはくれなかった。彼女がしようと思っていたことを、しなければいけないと思っていたことを、阻んだのだ。


 ルゥナの頭の中に、昨晩耳にしたトールの声がよみがえる。


『魔物の行動が、何かおかしいんだよね。トルベスタを落とすまでは、もう少し慎重だった筈なんだ。獣の群れなのに、統率が取れていて。姿形も違う魔物たちの集団の上に、一つの頭がついているようだった。なのに、今の動きは、何ていうか……破れかぶれ? ただひたすら魔物という駒を投下しているだけなんだ。まるで、全滅しても全然構わないっていうふうに。第一、なんで南からしか攻めてこないんだろう? あんなにたくさんいるんだから、もっと散開したら段違いに向こうが優位になる筈なのに』


 一つの、頭。


 その言葉に、ルゥナの頭の中に肯定したくない仮定が浮かんでしまう。彼女はキュッと唇を噛み締め、そして椅子の上のピシカと目線が同じ高さになるように、しゃがみこんだ。


「ねえ、ピシカ」

 低めた声で名を呼ぶと、ピンと張った髭がふるりと震える。

「あのね、この、魔物の群れを操ってるのは――ソワレ、なんでしょう?」

 ヤンダルムで黒衣をまとった異形の男を見てから、もしかしたら彼は――と思い始めてから、その疑問はずっとルゥナに付きまとっていた。

 双子の弟が人や鳥、動物――あらゆるものを思うがままに従わせるのを、ルゥナは何度も目にしてきた。こんなにたくさんの生き物を同時に操れるとは思っていなかったけれど、多分、そうなのだ。


 ピシカは、答えない。

 ただ黙って、心の内を覆い隠す金色の目でルゥナを見返してくる。

 その無言こそが自分の考えを肯定しているのだと、ルゥナは思った。


 では、何故ソワレはこんなふうに無謀な戦い方をしているのか。


 その答えも、ルゥナの中にはあった。


「わたしを、待ってるんだよね」

 ソワレは、ルゥナのことをよく知っているのだ。

 命が失われれば失われるほど、ルゥナの中にはいたたまれない想いが募っていく。

 何かが傷付くことを、黙って見ていられない。

 耐え兼ねて彼の前に出て行くことを、待ち構えているのに違いない。

 そして、ルゥナが出て行かない限り、ソワレはこんなふうに魔物を捨て駒に使い続けるのだ。

「わたし、行かなくちゃ。こんなこと、やめさせなくちゃ」

 すっくと立ち上がったルゥナを、心底からイヤそうな色を浮かべたピシカの目が見上げてくる。

「こっちが優勢なんでしょ? エディたちにやらせておいたらいいじゃない。あいつら全滅させたら終わるでしょ」

「そんなのダメだよ!」

「何でよ」

「それは、だって……姿がどんなでも、やっぱり、傷付けたり殺したりっていうのは、ダメだよ」

 ピシカの尻尾がパタリパタリと椅子の座面を叩く。そうするのは、彼女が不機嫌な時だ。

「止めてと言って、アイツが聴くわけがないでしょ」

「でも、お願いしたら――」

「はあ? アンタ、あの時のこと忘れちゃったの?」

「それ、は……」

 ビシビシと切り返してくるピシカに、ルゥナは口ごもる。


 ピシカの言う『あの時』が百五十年前のことであることは、考えなくても判った。

 百五十年前、ソワレは、ルゥナの行く手を遮り、彼女の問いかけを無視し、懇願を拒否した。

 ルゥナは彼女の声に全く耳を傾けようとしなかったソワレの、分厚い氷のように硬く閉ざされた眼差しを思い出し、唇を噛み締める。

 あの時、ルゥナは、彼に裏切られたことよりも、彼に拒絶されたことが何よりも悲しかった。

 ソワレのことを、何も解かっていないのだと言われたような気がして。


「第一、ここはどうすんのよ。怪我した奴を放ってくの? 運ばれてきてアンタがいなかったら、死んじゃうんじゃないの?」

 容赦なく、ピシカが続ける。

 それは、一番痛いところを突いていた。けれど、ここにいたら助けられるのは何人かのヒトだけだ。何とかしてソワレを止めなければ、人だけではない、魔物だってどんどん死んでいってしまう。


 ルゥナはピシカには何も言わずに身を翻し、先ほどの兵士の治療をした医師の元に駆け寄った。

「あの、ここを離れてもいいですか?」

「え?」

 唐突なルゥナの申し出に、医師が眉をひそめて見下ろしてくる。ルゥナは両手を硬く握り合わせて言い募った。

「どうしてもしなければならないことがあるんです」

 彼はジッとルゥナを見つめ、次いで部屋の中を見回した。そして、また、彼女に目を戻す。

「それは、ここでの君の役割よりも大事なことなのかい?」

「どちらが大事か、っていうのは、言えないことなんです。ただ、わたしがやらなくちゃいけないことで……」

 医師はしばらく無言で考え込んでいたけれど、やがて頷いた。

「わかった。もしも我々の力が及ばない者が来たら、しばらくはフロアール姫の方に運んでもらうことにしよう」

「ありがとう!」

 ルゥナはパッと輝かせ勢いよく頭を一つ下げて、すぐさま部屋の奥に向かう。


 その床には、大柄な男がようやく通れるほどの大きさの切り込みが入っていた。地下道へと続く扉だ。とても頑丈で重いその扉は、すぐ傍に隠されている取っ手をまわすと、ルゥナでも簡単に開けられる。

 ぽかりとあいた穴には、下へと続く梯子が伸びていた。その中を覗き込むと、遥か下方に石畳が見える。最初にここに案内してくれたルジャニカの話では、建物二階分ほどの高さがあるとのことだった。

 シュタに来るまで、ルゥナは梯子というものにお目にかかったことがなかった。この三日、この救護所と城とを行き来する時に何度か上り下りをしたけれど、毎回、少し怯んでしまう。

 ほんの一瞬息を呑み、ルゥナは梯子に足をかけた。

 と、ひらりと薄紅色の陰が目の前をよぎる。次いで肩の上に微かな重み。


「ピシカ! 来てくれるの?」

「まったくもう。仕方ないでしょ!」

 ぷりぷりしながら、彼女はルゥナの肩に爪を立ててしがみ付いた。

「ありがとう」

 余計なことは口にせずそれだけ言って、ルゥナは梯子に意識を戻す。下の方には絶えず灯りがともされているから、遥か彼方に通路があるのが見て取れた。


 梯子を掴んで、次の棒に足を載せて。

 慎重に一段一段を下っていく。


 ようやく足裏に硬く平らな床を感じた時には、ルゥナの口からは思わず深いため息が零れ落ちていた。


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