隧道
崖にぽっかりと口を開いた隧道は暗く、ほんの少し先に進んでしまえば、一歩先すら見通すことができなくなりそうだった。
エディは小さく身震いする。彼自身の未来とこの隧道の中と、果たしてどちらの方がより闇が深いのだろうと、ふとそんな考えが彼の中をよぎった。
「ここから先は馬を降りて進みましょう」
そう言ったベリートが、率先して地に足を着ける。他の者も皆彼に倣って馬から降りた。
最後にスクートがフロアールを抱き下ろすのを待って、ベリートが懐の中を探って何かを取り出す。それは彼の手のひらに載るほどの無色透明な珠だった。一見するとただの水晶球のようだ。
フロアールが小さく首を傾げてしげしげとベリートの手を見つめる。そうして、呟いた。
「それは……火の魔法?」
魔力を持つ彼女には、そこから発せられる微かな波動が感じ取れたのだ。フロアールの疑問に、ベリートは頷きを返す。
「そうです。マギクはこのように魔力を込めた道具をいくつか作っています。これは魔晶球といいまして、火の魔法が込められていて、こうやって使います」
彼はそう言うと、指先でその珠を軽く弾いた。途端、それは仄かな輝きを放つ。
「……すげぇな」
サビエの呟きは一同のものだった。皆の視線を集めたまま、ベリートがスクートにその珠を差し出した。
「光が弱くなったら、さっきのように弾けばまた輝きが戻る。中は馬と並んで歩くのがせいぜいだ。スクートが先頭、次いでフロアール様、エディ様、そしてサビエ、儂の順で一列になって進もう」
「判った。フロアール、大丈夫か?」
エディは妹を振り返って尋ねた。エデストルでは男女の隔てなく幼い頃から剣を持たされるが、希少な治癒魔法を扱えるフロアールは剣技よりも魔力を磨くことが優先されてきた。おしとやか、とは程遠いが、軽やかな身のこなし、というわけにもいかない。
隧道の入り口ですでに濡れた岩に足を取られてふら付くフロアールには、かなり難しい行程になりそうだった。
だが、心配そうな兄を、彼女は顎を上げて見返した。
「大丈夫です」
きっぱりと頷いたフロアールの手を、スクートが取る。
「フロアール様、私の外套をしっかり掴んでいてください」
「でも、それではわたくしが転んだ時にあなたも転んでしまいます」
「まさか、フロアール様お一人くらい、仔猫が飛びかかってきたようなものです」
ニコリともせず言いながら、スクートは自分の外套の裾を彼女に握らせた。そうして、父を振り返る。
「では、行きましょう」
「うむ……これから先、頼んだぞ」
ベリートは鋭い眼差しを更に光らせて、言った。その重々しい口調にスクートはふと予感――不安にも似たざわめきを覚えたが、きっと普段動じることのない父でもこの状況は緊張するのだろうと、グッと顎を引き締める。
「では、エディ様も足元に気を付けて」
スクートはもう一人の守るべき存在に一声かけて、暗闇の中へと足を踏み入れた。
隧道は狭く、曲がりくねっていて、入口の光はすぐに届かなくなる。火の魔晶球の仄かな輝きだけが光源だった。低い天井は、長身のスクートやサビエでは馬に乗っていたら頭をこすってしまうだろう。幅も両手を一杯に伸ばせば両方の壁に届いてしまいそうだ。
しばらくは皆濡れた岩に気を集中していなければならなかったから黙々と歩くしかなかったが、慣れてくると周囲の様子に気を向ける余裕ができてきた。むしろそれが良くなかったようで、ふと顔を上げたエディは四方の壁がのしかかってくるような感覚に襲われて思わず呟く。
「なんか、息苦しいな」
誰にともなくこぼした台詞に応じたのは、サビエだった。軽く笑い、言う。
「まあ、空気はちゃんとありますから。死にゃしませんよ。気を失ったらお姫さま抱っこして連れてってやりますよ。あ、それともおんぶがいい?」
「されてたまるか」
振り返れば、きっとニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべていることだろう。判っているのにそれを目にするのはしゃくで、エディは振り返りもせずに答えた。
案の定、忍び笑いが背後から響いてくる。エディは足でも踏み付けてやろうと思ったが、ふとあの不快な圧迫感が消え失せていることに気付いて、ムッと唇を尖らせた。
妹の様子はどうだろうかとエディがフロアールに目をやると、左手でしっかりとスクートの外套を握り締めてはいるものの、だいぶ足取りの心許なさは無くなってきていた。もっとも、それでも一歳児が三歳児になった程度のもので、まだまだおぼつかないものであることは火を見るよりも明らかだ。しかし、それも当然だろう。彼女は整えられた城の庭の小道くらいしか歩いたことがないのだから。
下手に声をかけたら転ばせてしまいそうで、エディは彼女の背中を見守るのにとどめておく。前をスクートが歩いているせいか、フロアールの後ろ姿はより一層小さく見えた。
(守ってやらないと)
不意に、エディの胸の中にその想いが込み上げてくる。
いつもはこまっしゃくれて彼の方が言い負かされてしまうことの方が殆どだ。けれども、今目の前にある妹の姿はとても頼りなく見える。
(何が何でも、もう一度母上と父上に逢わせてやる)
エディは強く心に誓う。父も母も生きていると、彼は信じていた。二人が死ぬ筈はないと、信じなければならないと思っていた。隙をついて染み込んでくる疑念は、頭の中から弾き出さねばならない。
ともすれば目の前の闇よりも暗い不安が込み上げてきて、エディは現実に目を向ける。
(あとどのくらいでここを抜けられるのだろう)
目を眇めて、エディはスクートの向こうを見通そうとした。
暗く、先が見えない場だと、時間の感覚がなくなってくる。普通の状況であればかなりの距離を稼いだ筈だが、殆ど進めていないような気もする。
「どのくらい来たかな」
エディは肩越しにベリートに向けて問いを放った。
ややして、答えが返る。
「おそらく、三分の一ほどかと」
「まだ、そんななのか……。でも、ここ、いつからあるんだろう? 崩れたりはしないのか?」
「隧道自体は自然のものなので、エデストル建国前からあると言われています。崩れるかどうかは――壁をよくご覧になってください」
エディはベリートに言われるまま、壁に目を凝らす。
と。
等間隔で立てられている木枠に気付く。
「補強してあるのか?」
「はい。もしも天井が落ちても一部分で済むようになっています。まあ、多少は走ってもらう必要はありますが。……清青石をご存じでしょう?」
「清青石? ……ああ」
日常でよく見かける石のことを唐突に問われて、戸惑いながらもエディは頷く。ベリートが言うのは透明な青い石のことだ。美しいが高価ではなく、安い装飾品などによく使われる。
「ラウ川の上流では、あれが良く採れるのです。昔は希少な石だったのですよ。この隧道を通って採取しに来る者が増えたので、危険だから、と先々代の王が指示を出されて補強させたのですが、そうすると流通量が増えましてね。今ではごくありふれたものになってしまいました。価値が下がったので、わざわざこの道を通って取りに行く者も、もうおりません」
「へえ……綺麗なのは同じなのにな」
「手に入らないものは欲しくなるものです」
どこか不服そうなエディに薄く笑ってそう答えたベリートだったが、次の瞬間、立ち止まった。
「父上、どうされましたか?」
足音が止まったことに気付いて振り返ったサビエを無視して、彼は突然しゃがみこみ、地面に片耳を押し付ける。
「追い付かれたか」
スクートが緊張のみなぎる声で、呟く。彼の外套を握るフロアールの手にギュッと力が込められた。
「スクート、サビエ、先に行け」
「はい?」
「このままでは追い付かれる」
厳しい老武将の声音に、フロアールが小さく息を呑んだ。
マギクは体術を武器に戦うわけではないが、それでも兵士だ。対して、こちらには歩くことすらままならないフロアールがいる。移動速度の違いは歴然としていた。
「お前まで置いてはいけない!」
声を荒らげたエディに、ベリートが静かに答える。
「個人として考えてはなりません。言ったでしょう? 最も正しい選択をするのだと。貴方はいずれ王になる。これはその予行練習のようなものだ」
「お前を餌にするのが正しいというのか!?」
「そうです。儂は年老いている。残りの十年をエディ様とフロアール様、そしてその愚息どもの為に使えるのであれば、それに勝る喜びはありません。儂の十年と、貴方方の数十年――どちらの方を、より優先させるべきだと? 老いた者は若い者の命をつなぐ為にいるのです」
「イヤだ!」
「エディ様……そもそも、どうして儂が死ぬと決めてかかっているのです? 剣はけっして魔法に劣るものではありません。儂の腕前はまだまだ錆び付いておりませぬ」
「それは判っているけど……でも、相手がどれくらいいるのかも判らないだろう?」
「この狭い通路では、実際に相手にするのは数人ずつですよ」
「だけど――ッ」
激昂したエディの声が、唐突に途切れる。クタクタと崩れ落ちたまだ細い身体を、彼のうなじに手刀を叩き込んだその手でサビエが支えた。
「まったく。エディ様のこういうところ、確かに好きなんですけどね」
意識を失ったエディの身体を馬の背に乗せ、サビエはため息をつく。そんな息子に、ベリートは目じりを微かに緩めた。
「すまないな。憎まれ役を負わせた」
「まあ、二、三発くらいは殴られてやりますよ」
肩を竦めて父に応じたサビエに、フロアールが言う。
「そうしたら、わたくしが治して差し上げますわ」
冗談めかしてはいるが、その声が微かに震えているのは隠しきれていない。きつく握り締められた小さな拳をスクートの指がそっとほぐし、その手のひらの中に包み込んだ。
「頼みますよ。いや、でも、エディ様の拳なんかじゃ鼻血も出ないかもですけどね」
そう言って軽く笑ったサビエとフロアールの手を取っているスクートに、ベリートが穏やかな眼差しを向ける。
「スクート、サビエ」
「は」
「お二人を頼んだ」
短く、しかし信頼の溢れるその言葉に、二人の息子はただ黙って頭を下げる。父と子の視線が交差したのは一瞬だったが、その一瞬で充分だった。
スクートは目を下げ、フロアールに手の中の輝く珠を差し出す。
「では、フロアール様、これをお持ちになってください」
彼女がそれを受け取ると、おもむろに身を屈めた。
「失礼します」
その一言で、フロアールをすくい上げるようにして右腕の中に抱き上げる。そうして左腕で馬の手綱を持ち、サビエに振り返った。
「行くぞ」
「おう」
馬の鞍の上で伸びているエディの身体をサッと結わえ付けたサビエは、残る三頭の馬の手綱を握り締める。
「それでは父上、ご武運を」
「お前たちもな」
三人は小さく頷き合い、そして後は振り返ることなくそれぞれの方向へと足を踏み出した。その先が二度と交わることがないのは、皆知っている。だが、彼らの足取りに躊躇いは微塵もなかった。
「あの、わたくし――ごめんなさい」
段違いに早くなった足取りに揺さぶられながら、スクートの首にしがみ付いたフロアールが小さく囁く。
「何が、です?」
「だって、わたくしが――いえ、何でもありません」
消え入りそうな細い声に、スクートは眉をひそめる。この小さな姫の言わんとしていることは、口に出されずとも彼には判った。
スクートは、淡々と説く。
「フロアール様、我々は――私とサビエ、それに父は、エディ様と、そしてあなたをお守りする為にいるのです。我々自身がそうすると決めているのですから、それによって起こるどんなことも、あなたに責のあるものではありません」
戻ってきたのは、しばしの沈黙。そして、力を取り戻した声。
「あなたたちにとって、お兄様やわたくしを守るのが当然のことだとしても、わたくしは守られるのが当然のことだとは思いたくありません」
きっぱりとした口調はいつものフロアールのものに近くて、スクートは微かに笑んだ。
「フロアール様はフロアール様のやり方で、我々を守ってくださればいいのです。駄々っ子のエディ様を叱り付けたりとか、ね」
堅物の彼らしくない冗談めかした台詞に、強張っていたフロアールの頬も緩む。
「それなら、任せておいてください」
スクートには彼女の顔を見ることはできなかったが、そこに微笑みが浮かんでいるのは感じ取れた。
「あなたはそうやって笑顔でいてください」
(それを守る為なら、我々はどんなことでもできるから)
残りの台詞は、スクート自身の胸の中に押し込める。口に出してしまえば、フロアールに新たな重荷を背負わせてしまうだろうから。ただ、彼女に回した腕に力を込めた。
そうして、どれほど進んだ頃だろう。
不意に足元から感じられた微かな地響きと、遠雷のような轟き。
スクートが立ち止まって振り返ると、同じく足を止めたサビエと目が合った。言葉もなく交わした視線で、互いの思考が通じ合う。
父は己の本分を全うした。
それだけだ。
喪ったことを悼む暇は、今はない。
「行くぞ」
スクートはサビエにそう残し、再び出口を目指した。