女王
入城したエディたち一行が通された謁見の間は、大の大人が余裕で百人は入れそうなほどの広さがあった。
「うわぁ……」
小さな声が聞こえた方へエディが目をやると、部屋の入口でポカンと口を開けて高い天井を見上げているルゥナがいた。
彼女のそんな顔を見るのは、何度目になるだろう。
エディと目が合うと、ルゥナは頬を染めてパクリと口を閉じる。きまり悪そうな彼女のその様子につい緩んでしまいそうになる頬を引き締めて、エディは背筋を伸ばして前方に目を戻した。
両開きの大きな扉からは幅広の深紅の絨毯が真っ直ぐに奥まで伸びており、その先は一段高くなっている。その上に設えられている豪奢な二脚の椅子には、それぞれ主が着座していた。
「右の方がシュリータの女王、シュウ様、左の方がその弟君のカル様よ」
囁き声はフロアールのものだ。多分、事情を知らないルゥナに教えているのだろう。
「女王? え? 女の、ヒト?」
シュリータの王の姿を目にして、ルゥナが戸惑った声でフロアールに囁き返した。答える妹姫の声は、楽しそうに揺れている。
「そう、凛々しくていらっしゃるでしょう?」
彼女たちの遣り取りに、エディはまあ当然の反応だろうなと笑いを噛み殺した。シュリータの『女』王の容姿のことは世に鳴り響いているけれど、何の予備知識もなければ確かに目を疑うに違いない。
その背に聖槍の『印』を持つ女王シュリータは、比類なき槍の使い手だ。二十代も半ば、スクートやサビエよりもいくつか年下の筈だが、全身から溢れる威厳は、老練な他国の王にも引けを取らない。
燃えるような赤毛をすっきりとまとめ、鮮やかな緑の瞳は切れ長の目の中で宝石のように煌めいている。キリと引き結ばれた薄い唇が涼やかな美女だが、その服装はしとやかな淑女とはかけ離れている。それは隣に座る王弟と対になる、明らかに男性が身に着けるべきものだった。
「男装があんなにもお似合いになるなんて、反則ですわよね。シュウ様のことをお慕い申し上げているご婦人方は、とてもたくさんいらっしゃるのよ。下手な殿方よりもお強くて、その上あんなにお美しいのですもの」
「そう、なんだぁ」
「ほら、シュウ様の後ろに立っておられる女性、いらっしゃるでしょう?」
「あ、うん。あの人もきれいだね」
フロアールが示したのは、右手の椅子、女王の斜め後方に佇む、腰からふわりと膨らんだ服を身にまとい、身体の前で慎ましやかに両手を組んだ女性のことだ。茶色の髪は頭の後ろで丸めて止められているけれど、零れた幾筋かが、それが細かな巻き毛であることを教えてくれる。
「あの方はルジャニカよ。シュウ様の侍女なのだけれど彼女もとてもお強いの」
「でも、侍女なんでしょう?」
「侍女だけれど、近衛でもあるの」
「優しそうなのに……」
「――ちょっと、変わっていらっしゃるけれど、ええ、お優しいわ。とても。でも、槍をお持ちになったら十人の男の兵士にもお負けにならないわ。シュウ様とルジャニカが稽古をしている時なんて、激しいけれども、まるで舞っているかのように優雅でもあるのよ。お兄様たちの鍛錬のような汗臭さなんて微塵もなくて」
フロアールの声にあるのは賞賛の響きだ。
エディも彼女たちが試合をしている場に居合わせたことがあるけれど、確かに、目を奪われるものだった。
と、そこにサビエの横やりが入る。
「言っておきますが、お姫様。汗臭いのは男の香水のようなもので」
「あら、わたくしは花の香りの方が良くてよ」
「男でそんなのが香っていたら、ちょっと嫌じゃないですか?」
「カル様はきっと良くお似合いよ」
「確かに……」
ぼそぼそと囁き合う声は尻切れトンボで消えていった。
王弟カルは姉とよく似た緑の目を持つが、その怜悧な性格を映した冷ややかな銀髪している。シュウよりも二つ年下の彼には武の才はなく、代わりに鋭い知性で姉を助けていた。
カルとルジャニカは、シュウの弟と侍女というよりも、彼女の崇拝者というべきかもしれない。どちらも今は物静かに控えているが、一たびシュウに何かがあれば猛然と牙を剥く。
シュウが王位に就いたのは数年前のこと。今でも若いが、当時はまだ十代だった。
シュリータは、工業や産業、商業が盛んだ。当然様々な利権が生じ、他の国のように絶対的な王への崇拝以外のものが色々と絡んでくる。そんな中で彼女が何の問題もなく大任をこなせているのは、政治面におけるカルの支えが大きかった。
言うなれば、シュウという名の大岩の陰に潜む大蛇のようなもので、うっかり岩を揺るがせようとすれば丸呑みされてしまう。実際、彼が下した命で人知れず姿を消した者も決して少なくはないというのが、街で囁かれる密かな都市伝説だ。
見た目は、女性と見紛う繊細な美しさなのだが。
姉とは真逆の方向で性別判断に惑わされる王弟に、サビエがため息混じりの呟きを漏らす。
「もう、オレ達とは人種が違うとしか言いようがありませんね。――さて、そろそろ口を閉じましょうか?」
「あ、そうですわね、すみません」
それを最後にフロアールの囁き声がピタリとやむ。と、一気にエディの気持ちも引き締まった。
目を転じれば、そこにあるのは厳粛な空気が満ちた、謁見の間。
エディは目だけで中を見渡した。
これまでにも、何度もここを訪れたことはある。
けれど、今までは、遊興半分視察半分の気軽な『王子』としてだった。前回、医術を学ぶフロアールに付き添ってこの国を訪れたのは三年ほど前のこと、まだ魔物のことも遠い地でのことに過ぎなくて、至って呑気なものだったのだ。
あの頃と、随分と事情が変わってしまった。
平穏、安らぎ、大事な人たち、屈託のない笑顔――
ほんのわずかな間で、色々なものを失ってしまった。
(また、以前のように笑える日が来るのだろうか)
エディは両手を握り締める。
(――いや、違う。取り戻すんだ。何が何でも)
クッと顔を上げ、彼は一歩を踏み出した。そして、決然と赤い敷布の上を進む。すぐ隣にトールが並んだのが目の端に映り、彼と足並みを揃えて玉座へと向かった。
半ばほどまで二人が行ったところで、一行を迎えるようにシュウが立ち上がる。
「エディ王子、トール王子、フロアール王女、他の方々も――よくぞここまで無事に」
女性にしてはやや低く、男性にしては高く澄んだ声が、硬い壁に囲まれた室内に朗々と響く。
「シュウ王、お久しぶりです。カル殿もお変わりなく」
「エディ王子、堅苦しい挨拶は抜きだ。お父上のこと、お国のことはここまで届いている。力になれず――」
「お気になさらないでください。あれはやむを得ない事でした」
苦渋の滲むシュウの言葉を半ばで遮るように、エディはキッパリと告げる。
「我々は数日前までヤンダルムに囚われていて、彼らの行状を目の当たりにしました。兵力を割けなかったのは仕方のない事だったと、今は解かっています」
確かに、兵を送ってくれなかったシュリータを、恨んだこともある。
だが、ヤンダルムと言葉を交わした今では、やむにやまれぬ事情があったのだと理解できた。
このシュタの都は設備的な防御は素晴らしいものだ。しかし、エデストルの要請に応えてシュウが兵を派遣していたら、必ずヤンダルムはその隙を突いてきていた筈だ。
シュタが制圧されることは無かっただろうが、少なからぬ損害を被っていたに違いない。
「だが、私の決断は、果たして正しかったのか……」
シュウの目が、エディからトールへと移る。
「トルベスタも、魔物の手に落ちた、と聞いている」
凛とした女王の眼差しが、沈痛な色を帯びた。そこに最も濃いのは、悔恨か。
だが、彼女のその視線を受けたトールは場違いなほどに明るい笑みを浮かべる。
「シュウ女王、そんなお顔をなさらないでください。貴女には、涼やかな微笑みこそがお似合いです」
「トール、お前……」
こんな時にも垂らし込みにかからなくても……と、エディは横目でトールを睨んだが、そこにある彼の眼差しは温かく、そして落ち着いたものだった。
「トルベスタは『落ちた』わけではありません。ただ、居を変えただけです。元々我々は森の民ですから、何かあれば邪魔くさい城などさっさと捨てて、森の中に身を潜ませるのですよ。人的被害は殆ど出ていません」
悔しさなどは欠片も感じさせず、ケロリと、まさに何でもないことのように言うトールに、シュウが眉をひそめる。
「だが、トルベスタの領土内は魔物とマギク兵で溢れかえっているぞ?」
「そうですね、父からもそう報告を受けています」
「え?」
飄々としたトールの台詞に、エディは思わず彼の方へと向き直ってしまう。いや、その場にいる皆の視線が、彼に集中していた。
「いつの間にラープス王と連絡を取ったんだ? そんな素振り、全然見せたことが無かったじゃないか」
半ば責めるような口ぶりになってしまっても、仕方がないことではなかろうか。しかし、トールはニッコリと笑って平然と返してきた。
「いや、チョコチョコ遣り取りしているよ?」
「どうやって?」
「それは内緒」
サラッと言われて、どう突っ込めばいいというのか。
眉間に皺を寄せているエディの前で、トールはいとも簡単に話の方向を変えてしまう。
「まあ、魔物がこのシュリータの土地に姿を現すのもそう遠いことではない筈ですから、早いところ作戦を立てないとですよね。多分七日とかからぬうちに、やって来ますよ。シュタの都は籠城にはもってこいですが、反面、勝てなければ後がなくなってしまいます。防御だけでは、駄目なんですよね」
「だが、ヤンダルムのこともあるだろう? 彼奴らがそんな事情に斟酌するとは思えないが」
長年ヤンダルムとの小競り合いを繰り返してきたシュウには、当然の懸念だろう。実際にヤンダルムと接した今は、エディも彼女と同じ考えだった。
「あの男なら、むしろ、今が好機とばかりに襲いかかってくるんじゃないのか?」
エディは渋面でそう問いかけたが、しかし、トールは肩をすくめる。
「いや、それはどうかな。ヤン王も、少し方向転換するんじゃないのかなぁ。彼は現実主義だろう? イヤというほど魔物に接した後なら、多分、優先順位を変えてくると思うよ」
「ああ、そう言えば、ヤンダルムも魔物に襲われたと聞いたが……」
「かなり派手に襲撃されてましたね。飛竜の被害がどれほどのものか――拉致られた身としても、多少気の毒になりました」
魔物とヤンダルムの兵士の両方の大半を戦闘不能に陥らせたのはトール自身の筈だが、それはすっかりなかったことにしているらしい。もっとも、ピシカの話ではただ意識を失わせただけで、ほとんど傷は負っていない筈だとのことだったが。
「ヤン王も愚かとは程遠い方ですから、多分、数日中にはあちらから何らかの申し入れが来ると思いますけれどね」
気楽そうにそう言ったトールに、半信半疑、いや、十中八九の疑いを滲ませて、シュウが唸る。
「トール王子の予想が当たってくれればいいのだがな」
悲観的な女王に、トールは穏やかな笑みを返しただけだった。