絶望
マギク領内、ノルヴェスト岬にそびえ立つ、人工の洞窟とも言えるマギクの城の中。
迷宮さながらのその廊下をあてどなくうろつくことが、エデストル王妃ディアンナの日課となっている。
マギクに囚われの身になってから間もなく、彼女は牢から解放され、城内を自由に歩くことを許された。目を楽しませてくれる物は何もないが、他にすることもないのだ。
城の中に人気はなく、こうやって歩いていても、誰かとすれ違うこともない。
(誰もいないわけではないのだけれど)
その証拠に、時間になるとどこからともなく長衣をまとったマギク兵が現れ、ディアンナを食事へといざなう。彼女がどこにいようと、彼らはまるでどこかで見ていたかのように静かに彼女の前に現れるのだ。
多分、少なくとも十人はいる。
最初のうちは少しでも情報を得ようと、ディアンナは顔を合わせるたびに彼らに声をかけていた。けれど彼らは何一つ答えてはくれない。もう数ヶ月この城に囚われているというのに、城の中のことも外のことも、彼女にわかっていることは殆どなかった。
ならばなんとかここから逃げ出さなければと、出口を求めて行ける場所にはくまなく足を運んだが、未だに見つかっていない。所々に窓はあっても地面は遥か下方で、そこから下りようとしたら無事ではいられなそうだった。もしかしたら下への階段があるのかもしれないが、これもまたお目にかかったことが無い。確かに狭苦しい牢からは出られたが、拘束されていることには変わりがなかった。
(エディとフロアールは、無事なのかしら)
マギ王は時たまふらりとディアンナの前に姿を見せて、わずかに言葉を交わしていく。その中で、二人がマギクの追手から逃れたことは聞かされていた。
サビエにスクート、それにベリートが付いているのだから、無事であるのは間違いない。それは、信じている。信じているが、ディアンナは確証が欲しかった。
ままならない現状に、ふ、と小さなため息をついた彼女は、廊下の先でチラリと翻った暗色の何かに一瞬足を止める。それは彼女がいる廊下をよぎる形で消えていった。どうやら、この先は十字路になっているらしい。
散々歩き回ってきたけれど、迎えに来る兵士を除けば、廊下で自分以外に動くものを目にするのは、初めてだった。我に返ったディアンナは、小走りで追いかける。
その影が消えていった角を曲がると、かなり先の方に背中が見えた。その白髪でマギ王であることを悟る。マギクの者は総じて色素が薄いが、彼女が知る限り、完全な白髪はマギ王だけだ。
「マ――」
ディアンナは彼を呼び止めようとして、口を噤む。
このまま黙って彼の後を追いかけていたら、もしかしたら、これまで彼女が足を踏み入れたことのない場所に行けるかもしれない。
キッと顔を上げると、ディアンナは足音を忍ばせてマギの後を追った。
いくつもの角を曲がり、薄暗い廊下を歩く。
いったい、どれほどの広さがあるのだろうと思いながら、ディアンナはマギに気付かれず、彼を見失わずの距離を保って、付いていった。
物静かな身ごなしにそぐわずマギの足は速く、そしてなかなか止まらない。
もう食事の時間になってしまうかもしれない。そうすれば、マギク兵が彼女を連れ戻しに来てしまう。
そんな不安を、ディアンナが覚え始めた頃だった。
不意にマギが立ち止まる。その通路はどう見ても行き止まり――彼の前にはただの壁があるだけだ。
ディアンナは慌てて足を止めたけれど、曲がり角も大分後方で、彼女が姿を隠す場所は無い。
(戻った方がいいかしら?)
まごついた彼女が身を翻すより先に、クルリとマギが振り返った。
固まったディアンナに、冷やかなマギの視線が向けられる。その眼差しに訝しむ色も驚く色も責める色もなく、どうやら、彼女が付いてきていることなどとうにお見通しだったようだ。
「マギ、王……」
自分の身の振り方が判らず彼の名前を呟いたディアンナに再び背を向けると、マギは目の前の壁に右手をかざした。
無言のうちに彼に呼ばれたのを感じ、ディアンナは足を進める。
と、彼が触れている壁が仄かな光を放ち始めた。
息を呑みながらマギの元へと急いだディアンナの前で、岩壁はぼやけ、見る見るうちに消え失せる。
「まあ……」
言葉を失う彼女の目に入ってきたのは、暗い廊下とは対照的に光と様々な色彩に溢れた空間だ。
マギはディアンナに振り返ることなく、その中へと入っていく。急いでその後に続いた彼女は、色彩が鮮やかな花々によるものであることを知って、更に目を見張った。
魔法による灯りは煌々と周囲を照らし、暗さに慣れた目には眩しいほどだ。花は全て本物で、瑞々しい香りを放っている。
意表を突くその光景に心を奪われていたディアンナは、ハッと我に返って彼女をここまで導いた人物に目を戻した。
マギは、花に埋もれるようにして部屋の中央に置かれている物の前で佇んでいた。少し迷った後、ディアンナはもう少し足を進め、彼の後ろで立ち止る。
彼女に気付いている筈なのに、マギは微動だにしなかった。
近寄っていいものなのか、それとも立ち去るべきなのか。
逡巡したディアンナが身じろぎした時、マギが肩越しに彼女に横顔を見せた。
「こちらへ」
招かれて、ディアンナはそれに従う。
彼の隣に立って、彼が見つめていたものを見つめる。
そして。
「これは……」
彼女は、言葉を失った。
マギの鳩尾ほどの高さの台の上に置かれているのは、小さな箱だった。両腕を広げたら抱え上げられそうなほどの大きさの――おそらく、『揺りかご』と呼ばれるもの。
その中にあるモノを、何と表現したらいいのだろう。
柔らかそうな布に包まれた、人の肌の色をした、ナニか。
一瞬、赤子かと思ったのだ。普通、揺りかごに入れられるものはその筈で、エディやフロアールがまだお乳を飲んでいた頃の大きさ程の包みだったから。形も、一見そんなふうだった。
けれど、赤子かと思われたソレには、何もなかったのだ。
――何も。
赤子の顔に当然ある筈の、目も、口も、鼻も。多分、腕も脚もない。丸い部分と、その下にそれよりももう少し長い部分が付いている、それだけのナニか。全体がすっぽりと柔らかそうな布に包まれていて、丸い部分の一部だけが見えている。
目を見張るディアンナの前で、その包みがモゾリとわずかに動いた。
「マギ、王?」
戸惑う彼女に答えず、マギはそれを抱き上げた。腕の中の包みを見つめる彼の目に、感情の色は見えない。
マギは無言で包みを揺すり、静寂の中に、微かな衣擦れの音だけが囁き声のように聞こえる。
ディアンヌはマギにかける言葉を見つけられず、ただそうしている彼を見つめることしかできなかった。
彼女は何も言えず、彼も何も言わない。
随分と長く感じられる時が過ぎた後、沈黙を破ったのは、マギの方だった。
「これが、何に見えますか?」
彼女にそう問いかけながら、彼の目は腕の中に落とされたままだ。
「え?」
まごつくディアンヌに、マギがもう一度同じ問いを発する。
「これが、何に見えますか、ディアンナ王妃?」
「何、と……」
「訊かれても困ります、か」
淡々とした、静かな声。やはりそこには何の感情も込められていなくて、ディアンナは頷くこともできなかった。
それからまたしばらくして、マギはそっと腕の中のそれを箱の中に戻す。そうして、ディアンナに目を走らせることもなく、ポツリと言った。
「これは、私とリリィとの子だ」
「マギクの、御子……」
彼の言葉にディアンナは目を見張り、そして箱の中に視線を落とす。
そこでもそもそと動くものは、『ヒト』には見えなかった。
(こんなに『何も』なくて、どうやって生きているのだろう)
ディアンナのその心の声を聴き取ったかのように、マギが口を開く。
「これが産まれたのは、二年前のことです。不思議でしょう? その間、何も飲み食いしていない。どうやら、周りにあるもの――草や木、あるいは他の動物から、少しずつ生気を得ているらしい」
だから、この満開の花なのか。
周囲を見回して、ディアンナはそう納得する。
この花は、子どもの栄養源。
花は、恐らく、魔法を使って咲かせているのだろう。ディアンナ自身、エデストルにいた頃は力を使って植物を育てたりしていた。それが、癒しの魔法の鍛錬にもなるのだ。
今、目の前の光景のことは、解かった。
しかし、何故マギ王の子がこんなことになっているのかが、理解できない。
「いったい、何が……何かの病、ですか?」
「病か……そうなのかもしれない。あるいは、全く別のものか――私には判らない。ただ、数年前からこれは始まり、そして、この子で終わった」
「終わった……?」
意味が解からずその言葉を繰り返したディアンナに、マギはこの部屋に入って初めて、淡い水色の目を真っ直ぐに彼女に向けた。
暗い、眼差し。
そこには光の欠片もない。
「マギクに、もう子どもはいません」
彼が何を言っているのかが、ディアンナには理解できない。これが普通の状態ではないことだけは判る。
「ですが……ですが、マギクは癒しの魔法があるでしょう?」
何か身体的に問題があれば、魔法を使って癒せばいい。その稀有な力故に、マギクでは老衰以外の死者は滅多に出なかった筈だ。
だが、ディアンナのその指摘に、マギは小さくかぶりを振る。
「癒しの魔法は、効きません。何度も試しましたが、誰一人として、癒せなかった」
彼の言ったことの内容よりも、その声にどうしようもなく染み出している絶望の響きに、ディアンナは二の句を継げなくなった。黙ったままの彼女から箱の中の『子ども』へ茫洋とした眼差しを移し、マギは続ける。
「初めのうちは、年に数人、死んで産まれる子や産まれても何かしらの問題があり、永くは生きられない子どもが生まれるようになりました。それがひと月に数人となり、やがて全ての子どもがまともに産まれなくなった。生まれた時に命があっても、数年のうちに命を落とした。健康だった筈の子どもも、この数年の間に成人することなく死にました。マギクに新しい命は生まれない――マギクは、もう終わりなのです」
それは、決定的な死刑宣告のようなものだった。
だからエデストルを裏切ったのですか? 自分達に未来が無いから、わたくしたちも巻き添えにしようと? あるいは、もう全てがどうでも良いから、と?
そんな台詞がディアンナの喉元まで込み上げてくる。それをグッと呑み込んで、彼女は他の問いを発する。
「原因は判らないのですか?」
「判りません。大人は子どもほど顕著な影響を受けていないが……以前よりも早く死んでいきます。四、五万はいた我が国の民は、もう二万もいない。魔物との戦いで命を落とした者よりも、ただ死んでいく者の方が、多いくらいだ。魔物とであれば、戦える。しかし……」
淡々とした、全てを諦めきったような、声――いや、実際に、彼の中にあるのは諦念と絶望だけなのだろう。
ゆるりとマギが顔を上げ、ディアンナを見る。
「魔物の群れは、シュリータまで到達したそうです。シュリータには、現在、エディ王子、トール王子、ヤン王も集っているとか。かつての英雄が揃い踏みですね」
そこで彼は小さく嗤った。そこに含まれるのは自嘲の響きだ。
ディアンナは無意識のうちに両手を組み合わせ、マギに向けて言い募る。
「貴方も英雄の一人でしょう? 今からでも遅くはありません。力を併せてこの試練に挑んで――」
「魔物を倒せと? それでどうなるというんです? 今更魔物を追い払ったところで、何も変わらない。マギクは滅びるのですから」
生気のない、呟き。
彼の眼差し、声、身にまとう空気、全てが何もかもを拒絶している。
それがありありと伝わってくる。
ディアンナは箱の中へと目を向け、そこに置かれているものを見つめた。
マギの心を変えさせたかったけれど、その為に何をどう言ったら良いのかが判らない。
彼女が見守る中で、マギが我が子へと手を伸ばした。柔らかそうな素肌に触れて、そっと撫でる。
「……リリィは――王妃は、この子をこの世に送り出して、命を落としました。危険だと判っていたのに、どうしても産みたがった。私には、もう何も残ってはいない」
「ですが、まだ、貴方には民が残っているでしょう?」
王であれば、民を守り束ねる義務がある。それは厳然たる事実だ。投げ出したいと思っても、投げ出せるものではない。
けれど、しばしの沈黙の後マギが口にしたのは、彼女の問いに対する答えではなかった。
「そろそろ、兵士が捜しに来る時間です。お戻りください」
それは婉曲にこの部屋からの退出を命じるもので、ディアンナはキュッと唇を引き結ぶ。そのまま従うこともできなくて、彼女はもう一度部屋の中を見渡した。
溢れかえる光と色彩と香り。
(この場所には、命が満ちているのに)
どこか、寒々しい。
きっとそれはマギ王の心を映したもので。
この事実を知ったばかりのディアンナには頭の中を整理するのが精一杯で、彼にかける言葉を見つけることができない。
ディアンナは小さなため息を吐き出し、静かに踵を返して廊下へと向かう。が、彼女が外へ一歩踏み出した時だった。
「貴女が――」
独り言めいた背後からの声に、ディアンナは足を止めて振り返る。見えたのは、広い、けれど覇気の欠片もない、マギの背中だった。
ディアンナは、息をひそめて彼の言葉を待つ。
彼女の元まで届くか届かないかというほどの、かすれ声。
「貴女が国に戻られる時、この子を――」
その先は、続かなかった。
マギの声の代わりに、ディアンナの後ろ――廊下の方から声が呼び掛けられる。
「ディアンナ様、こちらへ」
いつの間に姿を現したのか、そこにいたのは今までにも何度か顔を見たことのあるマギク兵だった。
ディアンナはマギの望みを聴きたくて、彼の背中を見つめる。けれど、長衣の裾がわずかに揺らぐこともなく、彼の心は分厚い氷の奥に閉じ込められてしまっているかのようだった。
小さなため息をつき、ディアンナはマギク兵の方へと向かう。そうして、歩き出した彼に従った。
(彼は、わたくしに何を望んでいるのかしら?)
未来が見えていないマギにとって、きっと選択肢は多くない。
あの子をここから連れ出すこと?
それとも――あの子をここで安らかな永久の眠りに就かせること?
そんな考えが頭の中をよぎり、ディアンナはフルリと身体を震わせた。
マギクに、いったい何が起きているというのだろう。
問題は、魔物の襲撃だけだと思っていた。
だが、違う。
そんな表面的なものだけではない、何かがある。その何かを解決しなければ、マギクは滅びてしまうのだ。
(いいえ、もしかしたら、このルニア大陸全てが)
この異常がマギクだけに止まるという保証はない――きっと、止まらない。
マギからは、事態を終息させようという気概は全く感じられなかった。もう、全てを諦めきってしまっている。大事な者を喪ってしまって、袋小路の未来しか見えていなくて、前を見る力を失ってしまっている。
このままでいい筈がない。
けれど、ディアンナには何をどうすればいいのか判らなかった。
(エディ……フロアール……)
彼女はそっと目を伏せ、二人の無事を祈った。
そして、『印』を引き継ぐ彼が、この世界を救ってくれることを――かつての英雄が、そうしたように。
エディはまだ十五歳。身体も心も、未熟だ。
その彼にこんな重荷を背負わせることは、間違っているのだろうか。
ディアンナは自問し、かぶりを振る。
「いいえ、できるわ。あの子は、あの人の息子ですもの」
そう、小さな声で囁いた。
彼女の脳裏に、息子と同じ太陽のような髪、夏の空のような瞳を持った精悍な面差しが浮かぶ。
大事な者を守る為、一歩たりとも退かなかった人。
今はもういない、最愛の人。
ほんの一瞬、視界がにじんだ。ディアンナはそれを強い瞬きで晴らして、背筋を伸ばす。
そうして、顎を上げて真っ直ぐ前を向き、しっかりと一歩一歩を踏み締めた。